●はじめに
価値のある命とか価値の無い命などはありません。神さまの目に、人の命は物差しのようなもので測れるものではなく、全ての人の命は尊く価値があります。
聖書は、あなたの命を神さまがどのように見ておられるのかを知るようにと教えています。それが本日の聖書箇所でもあります。そして、私たちの命の価値を生涯(十字架)を通して教えてくださったのがイエスさまです。イエス・キリストの十字架の姿は、罪人であっても迎え入れたいと願う神さまの愛の旗です。
イエスさまの十字架の姿の向こうに、神の家、御国が待っているのです。
●聖書箇所の説明
さて、今日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話です。裕福な父に二人の息子がいて、弟の方が、財産の分け前をもらって家を出ていこうするお話しです。
当時、長男は他の兄弟の2倍の財産を相続することになっていましたので、弟は3分の1に当たる財産を分けてもらえると考えました。恐らく父親は、「あそこの土地とあそこの土地(耕作地など)がお前の分だ。あの家畜の群れもお前のものだ。そして、この宝石と、この預金通帳(通帳はないでしょうが)を将来お前にやろうと思っていた」そんな感じで説明し、将来の取り分を先に与えたのだと思います。
お兄さんの方にもあげてしまうとお父さんの財産がなくなってしまうので、恐らく「わしが死んだ時には、弟の分はもう考える必要はない。全てお前の物にしなさい」そんな風に言ったのだと思います(ルカ15:31から類推)。
さて、財産の取り分を教えて与えた父親ですが、13節を見るとこうあります
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何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった(13節)。
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弟は全部お金に換えて家を出て行ってしまいます。そして、弟は遠い国に行き、そこで、遊女と遊び、豪遊し、最後にはお金を使い果たしました。よくあるパターンです。13節に「放蕩の限りをつくして」とありますが、ギリシャ語を見ますと、「使った」というよりは「散らした」という意味の言葉が使われているので、彼がお金をばらまくように使ったという風にイエスさまはおっしゃっています。
●人の目に価値のない人間になった
弟はどうなったのかと言うと、誰もが想像できるかと思いますが、無一文になりました。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、誰も彼の面倒を見る者はいませんでした(不正な管理人のたとえのように富を遣ったら良かったのですが)。この世は薄情ということです。そして、運悪く、彼が住んでいた地域に飢饉が襲ったのです。彼はますます、食べ物に困りました。そして、最後には、豚を飼っている人のところで、豚の世話をするようになります。可哀想な事に、彼は、豚の餌さえ欲しくなると言う具合に落ちぶれてしまうのでした。
豚というのはユダヤ人にとって忌み嫌う動物でして、その動物を飼い、その動物の餌でさえ欲しいと思うというのは、「彼はどん底まで落ちぶれてしまいました」ということを意味します。さらに言えば、親の面倒を見ず、親の家を出て、散財し、豚の世話をするというのは、宗教的にも罰(ばち)が当たった人、人間的にも「生きる価値のない最低の人間になった」ということを意味します。
さて、その人はどうなるのでしょうか。
●我に帰る弟
しかし、そこで、弟は我に返ります。17節
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そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』(17〜19節)
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自分でも「どのつらさげてお父さんの前に出れるのか」と思ったことでしょう。神にも父にも愛想つかされたような生き方をしたからです。また、財産をもらって出たのですから、もう子として受け入れてもらえないと考えたと思います。
しかし、彼は、お父さんに頭を下げて、雇人でいいから、家においてもらおうと考えて、故郷に帰っていくのでした。
●父の愛(ヘセド)を感じる弟
しかし、彼は、思いもよらない父の姿に遭遇します。何と、家までまだ遠いところなのに、父親が駆け寄ってくるのでした。履物はボロボロ(もしかしたら履いていない)。服もボロボロ、豚の世話をしていたことですし、臭いもするでしょうし、恐らく、痩せこけていたでしょう。自分の憐れさ、汚さは自分がよく知っていたと思います。しかし、その自分を、父は抱きしめたのです。驚いたと思います。20節に「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」とありますが、父親の喜びと、もう離したくはないという思いがとても良く分かる表現かと思います。
●息子として迎え入れられる
息子は最初は、詫びる思いで罪を悔い、雇人にして欲しいと言おうと思ったはずです。しかし、息子は、思いがけない父の愛に触れ、今度は、詫びると言うよりは心から悔い改めて「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(21節)」そう言ったのだと思います。そして、「雇人に・・・」と言おうとしたところで、父は近くに来た僕に「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」とただ居なくなっていた息子が帰って来たことを喜び、彼をそのまま息子として受け入れようとしたのでした。
●富・財産に関する勘違い
今日の聖書箇所ですが、「財産」という言葉をキーワードにして少し見てみたいと思います。
私たちはどうして富に執着してしまうのでしょう。それは、命と直結し、限りがある(無くなってしまう)からです。親が子に財産を残そうとするのはいつの世も同じです。それでも、この世界の富(財産)というのは最後には消えてなくなっていくのです。
今日の話しを見ると、私達にあることを気づかせます。それは、彼のこの言葉に表されています。
彼は父親の財産についてはこう言っています。
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父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。(17節)
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そうなんです。親の3分の1の財産も多かったと思います。しかし、彼がそれをお金に換えて、親もとから離れた時に、それは、限りのある財産となってしまったのです。
その証拠に、彼がその3分の1を失っても、親の家の財産は尽きることがありませんでした。
これは、この世の富と神のもとにある富にまさる豊かな恵みの違いを表しています。
イエスさまがこの譬えでおっしゃりたいことはこうです。それは、父の家、御国にはあなたが想像する以上に、豊かな場所、恵み豊かな場所なんですよということなのです。
人は、この世で自分が稼ぐお金、貯蓄が気になります。しかし、それは消えゆくものでしかありません。そしてそれは、神の家、天の御国にある豊かさに比べれべれば、それは、微々たるものでしかないのです。この世の大金持ちであっても神の国にある豊かさに比べたら大したことないのです。
聖書は、私たちが帰る御国は“想像を超えた豊かさで満ちた場所である”ことを教えようとしているのです。
●命に優る神の愛
詩編63編3節、4節にこう書いてあります。
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今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。(詩編63編3.4節)
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お金は大事ですよね。それは、命と喜びに直結しているからです。しかし、聖書は、富にまさるもの、命にまさるものがある。それが、あなたのために準備されている。それが神の家、天の御国だと教えています。
私たちをその場所に返すために、イエスさまがお生まれになったのです。
イエスさまの十字架の姿の向こうに、神の家、御国を想像して欲しいと思います。神が手を広げるように私達を待っているのです。神の家、御国は恵みで満ち溢れているのです。
●食卓のにおい
匂い。不思議ですね。匂いを嗅ぐと、時々、昔の思い出がよみがえる時があります。私、夕方に、民家の路地を歩いている時に、夕食を調理している匂いがしてくると、懐かしく感じるです。小さい時の気持ちに戻るんですね。 夕方。日が暮れ始めて、友達と「バイバイ」と別れて家に帰っていた頃の感覚になるんですね。路地を歩いていて匂ってくる食事を準備している匂いは、「もう帰る時」なんだなぁって思わせるんです。
●人生の終盤(帰る時)
若い時のように、体力もなくなり、体も衰えてくると、夕方に家が懐かしく感じるように、だんだん、神の家、天の御国に思いを馳せるようになっています。すると、何でしょう。一生懸命生きることよりも、知りたくなってくる場所があるんです。それは、この世での命より大事なもの。永遠の命。私を待ってくれている存在。
今日のたとえは、イエスさまが天の国のことをお話ししてくださっているのですが、神さまは、因果応報的に私達のことを迎え入れようとしてくださっているのではなく、等しく尊い存在として、私たちを迎えようとしてくださっているのです。そして、神の国は、この世の富とは比べることができない豊かさに満ち溢れている世界なのです。
私たちが帰る「神の家、天の御国」はどのような場所なのか。見えません。しかし、そこは、イエスさまの譬え話だけでなく、イエスさまの十字架によって見えてきます。
●十字架が教えてくる二つのこと(幸せの黄色いハンカチ)
イエスさまの十字架は、二つのことを教えています。一つは、私たちが、なぜ、限りある世界で生きているのかということです。富も命もそうです。
それは、神から離れているからです。私達の世界は、罪の世界です。悪魔が支配する罪の世界であり、私達もまた、罪を犯しながら生きなくてはならない性があります。
聖書は、私達の目を開き、私達に「悔い改めるように」、「神様の方を見るように」「十字架を見るように」教えています。
そして、もう一つ、イエスさまの十字架が示していることは、神の目に、私達の命は尊いということです。価値ある命、価値のない命などなく、全ての命が神の目に尊いということです。
是非、十字架を通して、十字架の向こうに待ってくる神ご自身の愛を思い起こしてください。何度もいいますが、この世の富にまさる、もっと豊かな朽ちない永遠の祝福が神の国にあるのです。
私たちは、将来、天の御国に帰っていくのです。

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