宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ルカによる福音書 4章 1〜13節
 「言葉巧みな悪魔」

●「つまらないものですが」は相手を高めて言う言葉
 人に何かを差し上げる時、気を遣いませんか?喜んでもらえるかなぁ、受け取ってくれるかなぁって思います。貰ってもらえたり、喜んだりしてもらえると嬉しいですね。ただ、自分では良い物と思っていても、相手の方にとってそれが良い物かどうかはわかりません。そのような時、日本人が使う特別な言葉に「つまらないものですが」という言葉があります。
 古いコントで、「これつまらないものですが」と言うと、貰った人が、「そっ」と言って、ごみ箱に捨てるのがありますが、それは意味が違いますよね。
 「これつまらないものですが」というのは、「差し上げる物が大したものではない」と物の価値を下げて言っているのではないそうです。そうではなくて、“あなたほどの方”であれば、持っておられるものは、これと比べて良い物ばかりで恐縮いたしますと、相手を高めて言っている言葉が「つまらないものですが」という表現だそうです。

●お返し
 ところで、多くの人は、何かを頂くと、「返さなきゃ」と思ってしまうようですが、今日、聖書のお話しをする前に、お尋ねしたいことがあります。
 それは

私たちは、神さまの愛、恵みに対して、何をお返しできるだろうか?

ということです。さあ、どうでしょう。私たちは、神さまの大きな恵み、イエス・キリストを通して与えられた十字架による救いの恵みに対して、何をしてお返しできるだろうか?


何もお返しすることはできないのです。
 神さまにお返しできることは何一つないのです。



●神は何かを必要としていない
 神さまにとって、石をパンにすることは容易いことです。石からアブラハムの子たちを造りだすことができる」(マタイ3:9)とも聖書に書かれています。何より、神さまはご自身が存在するために何も必要としていません。神さまはご自身のことを、I am who I am.(私はありてあるものである)と紹介なさっています。一方で私たちはどうでしょう。私たちは独りでは生きていけなません。水がなくては生きていけません。食べ物がなくても生きていけません。太陽がなくても、空気が無くても生きていけません。そもそも神さまがいらっしゃらないと生きていけません。私たちは、あってないような存在なのです。

 ある学者の方が、大変興味深いことをおっしゃっていました。人間は宇宙に行くことができるようになった。宇宙遊泳ができるまでにもなった。でも彼らは宇宙服を着ていないと生きていけない。その宇宙服の内側を満たしているのは何か、それは、地球環境である。

●私たちは生かされている
 エフェソの信徒への手紙2章8〜9節にこう書いてあります
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 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
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 私たちは、神さまの前に誇れることも、また、差し上げれるものも、して差し上げることも何もないのです。私たちはただただ神さまの恵みをいただいて生かされている存在なのです。
 その関係の中で、悪魔は私達にこう思わせるのです。

わたしは自分の力で今日も生きている

 私たちは主の祈りで、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」と祈っていますが、これはとても大切なことを教えている祈りでもあるのです。この祈りは、全てのもの(つまり着る物も、家や財産、健康、家族、仕事など、生活になくてはならない全ての物)を神さまがくださっているものであると知らせているのです。そして、与えてくださることを願うだけでなく、“自分を誇ることなく、神を誇るように”してくださいと祈っているのです。

 主の祈りはイエスさまが教えてくださった大切な祈りです。私達に大切なことを教えてくださる祈りでもあるのです。

 なのに、私たちは悪魔の誘惑により、自分でそれを稼いでいるかのように、自分の力で生きているかのように思わせるのです。

 悪魔は、人間に「あなたは神に生かされている」という恵みの大原則に気づかせようとしません。実は、この恵みの大原則「神はあなたを愛し、生かし続けてくださっている」「私は生かされている」このことが見えないと、悪魔の誘惑に振り回されてしまうのです。

●神の声を聴く場所(荒野・山上)
 さて、今日、私たちは、イエスさまが荒野で悪魔から誘惑を受けられた時の出来事を見ています。今日の舞台は“荒野”ですが、“荒野”というのは砂漠というよりは、荒涼とした場所で、人気のない寂しい場所のことを言います。聖書を読みますと、イエスさまが人里離れたところで祈っておられたという記事がありますが、この“人里離れたところ”と訳されている言葉も、実は、“荒野”と同じ単語なのです。
 ユダヤ人にとって、荒野という場所は“神の声を聴く場所、神の声が聞こえてくる場所”のことでもあるそうです。

 聖書ではもう一つ人が神の声を聴く場所があります。それは、丘の上、または、山の上です。イエスさまは、時に、山に登り祈っておられたと書かれています。また、先週、私たちは、山上で弟子たちが神の栄光に輝くイエスさまのお姿を見た出来事を読みました。さらには、イエスさまが人々に神の国を語られたのも小高い丘の上であったことがわかります(絵は山上の垂訓の場所に建てられた教会)。

 山上と荒野。共に神さまの声を聴く場所ですが、その違いは何でしょうか。
 
 私は丘の上、山の上とは、礼拝の時だと思います。守られた空間で、み言葉を聴き、また、聖餐の恵みをいただき、また、祝福の言葉を頂く。礼拝は、まさに、山上のような場所だと思います。
 一方で、教会を出ると現実の世界が待っています。色々な試練を体験します。時に、霊的に苦しみ、自分のことを見つめなおすような経験をさせられ、また、神さまと悪魔の言葉の狭間で過ごさなければならない時があります。私はそのような時が荒野の時だと思います。

●人生における荒野
 神さまは、私達の信仰を養われます。私たちは恵みをいっぱい感じる幸せな状況の中で、信仰を育みたいと思うでしょう。しかし、実際には神さまは私達を“霊的に荒野のような状況”に追いやり、そこで、自分を見つめ直させ、信仰を培われるのです。実際のところ、人生がうまいこといっている時よりも、霊的に辛い時に、神さまの声を聴く人になることが多いのです。
 
 しかし、それは、礼拝での神さまとは違う、別の神さまの姿を知るときです。そして、自分の本当の姿を通して、神さまの本当の恵みを知っていく時なのです。

●イエスさまへの誘惑
 本日の聖書箇所ですが、イエスさまがお受けになった誘惑は三つです。それは、空腹だったイエスさまに「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言う誘惑。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができる」だから、わたしを拝みなさいという誘惑。そして、もう一つは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」そうすれば天使たちはあなたを助けるであろうという誘惑です。

●わがままな私達
 私たちは、食べ物に困りたくない。健康でいたい。何か問題があってもすぐに神が手を伸ばし解決して欲しい。そう願っています。しかし、それが思ったように与えられない時には、信仰が揺らぎ、人によっては、もっと良い神さまを信じたくなります。

●アダムとイスラエルの失敗
 イエスさまは、どうして悪魔の誘惑に乗らなかったのでしょうか。どうなっても良いと思っておられたのでしょうか。
 そうではありません。全て私に必要なものは神が与えてくださるという信仰を土台にしておられたからです。そして、神の試練には終わりがあるということご存じだったからです。コリントの信徒への手紙にはこう書いてあります。

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だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。(1コリント10章12〜14節)

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 パウロは、神は試練を与える方だと言っています。しかし、それを信仰をもって受け止めるように教えています。特に、偶像礼拝、つまり、見えるもに頼らないように教えています。
 私達は、自分のことが良く分かっていません。調子が良い時にはむしろ自分の力や信仰を誇ってしまいます。自分は生き方においても、信仰においても、善い人間だ、そんな風に勘違いしてしまいがちです。そのような時は、エデンの園でアダムとエバが誘惑されて陥ったように、自分の栄光を求めるようになるのです。「それは、悪魔が一番願っていることです」
 また、生活が苦しくなると、エジプトを出て、荒野で過ごしたイスラエルの民のように、不平を言い、神は本当に私達と共にいるのかと疑う(つまり、試みる)ようになるのです。

●事件は現場で起こっている
 私は思うのですが、普段は、み言葉を読んでも、うん、うん、そう、そうって、納得できると思います。ある意味、机の上の信仰みたいな感じです。しかし、神は、時に、荒野に連れて行かれるのです。今日の聖書箇所でも、イエスさまを荒野で引き回したのは悪魔ではなく神の“霊”だと書かれています。しかし、多くの場合、試練が終るとき、人は成長して戻ってくるのです。

●イエスさまの本当の試練
 さて、最後になりますが、4章13節にこう書いてあります。
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 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
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 時が来るまで・・・。悪魔の誘惑はこれでおわったのではありません。ここからが本当の誘惑。イエスさまをメシアとして失敗するように、人を使い、色々な方法で誘惑していきます。そして、今日の3つの試練が、40日間の試練の後の3つの試練であったように、悪魔は、十字架で最後の誘惑をしかけるのでした。
 イエスさまの十字架の試練は、「神の子」としての力を用いさせ、神のご計画を終わらせようとする試練でした。イエスさまの荒野の試練は、人の子としての試練に近いと思います。しかし、本当の神の子としての試練は、十字架での出来事でした。
 神の子であればここから飛び降りて見なさい・・・。荒野での悪魔の誘惑は、十字架での出来事の時にピークを迎えます。
マタイによる福音書にはこう書かれています。
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 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27章39〜43節)
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 イエスさまなら降りることも、自分を救うこともできました。このまま処刑されれば、むしろ、神の子メシアらしくありません。しかし、イエスさまは、父なる神のご計画に委ねられました。
 イエスさまは、3日目に蘇られ、メシアとしての姿を世に示されました。

●最後に
 悪魔は言葉巧みに私たちを誘惑してきます。時に自分を誇るようにしむけ、時に、神の存在を疑うように。そして、神さま以外の目に見える祝福だけを与えてくれる偶像を信じさせようとします。
 イエスさまは、言葉巧みな悪魔に対して、み言葉をもって勝利するように教えておられます。

 何より、「わたしは神の恵みの中で生かされている」この信仰を忘れないで欲しいと思います。