宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ルカによる福音書 9章 28〜36節
 「わたしは体験したのです」


●見た人と見てない人の違い
 おはようございます。今日は、変容主日礼拝です。イエスさまが弟子たちと山に登り、山上で祈っておられた時に、イエスさまが、神の栄光で光り輝き始められた・・・その時の出来事を礼拝で見る日です。そして、そのイエスさまの姿を特に覚えて礼拝する日です。

 栄光に輝くイエスさまのお姿というのは、見た人からすれば、これほど畏れ多く、また、感動的な姿ではなかったと思います。言葉では言い表せない姿だったと思います。
 しかし、見ていない人にとっては、信仰によって受け止めるしかない事実となっています。礼拝で語られても、時に、疑い、時に、深く考えず、そして、時に、そのようなイエスさまを想像しながら聖壇を眺める、また、そのイエスさまと会えるのを待ち望む・・・それが、私達だと思います。

●なぜ神さまは姿を隠されるのか
 神さまを見たい。神さまの存在を実感したい。そう思うことが多々あります。神さまの声を聴ければ、イエスさまをこの目で見れれば、私の信仰はもっともっと現実的になるのに。目に見える形で表れてくだされば、もっと沢山の人が信じることができるのに・・・・。そんな風に思うことがあります。「でも、どうして、神さまは目の前に現れてくださらないのだろう」「なぜ、「信仰」を通してでしか、存在を意識できないのだろう」「どうして“人の信仰”の中にご自身を隠されるのだろうか・・・」私は時にそんな風に思うのです。

 神さまはいらっしゃるのです。しかし、私たちが願う形では現れてくださるお方ではないようです。どうして「人の信仰」の中にご自身を隠されるのでしょうか・・・。

●自分の思い通りにならないけど信じる
 見えない方を信じ続けることが、実は、神さまに対する愛なのかも知れません。見えない方を信じることが本当の信仰なのかも知れません。「それでも信じます」という生き方を神様は願われているのかも知れません。
 でも、全くご自身を示されないのかというとそうでもありません。色々な形で「わたしはここにいる」ということをお示しになるのが神さまなのです。

●弟子たちの霊的な目を開かれるイエス
 さて、今日の聖書箇所を見ていきましょう、28、29節をご覧ください。こう書かれています。
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 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
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 「この話しをしてから八日ほどたったとき」とあります。では、8日前に何があったのかと言いますと、今日の聖書箇所の前に書かれているます。
 イエスさまは弟子たちに「ご自身がメシアであること、しかし、そのメシアが捕らえられ、殺されてしまうこと、しかし、三日目に復活します」ということをお話しされたのが、8日前の出来事でした。

 弟子たちは約3年間、ずっとイエスさまと一緒に行動していました。そして、だんだん、霊的な目が開かれていきました。8日前には、弟子たちの口から、「あなたはメシアです」という告白の言葉も出てきました。
 ただ、「メシアが人類の救済のために苦しみを受けなければならない」という聖書の預言は理解できていなかったようです。

 その弟子たちに(実際には核となる三人の弟子たちだけですが)、イエスさまは、最も霊的な世界(山上)に連れてゆき、彼らに神のご計画をお示しになられた・・・。それが今日の個所です。


●モーセとエリヤを通して
29節から31節にこう書かれています。
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祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
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 ここに、モーセとエリアが現れたと書かれています。モーセとエリアというのは、旧約聖書に書かれた、神に選ばれ、神と共に歩んだ僕であり預言者です。その代表的な二人が現れて何を話していたのかと言うと、イエスさまがエルサレムで遂げられる最期について話していたと書かれています。つまり、十字架であり、人類の罪からの解放であり、復活であるわけです。3人の弟子たちは、イエスさまの口からだけではなく、栄光に輝くキリストの姿と、栄光に包まれて現れたモーセとエリヤの口を通して、メシアであるイエスさまの生涯を知ることができたのです。


 そして、その後、天からの神の声を聴きました。父なる神の声です。34節から36節にこうあります。
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 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
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●これは真実なのです
 見た弟子たちにとっては、言葉では言い表せない、素晴らしい光景だったと思います。素晴らしすぎて、逆に、聞く人にとっては、疑わしい証しにもなってしまうのです。
 どうでしょうね。皆さまは、今日の話しをどう受け止めておられるでしょうか。ある人は疑い、ある人は深く考えず、ある人は、今、聖壇を、弟子たちの証しの言葉を聴いて、眺めておられるのではないでしょうか。

 私は、見たわけではありませんが、ここにお伝えしたいのです。これは、真実なのです。





●ペトロとパウロ
 目撃したペトロですが、ペトロの手紙2でこう言っています。
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 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。 
                     (2ペトロ1章16-18)

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 また、パウロという使徒も、この時ではありませんが、栄光に輝くイエスさまと出会った人物の一人です。パウロはヨーロッパ中を伝道した人物ですが、彼は、捕らわれた時にいつもイエスさまと遭遇した時のことを証していました。その一つがアグリッパ王の前での証しです。使徒言行録26章12〜18節です。
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「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
              (使徒言行録26章12-18節)

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●信じて欲しい
 ペトロもパウロも共通しているのは、栄光に輝くキリストと遭遇したことで彼らの人生を変わったということです。人生が変わったというよりは、彼ら自身の価値観、死生観など、全てを変えたんです。神と言う存在が、いかに大きく、神々しい存在であるのかを知りました。そして、人間の存在が神の目にいかに貴重に写っているのかも体験することができました。さらには、人間が決して孤独な存在でないということも彼らは体感したんです。

 「そのことを伝えたい、感じてもらいたい。私は見たんです。あなたもイエス・キリストをへの信仰を持って欲しい」そのようなメッセージが新約聖書に詰まっているのです。

●パンとぶどう酒もまた栄光が隠されている食べ物
 私、今日のこの聖書箇所、先ほども言いましたが、見た弟子たちにとっては、この上ない、喜びの出来事だったと思います。弟子たちは、ずっと、イエスさまと一緒にいました。しかし、彼らは生身のイエスさましか見ていなかったんです。「私を誰と呼ぶか?」とイエスさまが尋ねれば弟子たちは「メシアです」と答えていました。でも、それは、信仰でそう捉えているだけでした。しかし、そのイエスさまが神の本質をお見せになったのです。
 それは、私達にとっては、聖餐式のパンとぶどう酒に似ています。これは何ですか?と尋ねれば、「イエスさまの血と体です」と私たちは答えます。しかし、それは信仰でしかありません。
 私たちは、信仰によってイエスさまのその言葉を信じて、私たちは、聖餐式のパンとぶどう酒の周りに集まり、それをいただいています。今日のこの出来事は、そのパンとぶどう酒が、目の前で栄光に輝いた、私達の前で輝き、イエスさまの声が聞こえてきた。そのような感じの出来事なのです。もし、私達がその出来事を体験すれば

 わたしは見たんです(ペトロの言葉では「キリストの栄光を目撃したのです」)。聖書の言葉は神の言葉です。本当にその通りなんです。と証ししたくないでしょうか?



●最後に
 神さまは、私達の思い通りには、ご自身を表してくださるお方ではないようです。 この前「星の子」という映画を見ました。芦田愛菜さんが主演の映画で、両親が変な宗教を信じていて、主人公の女の子も親の信仰を受けて育っていました。でも、大きくなった時に、色々な人から、大丈夫か?騙されていないか?とか言われるようになります。また、「お前の両親変だ」という風に言われます。さらには、あこがれの先生に、信じている宗教を否定されてしまうのです。だんだん、信仰に自信を無くしていく主人公の女の子なのですが、最後、両親と一緒にその宗教団体が企画したイベントに参加します。そして、夜に両親は、その子を連れて山に登り、一緒に流れ星を見ようとするのです。初めは、早く帰ろうと言う、主人公の女の子ですが、お父さんが「見えた!」と言ったり、お父さんとお母さんが「見えた!なっ」って言う言葉を聴いて、自分も見ようと少し思うようになります。それでも彼女は帰ろうととするのですが、お父さんは「みんなで一緒に見るまで頑張ろう」というのです。そして、三人で一緒に星空を眺めているシーンで、その映画は終わっていきます。

 私は、その映画を見て思ったのですが、神さまの存在を認識する時って、流れ星を見るようなものに似ていると思います。あるとわかっていても、自分の思った時に見れるものではない。人に勧めにくく、見たことのない人に伝えれるのは、「じっと見てて、必ず見えるから」としか言えない。でも、みんながそれぞれ個別に体験していて、一緒に体験したときに、その喜びは大きくなる。神さまの存在もまた、こちらのニーズでは見えないけど、神さまの時が来てご自身を示されると、それは凄い体験となる。そして、みんなで一緒に奇跡を体験すると、その共同体の信仰は深まっていく。似ていると思います。

 この前、科学雑誌を見ていますと、とても意味深い言葉が書かれていました。その科学雑誌にこう書かれていたのです。

 「この宇宙は、人間が存在できるために都合がよい状況が見事に整っている。いや、整いすぎている。まるで宇宙が『知的生命よ、誕生しなさい』とでも言っているかのようだ」

 この広大な宇宙は、ただ、だだっ広いだけではなくて、あたかも誰かが「知的生命よ、誕生しなさい」と言っているかのようだ・・・。とても素敵な言葉ではないでしょうか。

神さまは本当にいらっしゃるのです。

 イエスさまの栄光を見たペトロも、また、パウロも信じて欲しいと熱心に証しています。ペトロもパウロも、イエス・キリストは神の子、メシアであり、あなたのために十字架にかかり、罪を贖ってくださったお方です。もっともっと信仰を深めていって欲しい、そう願っているのです。

 今日は、聖壇を見ながら、今も生きておられるイエスさま、あの時、栄光に輝かれたイエスさまなんだ・・・そのようなことを想像して、礼拝して欲しいと思います。