宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ヨハネによる福音書 2章 1〜11節
 「二人は一つとなる」

●はじめに
 おはようございます。私の姉はアメリカ人と結婚しました。姉には一人の女の子がいまして、その子は、いわるゆ「ハーフ」です。日本人かと言えば日本人だし、アメリカ人かと言えばアメリカ人です。遺伝子レベルで完全に日本人とアメリカ人がひとつとなった姿なんです。

●三位一体の神を理屈で考えると難しいけど
 この天地万物をお造りになった神さまは、三位一体の神と言われています。永遠の昔から、父、子、聖霊なる、三位一体の神でした。
 三位一体の神とはどういう存在なのか・・・。これは理屈では分かりません。私は理系ですので、色んな見方で捉えようとしましたがうまく理解できませんでした。
 どうして神はお一方なのに、3つの神であられるのか・・・。それは、分かりにくい真理ですが、そこには、ひとつ、重要な真理が隠されていると思います。

 少し、想像して欲しいのですが、「この世界が、お一人の神さまだけによって成り立っている場合」そしてもう一つ、「父、子、聖霊なる神さまが、愛という固い絆によって、ひとつになっておられて、その神さまが、この世界をすべおさめておられる場合」です。
 もう一度いいますね。

 お一人の神さまによって成り立っている世界と、3つの神さまが互いに固い絆(愛)によって一つとなっておられて、その神さまによって成り立っている世界です。なんか、三位一体の神さまの方が、私達自身、居心地がよく安心できないでしょうか。

 なんとなくですが、落ち着いた仲の良い夫婦と一緒に居ると居心地がいいことありませんか?
 この世界も、愛で一つとなっておられる三位一体の神さまがお造りになってくださった世界なんですね。ですので、その神さまがお造りになってくださった、私達人間もまた、神さまの愛に包まれているのです。神さまの愛の眼差しが私に、今も、注がれていると思うと、心が安定してきませんか?生きていて良かったなぁって思えないでしょうか。

 確かに三位一体の神は、理屈では分かりにくい。でも、神という方が互いに絆で結ばれて一つであり、そして、この世界もそのようにお造りになっているとわかると、「ああ、この世界は、お互いがお互いを大事にし合う時に、うまく行くんだ、素晴らしい世界になっていくんだ」ということがわかるんですね。
●結婚を定められた神
 さて、その三位一体の神さまが、人をお造りになったと書かれていますが、その神さまが
すぐになさったことは何かと言いますと、もう一人の人をお造りになったんです。しかも、助け合うようにと。

 今日お読みした創世記2章18節にはこう書かれています。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 人はバラバラで存在するように神さまはお造りになったのではありません。お互いに助け合うようにお造りになっているのがわかります。
 今、コロナウィルスがまた蔓延し始めています。コロナの感染による死亡者数ばかりがTVで報じられていますが、実際には隠れた数字がありまして、それは、自殺する人たちも多いということなんです。その人たちも、助ける人がいれば自殺しなくて済んだかも知れません。また、他の人との交わりがなくなり、精神的に弱っていく人も多いようです。やはり、人は独りでいるのは良くありません。会話が大事、お互いの存在を認め合える関係が必要なんです。この世界は、三位一体の神さまに示されているように、互いに大切にし合うように造られているのです。

●今日の話しは「婚礼」での出来事
 さて、今日は、イエスさまが、宣教活動を始めれらて間もない頃、一組の夫婦の婚礼に招かれた時の話しを見ています。当時のイスラエルの世界では、7日間、宴が続くと言われています。つまり、7日間、飲んだり食ったりしてお祝いするわけです。ですので、沢山の食べ物、飲み物を準備しておかなくてはなりませんでした。
 この婚礼には、イエスさまと、母マリア、そして、弟子たちが招かれていたのですが、その婚礼の宴の時に、問題が生じるんです。婚礼の席には欠かせない、「お酒」がなくなってしまうのです。お祝いの席に食べ物、飲み物はとても大事で、きらしてしまうと、その場がしらけてしまいます。また、ずっと「あの夫婦の婚宴はこんなんだったよ(ケチったみたいよ)」って言われ続けてしまいます。この時も、ある意味、そういう危機的な状況だったと思うのですが、イエスさまは、そこで奇跡を行われ、水を葡萄酒に変えてくださったんです。さらには、そのぶどう酒は、人が唸るようなおいしい葡萄酒だったのです。

●これは優しいイエスさまの話しではありません
 確かに、この話しは、イエスさまが、水をおいしい葡萄酒に変えてあげて、彼らを祝福された話しなのですが、それだけではありません。
 この個所の最後にヨハネはこう記しています。2章11節をご覧ください。

 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ヨハネが“しるし”と書くとき、そこには大切な意味が含まれています。つまり、イエスさまの奇跡は、色々記されていますが、ヨハネがしるしと書くときは、とても大切なメッセージが含まれているということを意味します。

 つまり、イエスさまがなさる不思議な業は、時に、イエスさまご自身がどのような方なのか、どのような目的を持っておられるのかを知らせるメッセージとなっているんです。

●誰でも結婚を意識する時がある
 結婚というのは、誰しも意識したことあるかと思います。私が一番最初に結婚を意識したのは保育園の時でした。ませた子だなと思うかも知れませんが、実際は意識したのではなく、保育園の時に、タキシードを着せられ新郎の役をさせられただけです。
 運動会か何かで仮装する時があったのですが、その時に、一組だけ、新郎新婦に扮する必要があったんです。その新郎役に私が選ばれたんですね。でも、なんでしょうね、不思議ですね、特別に二人を選ぶと言われて、選ばれると、相手の女の子の存在を意識してしまうんですよね(単純??)。

●結婚は思ったよりも試練が多い
 結婚は、神さまがお定めになった一つの摂理なのです。しかし、誰もが結婚するということもなく、また、誰もがずっと一緒で居続けるということもないのも事実です。
 旧約聖書を見ますと、エデンの園を出てからは、子どもに恵まれなかったり、結婚できなかったりしています。神さまがそのように定められたのではなく、人が神さまと離れてしまったために、そのような状況が生じるようになったのだと思います。

●その理由
 罪が人類の中に入ってきたときに、「相手のために自分が存在しているんだという愛の一番大切なことが薄れてしまいました」。実際に、“相手があって自分がいる”ということより、“自分があって相手がある”という考えの人は少なくないと思います。つまり、自分の幸せを最優先にして、相手の幸せは二の次という人が少なくないのです。
 
●霊的な結婚
 さて、誰もが一度は意識するのが結婚なのですが、全ての人が結婚するわけではありません。全ての人が意識しないといけないことがあって、それは、霊的な結婚なのです。

 神さまと永遠に離れない、ひとつとなるという、霊的な結婚、すなわち、婚礼ではなく洗礼を通して実現する、神とひとつとなるという秘跡です。

 橿原教会では、昨年、4人の方が洗礼をお受けになられましたが、私は、洗礼を執行しているとき、この方が、永遠の命をもつ瞬間を味わっています。永遠の方と一つとなることでその方は永遠の存在になるのです。最初に姪っ子の話しをしましたが、人間の世界ではハーフですが、霊的な世界では、「永遠の命の方とひとつとなることによって、わたしも永遠の存在に生まれ変わる」という奇跡が実現するのです。

●イエスさまの願い
 今日の話しでイエスさまが葡萄酒がなくなった時に、何を用いられたのか知っていますか?イエスさまは、清めの儀式のためにつかう水が入った壺を用いられました。今日、週報には、石の水瓶の写真を載せました。これは発掘されたものではありませんが、発掘された当時の石の水瓶もこのような感じでした。
 当時、身を清めるために、水で洗うという作業を行っていました。そのために、家には水がめが置いてありました(今日の話しでは6つ置いてあった)。
 今日の聖書箇所では、ひとつ80〜120リットルくらいの水がめが6つ置いてあったと書かれていますが、イエスさまの目に、この水がめはどう写っているのかと言いますと、これは、神と人とがひとつではないという風に見えるんです。

 家に清めのための水がめがあるということは、神の前に人は“けがれた存在”であり、永遠の命を失っていることを示しています。イエスさまは、その水がめを、祝福の葡萄酒に変えられたんですね。イエスさまによって、その水がめは、無用のものとなる、これがしるしとなる奇跡だったのです。

 ヨハネがこの出来事をイエスさまの“奇跡”と言わずに“しるし”と言ったのは、後にイエスさまが十字架で血を流され、そのことによって、私達の罪深い体は清められるという御業をこの奇跡の中に見たからです。もう、儀式的な水の洗いは必要なくなったのです。大胆に神に近づくことができるように、イエスさまがしてくださったのです。そのことを言いたかったのです。

●創世記にみる助ける者としてのキリスト
 今日の聖書箇所、創世記を見ますと、人は父母を離れて女と結ばれ二人はひとつとなると書かれていますよね。
 助ける存在となる女性は、男の体の一部から造られたと書かれています。実は、イエスさまもまた、マリアという人の胎を用いることによって、神ですが人となられました。
 そして、人が父母を離れ、助ける者である女と一つとなるように、私たちもまた、肉の父母を離れて、キリストと一つとなるのです。
 つまり、この聖書箇所は、イエス・キリストと私達の関係も暗示していたのです。

 神は、最初、人の助ける者として、女を創造されました。人が罪に落ちた時、今度は、キリストを助ける者としてお造りになり、キリストとひとつとなるようになさったのです。神さまの世界は、いつも、ひとつとなることが基本なんです。

●キリストによって神と一つとなる
 洗礼を受けた人はみな、イエス・キリストとひとつとなっているのです。そのことが、肉の世界でいう結婚と比べていかに尊いものであるのかということがわかるかと思います。さらに、神の方から、人となり、近づいてきてくださったということもまた嬉しいことではないでしょうか。
 
 最後に、エフェソの信徒への手紙を読みます(2章13節〜:354頁)。

 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

●精神的安定
 結婚というのは、精神的に安定するという要素を本来的にはもっているようです。しかし、多くの夫婦が精神的ストレスを感じているのは実際です。それが、大きくなりすぎると、相手から離れようと選択することになります。
 罪の世界、相手が自分のために存在すると思う人の世界では、精神的な安定というのは保つことができません。相手の精神的な安定のために自分が存在しているという認識が必要なのかも知れません。

 私は、クリスチャンであるということは、どこか、何でもないようですが、精神的な安定をいただくことができると思います。クリスチャンになって大変なことってあるかと思いますが、それでも、助け手としてイエスさまが存在してくださっている。三位一体の神に包まれている。その事実が、気づかないところでクリスチャンに精神的な安定をもたらしているのです。
 さらには、三位一体の神さまと一つであるという事実、また、神が私の人生を豊かに包み込んでいるという事実を感じるからこそ、心が安らぐことがあるのだと思います。

 二人は一つとなる、この秘跡は、私にとって異性とではなく、神との間で一番必要なことであるということを、今日、是非、覚えていただければと思います。