宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ルカによる福音書 3章 1〜6節
 「救いの手段を告げる者」

●洗礼者ヨハネの誕生
 イエス・キリストがお生まれになるときに、神さまはもう一人の人を誕生させられました。その人はヨハネです(福音書を書いたヨハネと区別するために、キリスト教会では、彼の事を洗礼者ヨハネと言っています)。ヨハネはイエスさまがお生まれになる約6か月前にエリサベトとザカリアという老夫婦の子として産まれました。もちろん、聖書はヨハネも神さまによって特別に誕生した人だと記しています。
 ヨハネとイエスさまが誕生したときに半年の差があるのですが、神さまは、この“半年のずれ”の中に、ご自身のメッセージを込められました。この半年のずれは旧約聖書の祭りと重ね合わせるととても良く分かります。

●誕生と祭りとの関係
 旧約聖書を読みますと、神さまはイスラエルの民に、3つの祭りをするように命じられました。ややこしくなるので、その中の二つ、春と秋のお祭りを是非覚えてください。

 春の祭りは“過ぎ越し祭り”と言います。そして、秋にある祭りは“仮庵の祭り”と言います。
 春にある過ぎ越し祭りと秋の仮庵の祭りは丁度半年の差があるのです。

●仮庵の祭りとイエスさまの誕生
 クリスマスは12月24、25日ですが、実際のイエスさまの誕生日ではありません。聖書にお生まれになった日が書かれていないのでイエスさまの誕生をお祝いする日として教会が定めました。実際のイエスさまの誕生日は諸説ありますが、私は仮庵の祭りの期間ではないかと考えています。
 というのも、仮庵の祭りは、その名の通り、家の側に粗末な仮小屋をつくりそこで過ごすお祭りなんです。今でも、ユダヤ人は家の庭やベランダに、粗末な仮小屋(テント)を造り、そこで食事をしたり、時にそこで寝泊りするそうです。何度も言いますが、これは、神さまがお命じになったお祭りです。
 ところで、イエスさまはどこでお生まれになりましたか?マリアとヨセフの家だったでしょうか。聖書は、ベツレヘムという町、しかも宿ではなく、粗末な家畜小屋でお生まれになったと記しています。仮の宿です。また、福音記者ヨハネは1章14節でこう書いています。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。


 これは、神の御子イエス・キリストが、神なのに“人という肉の体”にその栄光をお納めになったという意味です。“宿られた”という単語の本来の意味は“天幕をはりそこに住まわれた”という意味で、まさに仮小屋なんです。ですので、イエスさまがお生まれになったのは、場所も、お姿も共に、仮の場所なんです。ですので、仮庵の祭りの時期だと言えるのです。たとえ、イエスさまがお生まれになったそうでなくても、仮庵の祭りに示された霊的な意味のなかにイエスさまの姿が隠されていたんです。

●過ぎ越しの祭りとヨハネの誕生
 そう考えると、洗礼者ヨハネが生まれたのは、その半年前の過ぎ越し祭りの頃になります。そして、ヨハネが生まれた理由、彼の役割が見えてきます。

 春にある過ぎ越し祭り、それは、出エジプトという出来事に由来しています。イスラエルの民は、昔、エジプトの地で奴隷として働かされていました。神さまは、民の嘆きを知り、モーセを通して一つのことを民に告げます。
 「わたしは、このエジプトの地に裁きを下します。エジプト中の初子、人であれ、家畜であれ、長子として生まれたものを全て打ちます(殺します)」。そのように宣言なさいました。その時に神さまはモーセを通してイスラエルの民に「あなたがたは、小羊の血を家の戸口に塗りなさい」と命じられました。そして、「その塗られた血はしるしとなり、わたしは、その血による“しるし”があると、その家を過ぎ越します(つまり、災いがその家に及ばない)」とおっしゃったのです。過ぎ越し祭りという名前の意味は、神がその家の戸口に塗られた血を見たら、その家に災いは訪れないという、その家を“過ぎ越す”という意味から来ているのです。

●ヨハネの役割
 さてモーセの役目は、神の裁きがエジプトに降ることと、その災いが降りかからないように、小羊を屠り、その血を家の戸口に塗りなさいという“神の裁き”と“救われる方法”を民に伝える役目だったのですが、

洗礼者ヨハネも同じように、
 「神が来られる」ということとと「悔い改めなさい」ということを民に告げる役目を頂いたのです。
そして、モーセが羊の血を家の戸口に塗りなさいと教えたように、ヨハネは、イエス・キリストの血による贖い受け入れ、それを救いのしるしとしなさいというメッセージだったのです。


●昔の体験(何かが近づいてくる)
 私、人生の中で一番勉強したなと思うのが高校受験なんです。中三の時、家の二階でこたつに入って、深夜、勉強していたんです。当時住んでいた家は、部屋を出たらすぐ横に階段があるんです。そして、深夜に勉強していたら、誰もいないはずの階段が「ミシッ・・・ミシッ!」と何か体重が掛かっているかのように鳴るんです。誰かが上がってきたように、音が段々大きく、しかも、鳴っている場所が上がってくるんです。当時、疲れていたせいか何度か金縛りを経験していた時だったので、怖くなりました。階段を見る勇気はありませんでした。聞き耳を立てても、降りていくような音はしないです。階段の一番上で止まっている感じです。しばらくして、階段を見たのですが、誰もいなかったんですね。まさに怪談(階段)話です。

 今日の週報にも、こちらに向かってくる足跡の絵を載せているのですが、どうでしょうか、「何かが近づいてくる・・・」そういう時に、向かってくるものに対して、神経を集中するのではないでしょうか。「何かがやってくる!それは誰なのか」そんな風に、意識して注目するかと思います。洗礼者ヨハネのメッセージも同じように、人々の心を、救い主を意識させるそのようなメッセージだったのです。恐らく、ヨハネのメッセージを聞いた人は、神さまの臨在のリアリティを感じたかと思います。「その救い主とは誰か、どうしたらよいのか」そのように意識したと思います。

●悔い改めなさい
 洗礼者ヨハネは、神さまのお告げを受け、メシアが来ることをリアルに感じ取っています。そのヨハネはこう言っています。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」先の個所では「悔い改めにふさわしい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 つまり悔い改めよ。そのように民に勧告しています。

●なぜクリスマスの前にこの個所を読むのか
 なぜ、クリスマスの時期にヨハネの言葉に私たちは耳を傾けるのでしょうか? それは、私達もまた、神の到来を待つものであることを知るためです。

 今、世界が段々おかしくなってきています。聖書には、世の終わりの前兆として、戦争がある、飢饉がある、地震がある、人々から愛がさめる、親が子に子が親に剣を抜く・・・そのように書いています。また、バベルの塔の話しのように、人々が一つの言語で意思疎通でき(ネット社会)一部の人たちが全ての人を支配するようになってきています。さらに、黙示録に記されているように、人は数字で管理され(スマホによる個人情報管理)、それによって生活物資を買うようになってきています。今、世界の多くのキリスト教会で、キリストの再臨が来るのではないか、その時が近いと言われるようになってきています。

 今、本当にこの世を神が裁かれる時が近づいていると私は思います。もちろん、神さまがお定めになることなので私達の知る由はありません。しかし、霊的に耳を澄ませば、裁き主の足音が聞こえてくるような時なのだと私は思います。
 だかこそ私たちはイエスさまのご降誕をお祝いすると同時に、イエスさまが再びやって来られることを意識して、目を覚まし、多くの方が救われることを、一人でも多くの人を救いの船である教会にお迎えする必要があるのだと思います。


●もう一つの意味(仮庵の祭り)
 さて、最後にもう一つ、過ぎ越し祭りと半年隔てている、仮庵の祭りのもう一つの意味をお話しして終わりたいと思います。仮庵の祭りがある太陰暦7月1日(新月)にラッパを吹きます。そして、15日(満月)から一週間が祭りの期間なのですが、その5日前に、年に一度の大きな行事があるのです。それが、ヨムキプールという行事です。

 ヨムキプールとは「贖罪の日」という意味です。それは、1年間の罪を反省し「悔い改める日」です。この日、祭司の中でも大祭司が、至聖所と呼ばれる一番神に近い場所で血による贖いの儀式をする日なのです。大祭司によって全ての民の一年間の全ての罪の贖いが行われる日なのです。
 ヨムキプールの日は、断食をします。労働が禁じられています。現代では、入浴をしないとか、ひげをそらないとか化粧をしないといった、自分なりに何かを禁じる人もいるそうです。しかし、ヨムキプールの最大の行事は、小羊の血による罪の贖いなのです。

 イエスさまは、仮庵の祭りの時期にお生まれになったと思います。その理由の一つは、洗礼者ヨハネが裁きと悔い改めを民に伝えた時に、彼は、イエスさまを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」そう言ってイエスさまを指示したからです。
 イエスさまこそ、ヨムキプールに捧げられるためにお生まれになった神の小羊なのです。

●身なりを整えるように
 有名人が家にやってくるとなれば、家を掃除します。また、身なりを整えて、相応しくお迎えするかと思います。イエスさまは、愛の神として日々私たちと共にいてくださっていますが、その時が来ると、様相を変え、見える形で、世を裁く神として、ロバではなく白馬にのって、この世界にやって来られるのです。私達はお迎えするに相応しいものであるかを吟味する時なのです。


「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」(エフェソ5章14節)