宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



マルコによる福音書 10章 46〜52節
 「見えるようになりたい」


■福音書の内容
●つ〜か〜の仲
 「つーかーの仲」という言葉がありますよね。今の若い人はあまり知らないみたいです。
 「つーかーの仲」と言えばですね、お互いに深く理解しあった関係のことをいいます。よく夫婦の仲のことをたとえる言葉として使われてきました。
 「おーい、あれどこだっけ?」「玄関に置いてあるわよ」そんな機転の利く相手がいたらいい方で、たいていは、「おーい、あれどこだっけ?」と言えば「あれって何よ」と返されるのがおちですよね。
 「おーい、あれどこだっけ?」「あれって何?」「あれだよあれ」「あれじゃわからないわよ」、これはですね、「つーかーの仲」かどうかが問題なのではくて、「年をとって物の名前がすぐに浮かんでこなくなった夫」に問題があるんですね。
 年をとれば、物の名前が浮かんでこない。人の名前がすぐ出てこない。よくあることです。また、目が悪くなる、耳が遠くなってくる。というのも、年をとった証拠ですよね。

●目が見えなくて物乞い
 近くのものが見辛くなる。目は衰えてくるのですが、私たちの中で、「全く目が見えない」という人はいないと思います。また、物乞いをして生きて来たという方もいらっしゃらないと思います。
 この前、パラリンピックがありました。盲人の人も出場していました。活躍していたかと思います。でも、恐らく、選手の中で物乞いをしている人は、いないと思います。
 目が見えなくなり、路上で物乞いをして生計を立てなければならなくなった自分を想像してみてください・・・。耐えれますか?自分に自信もてますか?惨めに思えて悲しくなりませんか。恐らく、何も喜びのない人生、むなしい人生、憐れな人生に思えると思います。 イエスさまと出会った、バルティマイという人は、そういう人だったのです。

●イエスとバルティマイ
 彼は、エリコという町の通りに座っていました。このエリコという場所は、結構栄えていた町で、人も多く居ました。また、人の往来もかなりあった地域です。また、イエスさまのたとえ話の中で、善きサマリア人として知られている話しがありますが、あの話でも、エルサレムからエリコへ向かう道での出来事です。つまり、巡礼者もよく通る道であったというのがわかります。バルティマイという人は、そのエリコの町の道端で物乞いをしていました。
 今日はマルコによる福音書を見ていますが、同じ出来事について、ルカも書いています。ルカによる福音書を見ますと、バルティマイは、まず、通りが騒がしくなったので「これは、いったい何ごとですか?」と道ゆく人に尋ねたと書かれています。すると、ある人が「ナザレのイエスが通って来られる」と答えるのです。それを聞いた、バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」そう大声で言い始めたのでした。なぜ、大声で叫ばなくてはならなかったのか・・・。それは、どこにイエスさまがいるか分からないから。だれがイエスさまか分からないからです。
 周りの人たちは、邪魔だ、うるさいと言わんばかりに彼を黙らせようとします。しかし、彼は、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫び続けるのでした。
 そのような彼を、イエスさまは目に留め、人々に、「彼を呼んできなさい」と命じられるんです。そうして、人々が、「イエスさまがお呼びだぞ」と彼に伝えると、彼は、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまの方へと向かっていきました。
 上着を脱ぎ捨て(上着と言っても、体を覆う様な大きな布)、躍り上がってイエスさまのところに行った・・・とありますので、どれだけ彼が急いだか、また、喜んだのかが想像できるかと思います。
 イエスさまは、傍になんとかやってきた盲人に「何をして欲しいのか?」と尋ねます。すると、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」そう懇願するんです。その彼にイエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃると、とたんに、彼の目が見えるようになった。  バルティマイはこうして目が見えるようになり、人生を主に委ねる人になったのですが、今日、この話しから、神さまの恵みを“豊かに”受け取るためのアプローチの仕方を3つお話ししたいと思います。

■受け止めて欲しいこと
●謙遜な者に恵みを注ぐ神(苦しい時こそ神に頼る)
 まず一つ目。それは、神は、謙遜な者に目を留め、恵みを注ぐお方であるということです。
 一か所、聖書を開いてください。ペトロの手紙第15章5節をお開きください。

同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。
なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
 
 ここで、「謙遜」という言葉が2度使われています。私たちも、よく「謙遜」という言葉を使います。「あの人、謙遜な人だよね」っていう時、たぶん、良い意味で使われていると思います。どこか、徳のある人のような。 でも、聖書の「謙遜」という言葉は、それは、謙った心を言うだけでなく、打ちひしがれた心の状態にある人のことも言うのです。
  例えば、何か問題が生じて困り果てた人は、どんな心の状態でしょうか?貧しい生活をしなければならない状態が長く続いた人は、どんな心の状態でしょうか。また、苦しみに遭遇して、それがずっと続くと、その人は、どんな心の状態になるでしょうか?恐らく、そういう人は、元気がなかったり、ふさぎ込んでいると思います。恐らく高慢な人はいないでしょう。控えめであったり、時に、優しかったり・・・。一般的には、羨ましい人には見えないかも知れません。そのような試練からくる個々の状態がゆえに、謙遜になることもあります。徴税人とパリサイ人を喩えた話をイエスさまはなさいましたが、 神さまは、そのような心の人に目を留めておられると、深く関わり、恵みを与えようとしているのです。
 有名な、山上の垂訓と言われる、イエスさまの教えの中に、次のような言葉があります。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:3〜4)

 苦しみや貧しさの中で苦しむ者に、神は、私のもとにきなさいとおっしゃるのです。苦しみや貧しさの中で苦しむ人こそ、実は、神に近い人なのです。神にのみ頼らざるを得ないと思えた時、その人は神と出会うのです。
 今日の、バルティマイもそうでした。彼は、盲目で、物乞いでした。生きている意味を見出せなかったと思います。でも、彼は、イエスさまに信仰を持ったんです。神の聖者だと信じていたんです。だから、彼は、上着を脱ぎ捨て、喜び踊り、イエスさまの所に行きました。「これで解放される!」と思って。彼の信仰で大事なのは、イエスさまに「主よ、憐れんでください」といったことです。苦しみや貧しさの中で、神にのみ頼らざるを得ない、神のみが最後の希望だと人が心で理解したとき、その人は神と出会うのです。そのために必要なのは、「神にしか救いがない」という信仰です。「憐れんでください」という信仰です。
 
●口からでる願いを通して信仰は深められていく
 さて、今日、このバルティマイの姿から受け取っていただきたいことの二つ目は、イエスさまは、みなさまの信仰の言葉を聞きたいと思っておられるということです。
 今日の聖書箇所で、イエスさまは「憐れんでください」と叫んだバルティマイに「何がして欲しいのか?」と尋ねておられます。誰が考えても「目が見えるようになりたい」というのが彼の願いであることは分かります。「あれはどこ?」「あれって何?」「いってくれなきゃわからない」と同じように、イエスさまは、彼が何を欲しているのか分からなくて「何をして欲しいのか?」と尋ねておらえるのではありません。
 イエスさまは、信仰の言葉を確認したいのです。イエスさまは、ご自身のことを誰だと思っているのか、どのように思っているのか、その信仰の言葉を聞きたいのです。
 この前は、ヤコブとヨハネが、「あなたが栄光の座につかれるとき、どちらかを右にどちらかを左においてください」と願っていました。あの時、「お願いがあります」と言ってやってきた彼らにイエスさまがおっしゃった言葉は「何をして欲しいのか?」と同じ言葉だったんです。でも、彼らは、「私たちに善い待遇をください」という全くの不信仰な願いでした。
 一方で、バルティマイは、「何をして欲しいのか?」というイエスさまの問いかけに対して「見えるようになることです」と言っています。誰だって、「そりゃそうでしょう」と思うかも知れません。しかし、バルティマイの信仰は、実は、すごいんです。なぜなら、癒してもらえるだろう・・・という信仰を超えています。上着を捨てて、踊ってイエスさまの所にいったとありますから、彼は確信して「見えるようになる!(あなたにはできる!!)」と言ったのです。イエスさまはその言葉は喜ばれたことでしょう。
 神さまは、私たちが言う前から何を望んでいるかご存じです。祈りを考えてもそうだと思います。祈る前から、神は、私たちの心の全てを知っておられます。では、なぜ、神は祈れとおっしゃるのか。それは、私たちが何に信頼を置いているのかを聞きたいからです。神に何を信頼しているのか、期待しているのかを聞きたいのです。  神さまは、信仰に答えてくださる方です。「あなたの信仰があなたを救った」そのように実現してくださる方です。
 私たちが、祈りをもって、神に願いを祈るとき、そこに信仰が表れます。私たちは、時に、神が本当に与えたいと思っていることとは違うことを祈ることがあります。でも、そうやって、祈って、後でみ言葉で示されていくうちに、私たちは、信仰が整えられていきます。何が必要な願いなのかを知っていくことができるのです。

●イエスが見えることが全ての解決である
 最後になりますが、今日のバルティマイの話しから、恵みを受け取るアプローチの仕方の3つ目。それは、イエスさまが見えること。これが、私の最高の願いであると思うことです。
 バルティマイは、イエスさまによって、目が開かれてることを信じていました。彼は見えることを望んでいました。イエスさまは、彼の目を開かれたのですが、肉の目だけでなく彼の心の目を開かれたのでした。 バルティマイは、奇跡を通して、また、イエスさまをその目で見ることによって、奇跡を体験することによって、イエスさまに従う人へと変えていかれました。
 私たちは、色々な苦難や困窮、貧しさによって、色々な願い事が出てきます。イエスさまに沢山祈ることが多いと思います。 しかし、忘れないで欲しい願いがあります。それは、「目を開いてください」という祈り「あなたを見えるようになりたい」そのような願いです。
 私たちは、神さま良く見えなくなっています。だからこそ、まず、解決したいことが「あなたを見ることだ」「見えるようになりたい」これは最高の信仰から来る願いです。
 目を閉じて、目の前にイエスさまがいらっしゃる状態を想像してみてください(実際に目を閉じてもらえればと思います)。目は閉じています。ですので、見えません。そこに、イエスさまの声を想像してください。「何をして欲しいのか?」そのようなイエスさまの声を想像して欲しいのです。すると、何を願いたいですか?このことを解決したい、あの人を何とかして欲しい・・・色々な願いあっても、まず、「あなたが見たい」そのような願いがまず出てこないでしょうか。
 私は、イエスさまをこの目で見ることができれば、私の人生は本当に変わると確信しています。色々な思い煩いも、乗り越える力をもらえるのではないかと思います。また、自分が人生において、何を願い、望むべきかも見えてくるに違いありません。生きる目的も変わってくると思います。
 イエスさまをこの目で見る。これが、私たちの人生を想い煩いを解決する全てなのです。