...こころの窓 ...
 


   

    

メッセージ

 ヨハネ福音書9章に盲人の癒しの記事があります。物語は、イエスがエルサレム市内を歩いておられた時、
道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られたところから始まります。
「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(9:1)。
「生まれつき目の見えない」、その人は盲目という障害を負わされて生まれてきました。
ある人は生まれつき健康な体を与えられ、別の人は生まれた時から様々のハンデキャップを負わされて、
苦しまなければいけない。何故なのか、人生はこのような不条理で満ちており、人はこの不条理に苦しみます。
日本人はこのような不条理に対して、「あきらめ」という知恵を説きます。「あきらめなさい。
そのような運命なのだ。仕方がないではないか」。
 イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って
洗いなさい」と言われました。彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来ました。
三浦綾子さんは新約聖書入門の中に書きます
「この盲人はエルサレム神殿の近くの道に座っていた。そこからシロアムの池までは800メートルだが、
盲人の800メートルは目明きの何キロにも相当するであろう。彼は行ったことのない不案内の池にまで、
人に聞き聞き、慣れぬ道を歩いて行った。途中、彼の心に、「生まれつきのこの盲目が、唾を混ぜた泥を塗った
だけで治るものだろうか、シロアムの池に行っても無駄足ではないか」という思いが起きたであろう。
それでも彼は苦労して知らない道をシロアムまで歩いた。生まれて初めて、自分をまともに人間として扱って
くれる人に彼は会ったのだ。彼はようやくシロアムの池に着いた。池の表に手を入れ、目に水を塗り、
見えた時の感動を思うと、私の心も揺さぶられた」(文庫版p164-166)。
 今日、全世界では人口の10%の方が何らかの障害を持って生まれ、日本でも数百万の方々が障害をお持ちです。
聖書の中にも、多くの盲人やろう者の物語が記されています。2千年前から、人々は障害故に苦しみ、
その中である人はイエスと出会い、癒されてきました。ヨハネ9章ではイエスは驚くべき言葉を言われました
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)。
イエスは「神の業がこの人に現れるため」、因果応報という当時の宗教的境界線を踏み越えられたのです。
 現実の生活では、生まれつき盲の方の、あるいは中途失明した方の目が開けられることは、ほとんどありません。
それにもかかわらず、多くの視覚障害の方々がこのイエスの言葉に慰められて、洗礼を受けています。それは、
イエスの言葉を通して、「障害を与えられたことの意味」を教えられたからだと思います。過酷な運命を与え
られた人は必然的に自分の生まれたことの意味を問われます。その時、「不条理もまた神与えたもう」、
不条理の中に意味を見出した時、運命が使命に変わっていきます。イエスは運命を使命として受け取られた
ゆえに十字架で死なれた。生まれつき盲の人は伝道者としての人生が与えられた。病気や障害が癒されることが
神の業ではなく、病気や障害を持ちながらも使命に生かされていく人が現れることこそ、神の業の現れなのです。
 由木康牧師は語ります「どんなに社会が完全になっても、死や病気や離別からくる苦しみはなくならない。
また、不幸や苦難の原因をいくらほじくり返しても人は救われない。必要なことは、不幸や苦難の現実を、
信仰によって神の御業の現れる機会とすることである。それだけが不幸や苦難を完全に克服する道である」
(由木康、イエス・キリストを語る)。



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