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研究報告
天野恵:騎士道と火器(9)[4/4]
現代人のわれわれから見れば、フランス人とかイタリア人とか言って争う以上、たとえこんな決闘で勝って喜んでみたところで、結局イタリアがフランスの支配を受けるようになってしまったのでは、何と言うか、むしろ空しいだけみたいな気もしないではないが、当時の人々はこういう矛盾はあまり感じていなかったらしい。小生にとっては、それよりもこのような騎士道の極致みたいな話と、これから述べる鉄砲の本格的な活躍とが同じ戦争においてほぼ同時に起きたということの方が、ある意味、なにか象徴的なように思われて興味深い。
(ルーヴォ大聖堂)
話を戦争に戻すと、フランス軍のバルレッタ包囲は7ヶ月間にわたって続き、篭城するスペイン軍は兵糧も尽き始めて危機感を強めていたのであるが、《バルレッタの果たし合い》でフランス側が負けたためにスペイン勢はおおいに意気を上げ、2月23日にはルーヴォを急襲して、4時間の戦闘で仏軍の騎士150名と歩兵800名を捕虜にするという目覚しい戦果を挙げた。ちなみにマキアヴェリは、両軍から少人数の選手だけが出て決闘で勝敗を決めるようなことは決してやってはいけないと言っている。まァ、もっともな意見であり、彼らしい意見でもあるが、《バルレッタの果たし合い》はまさにその見本みたいなものだった。
ちょうどその頃、フランス艦隊の海上封鎖を排除したスペイン艦隊によってバルレッタには海から支援物資が到着し、同じようにヴェネツィア共和国からも武器が届いていた。こうした状況の下、いよいよ反撃の機は熟せりと見たコンサルヴォは、マクシミリアン1世が派遣してくれた2000名のランツィケネッキの到着を待って、4月27日の夜、内陸のチェリニョーラを攻略するために出陣した。まずは海沿いの街道を北上してオファント川を渡る。その後は川に沿って遡れば丘の上のチェリニョーラまで一直線である。城内のフランス軍守備隊は兵力も小さく、本格的な攻撃に耐えられるようなものではなかった。しかし、チェリニョーラからほんの20Kmほど南のカノーザにはフランス軍の本隊がいた。敵の動きを察知した彼らは、こちらも急遽カノーザを後にすると、チェリニョーラを目指して行軍するスペイン軍を側面から突くべく道を急ぐのであった。
-つづく-
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