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研究報告
天野恵:騎士道と火器(5) [4/4]
さて、大砲のおかげで篭城戦が困難になり、その結果として野戦の重要性が増したというのは先に述べた通りであるが、野戦の重要性が増すというのは、広い場所での突撃を身上とする騎士にとっては好ましいことでこそあれ、悪いことではない。つまり、この意味でも、大砲というのは騎士と結構相性の良い兵器だった。少なくともこの段階での大砲は「卑怯な飛び道具」というよりも、どちらかと言うとむしろ騎士道の味方だったとさえ言えそうである。フランスやブルゴーニュが騎士道を振りかざす一方で大砲にも力を入れたというのは、全然矛盾した行為ではなかったのである。
アルフォンソ・デステに至っては、甲冑に身を固めた姿で大砲の砲身に手を掛けているところを肖像画に描かせている。大砲を騎士道にもとる卑怯な飛び道具とみなしていたのならば、たとえ現実にはいくら裏で砲兵隊の強化に力を入れていたとしても、自分の肖像画にまでそれを持ち込んだりはしなかったはずで、要するに彼は大砲を恥じるどころか、むしろ自慢していたことが分かる。
さらに彼は、肖像画に加えてインプレーザにも大砲の砲弾の図柄を使っていた。インプレーザというのは、当時イタリアにやって来たフランス軍の武将たちが持ち込んだ流行で、旗印のようなものである。何らかの図柄に短いモットーを組み合わせて作り、鎧の上着などにあしらった。まァ、日本でいえば千なり瓢箪とか風林火山とかいったのがそれに当たる。イタリアでも図柄だけ、あるいはモットーだけのものもあったのだけれど、普通はその両方を組み合わせて作られていた。モットーはラテン語が多い。
例えば、イタリアの有名な出版社でエイナウディというのがあるが、この会社の商標になっているダチョウはまさにこの16世紀のインプレーザの一つをそのまま持ってきたものである。一本の釘を咥えたダチョウの図柄にSpiritus durissima coquit.(「気骨に消化できぬものなし」といったところか)というモットーが組み合わせてある。ダチョウは古来、鉄を食べるとされていたので、雄々しい魂を持つ人は、どんな不当な仕打ちにも打ち負かされることなく、堅忍不抜の精神をもってこれを飲み下し、やがては消化してみせる、というのがそのココロである。そもそもは、クレメンス7世の親衛隊長をしていたジロラモ・マッテーイという貴族の旗印だった。この男は、兄を殺害されたのであるが、加害者の叔父が有力な枢機卿だったものだから、その場では手が出せなかった。それでも、この仇をずっと忘れずに我慢していて、件の枢機卿が死んでから遂に相手を討ち果たしたのであった。で、これを記念してパオロ・ジョーヴィオという文人に上記のようなインプレーザを作ってもらったのである。
そこで、アルフォンソ・デステのインプレーザであるが、それは丸い砲弾が炎に包まれてこちらに飛んでくるところの絵に、a lieu et tempsというモットーが書き添えられていた。このモットーはフランス語であるが、もともとはラテン語でLoco et temporeと書かれていたということである。いずれにせよ、自分の大砲には、タイミングといい、照準といい、まさにドンピシャの砲撃が自在にできるのだゾ、というのが前提となっていて、自分の率いるフェラーラの軍隊も、ちょうどこの砲弾のように、俊敏な機動力と巨大な破壊力を兼備しているのだ、ということをアピールしたかったのであろう。ちなみに、このモットーを考案した人物はわれらがアリオストであったということになっている。
もっとも、この話を書き残しているのは、例のダチョウのインプレーザを考案したパオロ・ジョーヴィオという人物なのだけれど、この人の情報は史料として信憑性に乏しいというのが常識になっている。だから、モットーを作ったのが本当にアリオストだったかどうかについては何とも言えないような気もする。
が、一方、これに対して非常にはっきりしているのは、ジョーヴィオがこの話を書き記すに当って、大砲の砲弾でインプレーザを作るというアルフォンソ・デステの行為を、何か奇妙だとか、珍妙だとか、ましてや騎士道に反する恥ずべきことだなどとは一向に見なしていなかったという事実である。彼は、大砲などとはまったく関係のない、単によくできたインプレーザを紹介するために書いた本の中で、それらのひとつとしてこの砲弾のインプレーザを紹介しており、これをその図柄ゆえに特別視していたような様子はまったくないからである。当然、ジョーヴィオが読者として想定していた当時の上流階級の人々も、大砲に対してこれを卑劣な武器とする否定的なイメージは持っていなかったことになる。決してアルフォンソ・デステひとりが特に変人・奇人だっていたわけではないのである。
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というわけで、大砲と騎士道というのは、16世紀初頭の貴族たちにとって、全然折り合いの悪いものではなかったのだ、というのが今回のお話である。本当のことを言うとそろそろ鉄砲の話に入る予定だったのだけれど、これは次回にまわさせていただく。
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