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研究報告
天野恵:騎士道と火器(2) [3/3]
ところが騎士というのはえらく金のかかるものだった。軍馬や甲冑が高価だったのは言うまでもないが、騎士そのものもガキの頃から家の手伝いやらお勉強やらはそっちのけでただひたすらにお馬の稽古ばかりしていないことには到底なれないようなところがあった。
だから、当然、有閑階級の子弟でなければ話にならない。西欧でそういう金持ちがひとつの「階級」をなすほどの数になるまでにはやはりこの時代を待たねばならなかったのである。
で、一旦そういう発展が始まると、甲冑や武器や戦法に関してもその進歩のスピードには目覚しいものがあった。12世紀初頭にはもう基本的に後の時代まで続くスタイルが確立されていたようで、『ロランの歌』を描いたとされるアングレーム大聖堂ファサードのレリーフや、ヴェローナのサン・ゼノにあるテオドリック大王のパネル、それにモデナ大聖堂の門のひとつに残るアーサー王物語の一場面を描いたルネッタなど、かなり早い時期の図像を見ても、バイユーのタピスリーのように槍を上から振りかぶっている騎士など、もはやひとりも見出すことはできない。
槍そのものもここでは明らかに太く頑丈そうで、振り回して使うためのものとは思えない。ただ、モデナの場合は全長の中央付近を握っているところを見ると未だ古風な構えではある。
こういう典型的な騎士の戦法というのは、大型の槍を胸の高さに構えて前傾姿勢を保ったまま全速力で突進していくもので、こうすることによって馬の体重を含めて何トンという重量が時速数十キロの速度で突進する際の全運動エネルギーを槍の穂先の一点に集中させることができる。槍は振りまわしたり繰り出したりするのではなく、しっかりと体に固定しておいて敵に当たるのである。
肝心なのは馬を乗りこなすことと、よく狙いを定めること、それに衝突の反動でこちらが逆に落馬したりしないよう足腰を鍛えておくことだった。
こういう騎士たちが何百と集まって怒涛の如く突進して来たら、同じような騎士団でもって対抗しない限り、野戦でこれに太刀打ちする方法は存在しなかった。
甲冑の方も、チェーン・メールの上に何枚もの金属板を取り付けることによって、やがてはあたかもロボットのように見える15世紀のフル・プレート・アーマーへと進化する道を歩み始める。
チェーン・メールは剣で斬りつけられた場合には強いが、槍の突撃には弱い。こうして中世の騎士は急速に機甲師団みたいなものになっていったのである。
ただし、イタリアは独仏のこうした歩みに対してどちらかというと遅れがちだった。山がちな地形も関係していたのだろうが、それよりも都市を中心とする世界が形成されていたことが大きかったのではないかと思う。
それにしても、こういう目で見るとヴィクトリア朝時代にたくさん描かれた騎士物語を主題とする絵画は相当に時代錯誤的だなァという気がする。もちろん、そんな見方をするべき絵ではないし、もともと現実離れのしたロマンチックな雰囲気を醸し出すことを目的として描かれたものではあるのだけれど。
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と、原稿もこのあたりでそこそこの分量になったので、以下は次回にしたい。何だか前回の予告とは裏腹にドンドン時代がさかのぼる一方で、この調子ではアリオストにも鉄砲にもなかなかたどり着きそうにないと、自分でも少々呆れると同時に反省もしている。
こういうのを「アダムとイブから説き始める partire da Adamo ed Eva」と言うのである。聞かされる方にとってはまどろっこしいことこの上ない。それは承知しているのだけれど、何の話をしても小生は必ずこうなっちゃうんですよね、どういうわけか。
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