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研究報告
天野恵:騎士道と火器(1) [2/5]
さて、そろそろ鉄砲の話に入るとしよう。仏教がインドから日本に伝わるには千年以上の年月を要した。北欧がキリスト教の圏内に入るまでにもやはりそれに近い時間がかかっている。これに対して、鉄砲がヨーロッパからはるばる戦国の日本に渡来し、その威力を見せつけるまでというのは、それこそあっという間のできごとだった。
もちろん、これには16世紀という時代を背景とするいくつもの要因がからんでいるわけで、この現象ひとつを取り出して、人類に救いをもたらすべき宗教がなかなか見向きもされない一方、人殺しの道具となるともうどこへ行ってもひっぱりだこで、人間というのは実に情けない生き物だ、などと嘆くのはあまりに大雑把な短絡思考というべきだろう。が、それにしてもいくら大航海時代とはいえ、16世紀初頭のヨーロッパで注目を集めはじめた新兵器が、ほんの半世紀の後には地球の反対側で一国の命運を左右するほどの働きをしているのを見ると、その拡散のスピードにはやはり印象深いものがある。
ところで、長篠の戦において信長は三段構えの鉄砲隊を編成して大きな戦果をあげたと言われている。この三段構えの鉄砲隊なるものの具体像について、何年か前にNHKテレビが新しい仮説の紹介をしていた。従来の説、と言うか誰もが簡単に思い浮かべるであろう三段構えとは次のようなシステムである。
それぞれ自分の鉄砲を持った兵士たちが三つの組に分けられて、第一の組は一斉射撃をするとすぐに後ろにさがる。そして、第二、第三の組が次々と順番に前に出て射撃をする間に、銃腔の掃除をして火薬と弾丸をつめ、次の射撃に備える。やがて準備がでたころに再び第一組の順番がまわってくるので、前に出て一斉射撃を行なう。と、これを繰り返していくわけである。
ところが、実際にこれをやろうとすると、狭い場所で大勢の人間が前に出たり、後ろに引いたりして、それだけでもかなりの混乱が予想されるうえに、場所の移動ばかりでなく、いちいち鉄砲を構えて態勢を整えてから狙いを定めて一斉に撃つというややこしい動作を各組が毎回繰り返すことを強いられるので効率が悪い。
新説によると、信長の編み出した三段構えというのはそうではなくて、三つの組にはそれぞれの持ち場と役割が決められていて、場所の移動はなかったのだ、というのである。
つまり、射撃をする組と、鉄砲の掃除をする組、そして弾込めをする組、という具合にそれぞれの仕事が決まっていて、射撃を行なう兵士は常に態勢を崩すことなく、撃ち終えた鉄砲を後ろの者に手渡して、代わりに弾込めの完了した鉄砲を受け取り、ただひたすら射撃を続けることができたのだ、というわけである。文献的な裏付けなどはなさそうだったが、確かに興味深い仮説である。
言うまでもなく、信長は鉄砲そのもののみならず、それを使った戦術についてもヨーロッパ人からさまざまな情報を得ていたはずで、従来の説のような普通の三段構え(あるいは四段構えでも同じことであるが)の鉄砲隊を用いたのだとすれば、南蛮渡来の新兵器をいち早く採用するという進取の気性や判断力は評価できるとしても、戦術自体に関してなんらかの独創性を発揮したとは言いがたい。それに対して、彼の三段構えが新説のようなシステムであったとなると、それは信長が考案したオリジナルな戦法であった可能性が高く、話はかなり変わってくるからである。
これに関しては、更に鉄砲がいったい誰のものだったのか、といった問題から信長軍の社会的な構成やら何やら、とにかくいろんな面白い話が出てきそうである。つまり、近代の国民国家の軍隊では武器から衣類、食料にいたるまで、全部が国家からの支給品で、個々の兵隊はなにひとつ用意する必要がない。旧陸軍の三八式歩兵銃には菊の紋章が付いていて、それが天皇のもの(ということは要するに国家のもの)であり、個々の兵隊のものではないことが明示されていた。
一方、中世やルネサンス期のヨーロッパでは武器は全部参加者の自前である。そうなると信長軍に関する新説のような戦法はとりにくい。よくは知らないが、信長軍の鉄砲は信長がみずからの資金で大量に調達したものだったらしいから、まさか個々の兵隊の私物だったわけではあるまい。このことからも新説は説得力を持ちそうである。