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研究報告
天野恵:騎士道と火器(10)[4/4]
それはともあれ、ヌムール公は臆病者と見られたくなかったのか、即時攻撃を選択した。先頭は彼自身を含む250騎の重装騎士団と400騎の軽騎兵。これに3.500名のスイス歩兵を中核とする歩兵部隊が続く。精鋭のスイス歩兵の側面を守る形でフランス人やイタリア人の歩兵が配置されて、総数7.000名ほどの密集隊形ができあがった。そのさらに後方には26門の大砲、そして二次攻撃のために400騎の重装騎士と700騎の軽騎兵が控えていた。
一方、スペイン軍の布陣は以下のようなものであったとされている。すなわち、まず左翼には、掘割の近くに陣取った500名の鉄砲隊に守られて300騎が配置され、中央にはこれまた500名の鉄砲隊を前面に立てて2.000名のランツィケネッキ、そして右翼には、4.000名という当時としては夥しい数の銃兵が、16門の大砲とともに小高い丘の上に陣取った。右翼にはさらにまた800騎の軽騎兵も配置されていたが、こちらは重装騎士といっしょになって騎士団の一部を構成するのではなく、完全に独立の部隊として行動するスペイン軍独特のものであった。この種の軽騎兵が、当時の西ヨーロッパでは時代遅れのものであったことは前回までの連載で述べた通りである。この他に、中央に布陣した2.000名のランツィケネッキの背後には、コンサルヴォとプロスペロ・コロンナを囲んで400騎からなる重装騎士団が控えていた…とものの本には書かれている。
ただし、すでにこの連載の中でも何かの機会に書いたような気がするが、合戦というのはたとえ歴史上有名なものであっても、実際にどのように進行したのかについてはよく分からない場合が多い。戦記物などを読んでいると、まるで上空から一部始終を見ていたかのような記述がなされているケースがあって、読む側としては分かりやすくて大変有り難い気分になったりするのだけれど、いざその根拠は?となると、はなはだ心もとないことが多い。結局イマジネーションで補って書いてたんだなァということがよく分かる。『丸』なんかを見ていても、大東亜戦争中の(こうゆう所で、「第二次世界大戦中の」と書かないと右翼みたいに思われるのかなァ…まッ、ともあれ)いついつの戦闘について初めて正確な戦果の推測が可能になった…みたいな記事が載っていることがあるが、まァ考えてみれば当然の話で、何世紀も前の合戦となると実際のところは正確な戦場の場所さえ確認できないことが少なくない。(...とか何とか言って、本当は自分の調査不足を正当化するための言い訳なんですけどネ。)
そんなわけで、チェリニョーラの場合も合戦のプロセスが細部に至るまで判明しているとは言い難いものの、大体のところは次のような具合に進行したらしい。フランス軍が敵陣に向かって進み始めると、まずは定石どおりにフランス側後方の大砲が一斉射撃を行なった。が、弾道が高すぎて、砲弾はみなスペイン軍の頭上を通過してしまう。スペイン軍砲兵隊も応射したが、こちらも同じ失敗に終わったようである。野戦において大砲を効果的に使うのがいかに困難であったかについては、この連載のはじめの方で述べたとおりなので、忘れてしまった方は恐縮ながらもう一度戻って一読されたい。
ところで、ちょっと脱線するが、この時代に火器無用論を唱えた有名人の一人にマキアヴェリがいる。そして、彼がそのような説を唱えるに当たって材料にした合戦のひとつは、いささか逆説めくが実はこのチェリニョーラの戦だったのではないかと小生は疑っている。彼が『戦術論』の中で火器無用論を唱えるに当たって描写している架空の合戦の中の砲撃の状況が、チェリニョーラのケースによく似ている上に、その状況を語っている人物が、他ならぬこの合戦の指揮官のひとりであったファブリツィオ・コロンナだからである。が、今回はひとまずこれまでとして、マキアヴェリの『戦術論』についてのおしゃべりは次回のお楽しみとさせていただきたい。
-つづく-
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