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国パルディの小部屋
「椅子に腰掛け、耳を傾けるだけでよい。」 クラウディオ・ジュンタ(日本語訳)
先日、イタリアの国民的シンガーソングライター、ルチョ・ダッラが急逝した。ダンテ研究者として知られ、本研究室とも関係の深いクラウディオ・ジュンタが、彼についての思い出を語った。
だがもはや、ペレックがこの本を書いた年齢、40歳を、私も迎えた。今になって、彼の言わんとしたことがよく分かる。不惑の人間の記憶の中で、ポップソングや映画の占める割合がいかに大きいか、よく分かる。20歳年下の連中が示す無関心もまた、よく分かる。それが、ポップ文化の素晴らしさでもあり、またその悲運でもある。そこにあるのが、ほんの少しの世代差であったとしても、ある人々には涙を流させる何かが、年下の人間にはほとんど理解さえできないものとなってしまうのである。昨日、学生たち(20歳〜22歳)に質問してみて分かったことであるが、彼らにとって、ダッラは“Futura”の人ではなく、“Caruso”の人であった。「ロバート・デニーロって、『ミート・ザ・ペアレンツ』に出ていたあの人ね」と言っているようなものだろう。私のポップの思い出を480挙げるとしたら、その中にルチョ・ダッラと関係する思い出が沢山出てくるはずだ。そしてそれは、みな素敵な思い出である。まず、曲についてではなく、彼の人柄について語るならば、彼の、自分の体型との共生の仕方が、好きだった。髪の植毛も、できただろう。何か詰め物をすれば、5センチ位身長を高く見せることもできたに違いない。ダンディーな身なりだって、できなかったはずはない。しかし、現実の彼は、身長の低い男、目も当てられないようなランニングシャツを着ていて、そこからは体毛がはみ出ている、さらには猿のような髭を生やしているといった風采で、要するに、あまり深く考えることなく、自らの醜さを平然と着こなしていたのである。そして、あのかつら。これは、愛嬌というよりは、舞台装置と呼んだ方が近いものだろう。公衆の面前でも、隠さないどころか、右へ左へ見せびらかしていたのだから。 ゾンビーが巣くう社会の中でそうやって生きていたのだから、彼の人格はよほど強いものだったのだろう。自らを語り上げる必要など、なかったに違いない。少なくとも他人には。
インタビューの時の、落ち着いた振る舞いと自らについてのアイロニカルな語り口も、好きだった。汚い言葉(parolacce)の使い方は、秀逸だった。子供の頃 "Disperato erotico stomp"を聴いたときに愉快な思いをしたことは、今でも覚えている(あんまりに子供だったので、曲の最後の部分で言っているように思えたことが、実は本当にその通り言っていたのにも拘わらず、そうだという確信をもつことができなかった)。“Ciao a te”の、どぎつくも天才的な歌い出しも覚えている。“Ciao a te / e a tuo figlio finocchio / ciao a te / e alla tua puzza di piedi”(やあ、君、そして君のゲイの息子。やあ、君、そして君の足の臭さ)。“Meri Luis”における、2つの時制の完璧な使い方も(※1)、覚えている。一つ目の時制は緊張感を演出し、レストランの前で映画監督がスター俳優を待つシーンを描いた。それに対し二つ目の時制は、安堵感を醸し出す。監督が「待ちくたびれてしまっていたから、スター俳優がきたとたん、罵声を浴びせかけた」(stanco di aspettare / appena ha visto la star l’ha mandata a cagare)というシーンであった。
芸術家の中には、失敗を犯さない者もいる。が、その多くは、いつも同じことをそつなくこなしているから間違えないのである。これに対してダッラは、常に多様性の中に身を投げ出すような芸術家だった。だからこそ、音楽にだけでなく、その他さまざまなことに夢中になったのであろう。誰でもいいから、一人のカンタウトーレのキャリアを考えてみてほしい。その人の、初期作品と中期作品と後期作品との間に、ダッラの、例えば、“Le parole incrociate”と“Attenti al lupo”の差、あるいは“Anidride solforosa”と“Caruso”の相違、こういったものを見出すのは至難の技だろう。
これだけヴァリエーションに富んでいたのだから、ある程度の失敗は免れえない。 ダッラには、最も輝いていた時期でさえ、虚飾気味になりえたし(例えば、“Il motore del 2000”)、衒学的にもなりえた(例えば、“La signora”。ただし、私にはなぜか、この曲の抑制の効かないアレゴリーが、不思議な感情を掻き立てたものだった、いや、今でも掻き立てるだろう)。そして、もちろん、感傷的にもなりえた。聴衆が、ダッラ同様に、いやダッラ以上に感傷的だったという事実を差し引いても、“Caruso”における甘ったるさとビブラートの効いた歌唱法とは鼻につくものである。
“Caruso”(1986)以降の20年の間、ダッラは、素晴らしい楽曲も、いくつか残した。例えば、“Tu non mi basti mai”や“Ciao”。両方とも1996年に発表されたものである(“Ciao”には、とても素敵なヴィデオ・クリップがある。ただし、これを見てしまったら、ダッラが世界で最もいい人だと思わずにはいられないのでご注意を)。他にも、1990年の“Apriti cuore”も素晴らしい。しかし、この時期が彼にとっての下り坂だったことは、やはり否定しがたい。結局すべてが、70年代から80年代にかけての10年間に自ら成し遂げたこととの比較を避けられなかったのだから、なおさら劣化の感は否めなかった。この10年間の作品との対決においては、引き分けに持ち込むことすら至難の技であった。神の恩恵を受けた奇跡の10年間、イタリアン・ポップス全体の歴史の中に置いてみても、ダッラの時代と呼ばれるにふさわしい10年間だったのである。 1977年に“Com’è profondo il mare”が、1979年“Lucio Dalla”と“Banana Republic”が、1980 年に“Dalla”が、そして、1981年に“Dalla (Q Disc)”が発売された。これらの作品には、それだけで幾多のカンタウト―リの生涯の全功績に匹敵するほどのクオリティーがある。
ダッラは、苦悩の芸術家を気取る事もしなかったし、自分の憂鬱を音符に乗せるようなこともしなかった。この世界の中で、心地よく暮らしているようであった。それにも拘らず、彼は、イタリアン・ポップスの歴史の中で最も感動的だといえるような詩句を残した。これらの詩句は、音楽として聴かなくても、歌詞を読むだけでも美しい。例えば、“Balla balla ballerino”には、次のような描写がある。「あなたのその両手で、電車を止めてくれ/パレルモ―フランクフルト間のその電車/私は感動しているのだ/窓際に一人の少年がいる/ガラス細工のような、その緑色の瞳/走っていってその電車を止めてくれ/その電車を逆方向に向かわせてくれ」(Ferma con quelle tue mani il treno / Palermo-Francoforte / per la mia commozione / c’è un ragazzo al finestrino / gli occhi verdi che sembrano di vetro / corri e ferma quel treno / fallo tornare indietro)。だが、私が好きだったのは、なにより彼が、他のいかなる芸術ジャンルにましてポップソングが得意とする表現形態を心得ていたから、つまり、ある種の高揚感なり人生への盲目的な信頼なりを伝達していたからである。“Anna e Marco”を聴いていると、どうしてもその愛おしさににやけてしまう (“Anna e Marco”の曲の展開はジャーニーの“Don’t Stop Believin’”のそれと同じだと誰かが言っていたが、こちらの方が二年遅れて発売された…ということは?)。
時を経ても、高揚感を伝えるその能力が衰えることはなかった。30歳から40歳の間に書き上げた楽曲に見られたようなひらめきこそ失われていたが、その代わりにアイロニーが身についていて、ヒューモアのセンスも増していた。これは、インタビューを見るとよく分かることだ。ダッラは、本当に楽しそうにしていた。眩いばかりの、その老けることを知らない生命力のせいで、死は、まったく彼にふさわしくないものであるように思われた。兵役に適さないとか、隊の命令の遂行に適さないといったときに使う「不適性」という意味で、そうであった。もちろん、自由な精神の持ち主であったダッラは、兵役や命令についても、「不適格」だったに違いないが。
確かウディ・アレンのものだったと思うが、次のような有名な文句がある。「死についてどう考えますか」「私は、それに反対である」。私は、死に対して、比較的ポジティヴである。人は、いつか、自らの身を退けて、他人に道を譲らなければならない。生まれしものはすべて、死すべき存在なのだ。いや、本当はそうではない。すべてのもの、ではない。すべての人間、ではない。天命などというものが本当に存在していて、それが理に適ったものであるのだとすれば、いくつかの例外だって作られているに違いないのだから。
2012年3月5日
※1:一つ目の時制は半過去、二つ目の時制は近過去である(訳者註)。(原文はhttp://www.claudiogiunta.it/2012/03/basta-sedersi-ad-ascoltare/#more-1243にて読める)
日本語訳 国パルディ
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