11 新しい社会契約と社会主義     マルクス主義批判から道徳的社会主義
       ―科学から道徳・理想への社会主義の発展―
   西洋文明に由来する価値体系の閉塞状況から新しい展望を切り開こう。
 「公共の領域に入るにあたって道徳的・宗教的信条を忘れることを民主的国民に求めるのは、
寛容と相互の尊重を確保するための一法に見えるかもしれない。だが、現実には、その逆が真実
となりうる。達成不能な中立性を装いつつ重要な公的問題を決めるのは、反動と反感をわざわざつ
くりだすようなものだ。本質的道徳問題に関与しない政冶をすれば、市民生活は貧弱になってしま
う。偏侠で不寛容な道徳主義を招くことにもなる。リベラル派が恐れて立ち入らないところに原理主
義者はずかずかと入り込んでくるからだ。」
                    (サンデル,M.『これからの「正義」の話をしよう』鬼澤忍訳p314)

 「利潤のためという動機は、資本家同士の競争と共に、資本の蓄積と使用に不安定をもたらし、
不況が深刻化することになる。制限のない競争は労働の巨大な浪費と、既に述べたような個々
人の社会的意識の麻痺をもたらしている。
 人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だと私は思う。われわれの全教育シス
テムは、この害を被っている。過度に競争的な態度が学生に叩き込まれ、学生はその将来のキ
ャリアの準備として、欲深い成功を崇拝するように訓練される。
 私は、このような深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会
主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。」(アインシュタイン『何故社会主義
か』「科学・社会・人間」94号2005) http://ad9.org/pegasus/historical/whysocialism.html 
           
 マルクス的社会主義は,唯物史観や剰余価値説などすでに批判したように,独断と偏見にもとづいており科学の名に値しない。「社会主義」自体は,人間の選択可能な一つの価値判断である。社会主義は科学的でなければならないが,価値判断である以上は,決して科学ではない。社会主義は一つの理想である。人類にとって実現されるべき理想である。それは人類共通の価値である人権(human rights―人間の正義)と社会的公正の思想から必然的に帰結する理想である。
 しかし近代における人権は,個人(とりわけブルジョア)の利己心から生じ,平等は形式的なものにすぎなかった。資本主義は,自由競争と労働者を犠牲にした飽くなき利潤の追求によって発展した。そこに多くの社会問題や西洋の世界支配が引き起こされ,経済的不平等は拡大した。これは形を変えて現在も続いている。そして社会問題を解決するために,労働者を主体にして経済的平等と人間の解放を求める社会主義運動が起こされた。

 今や有限な地球にあって市場の行き過ぎを統制するための理念は,弱肉強食の競争原理ではありえない。人類的な課題を解決するために,諸個人の人間的自覚と社会的連帯が求められている。社会主義は,種々のイデオロギーをもつが,これらの課題を人類の社会的連帯によって解決するために,将来においても有効性をもっている。
 社会主義は,「科学的法則」として独善的に決定されるのでなく,多くの人々の英知を集めた人類共存のための「実現すべき理想」とされなければならない。社会主義とは,社会正義を実現する運動であり,人間性に根ざす道徳的社会の実現を目ざす運動であるそしてこの事業は,理想を理想として自覚すること,すなわち西洋的な理想(思想)が,人間の認識や価値判断の結果であるにもかかわらず,あたかも神から与えられた絶対的真理であるかのような思考様式を克服することから出発しなければならないのである。

 新しい社会契約は、西洋近代の合理主義的思想が生み出したような、人間に先天的に備わり、(神ないし天によって)与えられたものとして、既定のものとしての人権(human rights)や、カントの考えるような道徳的法則に基づく社会契約、または歴史の必然から革命的に訪れる理想社会なのではなく、人間の社会的自覚に基づく社会契約となるだろう。また多数決によって定められる法(契約)は、人間の主体的自覚と参加によって成立するものでなければならない。意見の違いや利害の対立は、「公正と社会正義」を基準として公開の議論によって調整されねばならない。しかし意見の違いや利害の対立は不可避であり、全員合意の約束ばかりではない。ロールズは、この場合の「正義」を、格差原理──最も恵まれた条件が許されるのは、最も恵まれない人の利益にならねばならない──に求めた。 相互不信、相互の無理解が不必要な摩擦と不信を生む。独断と独裁は最も避けなければならない。人間の知識や判断能力には限界があるからである。功利主義と福祉国家の理念には主体的参加の哲学が欠如している。その名称にこだわる必要はないが、社会主義は社会的自覚(責任)と参加、そして社会的公正と正義を哲学としてもつがゆえに、未来においても存在意義をもつのである。
  <まとめ :新社会契約論と道徳的社会主義
  <参照:
道徳的社会主義 > <参照:社会発展.pdf へのリンク>
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■新社会契約と正義の実現――「生命言語説」の立場から

 人間は生存のための様々な欲求をもち、不快(感情)を避け快楽(感情)を追求する。生存のために快楽(幸福)を追求し欲求を実現することは、人間にとってのである。功利主義哲学者ベンサムも同じように考えたが、快楽原理の生物学的根拠にまでは考察は及ばなかった。しかし我々の「生命言語理論」における善とは、個人的な快楽の追求と欲求の実現だけではなく、個体と種(社会)の維持・存続を図ることが、欲求充足と快楽・幸福実現の基本原理であると考える。
 従って、人間にとっての正義とは、個人主義的欲求と快楽追求の偏狭さを克服し、社会的自覚と責任を実践することも欲求と快楽の実現であると考える。なぜなら、人間は言語的・知的・思想的に、自己のみでなく家族、隣人、同胞、人類、そして地球上の全生命の存在意義を、感情的・自然的にも理性的・抑制的にも感情移入的に理解できるからである。
 正義の判断は、人間においては弱者への憐れみや子どもの養育、友情や連帯のような社会的(種族維持)欲求と生得的感情の起源をもつが、高等動物でも生存競争(力関係)の中に、種(仲間)の生存を維持しようとする自然的バランス感覚を認めることができる(なお男女の愛は、社会性をもつが利己的欲求・感情である)。生理的欲求や感情は、政治的利害対立の調整、法律の制定や契約の成立において、常識や良識、良心や理性の判断として公正や正義の確定に影響を与える。正義の判断は、単なる利害得失の計算や多数決によって決まるのではなく、それらの数量を規定する個々人の欲求や感情にもとづく判断根拠(価値観・思想等の正義性)自体が正義か否かを問われるのである。
 地上に共に生きる生命や同胞に愛情や優しさを共感し連帯できるのは、自己の欲求に満足し彼らに敵意を感じていないからである。逆に、生命や同胞を欺いたり憎しみあい、傷つけ殺し合うのは、彼らを自己の欲求充足の手段として快楽を得ようとするか、彼らの敵意に対して恐怖や怒りを感じるからである。人間は人間に対して悪意や敵意を持たなければ、意図的に傷つけ殺し合うことはあり得ないだろう(交換関係の正義性)。
 所有を巡って反目し、異性を巡って争いがあるとしても、所有は分かち合い、異性は相互の合意を優先すれば敵意に発展することはない。不安や怒りや恐れなどの否定的感情は、自己の安全を守り行動を動機づける反応であるが、その原因を正しく認識し理性的解決策を探れば、争いの事態はやがて収拾できるものである。正義の実現は、紛争当事者の欲求と感情を抑制することのできるバランス感覚の中に潜んでいる。
「私たちの感情は、何が善いか、さらには何が正しいかについての政治的な擁護と同様にその実践的な理解にも絡んでいるように思われる。私はこの単純な命題を理論的な心理学のようなものに訴えることなく支持する議論を行っていきたい。その肝心な点は、感情についての共通感覚にもとづく見方に訴えるだけでも例証することができよう。」(ウォルツァー, M. 『政治と情念 : より平等なリベラリズムへ 』邦訳p208)

 

  正義論の再生と創造  (制作中)
──新しい社会契約のために──

「正義は、社会の全殿堂を支える大黒柱である。もしも正義が取り除かれたならば、人間社会という巨大な構造物──かような構造物を建築し維持することが、この世の中では、いわば自然の特別の愛情のこもった配慮であるように考えられる──は、瞬時にしてバラバラに土崩瓦解しなければならない。それゆえに、正義に対する注意力を強化するために、自然は人の心の中に、正義を犯した場合に感ずる悪いことをしたという意識、相当の懲罰に対する恐怖心を植え付けて、弱者を保護し、乱暴者を抑制し、犯罪者を膺懲するための、人類の結社における偉大なる防塞としている。」
                                                    アダム・スミス『道徳情操論』米林訳
◎政治哲学の前提
  ──政治の活動とはどのようなものか。社会正義の根源はなにか。──
@ 人間は、生存欲求(個体と種族の維持) を充足させるために、多様な自然的・社会的環境の中で、緊張や葛藤を伴いながら生存する。
A 諸個人は、生来、社会的に自由・平等(公正) への欲求をもつが、多様で複雑な日常生活の中では、不自由・不平等な制約のある社会的条件(利害)の下で共生的に生存活動をしている。
B人間の社会的経済的不自由・不平等(利害対立)は、一定の限界を超えると社会的・政治的な緊張や対立(の顕在化)を引き起こす。対立の激化は、無秩序や戦争状態や革命等を経過して、集団や国家の権力による政治的抑圧・調整を図るさまざまな政治制度を構築してきた。
C政治とは、Bのような対立や緊張を、国家(個人・集団)の権力によって一方的に抑圧するか、民主的合意(契約)にもとづいた権力によって利害を調整する働きである。発達した経済社会(資本主義社会)では、税・財政による計画的な政治的調整によって、多数の構成員に人間らしい生活を保障しようとする。
D 政治における社会正義(格差や緊張の是正)の要請は、人間の生物的心理的判断の基準の一つとなる「安心と公平の感情」である。社会的不正義(不公正や不平等・格差)は、不正を受ける本人だけでなく良識を持つ構成員にも不安と不満の感情をもたらし、社会的緊張を高める。
E 社会正義の基準となる「安心と公平の感情」は、非合理的な欲求や感情に起源をもつため西洋的合理主義で解明することはできない。なぜなら、どのような状況に安心し公平を感じるかを左右する欲求や感情は、諸個人の多様な気質や教育的社会的環境の影響を受け、根本的に主観的なものであり、ロゴスではなくパトスに起源をもつからである。
F政治哲学の根源は、社会的利害における正邪・善悪の判断の基準を感情的なもの(パトス、欲求・人情・具体的関係性)に求めるか、理性的なもの(ロゴス、 功利的または合理的なもの)に求めるかで異なってくる。西洋的理性(合理主義)の判断は、感情(欲求) と個性と人間関係を合理化することによって、感情的なものを捨象する危険性がある。政治の民主的な原理は、ロールズの考えるような合理的な「原初状態」を「道理に適ったもの」とすることから始めるのではなく、どのような条件を「道理に適ったもの」と考えるかという議論から始めなければならない。
G 以上の観点から、文明社会の「格差の原因」を、自然的社会的不平等を根源とし、権力による支配・被支配関係による政治的分配関係に始まり、資本主義的商品交換社会における不等価な交換関係によって定着したものと考える。今日の福祉国家では、民主主義的に格差是正が行われているが、自由競争に基づく独占的な価格や低賃金などの一方的で不等価な交換関係(独占的商品と労働力商品)は、世界的な規模での格差を生み出している
H 今日の市場経済は国家によって法的に管理されている。自由な経済活動に対するどのような法的ルール(政治)が正義に適うのか。政治は、国家による再分配によって正義・公正を実現する(分配的正義)だけでなく、交換過程における公正と正義のルール(格差是正・交換的正義)を実現しなければならない。しかし、国家的法的ルールは、交換過程や政治的利害の調整において、社会的自覚による道徳を介在させずに社会正義を実現することはできない。

 

◎民主政治の理念
@ 民主政治は、基本的人権の尊重と多数決原理を基盤に発展してきた。
 しかし、多数派の獲得は大衆迎合の衆愚政治か、宣伝上手な指導者による独裁政治を招来する。民主政治が円滑に機能するためには、主権者たる人民が民主政治の本質を正しく理解し積極的に参加しなければ、基本的人権も不安定なものとなる。
 また基本的人権としての自由・平等・幸福追求は、相互に矛盾をはらむ概念であり、社会の構成員すべてが同時にかつ持続的に実現するのは極めて困難である。つまり、自由の重視は競争による不平等をもたらし、平等の強調は自由の制限によって社会の活力を損なうことになる。また安直で刹那的な幸福追求によって、物質的な欲望におぼれて精神的な価値を損ない、人間の将来の生存や基本的人権を危うくしたり、他人の不幸や失敗に幸福や安心を感じる場合もおこる。
 人間社会は、不自由・不平等・不幸な状態を避けることが困難であるがために、政治の力によって法を制定しルールを設けて、諸個人や集団の利害を調整し、市民生活の中で起こる諸問題を解決して、構成員すべての基本的人権を確立しようとする。
A 望ましい民主政治は、人間社会の不要な緊張を和らげ、すべての人が物質的・精神的幸福を持続的に享受できる条件を調整・確立する営為である。
B 基本的人権としての自由・平等・幸福追求の権利は、国家(憲法)や社会によって生来的に保障されているものではなく、不断の努力によって維持され創造されるものである。
B 民主政治が腐敗せず健全に行われるためには、構成員の道徳的資質が要請され、社会的自覚・参加・連帯・協働・教育等によって不断の確認と資質の育成が必要とされる。
C 民主政治における多数決原理は、基本的人権が保障され、全構成員の「安心と公正の確保」を基準とする場合のみ将来的にも有効に機能しうる。
D 民主政治における権力行使の立案・執行・判定者は、道徳的資質の模範的体現者でなければならない。権力行使者の腐敗は、民主政治腐敗の根源となる。

◎ロールズ「原初状態」「正義論」批判
@ 人間は、言語によって自己の社会的状態(立場・行動)を合理化する動物であり、合理的な自律的存在と仮定(前提)することはできない。また、人間は本性上、主観的・利己的・感情的・非合理的に判断・行動する傾向を持ち、その傾向を合理化し正当化する存在である。
A 人間の「原初(自然)状態」は、個人の体力・知力・感情(意志)と、その個人のおかれた自然的・社会的環境条件において、多様で不平等である。また、寿命・能力・健康・環境(恩恵・災害)などを個人が自由に選択できる可能性は制限されており、その意味で運・不運に左右される不自由な存在である。
B 原初状態を含む人間社会の一部の当事者(指導者) は、「自己の善=価値観」(イデオロギー)を正当化し、他の当事者(多数の民衆)に強制または同意を求めようとする傾向がある。例えば、神による自己の善の正当化、進化論(優勝劣敗)による正当化、競争(市場)原理による正当化、民族・自由・福祉・社会主義等々による正当化である。
C 原初状態は、事実において不公正・不自由・不平等であるが、望ましい社会状態(民主政治)ではそこから生じる緊張を拡大せず、基本的人権をより定着拡大するために、常に新しく契約が確認されなければならない。自由と平等の権利間の対立は、当事者すべての幸福(善)をめざすことによってのみ解決される。
D ロールズは、無知のベールによって「原初状態」では完全な平等状態を仮想するが、自由や平等が前提とされて、社会(国家)状態が成立するのではなく、原初状態における不自由不平等による格差の拡大(文明の発展)が社会状態を形成してきた。自由平等の価値(正義)は、合意されるべきものであって、想定されたものとして与えられるものではない。
E ロールズの誤りは、西洋的(カント的)世界観を前提として説明できる。つまり、格差とその是正の結果のみによって正義を確立しようとする。しかし、重要なのは格差の原因と過程(不等価交換)の反正義性を見抜くこと(経済的交換的正義)である。社会正義の確立のためには、格差の生じた結果だけを是正する(政治的配分的正義)のではなく、その原因や過程とそれをつくりだす人間自身をも改善しなければならない(社会道徳的正義)。
F 新しい社会契約の原則は、基本的人権が神または自然や理性によって与えられるものではなく、また自由競争市場による社会経済の効率化に任せるのでもなく、地球環境と経済成長の限界をふまえて、平和と幸福をすべての人間が享受できる地球社会の実現をめざし、社会的関係をできる限り理性的で公正・公平なものとするため、利害関係を透明にし社会道徳的自覚と参加を伴う自己更新的(創造的)社会契約でなければならない。>
 
◎新自由主義を越えて  ハイエクの「社会的自覚なき自由」の批判
──「幻想でない社会正義」をどのように構築するか──
「『社会的正義』という福音は、はるかに下劣な心情を目ざしている場合が一層多い。そうした心情は、ジョン・スチュアート・ミルが『すべての熱情の中で最も邪悪で反社会的なもの』とよんだ自分より暮らし向きの良い人々に対する憎悪または単なる羨望であり、他者が基本的ニーズすら満たされていない一方で、ある人々が富を享受していることを『スキャンダル』として表明する大きな富に対する敵意であり、正義を処理すべき何ものをももっていないものを正義の名の下に偽装することである。少なくとも、より多くのものを受けるに値するある人々がその富の享受にあずかることを期待するからではなく、富者の存在を人の道に外れたものとみなすが故に、富者を略奪することを願う人は、全て、彼らの要求にいかなる道徳的正当性をも求めることができないばかりか、全く不合理な熱情にひたっているのであり、事実、彼らが強欲な本能に訴えかける当の人々を害しているのである。」(ハイエク『法と立法と自由U 社会正義の幻想』篠塚 訳 春秋社 p138 強調は引用者)
★→この引用文において、ハイエクがマルクスなどの社会主義者に対し、どれほど強い敵意を抱いていたかがわかる。しかし、貧富の格差是正を求める社会的正義は、ギリシアの昔以来、ソクラテス・プラトンの素朴な見解や、経験主義的手法を用いて中庸を求めたアリストテレスの「倫理学」や「政治学」において十分に理性的に公正に吟味されてきた。ハイエクの言うような、富者に対する「下劣な心情」は虐げられた一部の人々や権力者の心情であって、ミルですら社会主義には好意的な姿勢を示している。
 人間理性に対する懐疑や不信は、未来への希望を喪失させる。人間の人間たるゆえんは、人間理性を信頼し人間理性の限界性を認識しつつ(そのためには言語理解と西洋的思考様式の限界性の認識を前提とするが)、過去と現在の科学的分析に基づいて、望ましい未来を構築することである。ハイエクがその努力を怠り(または放棄し)、市場原理主義に依存してしまったことは知的敗北といわざるを得ない。 たしかに科学的社会主義と自称した人々に、科学と知識に対する理解と謙虚さがなく、決定論と下劣な熱情を鼓舞して多くの犠牲を出したことはたしかである。しかし人間の社会的自覚や利他心、福祉や公共の精神までも排除する自由競争万能の市場主義は、地球環境の保全という人類的課題を解決するためには極めて不都合な理論である。人類の持続的生存のためには、利己的営利追求を万能と考えるようなビジネスモデルを克服する(利己心という人間本性は克服できないが)新しい社会経済政治的モデルが必要とされているのである。
偉大な社会とその市場秩序に対しては、それが諸目的についての合意された順位を欠いているという非難がしばしば浴びせられる。しかしながら、これこそが、実際には、個人の自由やこの社会が尊重するもの全てを可能にする大きな長所なのである。偉大な社会は、めいめいが追求する特定の狙いについての合意なしに、ともに平和裏に相互に便益を与えあって生活することができるという発見を通じて、生じたのである。責務として負わされる具体的な目的を、抽象的な行動ルールに置き換えることによって、同じ目的を追求する小集団を越えて平和的秩序を拡張できることが発見されたのである。なぜならば、そこでは、誰であるかを知る必要さえなく、またその人の狙いが自分と全くちがっていても一向に差し支えない他者の腕と知識とから、各人は利得を得ることができるからである。」(ハイエク『法と立法と自由U 第2部社会正義の幻想』篠塚慎吾 訳 春秋社1987 p151-152 下線は引用者による)
★ →この引用文で「偉大な社会」とは、ハイエクの言う新自由主義の市場秩序が貫徹する社会である。「諸目的についての合意された順位」とは、国家や社会が目的とする人権や平和、政治経済体制や社会・文化などについてのあるべき理念・理想の順位であり、偉大な社会ではそのような設計主義的目標を必要としなくても、平和的に便益を与え合って生活ができることを示そうとしている。
 ハイエクは、自由な諸個人が自生的に作り出す社会秩序(自由社会)に理想的な目標や理念(自立する自由な諸個人によって形成される市場社会)を求め、国家主義や社会主義のような具体的「設計主義的」な社会制度の構想を拒否する。しかし、自由放任的競争が、強者による国家システムの支配・利用や社会的軋轢・混乱、または社会的格差や不平等の原因となっていることは歴史的事実である。ハイエクは、自由の大切さという一面的真実を語っているが、正義を欠いた自由の否定的ないし破滅的側面を語っていない。
 すなわち、ハイエクは、全体主義的な強制や干渉への嫌悪感をもち、自由放任のもたらす矛盾や不平等、道徳的退廃や社会的混乱等にあまり目を向けない。新古典派にもみられる市場性善説は、経済と政治の密接な関係(経済的利害の対立は必然的に政治的過程をとる)を認識することができなかったことは、歴史をみれば明らかである。欧米資本主義の原始的蓄積時代、国内では奴隷的労働を容認し、対外的には帝国主義や植民地主義による多くの社会的不正義を、先進資本主義の経済成長のための一時的現象であったと過小評価するべきではない。市場は平和的交換をもたらすが、また多くの不等価・不正義な交換や略奪・戦争等をもたらしたのである。彼にとっての「偉大な社会」「自由で開放的な社会」とは、社会的不正義があってもそれを見ようとしない経済的立場の人々による政治的社会であるにすぎない。
 たしかに、諸個人(諸集団も含む)の「腕と知識」は、自由競争によってこそその能力が最大限に発揮されるのは事実である。しかし競争は、順位を高めることに意味があり、経済合理性からみると敗者への配慮は、経済的付加を増し成長の障害になるとする意見もある。また成長の果実は独占される傾向が強い。経済的利害の対立は、各種の圧力団体を作り、それが民主主義政治に反映され、法的な規制や補助金などのばらまき政策が行われる。ハイエクはこの不可避の民主政治の過程を嘆く。「社会主義というのは、それを徐々に弱めていくことが偉大な社会に近づくことになる、部族倫理の再主張にすぎない。社会主義と国家主義の密接不可分な諸力の下に古典的自由主義が没してしまうことは、こうした部族心情復活の結果である。」(同上 p185)過去の社会主義や国家主義が、偏狭な個別的利害の追求であり、人間的普遍性をもたないことは明らかである。しかし、矮小化された市場至上主義による成長が、全ての問題解決の必要十分条件であると夢見るハイエクの「偉大な社会の幻想」は、自由放任する以外の知恵と知識を持たないことであり、社会正義を幻想とみなすことは、自由競争の勝者にのみに依存しようとする貴族主義者の見解にすぎない。成長の限界が明らかであり、地球温暖化の現象という人類の未来にとっての危機が明白になっている今日、ハイエクの理論は全体主義の悲惨さに対する時代錯誤的逃避の理論にほかならない。
 我々の新しい社会契約は、ハイエクなら新しい設計主義と批判するかも知れないが、少なくとも弁証法的発展的な独断的方法はとらない。つまり自然状態と社会状態、自由と平等、富者と貧者、苦痛と快楽、感性と理性などの対立的概念の止揚や発展を目標にはしない。これらの対立概念は人間存在の真実の一面ではあるが、真実を認識しその一面性や問題点を吟味することから社会正義を見いだしていこうとする。対立概念は人間の認識の結果としての定在であるが、社会正義は定在するものではなく創造するものである。従って、新しい社会契約は、そのような人間存在の理解(言語論的理解)すなわち、対立物の存在を肯定し否定的見解を容認しつつ社会正義を創造し実現しようとするものである。 
 また偏狭な民族的共同体主義という原始的本能に依存することはしない。たしかに、家族や民族、地域共同体の連帯や固有の文化(宗教や伝統的生活様式)の共有は、人類の歴史とともに連綿と続く情念に支えられており、諸個人の安心や社会の安定に寄与している。しかしまた、過去の文化や伝統は歴史の展開の中で変化し創造されてきたものでもある。地球の生命や人類の平和的生存の危機に直面している今日こそ、地球的人類的な共生と持続の新しい文化や伝統が創造され、またそのための新たな契約が「構成(設計)」されねばならないのではないだろうか。
「もし社会正義という幻想が遅かれ早かれ失望に終わるに違いないとすれば、設計主義的な道徳における最も破壊的な要素は平等主義である。それは完全に破壊的である。なぜなら、それは単に、個人の努力の方向に関する選択の機会を単独に個人に与えることができる信号を、個人から奪ってしまうだけでなく、自由人があらゆる道徳ルールを遵守する気になれる唯一の誘因、すなわち仲間から受ける差別的な尊敬、をも排除してしまうからである。・・・・・平等主義的な分配は、人々が一般的活動のパターンに自らをどう適合させていくべきか、という個人の決定のためのあらゆる基礎を必然的に取り払い、あらゆる秩序の基礎として完全な命令だけを残すであろう。」(ハイエク『法と立法と自由U 第3部自由人の政治的秩序』渡部茂 訳 春秋社 1998 p171下線は引用者)
★→noblesse oblige
 
<補遺:所有と格差の根源は何か、地球的正義とは何か>
──自然的不平等(格差)と人為的不平等(格差)をどのように調整するか──
T.所有と格差の歴史的起源と展開(経済と政治)

@ 原始社会の所有と格差
      →生産力の発展と余剰生産物の蓄積
      →物々交換・略奪・戦争の発生→所有権の成立
A 文明社会の所有と格差と階級支配
      →対外戦争・収奪・奴隷制と貨幣経済(商業)の社会政治体制・国家の成立
      →封建国家の閉鎖的土地人民支配→商業の復興と産業資本の成立
B 近代西洋による世界支配と分割(帝国主義)
      →植民地支配と産業革命→対外的収奪と労働者支配(原始的蓄積
      →科学技術の発展と生活水準の向上、民主主義と福祉国家政策の進展
C 地球市民社会の展望
      →地球的(グローバル)正義の実現→格差是正の基準と方法の確立
      →成長の限界→世界政府(新しい社会契約)による持続的正義の実現
      →地球環境破壊→温暖化・環境破壊に対する国際協力と連帯
 
U.所有と格差の心理的起源と諸意識形態(倫理)
@ 動物的起源
・個体維持と種族維持→種族内の優位競争(利己性)と相互依存(協働・共生)
・環境と個体の多様性→個体の多様性・差異と不平等な生存様式(適応)
A 人間的起源 ─ 言語の獲得と所有
・言語的所有の観念→「私のもの」という持続的観念、生産物の貯蔵
・言語的創造力と操作・制御→道具の製作・使用→余剰生産物の交換・争奪
・言語的構想力による自然支配・制御と欲望の肥大化
       →衣食住の個性の固定化→排他的・利己的な所有と格差の社会制度
       →自然と社会の安定的秩序の維持(呪術的宗教的秩序)と所有権の成立
B 所有と格差(貧富の差)の安定化・固定化
・集団内の複雑な利害関係と利己的優位性の維持
       →呪術的宗教的儀式の主宰と権力強化 (精神的物質的支配)
・所有と他者支配(優越性)の心理的起源
       →集団内の利害関係に対する不安・不信・蔑視・劣等感など
       →所有と格差の持続による差別(身分)と優越性の確立
・抑圧的社会制度の正当化・合法化・合理化
       →呪術・絶対者(神)の権威、集団的差別、封建道徳、自由競争等
C 近代資本主義社会における所有権と格差
・資本主義の持続性の要因
       →人間の欲望(豊かさへの欲求)や貧困への不安、排他的競争心(優劣感情)
       の刺激(勝ちたい!) 、宗教的情熱(プロテスタント等)
・貨幣(資本)の増大を目的とする生産力(科学技術等) の発展
       →牧歌的人間関係と環境の破壊→格差(貧富)の拡大(『共産党宣言』)
D 資本主義市場経済と道徳(社会正義)
・資本主義(生産力の発展)の肯定的心理性(光・積極面)
       →自由で創造的な活力ある社会、便利で豊かな生活、
        封建道徳・非科学的宗教(迷信)等の衰退、選択肢の増大と個性伸長(自由)
・資本主義(利潤・貨幣追求)の否定的心理(陰・消極面)
       →拝金主義、弱肉強食、利己主義的人間蔑視、不公正な競争と交換、
        社会格差・独占の固定化(→新しい差別)、道徳・社会正義の衰退
   欲望競争の肥大化・刹那享楽主義とそれらに伴う心理的緊張と不安の増大
   
(補足1)資本主義の非道徳性の根源
 貨幣は、商品交換と人間の心を自由にするが、それは人間的な無限の欲望と想像力に支配されることであり、また人間を不断の欲求不満と競争状態におくことでもある。資本主義社会の発展や活力は、自由競争に基づく勝者の優越感と敗者の劣等感すなわち社会的格差を原動力としており、貨幣の所有と営利追求によって社会的優劣(格差)をつける社会は基本的に利己的非道徳的な社会である。
(補足2 )資本主義の変質と限界
 古典的 ( 新自由主義的) 資本主義 (市場万能主義) は、強者の持続的支配とそのための権威主義的・伝統的・国家主義的道徳倫理を望む。それに対し、福祉的(修正主義的)資本主義は、市場への国家の関与・規制(高負担高福祉) によって弱者救済・万民平等・協働共生の福祉国家実現を図ろうとする。両者はともに経済発展と生産性の向をめざし、国家とマスメディアの情報操作による依存的性向(心理) と物質的享楽 によって社会の安定を維持しようとする。いずれにせよ今日の資本主義は、地球的な成長の限界と環境破壊に対応できない。
 また現代大衆社会の意識形態は、営利主義的マスメディアや事大主義的行政による情報操作に依存する傾向が強く、大衆は社会(政治)参加や社会的責任・正義の意識が弱められ、現状への欲求不満(ストレス ) と未来社会の閉塞感を醸成している。資本主義に基づく大衆社会は、旧来の宗教や道徳が、価値多元社会の名の下に相対化され、金銭と社会的地位と享楽的情報のみが大衆の心の拠り所となり、人間の善性を損なわせる社会である。地球の生命環境と人類の持続的福祉のために、人類的な共通認識の確立と社会的自覚が求められている。
 
V.新社会契約による市場倫理と社会的正義の確立 (作成中・意見募集)
  <新社会契約の条件>
@ 旧い社会契約との違い
・宗教的社会契約の約束する死後の「天国」や「浄土」は、地上の生存における福祉と幸福を排除する。しかし、新しい契約は地上の福祉と幸福の実現を目的とする。
・西洋近代の社会契約(ホッブズからロールズにいたる)の前提にある人間観は、自由で合理的人格(理性的人間)であるが、地上に生きる人間は利己的欲求と自然的社会的制約の葛藤の中で生存している。新しい社会契約は、諸個人の無限の多様性と価値の有限性を認めつつ、共通の価値を創造・醸成し、共生と協働による万民の福祉と幸福をめざす。
A 社会契約における多様性と不平等
 人間の不平等や格差は自然の多様性の結果であり避けることはできない。しかし、格差を最小にしてすべての構成員の幸福を維持できる社会の合意・了解を得ること(契約の締結)は可能である。その場合、私的・社会的契約における諸個人間の合意・了解そのものは必ずしも正義・公正ではなく、契約のプロセスや条件の透明性・実証性を契約における評価の前提とすることが必要である。
B 成長の限界と市場の理性的制御
 現代の欲望肥大(効用・利潤最大化)社会に生きる我々は、過去の経験からだけでなく、地球環境における未来の成長限界性から、現在の行動を考える必要がある。人間の欲望や社会関係(市場を含む)における対立や困難は、人間の理性(または正しい知識)によって制御することができる。従来の制御は、財政金融政策や社会(福祉)的保護・規制を中心としたが、将来においてはメディアを含む市場道徳と諸個人の社会的政治的自覚・自律を必要とする。
C 資本主義市場における交換的正義
 資本主義市場における社会正義(交換的正義)の原則は、交換当事者の相互利益である。資本主義市場は、交換における「個人的利益と社会的格差」の限度を定める政治的契約(合意・法・ルール)を前提としてのみ安定的に成立し持続する。社会的格差(貧富の差)は、個人の運や偶然や不正によって生ずるのではなく、交換的正義と公正な協働・競争を前提として社会福祉に寄与する場合に容認される。
D 新社会契約における国家の役割と市場
 交換的正義(市場的正義)の推進を前提とした配分的正義(福祉政策)による調整
 配分的正義と福祉国家の役割の自覚、基本的人権と公共の福祉の再編成→自由契約と自己責任と社会的連帯の鼎立、
E 新社会契約における契約主体と政治参加
 契約主体の形成→自立教育(市民個人主義教育)から自律と連帯の教育(人間社会主義教育)へ
F 地球環境破壊と危機意識の世界的共有・人類的自覚
(目次を参照)
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★掲示板からつづく
@社会主義といえば私有財産の否定とか、社会的所有ということになるのが本来だと思いますがどうなのでしょう
 道徳的社会主義は、正当な私的財産を保全し、自由な自己実現を妨げませんが、同時に不正な財産を制限し、社会的自覚と公正・正義による社会的富(財産)の活用、すなわち生産・交換(分配)・消費の調整を民主的に行います。
 われわれにとって社会主義は、「社会的自覚」を前提とします。これに対して、通常の社会主義は、生産力の発展によって起こる社会矛盾(階級対立)の解決(生活の向上や人権の拡大等)をめざす労働者の要求運動から、社会的連帯と自覚が必然的に成長し、私有制を維持しようとする支配階級を倒すことによって、民主主義と社会的所有の協同社会として成立する、と考えられています。
 とくにマルクスは、国家を政治支配の道具と考えるので、階級対立がなくなると国家も消滅するとしています。しかし、我々にとって社会的利害の対立は、階級対立だけに限らないと考えるので、利害の調整を行う政治権力(国家等)は、社会主義になっても(共産主義?であっても)消滅しないと考えます。つまり、ある程度の生産力の発展は、社会主義の必要条件であっても、政治権力を維持する主体の「社会(政治)的自覚」も同時に追求しなければ、独裁をもたらす危険があり、また永続化しないということです。
 従って単純に、人間は社会的環境が変われば社会的意識も変わり、社会主義的共同体が成立する、とは考えません。マルクス主義の主張する科学的社会主義は、国家ないし社会制度を法的強制的に変革し、私有財産制度を否定すれば、階級闘争による過度的混乱はあっても、徐々に(または急速に)社会主義から共産主義に転化していく、これは歴史的必然である、というものでした。(『共産党宣言』必読・後掲)
 しかし私有を求める利己的な人間の意識は、教育的に徐々に消滅していく、というものではありません。人間は社会的本性とともに利己的本性を持ち、社会の中で自己の安全な生存が確信できない限り、私有財産によって安全を保持しようとします。ならば、安全が保持されたら私有財産は追求しないかというと、人間の多くの幼児や動物の行動を見ればわかるように、他者よりもより多くのものを競って獲得しようとします。動物ならばその場の力関係で優劣が決まりますが、人間は「言葉の記憶」によって所有の観念(「私のもの」)が持続しますから、私有財産によって優位性を将来までも持続しようとします。
 人類社会も、生物学的には共生と闘争の社会ですから、基本的に不安定で危険な性格を持っています。そのため、一部の強者・支配者は、自己の生存と権力を顕示するために「平和のために」というのは付随的なもの、宗教や学問等を利用して、私有財産を基本にした社会(政治・経済)秩序を維持しようとしてきました。そこに現れる対立と闘争は、マルクスの考えたような「階級闘争」だけでなく、権力者間、集団間、民族間の闘争や戦争、そして市場における商品交換の取引等を通じて日常的に行われてきました。
 とくに資本主義市場においては、資本家・経営者は、商品化された人間労働力を活用し、「商品を安く買い、安く作らせ、高く売る」ことによって利潤の増大を追求します。利潤の蓄積と新たな投資を通じて私有(法人)財産を拡大再生産し、競争に敗北しないこと、さらに独占的利益を得ることが、自己の生存(存在)を安全にします。ここでは私有財産は土地や貨幣のみでなく、知識や文化、教育や能力、自然や資源も私有財産になります。
 さて私有財産制度が人間の利己的本性に由来するものなら、その廃止を基礎にしている社会主義は、利己心を消滅させなければ成立しないではないか、と思われるかもしれません。しかしそうではありません。人間の安全・危険も優・劣も利己心も、自己の現状をどのように認識し意味づけるか、つまりどのような知識や理論・哲学をもつかによって見方が変わってきます。また私有という観念自体は、対立抗争などの争いの持続によって不安定になった社会(階級社会)の産物です。私有財産については、個人の努力や所属集団の経営能力によって獲得するものもあれば、強奪・詐取によるもの、幸運・相続によるものとさまざまです。しかし、個人の努力によって正当に獲得された私有財産は、その個人の存在と人生そのものであり、個人の人生を不当に奪うことは道徳的に許されないでしょう。
 問題は、獲得された財産が、A)労働者の酷使や反社会的独占のように不正な交換(契約)によって得られたもの、B)相続・地代や超過利潤・利子・配当のように、個人の能力や努力をあまり必要としないもの、そしてC)略奪や詐欺などの不正(犯罪)によって得られたものです。C)は犯罪ですから問題外と思われるかも知れませんが、発見されず時効が来るか合法化されれば正当な財産になります。
 A)B)については議論の分かれるところであり、資本主義と社会主義の分かれ道でもあります。まずA)についてはマルクスを含めた経済学の常識とは異なり、商品交換の契約成立(等置・売買)は必ずしも等価交換ではないということです。この説明は 別に(ここ) おこなっています。要点を言うと、商品の交換価値(価格)は、交換当事者間(複数)の力関係の表現にすぎないもので、等価(公正・正義)であるとは限らず、むしろ競争的強者による不等価交換が資本主義市場の常態(活力の源泉・勝者の喜び)である(消費者が強者になれることもある)、というものです。その不公正な交換関係のもとで、弱者(消費者・労働者)への不当な支配によって得られる財産は、反社会的蓄財とみなされるでしょう。資本主義では、分配的正義によって格差や不公正から生じる不満を抑えるため、多少の累進課税で調整しますが、道徳的社会主義では社会関係の透明化が進み、社会的自覚と共生・連帯によって交換的正義も実現され、不満自体が起こらなくなるでしょう。
 B)についてはいわゆる不労所得に属するものが問題で、土地の私有財産と投資・投機による超過利潤に分かれます。土地所有の由来はいろいろありますが、封建的大土地所有は不当なものとして農地改革の対象になりました。資本主義的農場経営では、土地所有者が地代として得るのは不労所得ですが、近代的企業(法人)の土地所有として透明化されれば社会的に問題となることはないでしょう。
 問題は相続です。すでに先進国では累進的な相続税が設けられていますが、社会的自覚と社会的連帯が進めば、経済的安全のための相続の必要性自体がなくなります。(一部に、相続が解消すれば、財産によって強められていた家族的つながりが弱くなり、家族も解体するとの議論があります。しかし家族をもち、子孫を未来につなぐことは生物的社会的責任です。資本主義は、むしろ刹那的個人的快楽を肥大させることによって、困難を伴う家族の維持と子どもの養育の社会的責任を曖昧にし、家族解体を進めています。)
 次に投資(投機)的利益についてですが、投資は人間の自己投機的・創造的本性に由来しています。この本性は精神的宗教的な方向(「社会的自覚」も含みます)もありますが、資本主義的投資と発展は基本的に経済的物質的なものです。しかし生産活動に直接結びつかない貨幣利殖は、貨幣の交換利便性・蓄財性などの万能性によって、経済活動だけでなく生活全体に拝金主義をもたらしました。例えば、一部の宗教法人に見られるように、金さえあれば何でもできるという風潮は、本来の宗教的価値をはるかにしのぎ「地獄の沙汰も金次第」となっています。貨幣は人間を支配し、人間のほとんどの欲求を充足しますが、使えばばなくなるので増やさなければなりません。被雇用の労働でも収入がありますが、命令される身分ではストレスはたまり収入にも限界があります。貨幣の所有者にとって、貨幣を動かすだけで増殖させることができればこれほど愉快なことはありません。
 貨幣は経済の血液であり、金融資本(銀行等)は資本主義の経済活動の主導権を握ります。そのため貨幣論は経済学の中心課題です。しかし貨幣はあくまでも人間生活や経済活動の手段です。人間が貨幣に支配されることを、自由主義の名のもとに市場にゆだねるのは、人間の知的可能性を否定するものです。貨幣信仰に基づく蓄財と私有財産、そのための競争を奨励することは人間道徳を低下させ、破滅的経済成長を黙認することを意味します。「持続可能な発展」が、経済活動の活性化と両立するには、公正と正義の関係性が確立したときはじめて可能になるのです。
 修正資本主義において、中央銀行による市場の制御を政治家に介入させないのは、資本主義延命のための経験的知恵であると言えます。しかし、社会主義においては、政治からの独立性と透明性だけでなく、財政と金融の政策がともに道徳性を求められるようになるでしょう。なぜなら不良債権処理のために低金利政策がとられ、銀行が潤い年金生活者が苦しむことになるように、巧妙に財産の収奪が行われるからです。市場に追随する「金融ポピュリズム」という言葉もあるようですが、実際には中央銀行による資本主義的浪費の弥縫策にすぎず、道徳的退廃を進行させているにすぎないのです。
 貨幣は、経済活動を発展させる人類の第4の発明・創造(道具・火・言葉そして<貨幣>、次いで機械・電気・原子力)です。しかし、貨幣は、交換手段・蓄財手段としての利便性・万能性によって、人間の生活と社会(交換)関係を豊かにする反面、人生の意味や人間の善性(共生・連帯・互助)を亡失させ、弱肉強食、拝金主義、刹那主義、強欲浪費そして犯罪・戦争、環境破壊、地球破壊、を生み出してきました。
 貨幣は人間存在と社会(交換)関係の所産です。貨幣がなぜ、何のために、どれだけ、誰のもとにあるのか。貨幣の所有や動き(交換や分配の比率)は、関係する人間の努力や働きや役割にふさわしい公正と正義に合致しているか。道徳的社会主義は、その結論を中央統制によって決定するものではありません。貨幣の流れとその場ではたしている役割、すなわち人間関係を透明化すれば、経費や利益、私有財産の限度も明確になるはずです。
 人間はかつて自然状態にあったときには、自然が人間生活の全体を制御し、その厳しい限界(貧困・病気・災害等)の中で自由に生きてきました。そして、自然の脅威をある程度克服し、豊かで便利な物質文明を築いてきました。しかし今日では、地球環境そのものの破壊という現実に直面しているのです。今日の物質的繁栄は、化石燃料と温暖化ガスの排出そのものでしたが、ここにいたって我々は我々自身の欲望と活動、そして世界的経済システム自体を制御しなければならなくなったのです。それは世界政治によって世界経済の再分配システムを再構築することであり、その基礎である人間関係(世界市場)における資源と商品と貨幣の動きに対する制御です。もはや今日、自由放任主義者ハイエクのような、勝者による我がままや排他的独占的利益、過去の思想や哲学、宗教、道徳に依存し優遇する理由はありません。人間存在の生物学的意味(言語の解明)や地球環境の限界から、現代文明のすべてを見直す必要があるのです。地球環境は、人類共通の究極の財産です。
A社会主義といえば、マルクスの科学的社会主義といわれていましたが、その有効性はどうなのでしょうか。
 マルクス主義は、社会契約説や古典経済学と同様に、社会科学として、政治経済の利害関係をマクロな運動として捉えるのには、最も有効な認識方法を与えてくれます。また実践的には、労働者大衆の不満や要求を結集し、労働者階級の歴史的使命と支配階級の反動性を明確にして、社会主義の一定の方向性を与えました。20世紀の資本主義の修正や社会主義の成立は、マルクス主義という一つの思想(イデオロギー)が、宗教的な信念として歴史を動かしたことでは、キリスト教やイスラム教に匹敵するものです。
 しかし、その哲学である「弁証法的唯物論」は、西洋的偏見にもとづいた認識論・存在論であり、根本において誤っています。詳細は拙著『人間存在論』を読んでもらえばわかります。要点は「言語論的認識論」の立場から、命題や理論つまり「知識・思想」は人間が自己や世界の存在を合理化・意味づけするものであり、弁証法的認識はその方法の一部であっても、自然や人間存在全体は弁証法的に決定できるものではないということです。
 また資本主義の労働者搾取(剰余価値搾取)は、マルクスの『資本論』で説明するような「等価交換」(契約結果としての等置・交換と等価・公正とは別である)によって行われるものではありません。搾取は、商品交換の不等価性によって行われるのであり、マルクスは、労働力商品の交換における相互の価値判断(契約)を「等価交換」と歪曲することによって、資本主義経済と交換関係そのものを神秘化することになったのです。
 これは一人マルクスだけの誤りではなく、スミスやリカード、おそらく近代経済学の面々も、商品交換は等価(=正義)であるという呪縛から免れていません。思考の結果、契約の結果(内容を吟味することなく契約成立を等価・公正とみなす)を社会科学における人間関係分析の出発点とすることは、西洋的思考様式の限界なのです。商品交換の成立は、当事者が相互に利益を得る場合(win win の関係)も多いですが、偽装・独占商品や労働力商品のように、一方が不当に利益を得る場合も多いのです。近代経済学も、需給の均衡が正義であるかのように分析しますが、強者による弱者支配の均衡は不正義であり、不正義を粉飾するのが近代経済学であったのです。
 結論としては、マルクス主義に社会と歴史分析の有効性はありますが、西洋的限界もある、ということになります。詳しくは拙著(目次)をご覧下さい。
 何が今日の閉塞状況を生み出しているのか。その根源を自覚し、めざすべき目標が明確になれば、人間には人間の創り出す人為的な不幸を減少させることができます

資料 「共産党宣言」マルクス エンゲルス共著 から
「以上にすでに見たように、労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級にたかめること〔24〕、民主主義をたたかいとることである。
 プロレタリアートは、ブルジョアジーからしだいにいっさいの資本をうばいとり、いっさいの生産用具を、国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産力の量をできるかぎり急速に増大させるために、その政治的支配を利用するであろう。
 もちろんこのことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係とへの
専制的な侵害を通じてのみおこなわれる。したがって、経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである。
 これらの方策は、当然、国によっていろいろであろう。
 しかしもっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり全般的に適用されるであろう。――
 一 土地所有を収奪し、地代を国家の経費にあてる。
 二 強度の累進税。
 三 相続権の廃止。
 四 すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
 五 国家資本によって経営され、排他的独占権をもつ一国立銀行を通じて信用を国家の手に集中する。
 六 運輸機関を国家の手に集中する。
 七 国有工場、生産用具の増加。共同の計画による土地の開墾と改良。
 八 万人にたいする平等の労働義務。産業軍の編成、とくに農業のためのそれ。
 九 農業と工業の経営の結合。都市と農村の対立の漸次的除去。
 一〇 すべての児童にたいする公共無料教育。現在の形の児童の工場労働の廃止。教育と物質的生産との結合。その他。
 発展のすすむにつれて、階級の差別が消滅し、すべての生産が協同した諸個人の手に集中されたならば、
公的権力は政治的な性格をうしなう。本来の意味の政治権力は、一つの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの闘争において必然的にみずからを階級に結成し、革命によってみずから支配階級となり、そして支配階級として強制的に旧生産関係を廃止するが、他方またこの生産関係の廃止とともに、階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を、それによってまた階級としての自分自身の支配をも、廃止するのである。
 階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、
各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる。」 (「二 プロレタリアと共産主義者」から抜粋 http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen0.html から引用)
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