<金山城址>
金山城は標高537mの山頂に築かれた山城で、本丸を中心に、二の丸、矢島丸、朽木丸、加々見丸、コキリ丸などと伝えられる構えをもつ、本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模をもつ、織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が現在の金山城を天正6年(1578)9月より7年10月にかけて築城さた。(原文まま)
<金山城物語>
天正6年(1578)2月、三木城主・別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名・波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年3月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城・八上城にあって、氷上郡にある黒い城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があったからです。
光秀は秀治と赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正7年(1579)6月ついに、落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
<金山城案内板より>