高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
十三世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、十六世紀の末期天正十八年、小田原の北条氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
慶長三年、井伊直政が箕輪城十二万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴って、要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。
後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞から第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
明治六年、東京鎮台高崎分営が置かれ、高崎城内は兵営となった。ついで明治十七年歩兵十五連連隊が創設されて以来、昭和二十年八月太平洋戦争の終止まで、高崎は六十余年間、軍部の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第三十八部隊となり、歩兵第百十五連隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。
滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に五万、兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。
昭和二十年八月十五日、戦い終わり、平和はよみがえった。われらは永遠に戦争放棄の民として更正し、城内は市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、市民生活の中枢となった。
ここに明治百周年を迎え高崎城回顧の記を録する。 <高崎城案内板>