松ヶ島城は、かつて保層久美(ほそくみ)(細汲、細首とも書く)といい、参宮古道に沿い、三渡(みわたり)川の河口を控えた海陸交通の要衝であった。
天正8年(1580)、織田信雄(信長の次男)は南伊勢統治の居城を田丸城(度会郡玉城町)からこの地に移し、松ヶ島城と称し、五層の天守が聳えていたという。その後、信雄の家臣津川義冬、滝川雄利を経て、同12年、豊臣秀吉の部将蒲生氏郷が12万石の大名として入城した。
ところが、氏郷は四五百森(よいほのもり)に着目して築城し、新城下松坂に移り、本城下の町人や社寺はすべて強制移住させられて、松ヶ島は瞬時にして元の一漁村に変容した。
古図や検地帳には天主跡・堀之内・丸之内・城の内・南之内・日の丸といった城郭名や殿町・本町・西町・紙屋町・ほうく町・鍛冶町という町名が見え、往時の繁栄をしのばせる。
ここに残る指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔をおした古瓦片などが出土しており、本丸天守の跡と考えられる。<松ヶ島城跡 案内図より>