町指定文化財
弘 法 杉
昭和52年10月4日指定
 旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令
約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉または二本杉
と人々はよんでいる。
 伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のため
に堤防が崩落して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地
方の子どもが左手で箸を持って食事するものは、この木の枝で
箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるとい
られている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られて
いたと伝えられている。
 一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本
の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差して
おいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れ
て朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそ
の1本が倒れたともいわれている。
昭和52年3月
甲西町教育委員会表示
三雲城遺跡について
 三雲城(吉永城)は、三雲氏の主家である安土の観音寺城主・佐々木六角高頼が逃げ込み用の本城として長享2年(1487
年)に三雲典膳に築かせた城で、東西約300 m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。しかし、織田信長の
京都侵攻に際して三雲氏は最後まで主君の六角氏に従ったために、元亀元年(1570年)に織田方の佐久間信盛の攻撃を受
けて山据にある三雲屋敷と供に落城しました。その後、天正年間(1573年?)には廃城となってしまいましたが、天正13
年(1585年)に甲賀市水日町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が岡山城を築いた際に石垣等が用材として持ち去られたと言
われています。
城の縄張りの中心部は、四ケ所の郭によって構成されており、北側の郭は約50mX40mの広さがあり井戸も残ってい
ます。また北側の郭の北東部分には三方を巨大な石材を用いた穴太積みによって築かれた22.4mXl2 mの大きな枡形遺
構(虎口)が残っています。
当城は、六角氏が度々逃げ込んだことが記録にのこされており、城内には佐々本六角氏の家紋(四つ目結)を刻んだ石が残っ
ています。 
佐々木六角
家紋
甲西町指定文化財(史跡、名勝天然記念物)
指定第一号
名称 弘法杉
構造寸法 幹周  六米
       樹高 二六米
時代   樹齢七五0年
指定年月日 昭和五二.一0.四.