日本人の忠臣蔵的歪曲歴史観

2005年12月13日



今回は季節的な話題で「忠臣蔵」への一言を述べようと思います。

忠臣蔵の内容についてはここなどが詳しいと思います。

テレビなどで毎年のように放映される「忠臣蔵」は必ずしも史実に忠実ではない事を

これまでは、さほど気に留めてはいなかったのですが、歴史認識という観点から見ると

こういった事のひとつひとつが今の歪曲歴史教育の温床になっているのでは

ないかとも思えてきたのです。

そこには日本人特有のなんとも形容しがたい民族性を感じます。

この話はきちんとした史料などを検証していくとかなりの部分まで詳しい事が

分かるのですが、そこからは吉良上野介が悪者であったという姿は見受けられません。

上記のリンク先でも書かれている通り、上司役であった吉良が部下に不手際を起こさせれば

監督責任が自身に及ぶ事にもなりますし、浅野内匠頭の勅使御馳走役は2度目であった事

も合わせると、嫌がらせや苛めなどは到底ありえないと考えられます。


乱心説など(事実やっている事は気が狂っているとしか思えない)が有力な感じがします。

そして、殿中での刃傷事件において、過去に乱心による事例が存在していたのです。

そして、その時は「乱心」であった事を理由に「御家断絶は免除」されていたのです。

大石内蔵助は浅野の「乱心」を理由に過去の事例を出して、「御家断絶」だけは

避けようと考えましたが、取り調べの際に当の浅野が「乱心」を否定して「遺恨」を

主張していた事などもあって、「乱心」ではないという事になりました。

吉良は切り付けられた時に刀を抜いておらず、一方的に切り付けられただけで

あるので、お咎めが無いのは何ら矛盾がない。

が、大石は「乱心」でないのならば「喧嘩」ではないか、だとすれば「喧嘩両成敗」

でなければ筋が通らないと、全く筋違いな逆恨みを遂行するのです。

それこそが、「忠臣蔵」の事実です。


「敵討ち」「仇討ち」など日本人には割と受け入れ易いテーマに仕上がっているのは

この事実を題材に脚色を加えて、敢えて「仇討ち」や「忠誠心」などの観客に受けるような

「作品」に仕上げただけの事であり、結果、このフィクションの方のみが脚光を浴びて

現在の「忠臣蔵」になったのでしょう。


が、正しい歴史認識を持ち合わせて初めてフィクションを楽しむのならいいのですが、

テレビなどの「忠臣蔵」を信じている日本人は割と多いのです。

吉良家の名誉の事も軽視は出来ないですし、

なによりも、歪曲歴史を堂々と誇らしげにする歴史観は現在の歪曲歴史教育を糾して

行こうとする時に何がしかの「障害」になってしまうと思います。

正しい歴史を知って、その上で「忠臣蔵」を楽しんでテレビを見るように

なったらいいなとふと最近思ったので、取り上げました。