花四季彩-小説『草原の果てに』

草原の果てに


                               野 元 正

 あと一周の鐘が鳴った。
 銀輪が煌めき、一団の中から身体を左右に振って黄色い帽子を被った選手が、二本の白線からバンク寄りに出て、先に立った。すかさず赤い帽子が追走する。
 巨大な観覧スタンドは地の底から湧き上がってくるような重たい喚声に共鳴して身震いしているみたいに、隆二には感じられた。スタンドの片遇に生じた黒いうねりは、期待を含んだどよめきとともに人から人へと伝わっていく。
「ゴー、ゴー、ゴー」大合唱がその上を渉る。
 ゴール前でブルーの風が、最終ゴングと同時に仕掛けた黄色をかわした。
 写真判定のフラッシュに同調したようにスタンドは一瞬の静寂のあと、怒号と歓声が沸き、スタンド全体に紙吹雪が舞った。
 隆二は別に車券を買っていたわけではなかった。出張のついでに、子どもの頃遊んだ原っぱの面影をかけらでもいいから見たいと思ってこの競輪場に来た。
 コースの中の広びろとした芝生をじっと見つめる。そして何年ぶりだろう? と思った。
 彼は当たり車券の引き替えや次のレースの投票に向かう人たちの雑踏をかき分け、スタンドの階段を下りた。
 正面に榎の大樹がアスファルトの広場にぽっつんと繁っていた。緑はそれしかなかった。
 隆二はその榎に見覚えがあった。空に精一杯葉を広げている大樹は、あの遠い日の原っぱにあった一本榎にちがいない。しかし、この榎とこれも見覚えのある競輪場の外の道とはこんなに近かったかなあ、もっと遠いはずのような気がしていたのに、と思った。
 そよ風に葉群れが揺れ、陽の光が葉陰に煌めく。眩しさに眩暈を覚え、フラッシュバックのように四十年前の榎が原っぱの中に蘇った。

 隆二は、いつ来るか分からない、貨車の重たい振動を背中に予感しながら腐りかけた引込線の枕木を辿って歩くのが好きだった。
 何日かに一回、飛行場のある駐留軍基地へとジーゼル機関車に引かれた灰色の貨車が通る。土盛りした線路の土手には、たんぽぽやきんぽうげなど、野の花が咲き乱れている。
 本線から分岐された引込線が基地へ向かって直線になる辺りの線路際に廃屋のような木造二階建の長屋があった。旧陸軍の兵舎で、昭和三十年の頃は母子寮として使われていた。
 窓ガラスには、×印の灰色の紙がこびりついたままで、建物は草原の中に浮かんでいるように線路の土手から見えた。
 使い古した枕木を並べただけの踏切を渡ると、寮の入口に向かって一本の白い道が野の草を踏み分けてついている。
 小学五年の隆二は一度だけその母子寮に行った。
 わが家に父がいないことが分かり始めた頃から、近くに住んでいた母の弟が父親代わりになってくれた。その叔父は市役所で民生を担当していたので、仕事のついでに連れていってほしい、と頼んだ。
「いいよ」と叔父は簡単に言った。
「あそこは駄目。何であんなところに行きたいの? おじさんの邪魔しちゃいけないわ」
 基地の中のハウスで進駐軍家族のメイドをしている母は横から言った。彼には母が何故止めるのか分からなかったし、止められれば止められるほど何か特別なものが見られるような気がしてますます行ってみたくなった。
「やっぱり行きたいんです」
 隆二は叔父にもう一度頼んでみた。
「お母さんに内緒にできるかな?」
 叔父は笑った。「うん」彼は頷き、探検に出かけるような浮きうきした気分になった。
 建物の中は、母の実家に行くとき通る掘り抜きのトンネルのように暗かった。天井のところどころに裸電球の光が闇に滲んで見えた。板張りの廊下はすえた匂いが満ち、ふたりの歩調に合わせて軋んだ。廊下の中ほどにある共同炊事場の窓から外を見ると、寮から流れ出た汚水が素掘りのドブに溜って臭い。
 乱れ髪を無造作に束ねた寝巻き姿の女が見える。ようやく慣れた闇の中で女の目が、何しに来たの? と訊く。女は部屋の戸口で七輪の火を起こしいる。うちわの風に合わせて火が熾る。しゃがみ込んだ寝巻きの裾からわずかにのぞく足の白さが隆二には眩しかった。
 廊下には女以外誰もいない。建物の中は静まりかえっている。子どもたちの声は聞こえない。こんなに長くて暗い廊下があれば、ぼくたちならはしゃぎ廻っているのに、と思った。
 叔父は廊下の一番奥の部屋の扉を叩く。                               すっきりした声が部屋から聞こえて、女の青白い顔が覗いた。
「市役所ですが……」と叔父が名乗ると、彼女はちらっと隆二の方を見た。
「この前、お尋ねのご主人の消息ですが、厚生省にも問い合わせましたが、やはり、分からないらしいんです。現地で生きている人の例もありますから……」
 女は黙っている。叔父は続けた。
「何か分かったら、また連絡します。気を落とさず待っていて下さい。そのうち、いい知らせがありますよ」
 女は消え入りそうな声で、よろしく、と言った。
 それっきり、隆二はその母子寮に行ったことがない。彼が棲んでいる町と母子寮のある町とは引込線が境界であったし、母から線路の向うへ行ってはいけないと止められていた。
 しかし時どき、彼はその町へ、と線路を越えた。寮から少し離れた雑木林の外れに栗林がある。その栗を拾いに行き、ついでに木刀を作るのに適当な長さと反りのある栗の枝を取って来るのだ。
 隆二たちの間では家の周りの原っぱでチャンバラごっこや戦争ごっこがはやっていた。
「木刀はやはり栗の木がいいぜ」
彼は羨ましそうにしている他の子どもたちを横目で見ながら得意顔で言う。
 栗林は限られた子どもしか知らなかった。そこに連れていってもらえるのは、喧嘩が強いとか、仲間内で何か特別なことが認められなければならなかった。それにその秘密の箇所に行くには、勇気を試される怖い所を通らなければならない。線路の向こう側の母子寮はこわいよ、三次という中学生が、寮の近くを通ったり、線路を越えてよそからやってくる子どもたちを脅すらしい、といつの頃からか、噂があった。
 隆二たちはその噂に怯えていた。しかし彼の仲間で三次に出会った者は誰もいなかった。それでも、三次は美少年だとか、いつも美少女と一緒にいるとか、背が高く喧嘩が強いとか、乱暴な少年の群れを率いているだとか、子どもたちが楽しみにしている紙芝居の駄菓子を買う小遣いを脅し取られるとか、そんな話が伝わってくる。
 彼は怖いと思う反面、憧れた。一度三次に会ってみたかった。そう思うと、線路の土手から眺められる屋根瓦がずり落ちそうな寮が違って見えた。寮近くの原っぱに潜んで野の草をかき分け、破れガラスの窓が三次の部屋ではないか、と秘かに望む。噂が本当なら悪い奴だけれど、何人かの手下の子どもたちを引き連れて原っぱで待ちぶせる三次に魅かれた。そして風が吹きすさむ草原に三次はひとり長い髪をなびかせて遠く見詰め、じっと立っている、そんな漫画に出てくるような情景を隆二は思い描いていた。
 彼は三次になった気分で振り返って夕日に染まり始め、黄金色の粉をまぶした薄紫に霞む山影を遠く目を細めて眺めた。
栗の木刀を腰に差した隆二を仲間は一目置いた。一つ年下の駄菓子屋の息子、正吉はそんな彼が気に入ったのか、いつも一緒にいた。そして、時どき、家からソースを塗ったウェハスのようなせんべいをくすねて来て、彼のご機嫌をとる。正吉は栗の木刀を持っていなかった。
「俺も木刀ほしいなあ」
「そのうち、作ってやるよ」
「本当なら、俺、隆ちゃんの家来になってもいい」
 正吉は目を輝かす。
 隆二も秋になって線路の向う側の原っぱが一面銀色の薄が原になる頃、栗拾いがてら正吉の木刀に手頃な栗の枝を取って来ようと思った。もちろん正吉を連れて行くわけにはいかないけれど、ひとりで行く気だった。薄は背が高いから原っぱを忍んで行けば、三次に見つからないで栗林まで行ける。
薄が原が尽きると雑木林の小径に沿って素掘りの小川が流れていた。
 隆二はその小川が好きだった。小川の底は秋の紅葉が敷き詰められいる。陽に煌めく澄んだせせらぎの水底に紅や黄色の葉が揺れる。
 隆二は今年の春、小川の畔に小さな箱庭を創ったのを思い出していた。
 三次に見つけられることも時間の経つのも忘れて土を盛って山を築き、トンネルを掘り、溝を作り小石を敷き詰めて川を、橋を渡し、池を掘って海を、四角い石を積んで町を作る。ガリバーになった気分だ。雑木林の檪の根方から苔を集めて来て箱庭の山に張り、種から生えたばかりの幼い樹を植えて森を創った。そして、山を映した海の色が土色から緑に変化した。風が海に漣を立てて吹き渡る。
 彼は小川のことを仲間にも話さなかった。隆二にとってこの澄んだ水の流れる小川は、空の青さを映した流れのように、彼の心がそのまま映っているような気がした。話すと汚れてしまう気がして心の奥にしまっておくことにした。そして今年も秋になったらひとりでもう一度行ってみよう、と思った。

「隆ちゃん、正ちゃん、何してるの?」
明るい声が聞こえた。ふたりは振り向く。隆二の同級の美佐子が笑顔で立っていた。
「いや、美佐ちゃんには係わりないよ。秘密さ」                             内緒だぜ、と彼は正吉に慌てて目で知らせる。どこから三次に伝わるか分かったものじゃない、と思う。
「秘密って? よけい知りたくなるじゃない。誰にも言わないから教えて……」
 美佐子は大きな目で隆二を見詰める。黙っていると、「美佐子に言えないこと? 教えてくれないと、学校で困っても助けてあげないからね」
と脅してくる。隆二は美佐子が苦手だ。何故か、息苦しくなっていつも言うことを聞いてしまう。
 彼女は隣に住んでいる。隆二にはまだよく分からないが、「パンパン宿の娘と遊んじゃいけないよ」と母はよく言った。
「何をするところなの? 悪いところ?」
「そんなこと、知らなくていいの」 
「でも、美佐ちゃんには関係ないよ」
 隆二は母の顔を見つめながら、「そんなんことより、僕のお父さん、どうしたの?」と逆襲すると、母は台所に立っていった。
 それでも、ふたりは小さい頃から、毎日一緒に遊んでいた。ふたりでいると、仕事帰りの母か美佐子の母か、どちらかが迎えに来るまで、飽きずに遊んだ。それに小学校に入ってからもずっと同じクラスだった。
 隆二たちのクラスは毎朝、朝礼が始まるまでみんなでドッチボールをしている。ご飯一杯に、ワカメか豆腐の味噌汁、それに納豆と生卵と漬け物、毎日ほとんど同じ朝食を急いで食べると、家を飛び出す。彼は狭い校庭を確保する役をかって出ていた。それで急ぐからよく忘れ物をする。
「隆二、学級委員だろ? 忘れ物をした奴がいないか調べるのがおまえの仕事とちがうか? けじめのない奴は嫌いだ。廊下に立っとけ」
海軍兵学校帰りの若い先生は隆二には特に厳しかった。しかし、家に帰って母に先生のことを告げ口したいとは一回も思わなかった。
「俺はおまえが好きだ。とことん仕込んでやる」
何気なしに嘘をついたりしようものなら、胸ぐらを掴んで教室の壁に突き飛ばされた。彼は必死で涙をこらえて我慢した。
「先生、勘弁して……」
いつの間にか美佐子がそばに来て、詫びを入れる。
「山野か、こいつ癖になるから」
先生はそう言いながら目が笑っている。仕方ないと思い始めた証拠だ。美佐子は何かにつけて隆二を弟みたいに庇った。
「よーし、山野に免じて今日はこれまで。いつものことだが、おまえ、しあわせな奴だ、山野に礼を言えよ」
 先生はさっぱりしている。海軍で一度死んだ人間が物事にこだわったらおかしい、といつも言っていた。先生の笑った口元から見えた白い歯が、怒られて気が滅入っているはずなのに、隆二の心にさわやかな印象を残した。
 先生は人間魚雷“回天”の訓練に明け暮れて敗戦を迎えたという。
「自分は死に場所を見つけられなかった駄目な男だ」と、死んでいった戦友を思い出すのか先生は遠くを見つめた。隆二はなんて応えたらよいか分からない。
「日本人の誇りとやる気をもって事にぶちあたれ。怠け者は嫌いだ」
 隆二たちは、将来への望みを作文に書かされた。
「何でもいい。なりたいものを思うままに書いてみろ」
 隆二は漫画でも読んだことがあったが、廊下は走れとか、何かを始めるときはすべて五分前までにスタンバイしておけなどのしきたりとか、また用語の説明で面舵や取り舵いっぱいとか、ヨウソロとか、いつも先生が情熱を込めて話してくれる海軍に行きたかった。先生が内緒で見せてくれた海軍の短剣と写真の軍服姿にも憧れていた。
 彼の作文を読んで先生は言った。
「海軍はもうない。そのうちなりたいものも見えてくるよ。今からは勉強でなく学問をしろ」
 小学生の隆二にはそう言われても理解できない。
 それで黙っていると、「おい、隆二、おまえ、何が好きだ?」と突然訊いた。
「はい、原っぱでいろいろなバッタを捕まえることです」
「そうか、じゃ、捕まえたバッタの名前を言ってみろ」
「とのさまバッタ……、うーんと」
 隆二は詰まる。原っぱにどんなバッタが棲んでいるかは知っているが、名前までは知らない。よく考えてみると、捕まえていい加減に飼っているだけだ。
「その名前を調べろ。学校の図書室はそのためにある。興味のあること、好きなこと、とことんやるんだ。それが学問だ」
 隆二は放課後、図書室に行った。美佐子が先に来ていた。
「隆ちゃん、来ると思った。ふたりで調べよう。ちょっと、待っててね」
 美佐子は周りに気を使って小さい声で言うと、五、六人は座れそうな木のテーブルから立って、貸出しカウンターに歩いて行く。そして、司書に何か話しかけている。隆二はぼんやりと彼女と司書を眺めていた。
 欅の葉がテーブルに影を落としている。
 ふと、窓の外を見ると、正吉がしきりに隆二に合図を送っている。刀を構える身振りから早く帰って、原っぱでチャンバラごっこをしようということらしい。隆二は今日は駄目だ、と頭を振る。正吉はしきりに窓ガラスに何か文字を書いている。何を書いているのか理解できないでただ笑っていると、諦めたのか後ろを見ないで校門の方に駆けて行った。
 美佐子が部厚い昆虫図鑑を抱えて戻って来た。テーブルの上に置くとき、思ってもみないほど重たい音が響いた。彼女は思わず舌を出して首をすくめ、辺りを見回した。ふたりが思うほど周りは気にしていない。
 静かだ。図鑑の表紙には赤とんぼが深い緑の池の上を翔んでいる。隆二はバツタも好きだが、とんぼも好きだった。それで、表紙を見たとたんにその本が気に入った。
「これ、一番いい図鑑だって……」
 美佐子は見やすいように図鑑を隆二の方に押しやった。彼が図鑑を開くと横から覗き込む。本は奇麗な昆虫の絵が溢れていた。印刷インクと美佐子のいい匂いが隆二を包む。
「赤とんぼって、夏が暑いと、秋まで山の上に避暑に行くんだってさ」
「そうなの。山で夕日に染まってだんだん赤くなるのかしら」
「そうかもなあ」と隆二は違うと思ったけれど、合わせた。真近に美佐子の透き通るように白い整った顔があった。時どき、おかっぱの柔らかい髪が頬に触れる。よく分からないが快い。隆二は身体の芯を何かが駆け抜けるのを感じた。そして、自分の大切なところが固くなるのが分かった。美佐子に悟られるのではないかと顔が火照る。身体の芯は隆二の意思に逆らってますます固くなり痛い。いつまでもこのままでいたいと思っているのに逃げ出したい気分だ。
 美佐子は全く気にしていない風だ。何気なしに手も触れる。隆二の身体はさらに困ったことになる。
「このバッタ、原っぱにいる?」
「うん」
「こんど、捕まえたら美佐子にくれる?」
 彼女が隆二の顔を覗き込むのが分かった。
「うん」
隆二は今日にでも大きいのを捕まえてやろうと思っていた。
バッタを調べるうちに秋に鳴くスズムシやマツムシもバッタの仲間なのが分かった。もうすぐ秋。暗い原っぱで静かに虫たちの合唱を聞きたい。できれば、美佐子と……。そして、三次のいる薄が原の向こうの秘密にしている雑木林の小川にも連れて行こう。三次に出会っても怖くなんかあるもんか、何だか妙に勇気が湧いてくる。
 校内放送がショパンの「別れの曲」を流し始めた。
「一緒に帰ろう」                                           美佐子は隆二を促す。彼は嬉しかったが黙って頷づく。何か言おうとしたが言葉が見つからなかった。原っぱで見掛けるバッタの名前を書いたノートをランドセルにしまうと、ふたりは図書室を出た。
 外は夕方だった。教室の窓ガラスは夕日に輝いていたが、校舎は暗く沈んで見える。何だか先生の言う学問をしたという充実感があった。もしかしたら美佐子の髪に匂う石鹸の香にものぼせていたのかもしれない。
 学校から隆二たちの家の間には、戦時中、飛行場を守っていた高射砲陣地の原っぱがあった。この辺の原っぱの中で一番広い。
 野の草が生い繁り、隆二の背丈よりも高かった。いつの頃からか、この原っぱを子どもたちは「パラダイス」と呼んでいた。チャンバラごっこ、ターザンごっこ、穴ほり、崩れたトーチカを利用した隠れ家、爆弾で出来た池で筏乗り、虫取りなど、彼の夢をかなえてくれるものがいっぱいあった。
「パラダイスを通って帰ろう。バッタたちに会えるかもしれないもの」
 美佐子は隆二の考えていることを先に言い出した。彼も覚えたての名前と実物を較べてみたかった。原っぱのバッタたちが今日は仲間に思えた。名前を知っているのだから__。
 学校の裏門を出て小さな雑木林の小径を抜けると、パラダイスだった。夏休みが終わって子どもたちの声も聞こえない。原っぱは静まりかえっている。しかし、辺はまだ夏草の匂いに満ちていた。広いパラダイスの果てに一本榎の大木が紺がかった黒のシルエットとなって立っている。そして、傘型の樹冠の輪郭は茜色に縁取られ、木の葉の間にまだ、夕日が残っていた。ふたりは野の草の間の小さな踏分け道を歩く。
「あっ、クルマバッタが翔んだ」
 美佐子が叫ぶ。隆二も羽音を聞いた。
 クルマバッタは隆二たちの歩いていた道から、さほど遠くない草の上にとまった。細い葉がバツタの重みでわずかに揺れてたわむ。図鑑に載っていた草色の身体が思ったより鮮やかで、羽根は土色に近い。触角が動く。隆二と美佐子の気配を窺っているのかもしれない。口の周りの髭をもぐもぐさせている。ふたりは息を殺して観察する。
 よく見ると動作が愛らしい。美佐子と顔を見合わせて笑った。バッタの名前を知っただけで見慣れた原っぱの世界が童話の中に出てくる草原のように思えた。野の草が息づき、生き物たちが挨拶をしているみたいに感じた。
 隆二は、高いほど茜色が薄くなっていく夕焼けの空を見ながら、両手を力一杯広げて深呼吸した。胸のなかがさわやかになった。
「あの夕焼け雲、隆ちゃんの顔に似てる。わぁ、顔が真っ赤なのも似てる、似てる」             美佐子ははやしたてる。隆二が彼女の前だとすぐ顔を赤らめるせいだろうか。
「ちがうわい。俺、もっと美男子や」
 隆二も頑張った。
 近くの草むらの中に埋もれて、崩れ掛けた高射砲陣地の廃墟が黒い穴を草ごしに覗かせている。隆二たちはよくこの廃墟で戦争ごっこをして遊んだ。廃墟の中は暗くじめじめしていて黴臭い。この陣地は戦時中、たった一機しか敵機を落とさなかったと大人たちは嘆いていたのを聞いたことがある。
「敵機はこの陣地を避けて通った。でも、何回かに一回爆撃してきた。死者や負傷兵は担架で小学校まで運んだ。小学生も手伝ったんだよ」と大人たちは話す。この話のせいか子どもたちの間では、雨が降った次の夜、パラダイスに人魂が出ると恐れられていた。
「ぼっと、原っぱが光るんだ」
 人魂を見たという子が言う。見たことがない子どもは息をひそめて顔を見合わせた。
「なかに入ってみよう」
 突然、美佐子が言い出した。
「人魂が出るぞ」
「こわくないわ。隆ちゃん、こわいの?」
「こわくなんかあるもんか」
 隆二は女の子にこわがりと思われたくないばっかりに先に中に入った。
「何にも見えないわ」
「そのうち、目が慣れるさ……」                                   美佐子の声も心なしか固い。
 入口の方を振り返ると、野の草が夕日に赤く染まっている。静かだった。
「暗いから手をつなごう」
  暗闇で顔がよく見えないのと何も起こらなかったので隆二は大胆になった。小さい手は冷たくて柔らかだった。
 再び、図書室で感じた訳の分からない快さが戻ってきた。美佐子がクスッと笑ったような気がする。隆二はそれ以上にどうしていいか分からない。外で鳥の飛び立つ音がした。
「もう、帰ろう」
 美佐子が言った。
 外は風が涼しかった。夕日がパラダイスのずっと向こうの山の頂の横に沈もうとしている。
 ふたりは家まで黙って歩いた。原っぱのどこかでコウロギが鳴いている。
 美佐子とは家の前で別れた。
「じゃ、また明日ね」
 玄関の戸の程まる音が隆二の耳に残った。

 町で飛行場の滑走路を延長する基地拡張の測量が反対派市民を制して警官隊に守られて強行され、大人たちの間で盛んに議論された九月が終わった。時折暑い日もあったが、ようやく涼しさが増した朝、隆二が登校すると校門に餓鬼大将で六年生の利司が立っていた。
 険しい顔をしている。何かあったらしい。利司は問題が起きると大人びた難しい顔をする癖がある。
「隆二、今日、学校が終わったら例のターザン小屋に集合だ。武夫たちが勝負を挑んで来たんだ。木刀持って来いよ」
「いいけど、何かあったのか?」
「詳しいことはそのときだ」
 利司はそう告げ、ちょうど登校して来た正吉を見つけると、彼の方に走って行く。
 正吉も頷いている。
 武夫は同じ町内だが、利司に反目して別のグループを作っていた。お互いに仲間を増やすため努力している。利司も武夫も仲間の面倒をよくみた。仲間がいじめられたりすると次の日には仇を打ってくれる。
 隆二は学校が終わると家に帰った。
「何処へ行くの? たまには勉強しなさい」
 奥から祖母の声がした。しかし祖母はいつもそれ以上は言わない。隆二は聞こえない振りをして家を飛び出した。腰には玄関の横に立て掛けてあった栗の木刀を差しているので少し走りにくい。
 ターザン小屋は隆二の家から五分位、パラダイスと反対側で中学校の裏手の雑木林にあった。秘密の隠れ家だ。雑木林の中で一番大きな樫の授の上にある。家や建築現場から板切れや縄を集めて、映画のターザン小屋を思い浮かべながら作った。屋根は板を並べた上に薄を束ねて葺き、風で飛ぶと困るので、秋に美味しい実のなる蔓で編んだ。大樹の上にあるから床を作るのが大変だった。一生懸命やっても上に乗ると傾いたりする。
 利司は材料集めを得意にしていた。隆二は小屋作りだ。別に親が大工をしているわけではないが小さい頃から何か作るのが好きだった。出来るだけ本物に近いものを作りたい。小屋から縄を伝って降りるようにする。登るには縄梯子がいい。
 隆二は美佐子とこの小屋に来たかった。そして、誰にも邪魔されないで未来を夢みたい。
 もし、隣町の三次が見付けて壊そうとしたら、彼は全力を傾けて阻止するつもりだった。大授は小屋の中で枝が二股に分かれている。そこの付け根の裏に表からでは分かりにくい穴があった。隆二たちはそれぞれ自分が大切している宝を持ち寄ってその中に隠していた。利司は夏祭りに御神輿を担いだ社のお札を、隆二は小学校一年のとき美佐子にもらったビー玉を入れている。
「このお札はなあ、御利益があるんだそうだ。そのビー玉はなんかいわれがあるんか?」
「何もないよ。でもきれいだろう? 持ってるといいことありそうな気がすんのさ」
 大樹は雑木林の中でも目立つ。冬になって授々が落葉したとき、雑木林の外から見えるのではないか、林はすでに錯から落葉が始まっている。大風が吹くと、銀杏が黄色の葉をしきりに降らせ、風が夜になっても止まなかった次の朝はよく中学校の校庭までターザン小屋のある大授のようすを見に行った。
 大樹は落葉授の枝が重なりあってできた、細かい編み目の向こうに高く、緑色というよりくすんだ黒に近い塊で繁っていた。小屋は葉の群れの中に隠れて遠くからは見えない。隆二は安心した。
 ターザン小屋には利司、正吉など主だった者が集まっていた。利司を中心に車座になって小屋の下の落葉の上に座っている。
「遅いぞ。おまえが来ないから作戦会議が出来なかったんだ」
 利司はふくれっ面で言う。どうせ最後は利司が思うとおりに決めるのだから、始めていてくれればいいのに……、と思った。隆二が来たのを契機にみんな縄梯子を伝って小屋に登った。
 そして座ろうとしたとき、床に蝉の死骸が転がっているのを見つけた。この辺の雑木林では樹の枝にとりついた蝉の抜け殻や無数の蟻が群がっている死骸をよく見かけるのは、ありふれたことだった。しかし今は利司の怒った顔と虫の死骸のイメージが重なって、秘密基地のターザン小屋をどこに作るかで、この樫の木の下で利司と喧嘩したときのことを、隆二はふと思い出していた。
「おまえ、俺のいうことがきけないんか? 気に入らないなら、勝手にしろ。なあ、みんな」
 利司は正吉たち仲間を見回した後、隆二に言った。
「パラダイスの方が学校へ行く途中にあるから集まりやすいし、池も原っぱあるし、いいと思うんだけどな」
 隆二はパラダイスにこだわった。
「おまえなあ、ターザン小屋ってなあ、木の上につくるんだぜ、わかってるんだろうなあ。パラダイスには大木なんて一本しかないぞ。何やらしてもドジのデブのくせに黙れ。俺とやる気か?」
「でも、やっぱ……」
 隆二は原っぱの真ん中に望楼のようにターザン小屋を建てたかったのだ。もちろん秘密基地にはならないけれど、小屋から夕日を美佐子と見たかった。反論しかけたが、鼻の当たりが急に塩っぱくなり、胸の辺りが縮まったみたいな感じだ。涙が自分の意思とは関係なく溢れてきた。
「デブ、デブ、百貫デブ、おまえのかあさんデベソ」
 利司が突然、はやしたて、途中から仲間みんなも同調した。母のことまで言われて身体の奥から怒りが噴き出してきて、気がついたら、わぁー、と叫びながら彼を追いかけていた。
 利司はジャングルで豹に追いかけられたチンパンジーみたいに樫の大授に登ってしまった。目標を失って周囲を見回したが他の連中も逃げていた。
「デブ、デブここまでおいで」
 利司が樹の上から、またはやしたてる。隆二は樫の授にとりついて登ろうとした。腕がぶよぶよで震えている。しかも力が弱い。怒りが身体を授の上へ登らそうとするけれど、どうにもならない。
 自然に出てくる涙を目にためたまま、「ウォー」と思いっきり叫んだ。
「デブ、デブ、ててなし子のデブ」
 利司はさらに言った。確かに自分は太っている。しかし父がいないのは僕のせいではないのだ、父は戦死した、と母から聞いているけれど、叔父に訊くと少しニュアンスが違うように子ども心にも思えるのだが……、と隆二は小石を探し、樹の上にいる利司めがけて投げた。
 石はまったく当たらなかった。それでもしばらく石を集めてきては投げ続けた。
「ここまでおいで」利司はまだ言い募っている。
 その声を聞くうちに隆二は空しい徒労から急に逃げ出したくなった。パラダイスに向かって駆ける。
 息が詰まりそうになりながら、それでも止まったら負けだ、と自分に言い聞かせ、鼻水を手の甲でぬぐって走った。
 パラダイスの入口で蜥蜴を見つけた。尻尾を掴むと、切れた。次の瞬間、自分でも驚くほど敏捷に右足が蜥蜴を踏みつけていた。怒りと悲しみの込められた鋭敏さなのか。踏みにじられた蜥蜴は草の上でまだピクピクと動いている。さらに足の裏を草にこすりつけるように踏みつけ、さらに平たい石の上に紐みたいに置き、先の尖った石で叩いた。しかしいくら自分の心を砕くつもりでも、悲しみは積もるばかりだった。
 弓なりにたわんだ稲に似た野の草の葉にキリギリスが止まっているのが目には入った。いつもは細い木の枝に玉葱の切れ端を刺して原っぱに置いて採った。
 今日は蛙の舌みたいにすばやく手を伸ばして捕まえた。
 そしてまず触角をちぎり、羽をむしり、六本の足を一本ずつ抜き、最後に胴体と尻尾の境目あたりを二つに引きちぎった。
 気がついたとき、隆二は蜥蜴とキリギリスの切れ端を去年の枯れた草の茎に刺してはりつけにしていた。
 しかし帰りがけに思い直し、茎から亡骸を外すと、草の間に穴を掘り埋めた。
 百貫デブ、ててなし子、とはやしたてる利司の声も耳の奥から遠のいていった。
 
「おい、隆二、聞てるんのか? ぼんやりして……」
 隆二は利司の声に我に返って仲間を見た。
「武夫の奴、パラダイスは奴の縄張りだって言うんだ。明日から俺たちには使わせないって言いやがる。口惜しかったら決闘で決着をつけるようって……」と利司は続けた。
「それで、利ちゃん、どうするつもり?」
「うん、もちろん受けて立つさ。名折れになるからな。漫画の三銃士に出てくる決闘というのを一回やってみたかったんだ」
「どこで決闘するの?」
 隆二は訊いた。
「ああ、パラダイスの真ん中ぐらいにいつも野球をやっている広場みたいなところがあるだろ? あそこだ。午後五時に来いと書いてある」
 そう言って、利司は半紙に墨で書かれた手紙をみんなに見せた。手紙は時代劇をまねたのか半紙の両端を折ってあり、表に果し状と書いてある。墨が半紙に泌んでいるし、字も幼稚だ。
「武夫が書いたのかな? 下手だなあ」と正吉が言った。
「うん、武夫だ。彼、時代劇が好きなんだ。よくひとり、パラダイスで木刀を振るってるぜ。何かぶつぶつ独り言を言いながら、あいつ、気が狂ってるんじゃないか?」
 隆二が言うとみんなが笑った。利司だけは笑わなかった。
「おい、そんなことより今日みんなを呼んだのは、俺が武夫と決闘している間、他の者が手出ししないように監視してほしいんだ。 喧嘩は任せておけ。パラダイスを独りじめにされてたまるか」
 利司は胸を張った。餓鬼大将はいばっているだけではみんなが従いて来ない。隆二は自分だったら逃げ出してしまうのではないか、と恐れた。いざというときにどうするかが、餓鬼大将の価値を決めると思った。
 ターザン小屋の大きな樫の樹がざわめいている。風が出て来たのだろうか。隆二は、ふと、これで雨でも降り出せば絶好の決闘日和になるなあなんて無責任なことを考えて興奮している自分を感じた。
 生暖かい風が原っぱを吹き抜け、大粒の雨が落ちだして乾いた白い土が黒く潤んだ。空にはまっ黒な雲が広がる。黒い雲から漏れたうすれ陽が乱れる雲に暗黒と金色の明暗を際立たせ、やがて、雲間に雷鳴が轟き、原っぱの向こうが見えないほど激しい雨が降りしきる。
 隆二はそんな風景が決闘という言葉に似つかわしいと思った。利司が決闘に負けるとは思わないが、武夫もなかなか根性があるとの噂だ。その不安が彼に暗い風景を思い浮かばせたのかもしれない。
 隆二はこの原っぱとともに育った。パラダイスで遊べないなんて考えられない。たとえ、利司が決闘に負けても遊びに行こうと密かに思っていた。
 パラダイスは隆二の家に隣接して、この町では珍しい舗装道路を隔てた西側に広がっている。家の縁先から眺めると道は見えないのでパラダイス全体が彼の家の庭に見える。
 春はあの辺に奇麗な花が一面に咲き乱れる。夏はバッタを捕まえる。秋には爆弾の池の縁で赤トンボが群れて産卵する。冬は枯れた黄土色の原っぱが一晩で白い世界に変わった。
 隆二はパラダイスの遇ずみまで知っていた。
 小学二年生の春だった。パラダイスの野の草の中で美佐子とふたりでおしっこをした。美佐子とそれぞれに違った大事なところを見せあった。隆二が小さな丘を手で触ると美佐子は静かに目をつむっておとなしかった。手を離すと美佐子は「いや」と小さい声で言った。
 またひとり、野草の海を渡って小学校まで行って、母に心配をかけたこともある。幼い隆二にとってパラダイスの向こうには何か素晴らしいことが待っている気がした。そのとき、彼は世界の果てまで歩き続けるつもりだった。
 隆二の心にはこの原っぱでの数かずの思い出が詰まっていた。彼が感じる自然への思いや虫たちとの出会いや生きているものへの八つ当たりなど、彼の心を育ててきた源はすべてパラダイスの中から生まれてきたように思える。身体が鍛えられたのもこのパラダイスを駆け回ったお陰だ。
 誰にも独りじめされたくないし、犯されたくない。広いパラダイスは隆二や武夫だけでなく、この原っぱに接している他の町の子どもたちの世界でもある。あの三次がこのことを聞き付けて隆二や武夫たち他の町の子どもたちを程め出したら、隆二は三次に決闘を申し込む勇気を持とうと思っている。パラダイスにはみんなの心が詰まっているのだから。
 三次が住んでいる町からは離れているけれど、何かの折りに出張ってくるとも限らない。それで、隆二は利司も武夫も仲良くしてほしかった。でも、言い出せない。そんなことを言おうものなら、利司はきっと怒り出すに決まっている。
「てめえ、どっちの味方だ。もう遊んでやらないぞ」
 隆二は仲間外れにされるのがこわかった。
 利司に率いられて、パラダイスの広場に着くと武夫は来ていた。利司たちを見て武夫の子分たちが少しざわついた。それを制するつもりか、武夫は強がりを言う。
「なんだ。憶病者、ひとりでは来られないのか」
「何、言ってるんだ。てめえこそ仲間を連れて来たじゃないか。俺がこわいんだろう?」
「なんで、てめえなんかこわいもんか。こいつらは監視役さ。利司は汚いことをするからな」
「てめえこそ、汚い真似をすんなよ」
 利司はやり返す。相手も隆二たちも身構えた。
 利司と武夫は睨みあったまま動かない。仕掛けた方が負けるとでも思っているのだろうか。
 雲がさらに黒さを増したように思える。隆二が願っていた決闘にふさわしい天候になりつつあった。野の草が雲の暗さを映して灰色っぽい緑色に見えた。
「さあ、来い。てめえに負けるような俺じゃないぜ。おじけづいたのか? 弱い癖に決闘なんてちゃんちゃらおかしいぜ」
 利司はいつでも応戦出来る姿勢で挑発する。それをきっかけに武夫が、わあーっと、声を上げて殴りかかった。
 利司は待っていたのか武夫の足をすくった。ひっくり返る武夫に利司は馬乗りになって殴る。武夫も負けていない。下から利司の顔をところかまわず殴った。
 そのときだった。小学校の方から、「おーい、みんな、やめるんだ」と海軍帰りの先生の声が聞こえてきた。女の子もこちらに向かって走って来る。監視役たちは浮き足立つ。利司と武夫は必死なので気が付かない。他のものはほとんど草むらの中に飛び込むみたいに逃げてしまった。原っぱの表面に蛇行する影が走って散っていく。
 残ったのは決闘しているふたりと隆二と正吉だった。ようやく現場たどり着いた先生の後ろに美佐子が隠れるように立っていた。
「また、おまえたちか」
 先生は帰り支度の途中だったのかトレーパンにワイシャツ姿だった。袖を肘までまくり、自分も喧嘩に参加しかねない勢いだ。
「何でこうなったか説明してみろ。理由次第で思う存分やらしてやろう。おい、利司、口から血が出ているぞ。ほれ、チリ紙だ。武夫も顔が泥だらけじゃないか」
 ふたりは荒い息づかいで黙って下を向いている。
「わけを言えないなら、それでいい。明日の朝までここに正座しておけ。隆二、おまえ、学級委員だろ、上級生だろうと悪いことはけじめをつけろ。何故、止めなかった」
 隆二も申し開きが出来ない。腰に差していた栗の木刀はうまく身体の後ろに隠したが、どこかぎこちない。
「先生、利ちゃんたち、このパラダイスを賭けて決闘していたんです。この原っぱはみんなのものなのに……」
 美佐子が先生の後ろから言う。彼女にとってもパラダイスはかけがいのないものらしい。
 風が強くなり周りがさわさわと鳴った。
 利司は先生の手前、下を向いておとなしくしているが、ときどき、ちらっと美佐子を盗み見る。寂しい顔だった。もしかしたら、彼も美佐子を好きなのかもしれない。餓鬼大将の権威が落ちるとでも思って我慢しているのだろうか。隆二はそう思うと、急に利司に今までなかった親しみを感じた。
 利司と武夫は相変わらず黙りこくっている。ふたりとも餓鬼大将だけあってしぶとい。先生はふたりの意気
を感じたのだろうか、あっさりと言った。
「よし、わかった。おまえたちは何にも言わないつもりだな。暗くなるから今日は許してやる。明日の朝、ふたりで職員室に来い。それから、隆二と正吉は一週間、罰として学校の便所掃除だ」
 逃げてしまった友だちの顔が浮かんだが、隆二たちは黙って頷く。パラダイスで遊べるのならそれでいい。
いつの間にか空も晴れて、西の空に宵の明星が煌めき始めていた。隆二は東の空にうっすらと見える暗い星を空から採ってぴかぴかに磨いてやりたい、と思った。

日が短くなった。
 再び、基地拡張の強制測量が行われ、警官隊と反対派市民双方に百人もの負傷者が出た秋も終わり、初冬の夕方だった。パラダイス決闘事件でのびのびになっていたが、隆二と正吉は前から約束していた栗の木刀の材料を取りに三次のいる町の栗林に行った。幸い、三次には見つからなかった。正吉が一緒なので見つかったら、うまく逃げられなかったかもしれない。栗林は葉を落とし始めていて、花を咲かせる春先のむせかえりそうな、男の体液に似たあの匂いから想像出来ない、枯れた落ち着きがあった。
 正吉は刀の反りに似た素晴らしい曲線の栗の枝を探してもらって有頂天だ。
 ふたりが隆二の家の前まで帰ってきたときだ。家の玄関にぼんやりと人が立っている。隆二は、暗い街灯にすかして見ると美佐子だった。
「どうしたの? ぼっと立って……、夏だったら幽霊と間違えるじゃないか」
 隆二がからかっても、いつものと違って黙っている。
「隆ちゃん、今から駅の南口まで一緒に行ってくれる?」「いいけど、どうしたの?」
「おばあちゃんが死んだの」
 そう言って美佐子は右手に握り程めていた電報を隆二に差し出した。よほど、強く握っていたのか、電文を 読むために皺を伸ばすのに苦労した。暗い街灯の光に美佐子の目に涙が光った。
「お母さんに早く知らせなくちゃ。暗い道が多いからついて来て……」
「それじゃ、早くいかなくちゃ」
 隆二は、いつも姉貴ぶってる美佐子が今日に限って頼り切っているのが嬉しかった。そばで正吉がどうしてよいか分からないのかぼっととしている。
「正ちゃん、じゃあ、明日でも木刀を作るの手伝ってあげるよ」
 正吉は美佐子に気を使って嬉しさを隠すようにくるっと向きを変えると家の方に駆けて行った。
「さあ、急ごうか、パラダイスを横切るよ」
 美佐子は普段の元気がない。黙って頷くと後から従いて来る。
 パラダイスは真っ暗だった。暗闇の向こう、小学校辺に明かりが一つ、宿直室の灯だろうか。そのさらに向こうのわずかに夕焼けの気配を残す暗い空は、駅前辺りの街の光茫を映し始めていた。パラダイスを自分の庭のように思っていたのに、夜はまったく違う表情をしている。 人が死ぬと、夜、人魂が何処かに飛んで行くという。美佐子のおばあちゃんの魂もパラダイスに来ているかもしれない。ふたりはいつの間にか自然に手をつないでいた。隆二にもよく分からなかったが、人が死んだ、しかも美佐子のおばあちゃんが……、ふたりは素直に手がつなげた。手を通じて美佐子のぬくもりと鼓動が伝わってくる。
 夏の終わりにパラダイスに残るトーチカの廃墟で感じた、あの陶酔に似た甘い感覚はなかったけれど、彼女を普段より身近に感じた。
 駅へ通じる踏分け道は暗かった。しかし何故か踏み敷かれた野草が光っているように隆二には思えた。美佐子の祖母が導いてくれているのかもしれないな、と思った。
パラダイスの一本榎が草むらの果てに黒く見えた。道は間違っていない。あの榎の大木の下に出れば駅への道に出られる。
 寒くなって来た。美佐子はほとんど口をきかない。
基地のゲートに近い中心街に出ると急に辺は騒がしくなって、ネオンが英語を書いたり、カーボーイのハットを描いたりして、輝いていた。
 街にはアメリカ兵が溢れている。ロングスカートをはき、派手な化粧をした娘たちも街角に屯していた。娘たちはアメリカ兵に心まで売り渡したのだろうか。隆二にはその娘たちの顔がみんな、同じに見えた。ネオンに飾り立てられた店も裏側は、所どころ羽目板がはずれ、屋根は赤くさび付いたトタンで木造の家だ。店と店の間の路地は細くて暗く、奥がどうなっているか分からないくらいだった。その暗闇を大通りの光が薄めた路地の片遇で、アメリカ兵と日本娘がしっかりと抱き合ってうごめいている。
 ふたりはそんな光景を出来るだけ見ないように手をつないだまま駅へ向かって歩いた。派手な娘の群れから隆二たちに声がかけられる。
「手をつないで何処に行くんだい。羨ましいねぇ」
 そして、下品な笑い声がふたりの後を追う。娘たちはとっくの昔に失くしてしまった、それでもそっと心のどこかに今も清らかに隠しもっている、透明な思いをふと思い出して羨やんでいるのだろうか、笑いのなかに暖かさがあった。
 ふたりは手を離さなかった。前を向いて急いだ。
繁華街を過ぎると正面に駅の北口が見えて来た。右手に基地の入口がある。明るい照明に照らされた検問所の白い、小さな建物が見えた。白いヘルメットを被ったMPが基地に入る車をチエックしている。緑に縁取られた白いコンクリート舗装の道が基地の中にまっすぐ続いていた。
 線路を潜って、駅の南口に出る地下道は暗く幅も狭い。ここでもアメリカ兵が子どものような日本娘とキスしたまま動かない。
 空気が淀んでいるのか尿の臭いが立ちこめていた。地下道の壁際には浮浪者が毛布にくるまって転がっている。 美佐子だけだったら……、と隆二は思う。心なしか美佐子の手に力が入った。そして、彼女は彼により添ってきた。隆二は守らなければ、と思い込む。上を電車が通過している地下道を抜けて南口に出てしばらく行くと旅館街に出た。
「あらっ、美佐ちゃんじゃないの。どうしたの。夜に来ちゃいけないって、お母さんに言われてるんでしょ?」
 さっき出会った娘たちと同じロングスカートをはいて化粧の濃い女が声をかけてきた。そばで見ると、まだあどけなさの残る顔をしている。
「あっ、ミッキー、母いる?」
「うん、いるよ。今日、お客さん少ないの。遅くなったら忙しくなるかもしれないから御飯食べといでって、お母さんに言われたの」
 ミッキーは美佐子の店の子らしい。彼女は美佐子たちに右手を振ってバイバイと会釈すると、駅の方に急ぎ足で歩いて行った。
 美佐子の家が経営している店は旅館のような雰囲気だった。屋根は黒い日本瓦で葺かれ、どっしりとしていたが壁のはめ板は黒く煤けていた。それでも玄関までのわずかな間の飛び石には打ち水が渇かないで光っていた。付近には同じようなたたずまいの家が何軒か並んでいる。門に屋号を示す看板の灯がぼっと浮かんでいた。
 ふたりは裏に行ったけれど聞こえないのか誰も出て来ないので玄関に廻った。引戸を開けて中に入ると広い
土間になっている。上がり框が磨き立てられ黒光りしていた。
 誰も出て来ない。静まり返っている。玄関の奥に廊下が続いている。その両脇に小さな部屋が並んでいる。 そのとき、隆二はその小さな部屋から女の苦しそうなうめき声を聞いたような気がした。なんとなく美佐子に顔を見られるのが恥ずかしい思いだった。男が女にお金を払って何かをしている。女にとって苦しいことなのだろうか。
 隆二の母も祖母も美佐子の家のことをパンパン宿と蔑むが、何にも教えてくれない。パンパンを密かに国語辞典を引いてみるが、やみの女としか書いてない。何のことなのかさっぱり分からないじゃないか。
 隆二の母は、女の生血を吸って生きてるなんて許せない、と憤っている。しかし母も日本人が内心蔑んでいる基地で進駐軍の仕事をしているし、母同士、家の前で結構井戸端会議をやっている。隆二には大人たちの気持ちが分からなかった。
 どうであれ、美佐子は普通の女の子だ。暗い玄関に立っている美佐子は祖母の死に接して元気がないが、隆二には充分輝いて見えた。
 玄関の気配に美佐子の母が出て来た。和服がよく似合っている。着物の裾を気にしながら急ぎ足で出て来た母は娘が玄関に立っているので驚く。
「ここには来てはいけないと言ったでしょ。隆ちゃんも……? どうしたの?」
「おばあちゃんが死んだって……」
 彼女の母ははっとしたようだ。美佐子は小さな運動靴を脱ぐと母の胸に飛び込んだ。
 肩がしゃくっている。隆二も悲しくなった。
 そのとき、小さな部屋から短い髪の若い男が出て来た。部屋の中から女の声が男を送っている。男は玄関に子どもがいるので、一瞬足を止めた。そして思い直したように生気のない顔を伏せ、下を向いて横を擦り抜けた。
「すいませんねぇ。ちょっと取り込んでまして__、また、どうぞ」
 美佐子の母が客に投げかけた言葉が妙に隆二の耳に残った。
「美佐子、奥で待ってて。すぐ帰るから」
「じゃ、ぼく、先に帰ります」
「隆ちゃん、おばさんたちもどうせ、今から帰るから一緒に帰りましょうよ。あなたがいてくれたら心強いわ」
 隆二もそう言われると悪い気がしない。
「じゃ、外で待っています」
 彼はしっかりした口調で言った。
「寒いからあがりなさいよ」
 美佐子の母は言った。しかし彼は意地でもあがらないつもりだった。
 外は寒い。門の前に立っているとさっきと同じような男たちが隆二をちらっと見て行く。子どもが立っているのに戸惑っているのだろうか。誰かが子連れでここへ来ているとでも思うのだろうか、みんな心なしか歩幅を緩めるのだ。
 空を見上げる。駅に近いわりには周辺が暗いせいか、星がじぃーんという音が今にも聞こえそうに煌めいていた。
 星を見つめて首が痛くなったとき、美佐子たちが出てきた。
「お待たせ、隆ちゃん、おなか空いたでしょ? 駅前でラーメンでも食べない? これから用意してお葬式に山梨まで行くの。駅で時間を調べる間、美佐子につきあってくれる?」
「お母さん、わたし、食べたくない」
「だめ、今晩中に山梨に行くんだから、何か食べとかなくちゃね」
「隆ちゃん、頼むわね」
 隆二は黙って頷く。言われてみれば、何にも食べていない。美佐子はまだ嫌がっている。
 駅前に近づくと、街頭テレビの前にたくさんの人たちが集まっていて歩きにくいくらいだった。白黒の画面に光の線が無数に走っている。そろそろプロレスが始まるのだろうか。見たいなあ、と隆二は思った。三人とも画面を出来るだけ見ないようにしてテレビの前を通った。
ラメーン屋は煙草の焦げ跡が無数にある木のカウンターに椅子が七、八席あり、客は年配の男女だけでラーメンをすすっていた。床を小さなゴキブリが走り廻っている。
「いらしゃい。毎度、何にしましょ?」
ラーメン屋のおやじは美佐子の母と顔見知りらしく笑顔を向けた。壁にラーメン四十円也と書いてある。
「わたしはいらないけど、子どもたちにラーメン二つ。駅にちょっと時間を調べに行く間、ふたり、頼むわ」
「へい」おやじは気軽に返事をする。
 うまかった。美佐子も黙って食べている。おなかの中が暖まって、ようやく落ち着くことが出来た。おやじが冷たい水を出してくれた。ふたりは、一気に水を飲み干した。それもうまかった。
美佐子は隆二の顔を見て少し笑った。これから、夜汽車に乗って祖母のもとに駆けつけなければならない。何とか元気づけてやりたい。隆二は美佐子の大きな目と勝ち気で、明るい性格が好きだった。それなのに大人たちからパンパン宿の娘と、いわれのない差別を受けているのが腹だたしい。
「お待ちどう。二十一時の長野行きに乗れそう」
 美佐子の母は、ラーメン屋のおやじにお金を払いながら言った。
帰りのパラダイスは三人だったので行きほど緊張しないで済んだ。
パラダイスを歩きながら、隆二はふと三次を思い出した。三次の親は何をしているのだろうか。噂は手のつけられない不良で、中学生だけど大人のような悪さをするという。それなら、原っぱで女の子を襲っているかもしれない。
 このところずっと三次の幻影につきまとわれている気がする。自分と違って心の赴くままの行動が羨ましいのかもしれない。隆二はすぐ狭い枠の中に自分の思いをはめ込んでしまう。それなのに三次には枠なんかない。隆二がいけないと思っていることや大人になったらしてみたいことを三次はやっているように思う。この間は、町の神社の賽銭を盗んで、羽衣町の遊廓を徘徊していたという。何か事件が起きるとすべて三次の仕業になってしまうのだ。
 しかし、仲間のうちで実際に三次に遭遇した奴は誰もいない。本当にそんな少年があの町にいるのだろうか。 パラダイスの東、家の灯が暖かく見える。隆二は祖母に何にも言わないで出て来たので、仕事から帰ってきた母が心配しているかもしれない、と思った。
 汽車の汽笛が聞こえる。三次の住む町境の引込線を久しぶりで貨物列車が通過しているのだろうか。

その年の冬は寒かった。イタリアで行われた第七回冬季オリンピックでトニー・ザイラーがアルペン三冠王になったのを校外学習で見た映画鑑賞のニュースで知った。
 パラダイスの爆弾の池にも氷が張った。上に乗っても割れそうもないほど厚い氷だ。
 隆二は学校の帰りに望遠鏡がついた器械を肩に担ぎ、巻尺や赤と白のまだらの木の棒を持った大人たちにパラダイスで出会った。彼等は器械で測りながら、頭が赤い小さな木杭をパラダイスに打ち込んでいく。班長らしい年かさの男は図面を広げてしきりに他の男を指図している。杭を打つ音がパラダイスに響く。そして、爆弾の池に音の波紋が広がっていった。
「おじさん、何やってるの?」
「ここに競輪場を造る測量さ」
「じゃ、この原っぱなくなるの?」
「そうなるねぇ。邪魔だからどいてくれないか」
 班長らしい男はそう言って、望遠鏡みたいな器械を覗きながら隆二をどける。赤い杭が冬枯れで鳶色をしたパラダイスに容赦なく打ち込まれていく。
 春には原っぱの何処からか雲雀が空に上っていく。精一杯、さえずりながら__。美佐子と遊んだ、ふたりの思い出の詰め込まれたパラダイス、決闘までして守ろうとしたパラダイスを、今、大人たちが踏みにじろうとしている。バッタたちも池に産卵したトンボたちも蛙もパラダイスの生き物はみんな棲家を奪われてしまうのだ。
「おじさん、ここは俺たちの原っぱだい」
 隆二は訳の分からない怒りが込み上げてきた。そして、持って行き場のない怒りがやがて悲しみに変わった。隆二は無言で班長らしい男とも池ともつかない方向にに向かって石を投げた。男は不思議そうに隆二を眺めている。
「おじさんたちも頼まれただけなんだ」
 男は隆二の様子に困って言い訳をした。でも、測量は続けられている。隆二はどうにかしてこの大人たちの計画を思いとどまらせたい。
 早く美佐子や利司たち、みんなに知らせなければ、と思う。
 パラダイスのことを利司たちに話したが、誰にも妙案があるわけでなかった。美佐子は黙って唇を噛みしめている。利司もどうすることも出来ないらしく、例の大人みたいな難しい顔をしていた。
「草むらの陰から、パチンコで男たちを打ったら止めるかしら」
 美佐子が提案した。
「目にでも当ったらどうするんだい?」
 利司が言うと、美佐子は黙り込んだ。
「それより、三次に相談しょうよ。奴、いい考えがあるかもしれない」
「三次ってどこにいるの?」
 美佐子が聞いても誰も知らない。黙っている。
「なーんだ。誰も会ったことないの? それじゃ、相談のしょうがないわ」
 パラダイスの周りで子どもなりに議論するうちに日が過ぎ、測量は捗っていく。隆二たちの親も心配しているが、生活に追われ、どうするあてもない。
隆二は市役所に行っている叔父に様子を聞いてみた。当時としては珍しい大型ブルドーザーを使った造成工事は今年の秋から始まるらしい。パラダイスの向こうの富士山も見えなくなるくらい高いスタンドが建つという。
「ブルドーザーって、どんなの?」
 と隆二が聞くと叔父は答えた。
「戦車のようにキャタピラがあって、土を削り押す機械さ」
「俺、競輪場嫌だ。パラダイスがなくなるもの」
「おまえの土地じゃないんだ。反対しても駄目だろうね。競輪場ができれば、たくさんの人がやってくる。町のお金も増えるし、住んでる人の仕事も増える。進駐軍だけに頼った生活からも抜け出せる。いいじゃないか。原っぱは他にもあるんだから」
 叔父は言った。
「パラダイスは一番広いんだ。野球も三角ベースじゃなくて正式なのができるのに、とんぼが卵を産む爆弾の池もあるよ」
 隆二は一生懸命訴える。が、叔父は取り合ってくれなかった。それどころか、煙草の火をつけながら険しい顔を隆二に向けた。
紫の煙が目にしみた。

 パラダイスのことで悩み、春が来た。モナコ大公が母が好きだといっていたアメリカハリウッド女優グレース・ケリーと結婚したと新聞に大きな写真が載っていた。隆二も大人になったら、美佐子と結婚したい、と漠然と考えていた。
 隆二は六年生になった。パラダイスにも白、黄色、赤、紫、桃色などいろとりどり、野の草が咲き乱れた。これも今年限りだと思うと隆二は諦め切れない気持ちで、パラダイスの花を押し花にしたくなった。図書室で名前を調べ、パラダイスの花を摘む。美佐子も熱心に手伝ってくれた。いや、手伝うというより進んで熱中したといった方がいい。春の日差しがきついのか、美佐子の額に汗が滲む。隆二は人指し指で美佐子の額を触ってなめた。
「うあ、しょぱい、美佐ちゃんのおでこ、塩辛いよ」
「隆ちゃんのも塩辛いに決まってるわ」
 そう言って美佐子も隆二の額に触れる。顔を見合わせて笑った。何も言わなくてもふたりの心は通じていた。この頃、学校でもふたりでいると他の子どもたちがはやし立てる。
「隆二と美佐子、もう結婚したのか? あれやったか?」
 隆二は恥ずかしかったけれど、心ははやし立てられるのを期待していた。なんだか分からないが、からかわれるのが楽しいのだ。
 たんぽぽ、きんぽうげ、おおいぬふぐり、ははこぐさ、ほとけのざ、のげし、おにたびらこ、からすのえんどう、おおばこなど、図鑑を調べて名前を確認しながら次つぎに押し花にした。花を挾んだ新聞紙がだんだん増えていく。
 何日か過ぎて、押し花が出来ると、美佐子が丁寧に画用紙に張る。そして、隆二が台紙の遇に採集した月日、場所、名前それにふたりの名前を書いた。隆二はふたりの名前がいつまでもこの押し花とともに並んでいることを祈る。
 来年には中学生になる。学校もクラスも違うかもしれない。隆二は何故か、そのとき、中学生なったら美佐子と離ればなれになるのでないかという予感がした。
 パラダイスは、まだ昔のまま、野の草が生い繁り、ようやく初夏を迎えようとしていた。

 冷たい夏が過ぎて、秋は早かった。また基地拡張の強制測量で警官隊と反対派市民が激突し、二百六十四人の負傷者が出て、政府は測量の中止を決定した、と新聞が報道した。
 母はまだ秋の衣類を出してくれていなかった。隆二は夜の冷え込みに慌てた。
 パラダイスにも秋が来て、草むらが急速に勢いを失っていった。それを待っていたかのように大型ブルドーザーがパラダイスの爆弾の池を埋め、高射砲陣地の廃墟を破壊し始めていた。そして、野の草も土の間に鋤き込まれて、辺はみるみる土色に変化していく。パラダイスに巣があった小鳥や昆虫たちはどうしたのだろうか。
 やがて、工事区域の周りには仮設の塀が出来て、中の様子も見えなくなった。学校へ行くのもパラダイスを横切れない。塀に沿って新しく造られた道を遠廻りしなければならなかった。
 隆二が放課後、掃除当番を終わって校門を出ると美佐子が待っていた。俯いて元気がない。下を向いたまま隆二の後から従いて来る。
 美佐子が突然、彼の背中に言った。
「隆ちゃん、わたし__、中学生になったら山梨に行くことになったの。でも、行きたくないわ」
 隆二も美佐子と同じ中学校で勉強がしたかった。彼は平静を装って聞く。
「どうして?」
「うん、おばあちゃんが死んで、田舎はおじいちゃん独りになちゃたから、お母さんが帰ってあげないとね。それにうちの商売、法律で禁止されるんだって。この際、わたしのためにやめようって、両親が話していたわ」
 隆二は美佐子がいわれのない差別から解放されるのが嬉しい。そのためには美佐子と別れなければならない。
「中学生になるまで、隆ちゃんと出来る限り長く一緒にいたいわ」
「美佐ちゃん、こっちに残れよ」
 隆二が無理を言うと美佐子の顔が嬉しそうに一瞬、輝いたがすぐ曇った。
「無理ね。父も一緒に行って、農業するんだって。家と店を売れば四人ぐらいどうにか暮らせるだろうって」
 美佐子は寝た振りをして両親の話を聞いたという。
 隆二は自分が急に元気がなくなっていくのが分かった。
 その日、隆二は美佐子を三次が棲む町の雑木林に行こうと誘った。彼女が行ってしまう前に隆二が心から大切にしているものを見せておきたい、と思った。パラダイスの草原でふたり分だけの草をなぎ倒して、そこに仰向けに寝ころんでいつまでも青い空をいつまでも眺めていたい。そして、あの小川の畔で箱庭をふたりで作り、小川に真っ赤な紅葉の葉を流してみたい。ふたりの流した二枚の木の葉が、いつか重なり合うのを隆二は空想していた。
 隆二と美佐子が三次の町の雑木林に行ったのは十二月、最初の日曜日だった。南半球最初のオリンピックがメルボルンで開催されていた。隆二は体操と水泳を応援している。
 引込線の踏切を渡ると、荒れ果てた母子寮に近い薄が原は銀色に輝いていた。母子寮にはまだ、人が住んでいるらしい。窓に洗濯物が見える。隆二と美佐子はしっかり手をつないで薄が原を歩いて行った。
 もうすぐ栗林に続く雑木林が見えるはずだった。しかし薄が原が尽きても小川の流れる雑木林は見つからなかった。しばらく来ない間に雑木林は切られ、アメリカ兵相手の白いハウスが建てられている。
 隆二が密かに大切にしていた小川は、ひからびて底に亀裂が走っていた。下水替わりに使われているらしく所どころの水溜はドブのように淀んで悪臭を放っている。あの秋の陽に煌めいていたせせらぎは何処に行ってしまったのだろうか。
 そのとき、隆二は冷ややかな笑いを浮かべた三次の覚めた目を感じた。

 競輪の車券を握り程め、投票窓口に向かう大人の群れを横目で見ながら、隆二は夢を育ててくれたパラダイスの一本榎をいつまでも見つめた。そしてさらに夢の続きを見たいと思った。
                                       了