花四季彩-小説『氷の箱』

  氷 の 箱

                  野 元  正




 日曜日なのに、朝早く目が覚めた。
 サチエがアパートに越してくる日だから、たぶん気分が昂ぶっているのだろうと思う。パイプ製の粗末なベッドの上で大きな伸びをする。ベッドの骨組みと身体のどこかが軋んだ。ふだんなら、日曜日は昼まで眠ることにしている。そしてだらだらと起きだして窓のカーテンをぼんやりした意識で開け、眩しい陽の光に目覚めることが多かった。
 仕事に行く日は、目覚し時計を枕元に二つ置いて寝る。それでも行男は夢の中で非常ベルのようなけたましさを波の音みたいに聞きながら、心地よい眠りをむさぼって何回か寝過ごした。
 ベッドから起きて、築二十五年に近いアパートの木枠の窓をそっと開ける。力を入れないのが、この窓をうまく開けるこつだ。勢いをつければつけるほど引っかかって、狂った敷居に風雨が刻んだ木目をじっと見つめてしまうことになる。
 外は雨だった。
 梅雨の季節だから仕方がないにしても、もう何日も降りつづいている。サチエとは結婚式をあげることなど話題にもならないで、なんとなく一緒に住むことになってしまった。
 せめて天気ぐらいよい日になってほしい、と行男は思った。それも澄みきった蒼い空と輝く陽光を望んでいるわけでもない。ただ雨さえ降っていなければいいのだ。 窓の前には大きな樟の木があって、空はあまり見えなかった。若葉の季節から夏の終りまではさわやかな空気と木漏れ日の涼やかさを行男の部屋にもたらしてくれるが、秋から冬の間はいつもアパートを灰色の靄のような暗さで覆ってしまうのだった。
 樟の葉からしきりに水滴が落ちている。
 行男は振り返って部屋の中を見まわした。敷きっぱなしの布団が人型のぬけがらをつくり、広げたままの雑誌や新聞、吸い殻のたまった灰皿やビールのアルミ缶、使いさしのティシューペーパーの箱や昨日着たズボンやTシャツなどが散らばっている。起きたときは、すぐ掃除にとりかかろうと思っていたが、雨の滴を見ているうちに湿った気分が忍び込んできて億劫になった。
 行男は店主と奥さんだけの小さな運送屋に勤めている。高校を卒業して一年ぐらいコンビニエンスストアなどでフリーターをしていたが、運転免許を取った機会にこの運送屋に就職した。父が中学二年のときに病死したあと、苦労をかけた母を安心させるためだった。
 あれから八年になる。その間に母も子宮癌で死んだ。行男の周りには誰も身内がいなくなった。
 サチエには、引っ越しは友達と手伝うよ、と伝えた。「初めくらい、あなたに苦労をかけたくないから、どこかの引越屋に頼むわ」
 サチエはきかなかった。
「それじゃ、高くつくよ。車ぐらい社長に頼めば貸してくれるさ」
 ふたりの生活が始まるのに無駄な金を使わしたくなかったし、引っ越しの手際は唯一、自慢できる取り柄だったから、何だか淋しい気持ちになった。それでもサチエはうなずかなかった。

 サチエとはお客さんとして知り合った。彼女の引っ越しに偶然、運送屋として行ったのがきっかけだった。
 行男が運転する二トントラックで荷物を運んだ。サチエをはさんで社長が助手席に乗った。彼女は色白の丸顔で目が大きく、白い額は輝いている。長い髪のほつれ毛が頬にかかり、少しやつれて見えた。狭い車内に女の匂いがたちこめる。行男はなぜかハンドルを握る手に力が入り、暑くもないのに額に汗が滲んだ。
 荷物は洋服ダンスと整理ダンス各一つ、小さなテレビ、洗濯機、ふとん一袋、衣類が入っているらしい軽い段ボール箱が二つ、それに冷蔵庫だけだ。ただ、冷蔵庫は、幅が九十センチぐらいあり、高さがちょうど行男の背丈くらいある純白の大きいやつだった。他のつつましい荷物と不釣り合いでサチエに似合わないような気がした。 行男は何度も両開きのドアを開けたい誘惑にかられた。 部屋は独身女性専用アパートの二階だった。一番重たい冷蔵庫を残して、他の荷物はあまり時間がかからないで片づいた。
 行男はキルティングの養生布と荷を担ぐ布ベルトを持ったたままどう運ぶか考えながら、冷蔵庫を眺めた。
「それ、大きいでしょ? 結婚するとき、長く使うから子供が生まれても便利なように大きいのにしたの。でも、無駄になったわ」
 サチエが行男の背中に言った。振り返ると、淋しそうに笑っている。そして遠くを見るように目を細めた。
 階段を上がりきったところで社長は、少し休もう、と言った。冷蔵庫を廊下に下ろしても、肩に軽いしびれが残った。ふたりは打合せたようにタバコを取り出し、火をつける。流れる汗と煙で目がしみる。
 ようやく部屋に運びこむと、サチエは台所の真ん中にぼんやり立っている。
「どこに置きますか」
 社長は薄くなりかけた額の髪を手でかきあげ、首に巻いたタオルで汗を拭きながら訊いた。なかなか返事が返ってこない。
 しばらくして、サチエは流しの横の壁を黙って指差した。行男たちは冷蔵庫をそこに据える。その瞬間、流しが使いにくいんじゃないかな、と行男は思った。
「大きすぎるのよね、これ。やっぱ、あっちにしようかしら?」
 サチエは行男たちにすまなそうな顔を向け、居間に入るガラスの開き戸に近い壁を指差した。
「そこ、出入りの邪魔になるんじゃないですか」
 社長はあちこち運ばされたらかなわないという感じで言った。半畳の玄関を入ったところの右手がすぐ流しで、台所の板の間全体が三畳くらいしかない。この図体では置くところが限られる。入口の正面で少しおかしいけれど、玄関から見てつきあたりの壁しかない。
 行男はサチエに「この壁は?」と訊いた。それでも考え込んでいる。
「居間から見えるところがいいのよね。冷蔵庫を見ていると落ち着くの。でも……、仕方ないかしら」
 どうにか場所が決まった。
 冷蔵庫を据え、電源を入れると、幽かな運転音が聞こえ、台所が急に落ち着いた空間になったみたいに思えた。 サチエは行男たちにドリンクでも出すつもりか、冷蔵庫を開ける。一瞬、内部が橙色のライトにぼっと照らしだされる。ピラーレスとかいう仕切りのない形で、鮮やかな色彩が行男の目に飛び込んできた。すべてがきちんと整頓されている。そのとき、行男は自分の部屋にある小さな冷蔵庫を思い出していた。
 もう八年以上になる古い型で運転音も高い。霜取り装置もときどき十分、働かなくなることがある。ピックの先でこびりついた霜をかき落とさなければならない羽目に陥る。またときには逆に作動し過ぎて、床を水びたしにすることもあった。ソースや醤油や食品の汁がこぼれて、焦茶色がかったペースト状の汚れがあちこちに付着して取れなくなっている。中の豆電球もよく切れる。夜中に喉が乾いてもミルクのパックを手探りで探すことになり、気分を滅入らせる。
 冷蔵庫のドアを開けると、ライトの淡い光にぼっと浮かび上がる真夜中の台所が行男は好きだった。光を発しているのは自分自身のような気がして、とても落ち着いた気持ちになれる。だから不精な行男にしては頻繁に電球を替えるのだが、すぐ切れてしまう。
 サチエは缶ジュースを行男たちに差し出した。液体のほどよい冷たさが、身体の隅々までしみ込んでくるように思えた。
「申し訳ないのですが、居間にちょっとしてほしいことがあるんですけれど……、お願いできます?」
 サチエが突然、遠慮がちに言った。
「だいたい終わりましたけれど……。何か?」
 社長は心配顔で訊く。
「いえ、居間に神棚を吊ってほしいんです」
 事情がよく呑み込めない行男たちは、まだ二十代前半に見えるサチエの顔を見つめた。彼女は段ボール箱のガムテープを剥がしながらつづける。
「わたし、大工仕事が苦手なんです。なげしにこれを釘で止めてほしいんです」
 サチエは小さな板をかざして言った。社長は安心したようにうなずいて行男のほうを見る。
「すまんけど、わし、組合の寄り合いや。先に帰らせてもらうわ。棚、吊ってんか。表通りでタクシー拾うよって、車置いとくさかい。他にもお手伝いすることあったらサービスしてや」
 社長はやくざみたいな顔に笑いを浮べながら、行男に頼んだ。黙って頭を下げ、社長を見送る。
 神棚は簡単にできた。サチエはその上に小さな白木の社殿と榊を活ける花瓶と正月に神社でもらう破魔矢を飾った。
「なんで神棚なんか、祭るんですか」
 若いサチエが信心しているとは思えない。ふだん仕事先でちよっと変わったことがあっても知らん顔を装うのだが、こらえきれなくなって訊いた。
「あっ、それ、両親なの。うち、神道だから」
 サチエはさらりと言った。ひとりぽっちの行男は、境遇が似ていることを知って親近感が湧いた。
 コーヒーがでて、サチエと世間話をした。午後の陽の光が、あまり家具がないがらんとした部屋の白い壁に窓を平行四辺形に象った淡いスクリーンを映しだしていた。ときおり、その光のキャンバスに樹々の葉影がさらさらと風にそよぐ。行男は疲れも肩のしびれも忘れていた。 サチエは夜、隣町の駅前にあるスナックでアルバイトを始め、とにかくひとりで暮らしていくという。
 そのうちに通勤の話になった。サチエは最終電車には間に合うように帰してもらう契約にしたとか。
「ぼくは給料が安いから、車は無理なんでバイクで通っています。風を切り裂くように走るって、とてもすっきりしますよ」
 フルスピードで走っているときの、しびれるような心地よい振動が身体に甦ってくる。
「何CC? わたし、一度乗ってみたいなあ。うしろでいいから……。十九で結婚したでしょ、だから、これからなんでも体験したいの」
 サチエは急に目を輝かせた。
「二百五十CC」
 中古だけれど、よく磨き込まれたアルミエンジンの鈍い輝きとブルーの車体を思い浮べながら、行男は短く答えた。
「よかったら、いつか乗せてくれる? バイクで高速道路を飛ばすのが夢だったの」
 サチエは打ち解けた言葉づかいで言う。
「いつでも……。いつにします?」
 行男は壁に映るスクリーンの光が輝きを増し、部屋の中が急に明るくなったように思えた。
 秋の初め、陽射しが柔らかさを増しはじめたとき、ふたりは高速道路を疾駆して海に行った。行男はずっと背中に暖かさを感じていた。そして浜辺に並んで座り、水平線に夕日が沈むまで話しつづけ、鮮やかな夕焼けが色褪せるのを惜しんだ。
 昼前に部屋が明るくなった。
 雨があがるのかもしれないと、窓を見る。まだ樟の葉さきから雨垂れが落ちている。だが、落ちる速さが鈍って、灰色の辺りを映してさっきまで濁っていた水滴が、透明さを増したように思われる。
 アパートの外に車が止まった。階段を駆けあがる音が近づいてくる。雨の憂欝さを吹き飛ばすような軽快な音だった。
「来てしまったわ」とドアがいきなり開いた。
 戸口にサチエの淡い影が立っている。表が明るくなったせいか顔がよく見えない。行男は見つめる。やがて目が慣れた向こうにサチエが笑っていた。
「うん、……」行男は応じる。初めての経験で結婚式とは、どういうものなのか知らないけれど、式に替わる気のきいた言葉をかけてやりたかった。しかし何も言えなかった。しばらくふたりは黙って立っていた。
 雨の湿気を払うように白っぽい風が、ふたりの間を吹き抜けた。行男は雨があがると思った。
「荷物、どう置いたらいいの?」
 乱雑に散らかった部屋を見て、サチエは言った。
「うん、とにかく部屋に入れてしまおう」
 本当はいらないものを運びだしてから、荷物を入れたほうが段取りがいいと思いながらも言い出しにくかった。サチエの荷物をあてにしているみたいに思われるのがいやだった。
「うん」とサチエは素直にうなずいたが、部屋の広さを見渡して、「でも、ふたつ、いらないものもあるわね」と言葉をついだ。
「大きいほうが都合いいものや、新しくて性能のいいものにしようか」
 行男は気が楽になり、サチエの冷蔵庫を思い浮べて言う。
「そうね。でも……、ふたつあったほうが便利なものや、がらくたでもいろいろあるじゃない? 思い出とかさ、無理してひとつにすることないわ」
「うん……」こんどは行男の番だ。
 サチエの電話はコードレスで留守番機能つきだったから、行男の黒電話はNTTに返すことになった。テレビはアンテナを付け替えるのも面倒だし、行男のがビデオセットつきで新しかった。整理ダンスと洋服ダンスはもともと行男は持っていない。ビニール製のドレスケースはチャックが壊れ、色褪せている。それに仕事がらTシャツにジーパンが多い。改まった背広や冬用のコートは一着ずつしかないので、もともとドレスケースなんてほとんど使っていなかった。食器はふたり分あったほうがいいと決まった。がらくたまで較べあい選択した。ふたりの笑い声が部屋に溢れた。行男は楽しい気分にひたる。 最後に引っ越し屋が冷蔵庫を運んできた。どちらを残すか、ふたりの話はすぐついた。同業だが、サチエの頼んだ引っ越し屋は手際よく行男の冷蔵庫をずらし、指示もしないのに勝手に玄関を入ったつきあたりの壁に置き、ここしかありませんね、という感じで振り返る。サチエの顔が一瞬、曇った。
「この頃は捨てるのにもお金がいるんですけどね」
 口では嫌がりながら、引っ越し屋はまだ使えそうなものは抜け目なく物色して引き取ってくれた。行男の冷蔵庫は引っ越し屋の若いほうは興味を示したが、もうひとりが目で止めていた。
 結局、二台の冷蔵庫が親子のように並んだ。サチエのは大きく、運転音も静かだ。
「粗大ゴミの日に出すよ。それまで邪魔だけど……」
 行男は少し肩身の狭い思いになりながら、独り言のように言った。言ってしまってから、なぜか捨てるには惜しいという気持ちと淋しさが混じりあった複雑な気分になった。小さいが、一人暮らしだった行男の生活と一番長くかかわり、暑いときも寒いときもあの高い音を出しつづけてきた。彼にとって、この冷蔵庫は同居人みたいなものだったし、母との思い出も残っている。仕事から帰ってきて、まるで帰宅したあいさつを交わすように一番初めに何気なく覗くのは冷蔵庫の中だった。そして何かしら取り出して食べたり、ときには途中で買ってきた新しい食物を押し込むこともあった。
 行男は小さな冷蔵庫をしばらく眺める。ドアの端は塗装が剥げ落ち、中の鉄板が赤く錆びている。
「何か思い出があるの? 置いとけば……、野菜入れにしたらいいじゃない?」
 サチエが顔色を窺うように横から言った。
「うん」と煮え切らない返事をして冷蔵庫の前から離れる。背中でにぎやかな運転音を聞いた。そのとき、行男はまったく動かなくなるまでそばに置いておこうと思った。
 サチエが言い出す前に、なげしの上に神棚を作った。ふたりは結婚式のつもりで並んで拝む。突然、サチエがクスッと笑う。行男はゼンマイ仕掛けの人形のように軽いキスをした。
 サチエは力が入り始めた行男の腕をすりぬけると、敷きっぱなしの布団をたたみ、荷を解きだした。行男は紙で苗字の違うふたりの表札を作り、ドアの外に貼った。 夕方、どうにか片付き、お祝いの乾杯をしようということになった。
 そして初めての夜、ふたりの周りは焔に照らしだされたみたいに熱かった。
「バイクでつきあってくれる?」
 次の朝、サチエは生活用品から園芸用品まで何でも売っているディスカウントショップに行きたいと言った。
「いいけど……、何を買うつもり?」
 眠たい目をこすり、もう少し寝ていたいと考えながら、今日は休みを取ってあった、とぼんやり思い出した。時計は午前九時半を回っている。
「いろいろ、ふたりの生活を快適にするものよ」
 サチエは新聞広告のちらしを広げて笑った。
 行男は化粧を始めたサチエを外で待つことにした。アパートの階段の下からバイクを出し、ブルーのガソリンタンクを布で磨いた。雨の合間の晴れた空に浮かんでいる、白い雲がタンクに映っている。
 サチエが白のTシャツにジーパン姿で赤いヘルメットを被り、階段を降りてくる。背後から朝の陽射しを受けて身体の線がなお一層ひきしまって見え、ゆうべのサチエの姿と重なって眩しかった。
 バイクはスピードをあげる。視界をみどりの風がよぎり、後方に流れる。
 十時前に店の前に着いた。大きな駐車場には、もうたくさんの車が停まっている。入口に開店を待つ人々が黒いかたまりになって屯していた。行男たちはその後に並んだ。
 店が開くと、人々は思いおもいのコーナーに小走りに散る。ふたりはゆっくり店内を見て回った。サチエは台所におたまなどを吊るネット、たわし、中性洗剤、風呂の腰掛けや小物入れなどを買った。
 最後に家電コーナーに行った。
 行男はいろいろな形や大きさの冷蔵庫が並べられているのを見て、恐怖に近い思いを抱いた。家にある親子のような二台の冷蔵庫に悩まされている。一つは大きすぎるし、片方はなぜか愛着があって捨てがたい。
 サチエは各社の冷蔵庫のカタログを集め始めた。
「買い替えるの?」
 行男は心配になって訊く。サチエの大型冷蔵庫が目の前にちらつく。どっしりし過ぎて近寄りにくい感じなのだ。
「きれいでしょ? これを参考にして、飾りたいの」
 サチエはニッと笑い、カタログを開いて見せた。何を考えているのか、行男には理解できなかった。しかしとても楽しそうだ。長い髪をひねるように束ね、アップにしてヘルメットを被る動作も生き生きとしている。
 バイクに乗る。ふたりの間を買い物袋が隔てる。袋の中身が背中に固く触れた。
「駅前のスーパーに行ってくれる?」
 行男は家に帰るものと思い込んでいた。サチエがとても遠くに離れてしまったような気がする。振り返って、彼女の目を訝しそうに見つめた。ヘルメットの中で光る黒い瞳は、冷蔵庫しか興味がないように思えた。
 バイクは風上に向かって走っている。風が身体に突き当たり、裂ける。いつもこの辺りはディスカウントショップを訪れる車の群れで渋滞しているが、バイクはアメンボのようにすいすいと抜けた。
 道は小さな川の堤防の上に出た。あとは流れに沿って下れば、駅前に行き着く。川は昨日の雨のせいか水かさが増して濁っていた。岸に生えた雑草が水草のように流れになびいている。
 スーパーも買い物客で溢れていた。乱雑に置かれた自転車をガードマンが整理していたが、追いつかない状態だった。行男たちは付近の自転車を動かして、バイクを置く隙間を作った。
 店内に入ると、サチエは集めてきたカタログを取出した。両開きドアの冷蔵庫の写真が載っている。
 食品売場は地下にあった。下りのエスカレーターに乗っているわずかな間も、サチエはカラー刷りの庫内をじっと眺めている。行男は肩ごしにのぞく。写真には、パーティー皿に盛られたオードブル、ボールに入った彩りゆたかなサラダ、開かれたドアに収納された缶ビール、ワインボトル、ミネラルウォーター、ずらっと並べられた卵などが整然と写っている。きっちりしていてきれいだけれど、あくまで絵でしかなく、生活の匂いが感じられなかった。
 エスカレーターを降りると、サチエは買物カゴを取って、差し出した。行男は黙って受け取り、うしろについていった。
 サチエはカタログと首っ引きで同じ商品を見つけだしては、カゴに入れる。
「こんなもの、買ってどうするの?」
 たまらなくなって訊いた。
「このカタログみたいに冷蔵庫に並べるの」
 行男は言葉に詰まった。しばらくふたりの間に沈黙が流れる。
「おれ、さんまの干物や辛子明太子が食べたいけどなあ」 行男は抵抗を試みながら、毎日、パーティーをするわけじゃあるまいし、それに通信販売もそうだが、カタログの表面的な美しさに惑わされているのが面白くない、手にとって目で確かめ、肌で直に感じるものだけしか信じたくない、と内心では思っていた。しかしサチエの嬉しそうな顔を見ると、もう何も言えなかった。
 サチエは知らん顔でカゴに食品を入れつづける。
 カゴを持つ手が次第に重くなった。
 七月初めから、しばらく雨が降らなかった。
 梅雨はこのまま明けるのかと思えるほど、陽射しが強くなり、アスファルトの道の向こうに走り水がゆらゆらと逃げる。梅雨は雷と土砂ぶりの雨が降って明けなければ、やはりすっきりしない。そう思った次の日からまた、雨は降りはじめた。
 行男はひっきりなしにフロントガラスの曇りを拭い、車の視界を確保し、荷物が雨に濡れないように気を配らなければならなかった。晴れの日より何倍も神経が疲れる。
 夕方、仕事が終わると、社長が呑もうか、と誘ってくれるのも断ってアパートに帰った。サチエと一緒に暮らし始めて、一番の楽しみはふたりで食卓に座る朝夕の食事だった。ひとりのときは味気なく食欲がなかったのに、今はなんでもうまい。
 サチエは夕食をすませてから、化粧を直して隣町のスナックへアルバイトに行く。生活費は、大根一本がひとりでもふたりでも同じだったから、たいして変わらなかった。むしろ経済的には負担が軽くなったと思う。しかしサチエはアルバイトを辞めなかった。
「ひとりになったとき思ったの。何かやっていないと、つらいから……」
 サチエは未来を覗くように遠くを見て言った。行男はいつかふたりの別れを予感しているみたいな言葉をただ黙って聞いた。
 テレビの前でひもになったような惨めな気持ちでビールを呑む。缶ビールはサチエの冷蔵庫にずらっと並んでいるのだが、前の晩に呑んだ分は昼間の間にきっちり補充されている。テレビの音と小さいほうの冷蔵庫の運転音だけが聞こえる部屋で、行男の酒量は日毎に増えた。一回入れたら、限りなく減らないような錯覚と、ほしいものがなんでも出てくるドラエモン漫画の四次元ポケットのような幻想をサチエの冷蔵庫に感じていた。
 テレビをつけたままうたた寝をする日が多くなった。そしてふたつの冷蔵庫は相変わらず玄関のつきあたりに親子のように並んで、サチエの帰ってくるのを待っている。行男もうたた寝のぼんやりした意識の中で、夜の闇に沈んだ暗い階段を上がってくる、サチエの足音が聞こえてくるのを待ちこがれる。
 サチエは靴をぬぐと、真っ先に自分の冷蔵庫のドアを開いてハンドバックの中身を入れている気配だ。
「何してるの?」
 台所の明かりも点けないで庫内を覗いているサチエの背後から声をかける。一瞬、サチエの身体がぎこちなくゆれた。冷蔵庫のドアが閉まる乾いた音が、暗い台所に驚くほど高く響いた。
 はにかむような、何か悪いことをしていた恥じらいを隠すような中途半端な笑いが、サチエの顔に浮んだ。
「お客さんに宝くじ、もらったの。夢、やるって。冷凍室に入れとくと、よく当たるんですって」
 サチエは真面目な顔になって言った。
「ジャンボか? 一億円だろ?」
 行男は、当たるはずがない、もし当たったとしても全部返してくれとか、半分寄こせとかもめる原因になるのに、と思いながら訊く。
「うん」サチエは頭を垂れてお辞儀をするみたいにうなずいた。
「ひからびて、パリパリになるんとちがうかな?」
 宝くじが凍って、当たったと分かった瞬間に木っ端微塵になり、氷の破片がきらきらと煌めきながら、台所の床に落ちて霧散する光景が目の前に広がった。
「ううん、そうならないって、お客さん言ってたわ。わたし、さいふも入れてるけど、大丈夫だもの」
 財布を冷蔵庫に入れるサチエの習性は一緒に生活しだして二日目に知った。鍵をかければ、金庫としても使えるんだなあ、と妙に感心したものだった。他にもイヤリングやペンダントなどの入った宝石箱も入れている。ドアを開けた瞬間、カタログを切り取ったような庫内なのだが、その内側はこまごまとしたものが巧みに収納されている。
「これチューリップの花の冷凍、春に取っておいたの」 サチエは冷凍室から手品のようにいろいろなもの取り出しては、顔色を変える行男のようすを楽しんでいる。赤、黄色、ブルーのチューリップの花と黄緑の茎は氷の結晶の中で眠っている。チューリップならやはり、テレビで見たオランダのお花畑みたいに果てしなく咲き乱れているほうが似合うような気がした。
 他にも庫内には季節を忘れたものが溢れていた。冷蔵庫が普及して自分も含めて、季節の移ろいや変わり目の危うさを感じてもの思いにふける楽しみをいつの間にか失いかけている。季節が冷蔵庫に摘み取られていくみたいだ、と行男は思った。
「このごろの冷蔵庫はラップしなくてもいいのよ。湿度や温度が調節できるから」
 サチエは横目で行男の古びた冷蔵庫を見ながら、説明した。食べ残しの皿をラップしようとして重なって剥がれくなり、つい余分なラップを使ってしまったときの、いやな気分が鮮明に甦ってきた。
 行男の冷蔵庫が生活の匂いのする食品を身体いっぱいに詰め込んで、騒音に近い音を発して静寂を打ち砕いている。
 行男はサチエがいないとき、病みつきになった作業に密かに従事していた。自分の冷蔵庫には、スーパーやコンビニエンスストアで買ってきたものをそのまま放り込むだけだから、何がどこにあるのか、いつ無くなったのか分からなくなり、まだたくさんあるものを買い込んでしまったりする。特に好物の納豆でいっぱいになる。そして毎日、納豆を食べつづける。何日目かに奥のほうから納豆以外の好きなものがたくさん出てくる。
 自分の冷蔵庫の中身を全部出して床に並べる。あまり明るくない台所の光が夜店の光景をイメージさせ、露店商になったような気分になる。
「さあ、どれでも百円だよ。この納豆、うまいよ。北海道特産の豆だから、残留農薬もないよ」
 行男は声高に独りしゃべる。それからふきんに洗剤をつけて庫内を拭く。こびりついた汚れを取ろうと夢中になる。少し取れれば、さらにきれいにしたくなった。
 ふきんを流しの洗いおけの中ですすぐと、透明な水が真っ黒になり、表面だけ輝いて繁栄をむさぼる社会の内側の、腐った部分をしぼりだしているような気がした。 次に食品の整理だ。キャベツが入ったビニール袋が悪臭を放っている。バケツにゴミ袋をセットして、諸悪の根源を放りこむ。ごぼうみたいになったにんじんも、賞味期間をすぎたインスタントラーメンも、しなびてかびの生えたレモンも投げ入れる。何も考えないで機械になったような気がして、冷蔵庫を信じていたのに裏切られた思いが徐々に薄らぎ、気持ちが晴れる。つづけるうちに次第に快感となり、頭が空っぽとなる。
 すべてだめなものを捨ててしまうと、仕事で汗をかいたときのように爽快だった。残った食べ物を庫内にていねいに戻しはじめたが、最初だけで途中から面倒になって適当に放りこむ。ドアを閉めると、小さな冷蔵庫から高い運転音が聞こえた。

 どこかで電話が鳴った。
 行男は我に返り、サチエともっと話していたいと思っていた。居間の電話台を見たが、受話器はなかった。コードレスだから、充電器の上に戻すのを忘れて、この間みたいにまた布団の中に紛れ込んだり、机の下に転がっていたりするかもしれない。しかしどこにも見当らなかった。
「ああ、そうだわ。この間、あなたがいないとき、エッチな電話がかかってきたんでうるさいから、冷蔵庫のチルドに入れたんだっけ」
 サチエはニヤニヤしながら、透明なビニール袋に入れられた受話器を取出し、電話に出る。急に声が華やぎ、顔がほころぶ。いつも相手の都合も考えないで深夜にかけてくる女友だちらしい。その瞬間、受話器が見つからなければよかったのに、と思った。女友だちから電話がかかってくると、一時間でも二時間でも彼に見せたことのない笑顔でしゃべりまくるのだ。
 行男は取り残されたような気分になる。サチエが後ろ手で冷蔵庫のドアを閉じた。ふたたび台所は闇に沈む。彼女の笑い声の周りだけ明るく感じられ、居間からもれるわずかな光を受けた行男の影さえも急速に吸い取られていく気がした。
 だいたい彼女たちは同じ話題を違った言い回しで何回も繰り返すのだから、まるで酔っ払いの会話ではないかと思うのだが、あとでそれをなじると、そうだったかしら? と屈託がない。
 居間にもどり、テレビを点けても、サチエの笑い声が部屋中に溢れ、落ち着かない。テレビは深夜映画をしていたが、見る気になれなかった。
 サチエの耳に張りついて身体の一部になってしまった受話器を想像する。SFに出てくる異星人の触角みたいで気味が悪い。常に片方の耳はどこか遠くの宇宙から聞こえてくる声に支配され、行男のほうを向かせまいとサチエを思いのままにあやつっているように思える。そして、もう夜中なんだから、俺とだけの時間にしてくれよ、という願いが無視されている気がする。
 本箱の棚に置いてあるウィスキーが呑みたくなった。 氷とコップを取りに台所へ行った。明かりを点けると、サチエはちらっと行男を見たが、大きな冷蔵庫を背に両膝を立てて座込み、話しつづけている。
 ウィスキーに入れるなら、サチエの冷蔵庫が作る氷のほうがうまい。タンクに水道水を入れてセットしておけば、クリスタルガラスのような透明な氷をいつでも使えるように一定量ストックしている。しかし電話をしているサチエに「ちょっとどいてくれる?」と言ったら、「なんで邪魔するの? たまにはいいじゃない?」と咎められる恐れがあった。
 行男は自分の冷蔵庫から気泡で白く濁った氷をコップに入れる。とにかく今はビールでなく、もっと強い酒を呑みたいのだ。
 食卓にもどって、ウィスキーをコップに半分以上入れ、一気に呑んだ。喉に燃えるような感覚が走る。二杯立てつづけにあおる。水割りにすれば、もっと呑みやすいのだが、台所へ立つのが面倒だった。酒の肴もほしいが、空きっ腹に呑んで、少しでも早く朦朧とした意識のなかをさ迷い、そのまま眠ってしまいたかった。
 まだ終わる気配はない。受話器をサチエの冷蔵庫で完全に凍結させて床に叩きつけたい、と部品が散乱する情景を思い描いて、行男は呑みつづける。
 窓から見える樟の樹が部屋の光に浮かび上がり、昼間、葉の中に蓄積した熱気を吐き出して部屋に送り込む。暑い。Tシャツとジーパンを脱いだ。
 残り少なくなったウィスキーのビンを部屋の明かりにかざすと、辺りが琥珀色に染まった。
 行男の冷蔵庫の運転音とサチエの笑い声が次第に遠のいて、意識の中は靄が漂う白い闇になった。
 明け方、酔いが醒めたせいか、目が開いた。起きたのは畳の上だったが、青い夏布団が身体の上にかかっていた。
 インスタントコーヒーを飲む。
 サチエは向こうの布団で眠っている。近寄って寝顔をしばらく眺める。何時まで話していたのか分からないけれど、とてもいい顔をしていた。
「わたし、電話が好きなの。面と向かって言えないことでも話せそうな気がするから……」
 初めてのデートのとき、バイクで走り疲れて海辺で言ったサチエの言葉が思い出される。電話はきらいだ、と行男は心の中でつぶやいていた。
 今からもう一度眠ると、もう昼まで起きられないと思ったから、このまま夜明けの街を歩いてみる気になった。アパートの鉄製階段を忍び足で降りる。古ぼけたアパートは黒からブルーにそして灰色から白に、樟の大木は黒から金色がかった濃いみどりに変化していく。

 思いっきり深呼吸して、行男は路地から路地へ気持ちの落ち着く小道を選んで歩いた。駅前に出る小さな川まで行くつもりだった。
 川は白くもやっていた。見えない流れの音が快い。サチエにかかってきた電話にふたりの時間を奪われた恨みと身体に残った酒を発散させようと、土手の上で腕立て伏せを五十回した。すぐ息が上がる。汗が胸から腹へと流れるのが分かった。朝のすがすがしい空気が、心のなかに淀んでいる淋しさと入れ替わった。
 そのときふと、行男は冷蔵庫の高い運転音を聞いたような気がした。

 小学校や中学校が夏休みに入って、行男の仕事は忙しくなった。引っ越しするなら夏の間に移転し、子供たちを秋の新学期から新しい学校に通わそうと親は考えるらしく、春の転勤の季節についで引っ越しが多い。
 行男はサチエと暮らし始めた頃にくらべ、夕方になればすぐ帰宅できる日が少なくなった。火山噴火の影響とかで血を流したように真っ赤な夕焼けを見たりすると、なぜかサチエと夕飯を食べる光景が自然に思い出され、そわそわする気持ちをなだめるのに困った。
 そんなとき、社長は伝票の束を行男に投げる。クリップが外れて紙片が舞った。黙って拾い集め、電卓のキーを叩く。
「今日はうちで夕飯を食べて帰ったら」
 仕事が遅くなったとき、いつも言ってくれる奥さんもこの頃、行男と目が合うのを避けているような気配をなんとなく感じる。
 いつか独立して、サチエと引っ越し専門の運送屋をやろう、と考えはじめた矢先だった。もう少しここで修業して経営や業界の人脈づくりのこつなどを盗みたかった。 行男は経営者夫婦の信用を回復するために仕事に専念しようと思った。現場の仕事が終わったあと、車を洗い、伝票や予約の整理、明日の段取りなどを片づける。切りがいいところまでやると、午後八時を過ぎた。
 サチエが作ってくれた弁当の空箱だけが入ったナップサックを肩にかけ、冷房の効いた事務所を出る。
 外は熱帯夜だった。バイクを車庫の片隅から引き出すだけで汗が吹き出る。夏の夜はなぜか闇が白っぽく塩っぱいように思えた。夜空が明るすぎて、この頃は星も見えない。
 サチエはもう仕事に行ってしまっていた。
 部屋は荷物が増えて狭くなったはずなのに、広く感じる。冷蔵庫のドアにマグネットでメモが貼ってある。
『わたしの冷蔵庫に夕食が入っています。 サチエ』  行男は、わたしの冷蔵庫、という言葉が気に入らなかった。しばらく寝転んで天井を眺める。雨漏りのしみが、嵐のくる前の黒い雲のように不気味に見えた。前より広がったなあ、とぼんやり思った。
 暑いし、腹が空いた。耐えられなくなり、冷蔵庫をのぞくと、カレーの匂いがした。
 大きな鍋がそのまま入っている。カレーが縁からこぼれそうだった。ミルクを少し加えて温め、ひとりで食べた。
 昔の自分にもどった気分になった。サチエのカレーは林檎が入っていたりして、おいしいほうなのだが、今日は水くさい感じがする。無理してビールで流し込む。ビールは水みたいに思えていくらでも呑めた。
 庫内は大きな鍋のせいでカタログのような景色が崩れている。行男はドアに並んでいるビールを全部呑んでしまいたかった。前からねらっていたのだが、取りすました庫内を思う存分かき乱すチャンスだ。
 この頃、サチエの帰りが遅くなった。
 終電に間に合うように帰ってくるのが習慣だったのに、「お客さんが立て込んでいたら、時間になったって、すぐ帰れないじゃない? それに帰る方向が同じだから、タクシーで送るよって、言ってくれる人もいたし……」 と言い訳する日が多くなった。
 サチエがなかなか帰って来ない晩、行男は客の誘惑やみだらな行為を憶測して穏やかな気持ちでいられなかった。そんなとき、苛立つ気持ちを早く忘れるために先に寝ようと思うのだが、かえって目が冴えてしまうのだった。
 布団も並べて敷き、敷布や枕のしわをのばし、落ちているサチエの長い髪を一本いっぽん拾う。ときには、思いっきり彼女の枕を蹴飛ばしたりすることもあった。
 朝起きると、部屋中にまたカレーの匂いが満ちている。「ごめんなさい。カレー、作りすぎちゃった」
 サチエは笑いながら言った。
「うん。一晩たったカレーってうまいんだ」
 朝もカレーライスか、という思いがふとよぎったが、サチエの顔を見ると、違うことを言ってしまった。黙ってふたりで食べる。サチエがそばにいるのと、添えられた福神漬やコップいっぱいの冷えた水のせいか、ゆうべと違う味がした。
 行男は食べているうちに、昨日遅かった理由を詰問したくなった。
「どうしてたの?」
 行男はサチエが最もいやがる詮索の意味をこめて、努めてさりげなく訊いた。一瞬、サチエは頭をあげ、スプーンを置いた。眉間に小さなしわができる。しかしすぐ顔をカレーライスの皿にもどし、返事もしないでただ食べている。
 少し時間が早かったが、家にいれば、さらに邪推を含んだ質問をサチエにしてしまいそうだったので家を出た。 社長と大きなものを運ぶとき、力をいれると、カレーのげっぷが喉の奥のほうから込み上げてくる。
 その日は時間を定められた引っ越しが多かった。弁当にまでカレーがかけてある昼食も仕事の打ち合せも車の中ですませる。社長も大分まいっているようだ。小さな運送屋だから、高層住宅用の荷揚げ機もない。いくら高い階でもふたりで担いで上がるしかない。
 途中でまたカレーのげっぷが出た拍子に、行男は荷物から手を放してしまった。重心を失って荷物が廊下に転がる。
「何やってんや? 力、入れんかいな。ボケ」
 社長が片荷のかかった自分の手を見ながら、怒鳴る。ふだんなら、大丈夫か? と行男の身体を気づかってくれるのに、忙し過ぎて何かにつけて苛立っている。幸い、荷物が壊れたり、傷ついたりはしなかった。もちろんふたりとも怪我はない。しかし、ボケとはなんだ、と身体の芯のほうで社長に逆らう気持ちがくすぶり、顔に出たらしい。
「ふくれっ面すんな。お前が悪いねん。急に手を離すよって。身体の具合、悪いんとちゃうか?」
 社長は心を見透かすように責める。行男は何にも応えられないで、荷物が階段を転げ落ちて、粉々に砕け散るようすを想像していた。
 外気も心も暑い。カレーのげっぷを止めようと、自動販売機でジュースを買った。木陰で休んでいる社長の姿を目の端で見ながら、一気に飲んだ。
「汗になるだけや。こっちにこんかいな。涼しいで」
 社長が言ったと同時ぐらいに全身から汗が吹き出して、余計暑くなった。
 暑さは夜になっても衰えなかった。缶ビールの喉ごしを思ってアパートに着いた。
 サチエはもう出かけている。親子の冷蔵庫が高低の運転音で出迎えてくれる。部屋の中はまだカレーの匂いが満ちていた。
『カレーが残っています。夕食に食べてください。今日は終電までに帰ります。 サチエ』
 とメモに書いてあった。カレー責めにして殺すつもりか、そんな考えが湧いた。このままいくと、明日の朝もカレーになりそうだった。いや、鍋の大きさからいって一週間はつづきそうな気がする。それにもし冷凍にでもされたら、いつまでつづくか分からない。黄疸みたいに身体が黄色くなるのではないか、と思った。
 冷蔵庫から鍋を出すと、ビニールのゴミ袋にカレーを捨てた。冷蔵庫にあったものを捨てる、快感が特に高くなる。顔のニキビをつぶし、膿と脂を出したときのような爽快な気分だった。
 大きな冷蔵庫から缶ビールを、小さいほうから納豆を出して、テレビの前でカレーを葬った祝杯をあげる。
 よく、そんなねばねばした臭いもの食べられるわね、とサチエが言っていたのを思い出し、「ねぎを刻んで入れると、うまいんだ」とつぶやきながら、食べる。ねぎをみじん切りにしたときの涙がなかなかとまらなかった。 缶ビールを五本呑み、テレビも見ないで眠った。
 ふと、目が覚める。枕元のふたつの時計が午前二時を指している。この間のように酔いが醒めて途中で起きると、眠れなくなるのが恐かった。
 隣に敷いたままの布団が冷たく見えた。
 そのとき、サチエの声を聞いた気がした。できるだけものを考えないようにぼんやりして、また寝床に潜り込もうとしているのに、心が動いた。
 そっと台所へ立った。
「ねえ、こんなに缶ビール、呑んじゃって、叱ってくれればいいのに……。このごろ、あの人、呑みすぎなの」 サチエが夜中、玄関先の冷蔵庫に話しかけている。行男は胸が痛かった。
「すれちがいばっか。わたしもあの人と同じ気持ちなのにね」
 話しながら、サチエは冷蔵庫のドアを叩いている。それからハンドバックの中身を庫内に入れだした。
「あれ、カレーの鍋は? あの人、全部食べたの?」
 サチエの横顔は、淋しさより悲しみの濃い白さで暗い台所の闇の中にぼっと浮かび上がって見えた。
 まだ身体に残っていたアルコールのせいか、行男はよろけて壁に手をついた。
「あなた?」気配にサチエの声が探している。行男は台所のスイッチを点ける。ふたりの目が合った。
「カレー、どうしたの?」
「全部、捨てた」
「みんなですって? 多かったかもしれないけれど、一生懸命作ったのよ。この冷蔵庫、お鍋ごと入れられるし、残ったら冷凍して、わたしが少しずつ食べようと思ったのに……」
 サチエは叫ぶように言った。
「カレーライスばっかじゃ、たまらないよ。それに冷蔵庫、冷蔵庫って、それ、特別ないわれでもあるんか。おれ、そのでっかいやつきらいだ」
 行男は今まで決して口にしなかったサチエの冷蔵庫のことに触れた。そして内心では冷蔵庫だけでなく、帰りの遅いサチエを咎めていた。
 突然、サチエは冷凍室を開け、何かを出した。次の瞬間、泣き声に似た叫び声を上げながら、頭を狙って殴りかかってきた。手をかざして避けようとしたが、遅かった。
 金属性の音が高く響いた。
 急に頭の芯が痛くなり、目の前で火花が闇に咲いて床に落ちた。何が起こったのか、痺れた頭で考える。サチエも自分の行動に、肘を軽く曲げた形で両手を開いて前に差し伸べるように出したまま、時間が停まったみたいに呆然としている。
 冷凍したチューリップの花だった。三本まとめて頭を叩いたらしい。花と茎の氷の破片が暗い床にばらばらになって飛び散り、台所の淡い光に輝いて見えた。
「わたしの冷蔵庫を悪く言わないで。この冷蔵庫なしでは生きていけないの」
 サチエは涙がたまった大きな目を向けて抗議する。
「おれがいてもか?」
 メロドラマではないのだ、と思いながらも、思わず言ってしまった。
「これ、結婚するとき、早く孫の顔を見たいって、両親が買ってくれたの」
 サチエは涙声で言った。彼女の両親はすでにいない。行男は、床に散乱して融けるにつれて煌めきを失っていくチューリップの花の破片が、サチエの心の断片のように思えた。悲しみを冷蔵庫の中に閉じ込めて生きてきたのかもしれない。
 サチエは黙って下を向いたまま何かを考えいる風に見えた。ほつれた長い髪と逆光の影が顔をおおい、表情はよく分からなかった。
 しばらく経ってからだと思う。その時間は行男にはとても長く感じられたのだが……。サチエは床に散らばった氷の破片を素手で寄せ集めはじめた。その背中を見ているうちに、うしろから思いっきり抱きしめたくなった。しかし行男の手には、むずかるよう逃れたサチエの肩の華奢な感触だけが残った。
 目の前に大型冷蔵庫があった。
 行男は台所の明かりを消した。サチエの姿が闇の中に白い残像となって浮かんだ。

 窓をおおう樟の大木の葉が、秋台風の影響らしい強い風に振るい落とされ、明かりを求めて集まる虫のように、夜の闇から部屋の中へ舞い込んできた。窓を閉めると、風の音と樹々の枝葉がすれ合う音が遠のいた。
 サチエはアルバイトに行っている。ひとりぽっちの閉じこめられた思いが広がる。チューリップの冷凍スティックで頭を叩かれた痛さがよみがえる。別に傷があるわけでないが、頭全体に鈍痛を感じている。
 行男の仕事は、夏の間多かった引っ越しが減った。その分、遠距離ではないが、本来の運送の仕事が増えた。朝、荷を積んで目的地まで走り、帰りにその周辺の荷を積んで帰ってくる。引っ越しと違って社長は同行しないから、すべてひとりで段取りを考えて、荷物を積み下ろしなければならない。積み方の順番を間違うと、無駄な時間と労力を費やすことになる。ひどく疲れるし、時間もかかる。サチエが出かける時間までにアパートにもどれるのはまれだった。朝もチューリップ事件以来、眠たいと言って起きてこなくなった。行男は独りトーストとコーヒーの朝食を摂って出かけた。
 すれ違いがつづいている。
 食卓の上に夕食が置いてある。コロッケ三つと中華風の野菜炒めが、バラの花柄で縁取りした白地の皿にトマトを添えて盛られている。彩りゆたかだった。毎日、冷蔵庫の中をカタログのように飾るセンスが活かされている。見た目にはうまそうだが、実際に一口つまんでみると、トマト以外は安物の駅弁のような味がする。これはサチエの手作りでなく、すべて冷凍食品だ、と行男は気づいた。コロッケは揚げただけで、炒めものの野菜は初めから適当な大きさに刻まれた冷凍食品で、もやし、たけのこ、にんじん、きぬさや、きくらげ、マッシュルームなどがミックスされているので、炒めて味をつければ出来上がりである。
 仕事に出かける前のあわただしさの中で、作ってくれたのは嬉しいけれど、サチエがまな板の上で包丁を使って、あのしなやかな手で切ってくれたのはトマトだけだ。行男はなぜかもの足らない気がした。サチエの冷蔵庫に冷凍ストックされたものが、次からつぎへ自分の腹の中に移動しているような感じがしていやだった。
 この間、サチエが「この冷蔵庫ねえ、冷凍食品の解凍が自然にできるの。便利よ」と言った。
「冷凍食品って、本当に大丈夫か? やっぱ、生がいいよ」
 行男は言ってみた。表面は確かに鮮度を保っているように見える。しかし……、奥のほうからきっと腐りはじめているのではないか、と疑いたくなる。家にレンジはないから、冷凍食品をレンジへ、というファーストフードのように今、流行りの手軽な調理はできないが、行男はどうしても信用する気になれない。
「でも、野菜なんかふたりだからもったいないじゃない? 大根一本買ったら、何日もあるわ。かえって新鮮じゃないのよ。それにお正月近くになると、海老なんかすごく高くなるの。今から冷凍しておけば安くすむわ」
 サチエは言う。
 ひとりの夕食をはじめたが、どうもしっくりこない。やはり漬物と味噌汁がほしい。行男は自分の冷蔵庫の中で作っているインスタントぬかみその床から胡瓜と茄子の漬物を出し、ついでに豆腐とわかめの味噌汁を作った。 漬物も雑魚のだしの効いた味噌汁もうまかった。特にわかめは海の匂いがして格別だった。
 日毎に日が短くなっていく次の日、暗い台所の明かりを点けると、食卓にサチエの作った夕食があった。今日も冷凍食品の海老フライにキャベツが添えてある。フライは少し柔らかそうだ。行男はやはり揚げたてのしゃきとした歯応えのあるほうが好きだった。
 行男は自分で夕食を作ろうと思った。昨日、テレビの料理番組でやっていた肉じゃがが無性に食べたくなった。 仕事から帰った服装のままスーパーに行った。バイクは外気の冷たさが身体にしみ込んでくる。まだ半袖のせいか、腕に鳥肌が立った。片手で腕を交互にこすって寒さをしのいだ。
 ライトに照らされた川の畔に沿った暗い道をバイクは走る。スピードメーターが急激に跳ね上がり、スピードが増すにつれて視野が狭まって、トンネルの中を走っている感じがした。
 前方の暗い空に町の明かりが、仄かに見える。あそこがトンネルの出口だ。行男はさらに加速する。小刻な震えが止まり、とにかくすべてを忘れることができた。 はっきり覚えていないテレビ番組の料理法を思い出しながら、肉じゃがを作る。ジャガイモとにんじんを四角に切り、糸コンを塩でもんで水から炊いて灰汁だしをする。牛肉は包丁を使わないで手で白身を取りながら、適当な大きさにちぎった。
 フライパンが温まるのを待って、サラダ油を落とし、牛肉をみじん切りのニンニクと一緒に炒める。とてもうまそうな匂いが台所に立ちこめた。ジャガイモとにんじんを油がまわるまでかきまぜ、酒、ミリン、塩を適当に入れる。次にだし汁と砂糖を加えて落としブタをして煮る。ジャガイモが柔らくなったとき、糸コンと醤油を放りこんだ。
 出来たては、温かくておいしかった。漬物の漬かり具合も豆腐の味噌汁もうまい。独りのときにもどったような気持ちになった。
 食事が終わっても、サチエの作ってくれた夕食は食卓に置かれたままだった。昼の弁当を仕事の関係で食べられず手をつけないで、家に持ち帰ったときのような気まずい気分で眺める。サチエの悲しそうな顔が思い浮かんだ。
「よくこんなにきれいに食べられたわね」とサチエの小言をいつも聞いたが、仕事のなりゆきで仕方ないとあきらめた顔つきだった。
 これが弁当だったら、食べたように装って、そっと捨てられるのだが……。
 やっと決心がついた。スーパーのビニール袋にサチエの作ってくれたおかずを入れ、さらにラップで包んでごみ箱に捨てた。冷蔵庫の中身を容赦なく捨てるときの快感はなかった。
 庫内の温度が上がったのか、また高い運転音が聞こえる。行男は冷蔵庫がなければ冷凍食品もないので、こんなことをしなくていいのに、と思った。心の痛みを遠ざけるために缶ビールを呑みたくなった。
 サチエの冷蔵庫を開ける。ドアのポケットに見慣れない小さなビニールの袋を見つけた。うすい紫色で、銃弾のような形をした種子だ。手に取ると、香りが辺りに広がる。なぜかとてもゆったりした気分になれた。冷蔵庫になぜ入れておくのだろうか、と思った。行男は外に出して台所の流しの引き出しに入れた。そのとき、サチエの冷蔵庫がこちらをじっと見ているように思えた。
 行男はカタログの写真を切り取ったみたいな冷蔵庫の奥に何があるのか気になっていた。得体の知れない植物の種子も出てきたし、この奥にサチエの秘密がかくされているような気がする。缶ビールを出すたびにドアを開けるけれど、今日ほど中を詳しく見たいと思ったことはなかった。両親の形見となった冷蔵庫というだけではないと思った。
 ドアを開けると、庫内にカタログの世界が展がる。この前と違った感じだ。サチエは各社のカタログを参考にして何日かごとに庫内の飾り方を変えているみたいだ。今日のメインは煌めく三つのブランデーグラスに三色の透き通ったゼリーだった。グラスの端に差してあるミントのみどりが映える。その横にはブドウ、ナシ、林檎などの果物が透明なガラス皿に盛ってある。
 野菜室を開ける。野菜は入っていなかった。パックが何段にも積み重ねられている。本当は居間のどこかに置いたほうがいいのではないか、と思われる薬や化粧品など雑多なものが入っていた。そして一番下のパックの奥から薄い紙に包まれたケースが出てきた。中は行男が見たことがないブルーのイヤリングだった。慌てて元にもどした。胸の高鳴りはなかなか静まらなかった。サチエの秘密をあばくような気がして途中で止め、開けたときの庫内のようすを必死で思い出しながら、復元した。
 十二時過ぎにサチエは帰ってきた。早速、冷蔵庫にものを入れているようすだった。
「お風呂、沸いてるよ」
 居間に入ってきたサチエにさりげなく知らせる。ブルーのイヤリングが頭をよぎった。
「あとにするわ」
 サチエはねばねばした視線を感じたのか、さらっと言った。
「今日の夕食、どうだった?」
 サチエはパジャマに着替えながら、テレビを見ている行男に訊いた。
「うまかったよ。でも、明日からはいいよ。じ、じぶんで作るよ」
 平静を装ってやっと言ったが、少しつかえた。サチエは悲しそうな目を向ける。
「カレーのように捨てたの?」
 敏感に何かを感じ取ったようだ。
「いや……」行男の答えはあいまいになった。
「だって、お弁当のときみたいに流しのお皿があんまりきれいすぎるだもの。ソースかけなかったの?」
 流しをのぞいたサチエはすべてを悟ったのかもしれない。行男は何も言えなかった。
「あっ、それから冷蔵庫に入れてあった種知らない?」 サチエは思い出したように言った。すぐ応えられなかった。あのとき、サチエの冷蔵庫の中身に気を取られていた。急に訊かれたので、どこにしまったのか思い出せない。黙っているとサチエの顔が険しくなった。記憶がまったく途切れている。ブルーのイヤリングばかりが目の前にちらついて、さっきのことなのにどうしても思い出せない。
「ラベンダーの種なの。冷蔵庫に一週間ぐらい入れて置かないと発芽しにくいんだって。お客さんに無理言ってもらったのに」
 サチエは行男が触ったと決めつけるように言った。
「冷蔵庫に入れておいたら、まずいと思って……」
 行男は弁解がましくやっと言った。
「プランターに蒔いて、薄紫の花を楽しもうと思ったのに。冷蔵庫に入れると発芽して、花が咲くってすてきじゃない? どこ?」
 サチエはもう一度、種子のありかを訊いた。しかし頭の中に残る香りはなんとなく覚えているのだけれど、やはりだめだった。行男はテレビで見た北海道のラベンダー畑の煙るような薄紫の花のうねりを思い出していた。あの種子は、サチエの冷蔵庫に閉じこめられた悲しみと秘密を吸い取って花となって咲き乱れ、サチエの心を白日に曝すのではないかと思った。頭の中に紫色の靄のようなものが広がって、記憶はさらに定かでなくなった。 サチエは居間の引き出しを次々と開けていく。
 家捜しが台所に移ったとき、行男はやっと手伝う気になった。台所という場所が、心のどこかに引っかかっていたから。

「あったわ。部屋をラベンダーの香りで満たしたいの」 サチエは嬉しそうに小さなビニール袋をかざして、冷蔵庫のポケットにしまった。行男は並んでいるふたつの冷蔵庫をじっと眺めた。
 サチエは風呂に入っている。流す水音が遠くで聞こえる。冷凍食品の夕食を捨てたことをサチエはもう咎めないのだろうかと思いながら、小さな冷蔵庫をそっと開ける。乱雑に詰め込まれた食品が落ちこぼれそうだった。しかしその乱雑さが行男の波長と合っている。
 溢れ出そうな食品を力一杯押し込んでから、台所の明かりを消して、庫内の淡い光で中を覗いた。冷蔵庫はときどき高い運転音をともなって震えた。静かになったかと思うと、また高い音を上げて響く。行男に何か語りかけているみたいに聞こえた。
「ただ今」「お帰り、何か食べますか」そんな会話を冷蔵庫と繰り返した、独りで暮らしていたときのことが心の奥のほうから沸き上がってくる。今はサチエがそばにいるけれど、行男もまた同じように冷蔵庫のない生活なんて考えられなくなっている。
 日曜日、バイクでサチエとデスカントショップに行った。素焼きの四角いプランターと培養土と肥料を買う。「部屋の中は日当たりが悪いから、階段の下のほうがいいかしら?」
 サチエは微笑んで尋ねてきた。
「うん。寒くなったらビニールでフレームを作るよ」
 行男は応える。
 窓際に新聞紙を敷いて、ラベンダーを蒔くための床土を作った。土の匂いと手触りが快い。土に触れる両手が次第に暖かくなっていくように思えた。
 サチエは冷蔵庫から小さなビニール袋に入った種子を出してきた。袋の表面に水の粒が汗のようについている。口を開けると、心地よい香りがこぼれた。サチエの細い人差し指の先がピアノを弾くみたいに、ふっくらしたやわらかい土に孔を穿ける。指をぬく。土はサチエの指を押しもどす感じで孔を狭める。香りを楽しみながら、ふたりは孔に種子を一粒ひとつぶ埋めた。
 行男は、種を蒔きおわったプランターを階段下の狭い駐輪場の脇に運んだ。そこだけは朝の間だけ陽の光が射し込む唯一の場所だった。アパートの誰かが置いたベゴニアの花鉢の横にプランターを据えた。
 樟の葉が頭上でさわさわとそよいでいた。サチエはちょっと上を見上げてから、ジョウロで水を撒いた。水はすっと土にしみ込んでいく。
「ラベンダーは水はけが悪いとだめなんだって」
 サチエは種をもらった客に聞いたらしい口振りで言った。
「芽が出るといいね」
 行男は冷蔵庫に貯えられたサチエの悲しみを養分にして咲くラベンダーの花霞を早く見たいと思った。
「うん」サチエは何か祈りを捧げるようにプランターに目を落としたまま短く応える。
 しばらく沈黙がつづき、ふと思い出したのか、
「一週間ぐらいで芽が出るんだって」
 とぽつりと言った。
 陽が翳って、光のとどかなくなった樟の傘の下では行男たちの影がさらに薄くなった。行男も樟の大木を見上げて、ラベンダーの種子を探した夜を思い出していた。 あの晩の翌日から、サチエは夕食を用意しなくなった。毎日、仕事から帰って明かりを点けると、何もない食卓が暗い部屋のなかに浮かび上がる。行男はひとり分の食事を作らなければならなかった。そして相変らず小さな冷蔵庫は食べるものが溢れ、腐った食品を吐き出しつづける。
 サチエは前と何も変わらないようすだったし、夕食を作らなくなった理由を一言も説明しなかったけれど、自分の冷蔵庫に鍵をかけて出かけるようになった。行男にとってサチエの冷蔵庫は氷の箱として台所を狭くしている存在でしかなくなった。ずらっと並んだ缶ビールを呑んで、カタログに似た庫内を乱す楽しみや宝探しみたいに中を密かに物色するスリルを味わうことも、もうできないのだ。
 行男は、冷凍食品の夕食を捨てたことや内部をひっかき回したことを内心では後悔している。しかし胸を突き刺したブルーのイヤリングの煌めきが、心の中で凍った光となって行男をかたくなにさせた。
 長距離の仕事が立てつづけにあった。
 そして帰宅したとき、大型冷蔵庫はなくなっていた。急にガランとした台所に、小さな冷蔵庫の運転音がひときわ高く響いていた。
                  了