花四季彩-小説『鏡の向こうに』
 鏡の向こうに
                  野 元  正

 地階へ通じる階段は狭かった。
 フットライトの光が闇に滲むように溶けだしている。靖夫は両手をブルージーンズのポケットに突っ込んで降りていった。闇のなかに潜む誰かにボクシングのステップを踏んで挑んでいきたい気分だった。受付カウンターの女の子が制服の肩章を気にしながら微笑んだ。もう何回も来たので靖夫の顔を覚えたらしい。
 暗いフロアには靖夫の苛立った気分を吹き飛ばしてくれるディスコミュージックが煙草の煙と混じりあって溢れていた。レーザー光線が暗闇を切る。壁のミラーにうごめく男と女の群れが浮かんでは消えた。
 腰を振り、身体をくねらせ、群れは踊っている。次第に靖夫の身体のなかにビートのきいた音が忍び込んできた。足がリズムを取り、身体がうねる。ざらざらした気持ちが希薄になった。血が曲にあわせて爽やかに流れ始める。靖夫は心臓の鼓動が地下室に満たされた音に共鳴していくのを感じていた。
 目が闇に慣れてきた。知った顔を見付け、手をあげて合図する。
 スポットライトが踊りの輪を照らした。そこに靖夫が最近、気になっている女の子がいた。ここに群れる仲間は彼女を紅子と呼んでいる。彼らは互いの素性など訊いたりはしない。感覚で仲間を探り当てる。どこかに傷ついた匂いを嗅ぎだすと、少しずつ心を開く。
 紅子の踊りは一際目立った。曲のリズムに乗って流れる。ミニスカートから伸びた足は暗い深海の底を自ら輝きながら泳ぐ魚を思わせた。紅子を見つめていることを誰かに悟られまいと、ときどき目をそらしてもいつの間にかまた魅き付けられる。
 男たちが紅子の周りを惑星のように廻りながら踊っている。汗が光の滴になって飛び散る。ミラーボールが光の輪をまき散らしている。深海の底から海面を見上げているみたいな感じがする。降る光はまるでさまざまな彩りの木の葉になって海底に舞い落ちてくるように見えた。靖夫は深海でひとり踊る紅子を想像していた。暗い海底で紅子の周りだけ茫洋として明るい。音はかき消され不思議と静かだ。
 形のよい額は汗に光り、長い髪がリズムにあわせてなびく。とても華奢な首に金のチェーンが煌めいている。薄いブラウンの髪が白いうなじにまとりついていた。
 紅子の目と出会った。笑った。紅子が靖夫を見たのはそれっきりだった。背は高いが、しょぼついた小さな眼の靖夫に紅子が興味を持つなんて思うほうが間違っているのかもしれない。それに靖夫の左手の薬指は、真っすぐになったまま自由が利かないのだ。幼いとき、ぶらんこから落ちて骨折したのが原因で硬直したままだった。誰にも気が付かれないように注意しているけれど、とても不便だった。薬指がいうことをきかないと他の指も思うままにならない。無理に節くれだった関節を曲げようものなら腕から肩にかけて激痛が走った。だから靖夫はいつも左手はをポケットに突っ込んで出来るだけ使わないようにしている。でもそれだけじゃない。何かをしようとすると、その左手が靖夫の心に痛みを感じさせ、躊躇してしまう。今も紅子の笑顔にそ知らぬ顔をしてしまった。靖夫はそんな消極的な自分が嫌いだった。
 DJボックスで髪を短く刈り上げた男がマイクスタンドを握りしめてわけの分からない英語をがなっている。それがスピーカーを震わせ、曲のアクセントになる。踊り手たちは彼の声に手を突き上げ、身体をのけ反らせる。穴ぐらに若者の雄叫びや町の喧騒に似た雑音が満ちる。満員電車の中で人をかき分けるように踊った。靖夫にはその騒めきがかえって悲しみや淋しさや孤独を意識させた。靖夫はさっき母と兄相手に高校のことで言い争って家を飛び出して来たことを忘れようとしていた。次第に強烈なリズムが身体のなかに浸透してきて心のしこりやわだかまりを溶かし始めたように思えた。しかし身体の奥深いところは、急激に冷やそうと思って冷蔵庫のフリーザーに入れたまま忘れてしまったガラスのコップみたいに凍ってかちかちになり、今にも砕けそうだった。金属の砕け散る感覚が再び靖夫に甦る。そして、もうどうでもいい、という投げやりな考えが浮かんだ。
 肩が触れあい、ぶつかる。仲間はほんの一瞬、リズムを乱して靖夫の顔を窺った。
 乾いた単純な旋律が、胸のしこりを包み込んで溶かし始めたような感じがしてきた。
 曲がスローテンポになった。照明もさらに暗さを増した。何人かの男たちの手が紅子を誘う。だが、紅子はかぶりを振っている。熱気に包まれた群れは、いくつかの男と女の組合せになって動かなくなった。
 靖夫はキャンドルが揺れているテーブルに戻った。氷が融けてうすくなったジュースで乾いた喉を潤す。
「座っていい?」
 紅子が立っていた。靖夫はどう答えたらよいのか分からない。テーブルのうえにあった左手をだらっと床に落とすように身体の横に添わした。そして軽くうなずく。紅子はウエーターを呼んで靖夫と同じジュースを注文した。
「よく来るの?」紅子は靖夫の顔を覗き込むように言い、「ときどき……? それとも毎日?」とさらに訊いた。
「ああ。いつも……。高校生?」
「うん、二年生。あなたは?」
「同学年……」と靖夫は答えた。
「さっきここに入ってきたとき、荒れてたみたいね」
 靖夫は驚いて紅子の目を見た。闇に光る猫の目のようだった。紅子はいつ彼の気分を感じ取ったのだろうか。
「うん、ちょっとおふくろと兄貴とやってしまっただけさ」
 靖夫は何でも素直に話したくなっている自分を訝りながら言った。ほんのさっきまでペンキスプレーで闇に紛れて駅前の商店街のシャッターに思いっきりモアイ像に似た落書をしたい気持ちでいっぱいだったのに。
 ふたりはここのルールから少しずつはみ出した。お互いに訊き始めている。名前を知りたくなるのも時間の問題のような気がした。すべての音や熱気がチークタイムのフロアに吸い取られて、ふたりのテーブルの周りはとても静かな世界に思えた。
 最後の曲が終った。何組かの男女がそのまま固まったようになり、他は身体を剥がすように離れた。それぞれの想いが余韻を残して、ほんの少しの間、穴ぐらに静寂が広がる。
「外で待ってて……」と紅子はフロアに立つとき、靖夫に囁いたように思えた。
 フロアが再び騒がしくなった。取り巻きの男たちが戻ってきた。ひとりが紅子を肩車に乗せる。どよめきが穴ぐらに満ちた。彼女は肩車のうえで音と光と人のなかで揺れていた。
 靖夫は緩いカーブを描く階段を上がっていった。入ってきたときの苛立った気分は消えている。
 外は寒かった。小雨が降っていたらしく歩道が濡れている。街路樹の落葉が煉瓦を敷きつめた路面に貼りついている。自動車のヘッドライトが歩道を歩いている黒い影をなぎ倒すように通りすぎた。
 靖夫は店の入口になっている煉瓦塀に寄り掛かって紅子を待った。耳の奥に紅子の囁きが残っていたから。その間に何組かのカップルが階段を上がってきた。そしてちらっと靖夫を訝しそうに見て夜に紛れた。
 紅子はなかなか来なかった。町のネオンが一つひとつ消えていく。時計が嫌いで持っていないので分からないが、もう日にちが変わったかもしれない。靖夫は聞き違いだったのでは、と思い始めていた。
 とても長く待っていると感じ始めたとき、階段を上がってくる小さな足音が聞こえた。
「ごめん。ひつこいのがいてね」
 紅子は息を弾ませ、眉間に小さな皺を作った。
 ふたりは行き先を決めないで歩き出した。
「寒いね。ラーメン、ご馳走してくれる?」
 紅子は靖夫の腕を取って言った。彼は紅子が腕を組みやすいように気を使った。靖夫はここからそんなに遠くないところにうまいラーメンを食べさせてくれる屋台があるのを思い出していた。いつもこの店から仲間と別れて家に帰る途中で食べるところだ。
 目印の赤い提灯が見えてきた。軽トラックから竹竿の骨組みを張りだし、周りをテント地のシートで囲んだ粗末な屋台だった。荷台に取り付けられたカウンターは五人掛けほどの小さなものだった。二人の先客がその真ん中に陣取っていた。
「お客さん、どっちかに寄ってもらえませんかね」
 靖夫たちが入ってくるのを見て、屋台の若者は言った。客たちはのろのろと席を移動した。その間に酔った目を靖夫と紅子に向ける。若い奴が女連れでいつまでうろついているんだ、という目付きで紅子の身体に視線をまとわりつかせた。ワイシャツの袖を捲くりあげ、だらしなくネクタイをゆるめて、ぶつぶつ言い合っている。先客のひとりが、ありがとうぐらい言えよ、と呟くのが聞こえた。紅子と靖夫は先客の呟き無視してベンチの端にそっと座った。
 先客は諦めたのか自分たちの話題に戻っていった。上司の悪口を肴にビールを呑んでいる。
 大人になるにつれて面と向かって物を言わなくなっていく。靖夫はそんな大人たちが嫌だった。母もそうだ。兄と靖夫のふたりの子供がいるけれど、それぞれ父が違う。母は結婚したことがない。いつも働いているところの誰かに憧れている。そして兄と靖夫を産んだ。
 母の部屋には今も黄ばんだ純白のウェディングドレスが飾ってある。兄を妊娠したときに結婚してくれるものと思い込んで買ったものらしい。そしてぐずぐずしているうちに男は逃げてしまった。靖夫の父の場合も同じだった。母は黙って待っているのが美徳のように思っている。その反動なのか子供に寄せる期待が大きすぎる。兄はどうにか母の期待に答えているが、靖夫は駄目だ。高校の勉強についていけなくなっていた。それでも母と兄から勉強しろ、と毎日言われる。同じ高校の兄は、校章を汚すのか、とも言った。自分の卒業した高校を弟に汚されるのが我慢出来ないらしい。でもそうだからといって、勉強のやり方を教えてくれるわけでもなかった。部屋に閉じこもって関係ないという顔をしている。
 靖夫は母を突き飛ばしてきたのが気になっていた。あの店に出掛けるつもりの靖夫に、母がうるさく言うもんだから、つい力が入ってしまった。
 母の言葉が耳の奥で攪拌され、小さな羽虫が入り込んだような耳鳴りがすると、決まって靖夫は身体の血が逆流し始めたみたいな苛立ちを感じる。もうどうでもいいや、という投げやりな思いが、不安や怯えと入り混じって靖夫を苛む。
 気が付いたとき、母は玄関の上がり框に頭から倒れていた。気になったが、素直に母を抱き起こせないまま飛び出して来てしまったのだ。ドア越しに聞こえた兄の怒鳴る声が、まだ耳のなかに残っている。

「どうしたの? もっと楽しそうな顔をしたら……」
 紅子がラーメンを茹でる湯気を見ながら言った。
「高校、やめたいって言ったら、おふくろと兄貴がふたりがかりでだらしないってせめ」
 靖夫は吐き出すような言い方をした。
「そう、わたしも同類よ」
「うるさいだろ?」
「放っといてほしいね。本当に」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
「お待ち」と声がかかってふたりの前にラーメンが置かれた。紅子は箸たてから割り箸を抜き、二つに割って靖夫のどんぶりに渡す。美味しそうな匂いと湯気に心がさらに暖かくなった。
 黙って食べた。靖夫は一杯のラーメンをふたりで食べているような気がした。紅子の顔が間近にあった。汗の匂いがした。身体全体が柔らかく解きほぐされていくようだった。
 屋台を出ると、また紅子は靖夫の腕を取った。腕の後側に紅子の胸の膨らみを感じた。
「今晩、つきあってあげるよ。淋しいんでしょ?」
 突然、紅子が言った。どういう意味か呑み込めないで黙っていると、紅子は続けた。
「ちょっと寒いけど、浜辺に行ってみない?」
 靖夫は取り違えていた。ほんの一瞬だったが、闇に輝く紅子の裸身を見たように思った。そして紅子の声がその猥雑な思いをふっとかき消した。そよ風が吹き抜けたみたいに爽やかな感じが靖夫の身体に残った。
「もういいよ。お陰で気が晴れたから」
 靖夫は慌てて言った。
「そう……、」と紅子は少し考えるふうに言葉を切った。
 ふたりは交差点に来ていた。
 信号が変わった。
「じゃ、またね。いつもあそこに来てるから」 そう言うと次の瞬間、紅子は小鳥が餌を啄ばむように靖夫の唇にキスをした。そして身体を翻して横断歩道を駆け足で渡っていった。靖夫は深海に帰っていくような紅子の後姿を茫然といつまでも見送る。
 唇に海の匂いが残った。
 やがて紅子はかき消すように闇になじんだ。

           *

 昨夜、雨のあと冷たい風が吹いた。高校の校門から玄関までの並木道のポプラがすっかり葉を落としていた。
 靖夫は朝から左手の薬指が疼いていた。湿度や寒暖に敏感だった。靖夫の気分さえも左右する。指の疼きを感じると、出口のない湖に流れ入った川の水が腐っていくように、心ははけ口を失った物憂さに支配されている。
「午後の数学さぼるよ。代返、頼むぜ」
 靖夫は家坂に言った。彼は学年でも一、二番を争う秀才だった。といってもただ勉強ばかりしているタイプではない。いつ勉強しているのか、その気配さえ感じられなかった。テニスやハム無線に凝っている。しかし靖夫が手におえない難解な数学の問題を簡単に解いてみせる。靖夫にも丁寧にポイントを教えてくれた。
「あまりさぼるなよ。この頃、ひどいなぁ。数学は積み重ねだから分からなくなるぜ」
 家坂は珍しく非難するように言った。いつも黙って引き受けてくれるのに。どこを見ているのか芒洋とした、細い目に光がこもっていた。
「ああ……」と靖夫は気のない返事をする。 数学の時間は苦痛を通り越していた。理科室にある人体模型の頭がいつも思い浮かぶ。教師の話すことを理解できる奴はどんな濃密な構造になっているのだろうと。あの襞や、赤とブルーで表された血管の絡み合った様子を思い出すだけで靖夫の頭は混乱するのだった。こめかみが引きつる。
「家坂、数学は答えが一つしかないのが気に入らないと思わないか。味気ないじゃないか。俺には俺の解答があってもいいじゃないか。答えがみんな同じなんて恐ろしい気がするんだ」
 家坂は黙って靖夫の顔を見た。あの光のこもった目が、言いたいことがあるなら聞いてやるよ、と言った。靖夫は続けた。思っていることをみんなぶちまけないと、気がすまないような気持ちになっていた。
「たとえば、ある条件のもとで三次元の世界を斜めに切った平面の切り口は、俺だけの人生を映したものでありたいんだ」
 家坂はすぐに否定しなかった。しかしうなずかなかった。
 教室の窓枠に切り取られた校庭が眩しく見える。暗い室内に並んでいる机の表面が冷たく黒光りしていた。
 家坂はしばらく何かを考えているふうだった。それから呟いた。
「数学って、別に答えが一つというわけじゃないんだけどな。まだ証明できていない未知のことがたくさんあるんだ。答えだって二つ以上ある場合だってあるよ」
 靖夫は家坂の言っていることが理解できなかった。数学の話をしているだけで身体が冷えてくる。
「たとえばな。煙草の箱に二十本入っているのは、とても高度な数学の考え方を応用してるんだけど、その理論を誰もまだ証明できていない」
 家坂は靖夫が興味を持ちそうな話題で説明した。
「とにかく頼むよ」
 靖夫は数学の話を打ち切りたかった。家坂は、仕方がないなぁ、と呟いて今度はうなずいた。
 紅子と知合ってから高校の授業がさらに面白くなくなった。心が微妙な変質を始めている兆しを、靖夫は感じ取っていた。高校への魅力は日増しに色褪せていく。
 将来への焦りを少しでも消そうと、大学受験の参考書をたくさん買い込んだりもした。だが、一度もページをめくらないまま、机の前に並んでいる。片付けようと何回も思った。しかし見えないところに置いたらかえって心細くなりそうだった。靖夫は、いつか参考書に目を向ける日が来るのを心のどこかで望んでいた。机の前の参考書は海に突き出した断崖のうえにある最後の砦みたいなものだった。
 靖夫はさぼった数学の時間に屋上に上がった。狭い海峡とミルク色のガス体に煙る、対岸の島影が見えた。午後の海は小さな光の舟を無数に浮かべたように煌めいていた。
 靖夫は屋上のベンチに寝転んで金網越しにいつまでも海を見つめた。
「君たちは、この辺りの地区から選ばれた秀才なんだから……」
 と教師たちは名門校の変なプライドを生徒に植えつける。
 親は期待し、近所の人たちは勝手に進学する大学を決めてくれる。この高校に入れば行き先は決まっていると思い込んでいる。靖夫にとって逃げ道はどこにもなかった。高校の勉強についていけなくなった者はどうすればいいのだろうか、と悩んだ。落差は縮まるどころか日毎に大きくなっていくのだ。
<xyz空間において、次の3点A,B,Cを通る平面Soに垂直で、長さ1のベクトルをすべて求めよ。(東大)>
 気が狂いそうだった。日本語で書かれているのだろうか、とつい思ってしまう。これが出来ないからといって世の中を生きていけないわけじゃない、と開き直った気持ちにもなる。
 靖夫は二学期の期末試験の結果発表を思い出していた。
 数学の時間だった。
 靖夫が密かに思っていた女生徒が満点で誉められた。教室に感嘆のどよめきが起こった。家坂ももちろん満点だった。
 そのあと、靖夫は0点を宣告された。教室は静まりかえっている。みんなが冷笑を隠すため机の木目を見ているように思えた。ポケットに突っ込んだ左手で太ももを強くつねる。痛みが腕から肩へ走った。薬指がひどく硬直している。苦手な数学を克服しようと、靖夫が好きな宇宙の星と星が何万年ごとに遭遇する軌道を計算するつもりで、白い紙に向かって鉛筆を走らせた結果だった。
 答案を教壇の前に受け取りいったとき、薬指の痛みは頂点に達した。靖夫は返却された答案を教師とみんなの前で細切れに破いた。
「何をするんだ。0点のごみで教室を汚すつもりか」
 教師は叫んだ。油の塗られた木の黒い床に散った白い紙片がちぎれた心の断片のように、靖夫には見えた。
 黙って教室を出た。
「拾え。ここはごみためではないぞ」
 そのあとを教師の罵声と満点を取った女生徒と違ったざわめきが追いかけてきた。それからの記憶は輪郭がぼけて覚えていない。でも母が高校に呼び出されて数学教師に靖夫と一緒に謝ったことだけは鮮明に思い出される。

 時計台の下の音楽室から合唱が聞こえた。歌声が身体のなかにしみ込んできた。血が川のようにさらさらと流れだしたような気がした。でも今はディスコミュージックのほうが靖夫の気持ちに合っていると思った。
 唇に紅子の暖かさが蘇る。紅子ならちぎれた心の断片を繋ぎあわせてくれる、と思うことで淋しさや虚しさを温めることができた。家坂以外の級友たちは落ちていく靖夫にかかわりたくない態度を露骨に見せた。まるで靖夫の気持ちが伝染するとでも思い込んでいるように。休憩時間でも参考書に目を落として靖夫を無視した。偶然、目が合ったりすると、蔑みの色をちらっと浮かべた。
 それでも級友たちと日毎に離れていくことが淋しかった。靖夫は一生懸命コンパを企画した。参加を申し出たのは家坂だけだった。
「みんな忙しいんだよ。そろそろ進路を決めなくちゃならないしな」
 家坂は慰めてくれる。しかし彼の言葉さえ靖夫を傷つけた。彼には卒業だって覚束ないのだから。
「海に行こう。防波堤でふたりだけのコンパをしようや。冬の海って、厳しいから好きなんだ」
 家坂は遠くを見ながら言った。靖夫も冬の海が好きだ。荒々しく冷たい表情は誰に対しても同じだった。靖夫だからといって態度を変えたりしない。それが心をすがすがしくさせた。
 ふたりは防波堤の見える漁船だまりの横を抜けた。
 船上げ場に沿って並んでいる蒲鉾工場で女たちが黒い合羽のようなゴム製の前かけをつけて手際よく水揚げされた魚をさばいている。何がおかしいのか笑い声が満ちている。靖夫は自分が笑われているような気分になった。魚の血が出しっ放しの水に薄められながら工場の床を流れ、女たちのゴム長の周りで少し淀んだ。
 ようやく防波堤の取りつきに出た。
 誰もいなかった。家坂が靖夫を見て笑った。本当にふたりだけのコンパができる。
 風が靖夫たちを凍えさせた。波濤が防波堤に砕ける。しぶきを含んだ海風が頬を打つ。陽の光が翳った。海は靖夫の気持ちを映すように黒緑色に変わる。海が怒っている、と靖夫は感じた。
 ふたりは黙って海を見つめ続けた。

           *

 靖夫は悩みながら年の暮れを迎えた。
 冬の夕方は短い。冷込みが空から夕焼けの色を吸い取ってしまうように夜が来る。靖夫は高校のある海の見える町から山麓の家に帰るところだった。だらだら坂に取りつくまでは、最近区画整理で作られた新しい道だ。唐楓の街路樹はすっかり葉を落としていた。冬枯れの枝にはダイオゥドの豆電球が季節外れの花を咲かせている。靖夫には裸の枝を見るより暖かく感じた。心はいつも暖かく感じるものを探している。魚の骨が喉に刺さっているような何だかよく分からない焦燥が胸のあたりにつかえているのだ。靖夫はマフラーを巻きなおし、コートの襟を立てる。身体の内側にも冷たい凍った風が吹き抜けた。
 家には誰もいなかった。
 テーブルには即席ラーメンの食べかけや空のビールビンが倒れたまま放置されていた。床には新聞紙や週刊誌が広げられたままだったり、使ったチリ紙が丸められて散らばっていた。板の間の隅には綿屑のような埃や長い髪の毛が浮きだすようにたまっている。パジャマも二つ目のだらしない蛇腹になって脱ぎ捨てられていた。母や兄は掃除を役立たずの靖夫がするべきだと言って、一度もしなかった。
 暖房をつけると、ラーメンの汁からすえた匂いがした。靖夫は息苦しくなった。この頃は乱雑な部屋にいるほうが気が落ち着くはずだったのに、今日はいたたまれない。また夜の町に出て行きたくなった。
 あれから何回かあの店に行った。暗いフロアの隅のテーブルで紅子を終りまで待った。でも紅子は現われなかった。
 もう一度会いたいと思った。服をジーンズとブルゾンに着替える。出掛けるつもりで自分の部屋を出た。真向いにある母の部屋のドアが開けっぱなしだった。色褪せたウェディングドレスが見えた。そのとき靖夫の胸に内側からわけの分からない激情が込み上げてきた。頭のなかが真っ白になった。自分の部屋からはさみを持ち出すと、靖夫は夢中でドレスを切り刻んだ。そして断片を部屋中に雪のように撒いた。散らばった端切れは、雪解けのとき道の端に残った雪のように薄汚れて見える。靖夫はしばらく茫然と部屋の真ん中に立ち尽くした。
 我に返って玄関の鍵をかけるとき、
「何が不満なんだ。俺が高校生のときは、いつも将来のことを考えて我慢したぜ」
 と兄の声が聞こえたように思えた。靖夫はその声を振り切るように坂道を降りていった。兄は母の期待どおり机にかじりついて大学に進学した。しかし靖夫にはそんな努力が無意味に思えた。凍りつくような冷たい兄の目を思い出していた。兄はいつもクールに靖夫を扱った。父親が違ったから弟と思っていないのかもしれないと何回となく思った。
 坂の下に町の明かりが見えた。
 街角の電話ボックスが目に入った。靖夫は突然、紅子の声が聞きたくなった。紅子なら満たされない心の隙間を埋めてくれる気がする。焦燥や苛立ちを癒してくれると思い込んでいた。もう紅子の声を忘れてしまったのに、頭のなかに声の輪郭だけがなんとなく残っている。
 ボックスのなかはテレクラやいかがわしい誘いのカードが一面に貼ってあった。外が見えないくらいだ。でも紅子に電話しようとしている自分に似つかわしい、と今の靖夫には思えた。胸の動悸が昂まり、とても恥かしいことをしている感じなのだ。呼び出し音が数回なった。
 受話器の向こうから生きていない、乾いた留守録の紅子の声が聞こえた。靖夫であれ、誰であれ、同じ調子で語りかける。喜びも悲しみも淋しさも嬉しさも何でも均一に取り扱う、磁気に記憶された声だ。靖夫は呪いの声を聞いたように慌てて電話を切った。ボックスに受話器をかける乱暴な音が響いた。外にでるとき、ドアが重かった。
 紅子も町をさ迷っているのかもしれない、とそのときふと思った。店のショーウインドの明るさに見入っている気がした。
 ずっと向こうにぼっと明るいところが見えた。
 花屋だった。ウインドに飾られた蘭やバラの花を眺めた。飽きなかった。
 町に近付くにつれてすれ違う人が多くなった。靖夫はただまっすぐ歩いた。川を遡るように。人の流れが靖夫の周りで膨れて過ぎた。
「靖夫じゃないか。何を急いでいるんだ」
 雑踏のなかから声がかかった。中学時代に番長だった宏が懐かしそうに笑っている。地面を引きずりそうな長いコート、それにだぶだぶのズボンといった格好だった。髪を短く刈り上げ、もみあげを耳のうえで鋭角にカットしている。私立の高校を退学になって遊んでいる噂は聞いたことがあった。しかし会うのは中学校を卒業して以来だ。
「どうしたんだ。いやに淋しそうじゃないか。頭のいい奴は悩みが多いからな」
 宏は探る目を向ける。靖夫には宏の言葉が皮肉に聞こえた。黙っていると彼は続けた。
「久しぶりだなぁ。ちょっとつきあえよ」
 中学時代、靖夫は宏を毛嫌いして口もきかなかった。それが今、とても身近に思える。宏だって話かけてくることなんてまれだった。宏は靖夫から何かを嗅ぎつけたのだろうか。靖夫は誘いに乗るつもりで頷いた。
「断られると思ったぜ。おまえ、昔から付き合いが悪いからな」
 宏は嬉しそうに言った。昔は思い上がっていたんだ、と靖夫は思った。高校の級友たちが、落ちていく靖夫を見るような目付きで宏を見ていたに違いない。
 靖夫は宏たちのたまり場に行った。駅の裏手の狭い路地を入ったところにあった。表を山小屋に似せた造りの喫茶店だった。
 空気が淀んだ匂いがした。照明も暗い。奥の隅に五人の男女が屯している。テーブルに空のコーヒーカップやグラスが乱雑に置かれていた。灰皿が吸い殻で一杯だ。奥の壁に、港に貨物船が停泊しているありふれた風景の油絵が飾ってある。それも煙草のやにと埃にまみれ、茶色にくすんで見えた。
 女はふたりだった。まだあどけなさが残る顔に濃い化粧をしていた。
 ふとまた、紅子もどこかでこんな時間を過ごしているのだろうか、と思った。
 宏の仲間はテーブルのゲームに熱中していた。暗いテーブルの画面に赤や黄色の光が電子音とともに走っている。
「友だちを紹介するよ。T高の靖夫だ」
 宏は、俺の友だちはすごいだろう、言いたげに名門校の名前を強調して言った。靖夫は居心地が悪かった。左手をポケットに突っ込んだまま頭を軽く下げた。場違いだぜ、とみんなが怪訝そうな顔をした。だが、すぐに興味を失ってゲームに戻っていく。どうも仲間同士で金を掛けているらしい。
「畜生、また取られたか。今度は俺のいただきさ」
 低い声が聞こえる。ゲームの光に照らしだされた顔は青くなったり赤くなったりした。真剣な横顔は同じ年ごろなのに大人っぽく見えた。
「何にされますか」
 ウエートレスが水とおしぼりを運んできて注文を訊いた。靖夫はどこかで聞いた声だと思った。が、悪いところに来てしまったという思いにかられて顔を上げてウエートレスを見ることが出来なかった。ようやく顔を上げたとき、後ろ姿だった。
 店に低くロックが流れている。低い音のロックなんて聞けたものじゃないな、やはり身体を揺るがす音量がほしい、と靖夫は思った。
 宏がコートを脱ぎ、椅子に投げかけた。シャツの襟にたくさんの光が散らばった。宏は靖夫が何を見ているのか分かったらしく、「これ、なんだと思う?」
 親指と人差し指で襟の端を引っ張って見易いようにした。少し沈黙の間が開いた。靖夫には分からなかった。
「ピアスさ」と宏は唇の端にうす笑いを浮かべて言った。ピアスは暗い光のなかでも輝いていた。安物のガラスカットに過ぎない、その無数の輝きが宏にとっては自慢の種らしい。
「これ、俺の勲章なんだ。かつあげに成功したときの記念さ。漫画で読んだんだ。昔の戦闘機乗りが撃墜した敵機の数を愛機に刻印したろ? あれと同じさ」
 宏は誇らしげに喋る。チンピラの勲章といってしまえばそれまでだ。しかし靖夫にはそれすらない。同じ心が傷ついた者でもまだ誇れるものがあるだけ宏のほうがましなのではないか、と靖夫は思った。無数のガラス玉は、宏が苛立つ心を癒すために悪魔に売った良心の数を示しているような気がした。靖夫にはそれさえできない。中途半端で鼻持ちならないプライドの仮面を被って誤魔化している。襟に輝く校章と宏のピアスとどれだけ価値が違うのか分からなくなった。
「靖夫、仲間に入れよ。歓迎するぜ。みんなそうだろう?」
 宏は周りに同意を求めた。誰も返事をしなかった。ゲームに興じている。宏は勝手に仲間にしようとしている。靖夫のなかに仲間の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
 誰もまだゲームを止めない。宏の顔が歪んだ。
「おい、いい加減にしないか。ガキじゃあるまいし、ゲームなんて卒業したらどうだ。そんなにしたいなら、本物のゲームをするんだな」
 宏は周りを睨んで言った。いくつかの目が顔を見合わせた。ようやくみんなが宏を見た。
「でも、そいつ信用できるんか」
 ひとりが言った。
「頭のいい奴って、俺嫌いだ」
 もうひとりがそれに追従した。ゲーム機がゲームオーバーを告げた。それを合図のように宏は言った。
「さあ、今から靖夫の度胸を見せてもらう」
「何をするのさぁ?」
 かわいい顔した女のほうが宏に訊いた。
「そうだなあ、通りがかりの女でもナンパしてもらおうか」
 と宏はニヤッと笑って靖夫の顔を見た。脇の下に冷汗が出ている。宏の視線が靖夫を金縛りにした。
「本気にしたらしいな」
 宏は楽しそうに笑って言った。
「冗談さ。今から角のコンビニエンスストアに夜食を調達に行こう。靖夫の入会式だ。みんなに度胸のあるところを見せてくれ。ただ、その辺のガキと違うんだから店が開店できるぐらいいただくんだぜ」
 宏は仲間のみんなに指示するように言った。どうせ家に帰ったって母と兄の嫌な顔に出会うだけだ。靖夫はやるしかないと思った。
 そのとき紅子の面影がよぎった。こんな靖夫をどう思うだろうかと。紅子だってここにいる仲間と同じなんだ、と靖夫も感じているのだが、心のどこかでそれを認めたくない意識が動いた。
「いいな」と宏は念を押した。靖夫は大きく頷いた。
「よし。みんなは店員の気を引くんだ」
 宏はてきぱきと仲間に持ち場を割り当てた。 喫茶店の時計が午後十時半を回った。外に出た。寒風が強くなっていた。道沿いのほとんどの店はシャッターが閉まっていた。暗い道が続く。人影もなかった。
 冬の夜は静かに濃さを増して仲間の影さえ覆い隠そうとしていた。影が闇に滲んだ。仲間たちの足音がさっきより鮮明に聞こえた。
 コンビニエンスストアの前だけは闇の向こうにぼうっと明るく見える。靖夫が意識すればするほどますます明るさを増しているように思えた。
 靖夫はその光に向かって翔んでいる虫のような気分になった。とにかく光を求めて進むしかないのだ。それが靖夫たちの習性だ。もやもやした心の昂まりや、ずっと靖夫を縛り付けているわだかまりを完全に拭い取りたかった。そのために何でもいいからやってみようと思った。そして今、名門校の生徒というはかない仮面を捨てるゲームに挑もうとしている。不安がないわけでない。しかし緊張が心地よかった。宏は仲間に平然と手筈を確認していた。
 店のなかは三人の店員しかいなかった。蛍光灯がやけに明るい。レジのカウンターにおでんの四角い鍋が置かれている。木の蓋の隙間からうまそうな匂いと暖かそうな湯気が辺りに漂っていた。店内に音を絞ったBGMが流れている。でも天井に取り付けられた防犯ビデオの回る音が聞こえてきそうなくらい静かに思えた。夜が人間に眠ることを教えたのに、この店は二十四時間、休むことも眠ることも知らないように起き続けている。
 手筈どおり仲間の女が店のシャンプーを片手にありそうもない他のメーカーの商品はないか、と尋ねる。そうやって店員の注意を引きつける。他の者は店内の要所に立って店員の視界をうまく遮った。
 その間に宏と靖夫は鮭の缶詰、イカの薫製、ピーナッツなどをあらかじめ用意した袋に詰め込んだ。靖夫の身体に経験したことのない緊張と快感が走る。奥の角にある防犯ミラーを通じて店員の視線を感じる。ミラーに向けた背中にむやみに力が入った。
 そして宏と靖夫は店員に話し掛ける女の後ろを擦り抜けようとした。
「お客さん、ちょっとお待ちください」
 レジを扱っていた店員の甲高い声が店内に響いた。その声は靖夫の動いている器管のすべてを停止させてしまうのではないか、と思えるくらい威力があった。鼓動が前より早くなり、胸が急激に締めつけられた。靖夫たちはガラスドアを突き破るように身体で開けると、思いおもいの方向に飛び出した。暗闇が身体を包み込む。靖夫は闇をかき分けて走った。こちらの方向に逃げたのは靖夫だけらしかった。ただ追跡者の靴音だけが響いてくる。息が切れる。まだ追ってくるな、と思った瞬間、両手が宙を泳いだ。歩道の凹に足を取られて転んだのだ。目の前から遠くに見えていた明かりが消え、真っ暗になった。
 やがて、暗闇が赤い点滅で彩られた。パトカーの回転灯だった。警棒を握った警官が走ってくるのが見えた。靖夫は立ち上がろうと焦った。でも夢のなかで金縛りにあったみたいに身体がうまく動かない。重たい足音が近付いてくる。全身から力が抜けた。
 靖夫はパトカーで連行された。野次馬の影が車内を覗き込むようにして靖夫を見送った。強盗じゃないかな、と囁き合う声が妙に大きく聞こえ、ずっと靖夫の耳のなかに残った。
 警察署は靖夫が思っていたより静かだった。入口のカウンターの脇で交通事故を起こしたらしい男と若いアベックが制服の警官に調書を取られていた。交通係の警官は調書から目を上げて、入ってきた靖夫を鋭い目付きで観察した。あとは二、三人の警官が働いているだけだった。
 取調べ室の窓にはめられた鉄格子を見たとき、靖夫は初めて自分の犯した罪を意識した。だが、名門校の生徒という重荷をまったく感じなくなっていた。ここではそんなことは何の意味もなかった。むしろ野次馬や警官たちが非行少年としてしか靖夫を見なかったことがかえって嬉しく思えた。
 取調べで他の仲間のことを訊かれた。靖夫は喋らなかった。もっとも宏以外は知り合ったばかりで本当に何も知らないのだ。靖夫は宏のことさえ黙っていれば、と思った。
「二日ほど泊まってもらおうか」
 取調官は厳しく追求してきた。まったく黙っているわけにいかなかった。仲間に入れてもらうための踏絵だったことや、面白くない高校生活のことなど、事件の動機を話した。しかし靖夫の劣等感を常に作り出している左手の薬指のことはどうしても言えなかった。たとえ宏の名前を白状しなければならなくなっても言えなかったと思う。
「君は初めてだから今夜は帰ってもいいよ。いずれ呼び出すから。いい高校に行っているんだし、二度とするなよ。学校には連絡しないから安心したらいい」
 年配の警官はそう言ってから、母に電話した。靖夫はいい高校という言葉が気に入らなかったけれど、解放されるのは嬉しかった。急に今まで張りつめていた虚勢が崩れた。知らない間に涙がでた。年配の警官が、みっともないぞ、と言ってハンカチを貸してくれた。 独りぽっんと椅子に座らされた靖夫の顔を、何人かの警官が様子を窺うみたいに覗き込んで横を通りすぎた。靖夫の顔を覚えようとしているのかもしれなかった。
 母と兄が警察署に来るまで一時間ぐらいかかった。
「できの悪い奴はやることもお粗末さ。どうせやるなら、強盗とか殺人とかもっと大きなことをやったらどうだい」
 兄は顔を見るなり皮肉たっぷり言った。警察に来なければならなくなったことが、兄のプライドを著しく傷つけたらしい。母は黙って、ただ係の警官の警告に頭を下げるだけだった。兄は黙っている母の分も代弁するつもりか、警察署を出てからも執拗にまくしたてた。
「何かやるのはおまえの勝手さ。おおいにやったらいいよ。でもな。結局、母さんや僕を引っ張りだすことになる。それだけは止めてくれないか。係わりになりたくないんだ。弟というだけでつまらないことにな」
 外は寒かった。兄の言葉と寒風が身体のなかに忍び込んできて心までも凍らせた。靖夫はブルゾンのポケットに手を突き刺しように強く突っ込んだ。
「兄さんに俺の気持ちなんて分かるもんか」
 靖夫はつまずいたことのない兄を心のどこかで羨ましいと思いながら呟いた。冷たい風がさらに強くなってきた。落ち葉や紙屑が道の端をたどって吹き飛ばされていった。
「えっ?」
 先を歩いていた兄が振り返った。靖夫は黙って俯いた。母もずっと何も言わなかった。事件のことも、母があんなに大切にしていたウェディングドレスを無残に切り刻んだことも、まったく夢のなかの出来事のように。母の沈黙は兄の小言より確実に靖夫にダメージを与えた。
 それにしても兄は警察まで母によくついてきてくれたものだと思った。いつも、僕に関係ないよ、関係ないだろ? と言い続けている、人の痛みを感じない奴なのに。そう思うと、兄の背中が少し暖かく見えた。
 家の灯りが見えてきた。慌てて出てきたらしく家中の灯りが点いていた。
「今日はゆっくりお休み……。明日ゆっくり話そうね」
 母は初めて口をきいた。兄がそばで冷ややかな目を向けた。何かまた言い出しそうだった。靖夫は兄の目を振り切って自分の部屋にこもった。そしてヘッドホーンをつけると、ハードロックを聞きながらベッドに寝そべった。身体のなかはロックのリズムに満たされ、今日の記憶をどこかに押しやった。
 もう兄の声も聞こえなかったし、宏のことや母のドレスのことも遠い霧の向こうに霞んでいくように思えた。
 靖夫はヘッドホーンのなかの出口のない世界に浸った。

           *

 靖夫は久しぶりで紅子に会った。
 幾日か続いた寒波がようやくゆるみ、冬の陽射しに少し暖かさが感じられる日曜日の午後だった。紅子は待ち合わせの喫茶店に十分ほど遅れて来た。黒いコートを脱ぐと、暖かそうな赤いセーターが似合っている。明るい午後の光のなかで白い額が艶やかに輝いている。長い真っ黒な髪が小さな顔を引立てていた。
「いつ電話しても留守番電話だった。それで悪いと思ったけど留守録にメッセージを入れたんだ。今日、来てくれるか心配だった。どうしてたの?」
 靖夫はさりげなく訊いた。紅子の顔が曇った。
「わたしだって忙しいのよ」
 思いがけない言葉が返ってきた。
「あれから話したいことがたくさんできたのに、ディスコにあらわれないから……」
 そこで靖夫は言葉を切って紅子を見た。彼女の顔は笑っていなかった。靖夫は勇気を出して言った。
「話が腐っていくんだ。会えないと」
 例のディスコに行ってみたり、紅子の高校の前に佇んだりしたことが次つぎと思い浮かんだ。
 紅子は靖夫の話に興味がなさそうに外を通る人の流れをぼんやりと見ている。窓枠は、歩道に置かれた少女の彫刻をうまく生け捕っていた。ブロンズで作られた少女の裸像は、麦藁帽子を目深に被り、紅子の足のように伸びやかな足を交差して立っている。そして冬の午後の陽射しが汚れのない裸に微妙な影を落としていた。靖夫のなかで像と紅子がだぶった。
 そのときだった。
「わたし、あなたの思っているような女ではないわ。これ読んでみて」
 紅子は大きな布地のバックから手品師のような手つきで大学ノートを出してテーブルのうえに置いた。ノートには『紅子への手紙』とだけ、かなりうまい字で太く書かれていた。
「わたし、三十五歳の男と付き合ってるの。彼の仕事の関係であまり会えないの。それで、彼ったらこのノートを作ったらしいわ。会えない間に感じたことをいろいろ書き留めてる。これを見ながら話すもんだから、そんなの見ないで喋りなさいよ、って取り上げちゃた」
 紅子はちょっと戯けて言った。靖夫は紅子が何を言いたいのか理解できなかった。
 とにかく靖夫はノートの一ページを開いた。いい歳の男がどんなことを書いているのか、とても興味が湧いた。そして紅子の考えていることも分かると思った。今どき、交換日誌なんて流行らないない。まして三十男には似合わない。靖夫たちは何でも電話で済ますきらいがあった。第一、靖夫にとっては文章を書くことは苦痛だった。一行書くのに長い時間だけが流れた。まるで拷問を受けているみたいだった。
 靖夫は内容に驚かされた。紅子はずっと以前から男と付き合っていて、男に月壱万円もらっていることや、お金がほしいと言ったのは紅子であることや、そして男は自分が一体、紅子にとって何なのか自問気味に問いかけていた。
「彼と一緒だと、気が落ち着くわ。はっきり言ってあなたは疲れるの」
 紅子の話に、左手の薬指が靖夫の繊細な心の動きを捉えて激しく痛みだすのを靖夫は感じていた。黙っていると、紅子は言葉をついだ。
「壱万円もらっているのは、いつでも別れられるようにね。好きでも嫌いでもない、割り切った間柄ということ」
 紅子に抱いていたイメージが砕け散った。靖夫は何も喋れなかった。紅子は細い華奢な首をしなやかに振って長い髪を整えた。
「それにこの間、あなたはわたしに気付かなかったわ。高校やめて、喫茶店で働いてるの」 喫茶店? 宏と行った店だ、と靖夫は思い当たった。あのウエートレスがやはり紅子だったのだ。
「紅子だね、足音で分かったよ、って彼はすぐ言ったわ」
 男は冬の雨が急に降りだした日、雨宿りのつもりで紅子の働いている喫茶店に飛び込んで来たらしい。
「無理だよ。僕は一度しか君と話したことがないんだから」
 靖夫はようやく言った。窓から射し込んでいた午後の陽が翳った。店内が暗くなった。色彩が薄れてモノクロのように見えた。そして暗さが増した分だけ紅子がとても遠くに座っているような気がした。紅子なら何でも分かってくれる、いたたまれない悩みを静かに聞いてくれる、まだ話していないけれど左手の薬指のことだって話せそうだ、と勝手に思い込んでいたのが滑稽に思えてきた。紅子にとってあのディスコの帰りに交わしたキスはあいさつの代わりに過ぎなかったのかもしれない。初めての経験だった靖夫には、人生の大切な記念日に思えた。時が経っても鮮明な輪郭のある記憶として、心が舞い上がりそうな出来事だった。
 ふたりの間には心が通った沈黙でなく、話すことがない沈黙だけがあった。紅子はまだ窓の外を見つめている。
「じゃ……」
 紅子はテーブルのうえの伝票をさりげなく取り、椅子から立ち上った。もう終りね、という意味に聞こえた。紅子は靖夫にちらっと視線を向け、次の瞬間もう後ろ姿だった。惨めさが胸を締めつけ、追いかけようと思っているのに身体が動かなかった。
 ウエートレスが紅子のコーヒーカップを引きにきたとき、靖夫は我に返った。ぼろぼろのプライドや体裁のためにすくんでいても何も生み出されないと思った。靖夫はコートに手を通しながら外に出た。もう紅子の姿はなかった。
 太陽の光に少し暖められた外気が再び冷え始めていた。身体の器管の一部が抜け落ちた感覚が広がる。紅子の話した言葉や、仕草や、とてもよく動く目や、あの深海を泳ぐ流線型の魚のような身体などが、満ち潮が乾いた砂浜を次第に這い昇ってくるみたいに思い出された。やがて靖夫の想いは紅子の面影だけで溢れた。もう一度会いたいと思った。靖夫は電話ボックスで電話帳を繰って紅子の家の住所を探した。なぜかもどかしい作業だった。
 紅子は家坂とふたりだけでコンパした防波堤のある町に住んでいた。
 紅子の家はすぐ分かった。
 海の見える高台にある大きな家だった。紅子が高校をやめて喫茶店で働かねばならないような家には見えなかった。
「わたしの部屋から海が見えるよ」
 と紅子が話していたのを思い出した。二階の窓は白いカーテンが引かれていた。靖夫を拒絶するようにきっちりと。
 靖夫はインターホーンのボタンを見つめながら迷っていた。押しボタンは心の迷いを映して大きく見えたり、小さく見えたりした。靖夫はその迷いを打ち消そうと、ボタンを押した。
 紅子に似た乾いた声がした。母親らしい。
「紅子さんの友だちですが……」
 靖夫は口ごもる。少し間が開いた。
「紅子、図書館に行っていますわ。さっき、勉強が終わったら、友だちと町に行くからおそくなるって電話がありましたの」
「そうですか。また来ます」
 靖夫は慌てて門から離れた。悪いことをしてしまった。紅子は高校をやめたことを家族に話していないのだ。
 靖夫は紅子の家が望める道の石段に腰掛けた。そして紅子が帰って来るのを待とうと思った。
「今、何をしたいと思っているの? 何になりたいの?」
 紅子があの店の帰りにぶつけてきた言葉が甦ってきた。今の靖夫には励ましの言葉に思えた。紅子は高校をやめてすでに踏みだしている。それに較べて靖夫は情けなかった。未だに心のどこかで名門校の輝く校章にすがっている。将来への望みも考えもなく独り自分を哀れがっている。
 その日、紅子は帰って来なかった。石段から紅子の家の玄関を一晩中見守っていたのだから確かだ。何回か、門の外に母親らしい影が佇んで、夜の闇に覆い隠された道の彼方を窺うのが暗い街灯の下に浮かんだ。
 紅子の足音はついに聞こえなかった。

           *

 次の日から靖夫は高校に行かなかった。紅子の家の前から防波堤に行った。固いコンクリートのうえで少し眠った。
 それからテトラポットのうえに寝そべって動く雲や煌めく海や海峡の向こうの薄紫の島影などを一日ぼんやりと眺めて過ごした。
 冬の名残の冷たさを含んだ風が、ゆったりと海を渡ってきた。その冷たさが快かった。
 長い一日だった。でもその時間が止まってしまったような感じは、変化を始めた心をゆっくりと確かな決心とするのにかえってよかった。絶え間ない波の音が、打ちのめされた心のずっと奥に眠っていた何かを揺り動かし始めている。
 夕方になった。海の風が凪いだ。すべてが止まってしまったみたいな時刻だ。
 紅子の働いている喫茶店に行ってみることにした。
「辞めたよ。けさ、電話で言ってきたんだ。困ったもんさ。急で……。知り合い?」
 経営者らしい男は少し禿げあがった額を撫ぜながら顔をしかめた。靖夫は軽く頭を下げて店を出た。
 裏通りで人と出会わなかった。ルール違反の青いビニール袋に入った生ごみを赤い野良犬が鼻を押しつけている。肋骨が浮き出ている。靖夫も裏通りをたどる犬のような気分になった。紅子はどこに行ってしまったのだろうか。どこかの町を流離っている紅子を靖夫は想像していた。
 あたりに小便の匂いが立ちこめている。また気分が滅入った。電柱の根元に唾を吐いた。だんだん何かを汚したい気持ちになってきた。そして早くこの裏通りから抜け出したいと焦った。
 駅は通勤帰りの人々で混雑していた。さまざまな人の動きが夕方のざわめきを作っている。みんな、目的を持っているように見える。靖夫には何にもなかった。ただどこかに行くふりを装って歩いているだけだ。
 靖夫は紅子に電話をかけようと思った。やっと目的を思いついたことで靖夫の気持ちは少し安らいだ。駅の待合室の横に緑色の電話が五台並んでいた。電話待ちの列ができている。靖夫は列の一番短いところに並んだ。彼の二、三人前で若い女が楽しそうに話している。笑った横顔が生き生きしていた。人の話が長く感じる。何気なく電話の前の壁を見た。『舗装工求む。未経験者可。アルバイト可。高給優遇。委細面談』のビラが目に飛び込んできた。
 ようやく靖夫の番になった。いざ紅子に電話する段になって、ためらいの気持ちが湧いた。しつこいと紅子に思われないだろうかと。受話器が重く感じられた。
 無意識に壁に張ってるビラに書いてある番号に電話していた。つながった。明日にでも事務所にきてください、と喧騒な音を背景に男の声が答えた。
 家に帰ると、郵便受けに家坂のメモが入っていた。
『どうしたんだ? 悩みがあるんだったら相談に乗る』とだけ書いてあった。靖夫は家坂に聞いてもらいたい気持ちだった。しかし彼に会うと、どうにか固まりつつある決心が揺らぎそうな気がした。
 次の日は暖かい朝だった。もう春はそこまで来ている。空は晴れていた。
 靖夫は電話で教えられた事務所に行った。朝の段取りで次つぎにかかってくる電話に五、六人の男たちがせわしく応対していた。昨日、電話に出た男が、
「来たか……。ちょっともう一本、電話をかけるから待ってくれるか」
 と言って靖夫の顔から爪先までじろっと見た。男は机に広げられた図面を見ながら、
「よしや、それでやってくれ。うん、そうだ。プラント出しの時間は午後一時。現場は二時ぐらいになるかな。頼むよ。雨? 今日は大丈夫だろ。じゃ」
 男は電話を切って靖夫のほうを向いた。
「さっそく現場に行けるかな」
 と靖夫の服装をちらっと見た。それから条件を話しだした。十分だった。異論はない。今は人手不足なので先方は靖夫がなぜ舗装工になりたいか、なんて野暮な突っ込んだ質問はしなかった。
「作業着を貸すから着替えたらいいよ。アスファルトだらけになるからな。靴の大きさは?」 男は靖夫をロッカー室に案内しながら言った。
 現場は新しい団地にできたスーパーの駐車場の舗装工事だった。午後二時にプラントから来るアスファルト合材を待って舗装が始まる。その準備に忙しかった。慣れない靖夫は茫然とすることが多かったけれど、アスファルトを均すとんぼという道具の用意や、下層路盤とアスファルト合材とを密着させやすくするプライムコートというらしい油液を撒く機械の点検の手伝いを教えてもらいながらやった。
 昼めしはうまかった。仲間になった土工に連れていってもらった一膳飯屋でラーメンセットを食べた。ご飯はいくらでもおかわりできたから二杯も食べてしまった。普段は一杯食べるのがやっとだった。まだ食べられそうな気がしたが、初日なので我慢した。
 午後二時過ぎに、十一トンダンプが五台、合材を運んできた。保温のためシートを被せた荷台から湯気が立っていた。
 靖夫はフニッシャーと呼ばれる、アスファルト合材を均一な厚さと幅に敷き均す機械が目安にする、舗装止めをかねた長さ四メートルくらいの長方形の角材を置く作業を教えられながら従事した。
 汗がひっきりなしに流れた。でもとても充実していて楽しかった。角材の置き方ひとつにしてもみんないろいろな工夫をしていた。ずれないようにするにはどうしたらいいのか、考えている。
 ダンプからフニッシャーの合材受けにアスファルトが注がれ始めた。現場に緊張が満ちる。均し役が世話人の指示で機械が均していくあとに、とんぼを持って従う。機械が動きだした。湯気のたったアスファルトが敷き均される。機械だけでは舗装の表面が歪む。そんなところは人がとんぼで均す。微妙な均しが人の手で始まる。舗装ができたところは振動ローラーがしっかりと転圧していく。休みなく作業が続く。ダンプが次つぎに到着し、列を作る。
 均す作業ひとつとっても腕がいる。簡単そうに見えたのでやらせてもらったが、うまくいかなかった。靖夫は少し意地になった。とんぼは左手の薬指が曲がらないので持ちにくいが、そんなことをすっかり忘れて作業に没頭した。ただきれいにうまく均すことに専念した。時おり、吹き抜ける風が火照った身体に心地よかった。ふと気が付くと、もう夕方になっていた。すごく短い時間だったように感じた。さあ、後片付けだ。
 作業が終わったときはもっと気持ちよかった。万歳をしたいくらい嬉しさと満足感が心に満ちた。この充実、じめじめした気分などいくら探しても無くなっている。仕上がったことや、汗を流したことがすべてを快いものに変えていた。
「どうだい? 続けられそうかな」
 事務所の監督がアスファルトで汚れた靖夫の顔を笑いながら励ましてくれた。靖夫は、はい、と大きな声で返事したい気分を押さえてうなずいた。
「そうか。よかった。初めから力を入れると長続きしないから、楽にやれよ」
 と監督も嬉しそうに言った。足の裏からアスファルトの熱が這い昇ってきた。心のなかもそれと同じくらい熱く感じていた。
 仕事が終わったあと、防波堤に行った。母や兄に今後のことをどう話すか考えるには、やはり海を見ながらにしたい、と思った。
 防波堤の突端からかなり陸に寄ったところにたくさんの人が群れていた。何本も釣り竿がひっきりなしに上り下りしている。春の初め、小あじの大群が回遊してきたらしい。靖夫はその後ろをそっと通りすぎた。釣りに夢中で誰も気が付かなかった。
 突端に着いた。波は穏やかだった。テトラポットの捨て石にひそやかな飛沫を上げている。海は夕日の色が薄れて漆黒に変わろうとしていた。
 靖夫は伸びきったままで不自由な薬指の左手でポケットから校章を出し、波打ち際に向かって投げた。 校章はほんの少し沈むのをためらい、漂う気配をみせた。それから思いなおしたように闇が漂い始めた春の海に煌めきながらゆっくり沈んでいった。
            

                                了