花四季彩-小説『光の向こうに』

光の向こうに

                          野元 正

 


 土手の下にある桜の大樹からしきりに花びらが降っている。田鶴は出勤を急いでいた。髪を無造作に手櫛で整え、薄目の口紅を引く程度で飛び出してきた。
「学校、明日からだから駅まで一緒に行きたいわ」
 小学校五年になる娘の有紀の言葉が蘇る。このところ目や唇の端が少しつり上がった感じで白い肌もきめ細かさを増し、隅々までみずみずしく、母の田鶴に似てきたようでびっくりしている。特に話に熱を帯びると、無意識に顔を斜めに傾けて話す表情はそっくりだった。
「今日はゆっくり貴女のお話を聞けないわ。でもきっと時間作るわ」
 有紀の顔が曇ったと気のせいか思った。田鶴は腕時計を見る。黒革のバンドが白い腕に血管を浮き立たせていた。軽く握った拳を手首で外側にコックする。手のひらにくすぐったさを感じた。
 田鶴は小さな広告代理店で営業の仕事をしている。髪は黒くつやがあって、
「白いブラウスが似合うね」
 と同僚からよく言われる。田鶴はそこでデザイン部門の妻子がいる部長を好きになった。彼にというよりもデザインに惚れたのかもしれない。和紙に古釘を挟み込んで時間とともに広がる自然な錆をデザインに取り入れたり、石で柔らかさを強調したクッションをイメージして石は固い、という概念を払拭したりした。田鶴はその発想の自由さが好きだった。
 彼が有紀の父だ。しかし彼はそのことを知らないし、伝えるつもりもない。今はどうしているかさえ知らない。他の会社へ引き抜かれて去っていったから。
 そして田鶴は彼に断らずに有紀を産んだ。
「おとうさんはどんな人だったの?」
 有紀は時どき思い出したように訊く。田鶴の表情が一瞬違って見えるのだろうか。まだ小学五年生なのに、娘はこの質問が母親にとってつらいことを知っているようだった。 
 しかし、普段は決して触れない。田鶴が邪険にしたときや、意識したわけでないが、何日か言葉をかけなかったときに決まって訊く。しかしその娘の意地悪はこのごろ間隔が縮まったように思える。有紀のなかで何かが起こっているのかもしれない。田鶴を見上げる目がときどき彼の目のきらめきに似ていると思った。黒目のまわりに白い輪があり、瞳が光るのだ。見る角度でとても涼やかに見える。一度見たら、忘れられない印象を人に与える。娘の目が何かを訴えている。注意しなくては、もっと話を聞いてやらなくては、と月並みに思う田鶴だが、クライアントに急がされた見積書を仕上げるうちにすぐ忘れてしまう。

 仕事の合間にコーヒーなどを飲んでいるときに、ふっと思い詰めた目が思い出されて冷や汗が出る。
「死んだわ」田鶴は有紀の父のことをいつも極めて冷静に言う。それは娘の手前を装っているわけでもない。彼は田鶴の心のなかですでに死んでいた。心のどこかに頼る気持ちがあったら、独りで育てる決心が揺らぎそうだったから。しかし確かに悩んだ時期もあった。
「こどもは好きだ。今は一人っ子だが、何人いてもいい。しかし妻は……、すまん」
 彼が田鶴の顔色が変わるのを見て、急に話をやめたのを思い出す。もし妊娠を伝えたら喜ぶかもしれないし、反対に眉間にしわを寄せるかもしれない。しかし彼を取り巻く、許されない環境を考えると、田鶴は伝える勇気がなかった。
 祖母と母に迷惑をかけるだろうが、母と同じように独りで産んでひとりで育てようと心に決めるまで、腹の子のために眠らなければ、と思いながら窓がブルーに白む夜を何回過ごしただろうか? それに健やかな子の誕生を願う出産という未知の経験に言葉で表現できない不安がずっと田鶴につきまとっていた。
 それは長い梅雨の季節だった。
 玄関先が一時冠水するほど猛烈な雷雨とともに梅雨が明け、夏の陽射しが庭植えられた紫陽花の葉の水滴に煌いたとき、田鶴はトンネルから抜け出した。
 今はもう、その部長がどうしているかしら? 会ってみたいわ、有紀のことをどうにかしてよ、なんて憎しみや愛着といったような特別な感情はとっくに薄れた。単なる遊び相手だったのかもしれないと思うようにもなった。  
 有紀を独りで産もうと決心したとき、まだ彼への思いの欠片はあったが、すべて捨てた。
 腹の中で動く新しい生命はそんな田鶴を毎日勇気づける。冬なのに無性に西瓜が食べたくなったり、ずっと歌を陽気に唄い続けていたくなったり、また逆に窓から見える樹や草や隣の家の屋根にとまっている雀などがみんな灰色に見えたりした。田鶴はすべて腹の中で息づく分身からの語りかけだと思って気を入れた。生活費だって切りつめれば独りもふたりも同じだと思う。
 家には部屋をかたづけようとしないなど、田鶴の悪いところはすべてあんたからよ、と言いたくなるような母咲江と、最近大正浪漫の古いポスターで見かけるような短髪が未だに似合う祖母花江と、有紀と、それに野良猫からいつの間にか居ついた雌猫のミーがいた。我が家はまったくの女家族だった。男の臭いはどこにもなかった。物騒だから玄関に男物の靴を置こうと田鶴は提案したが、そんなもんいらないわ、と祖母花江と母咲江は妙にこだわった。母がまだ若い頃わずかに男の影を田鶴は感じたが、祖母と母は示し合わせたのか、田鶴に男を感じさせない育て方をした。テレビや雑誌などで男女の身体の違いなどが話題になると、二人は妙にそわそわしてテレビのスイッチを突然切ったり、雑誌をどこかに隠したりした。それは田鶴の有紀の育て方にも影響した。もういつ初潮を見てもおかしくない有紀にどう説明するか、田鶴は密かに悩んでいた。日びの食事づくりや洗濯さえぎこちない男だけの家族と違い、表向きはあまり不自由さを感じない女だけの家族は男のいない生活に慣れきっている。ともすると、恥じらいなども忘れて下着のままテレビの前に寝そべっていたりしてふと気づいて顔を赤らめる田鶴であった。だが田鶴は身体のどこかに情交のあとの男との記憶がうっすらと残っているのを感じていた。それはともすると、気乗りしないクライアントの要望を聞いている最中にひょいっと思い浮かぶことが何回かあったりして、田鶴は密かに恥じた。
 そんな女家族の中で有紀は近頃変わった。同級生から自然に学んだのか、家の中でもふくらみ始めた胸を急に隠すようになっていた。
 母は自分の年金で、祖母は祖父の遺族年金で暮らしている。田鶴の収入を合わせて切り詰めればどうにか、たとえば秋刀魚など朝夕に季節を感じさせる旬の食べ物を一品ぐらいは口にできた。
 ミーは有紀の小遣いで避妊手術を受けていたので、季節になっても言い寄る雄猫にまったく興味を示さなかった。うるさそうに邪険に振る舞っていた。まるで我が家の女と同じようだ、と田鶴は心のなかで少しかわいそうになった。土が入った大きな丸い植木鉢の縁に沿うように丸く背伸びした恰好でうとうとと昼間はずっと眠っている。そして夜どこかに出かけていく。毎年冬に一度は風邪をひき、何も食べなくなり、一週間ほどどこかに消える。よく聞く話だが、死に場所でも決めているだろうか。無事乗り切ると、帰ってくる。田鶴はやせ細って軽くなった身体を抱き上げる。ミーはうるさそうに抱擁から逃れようともがく。
 家族がそばを通ると、気が付けば、いや気分が乗れば、ニャーと甘える。そのたびに、一番慣れているのは私よ、と家族の間で言い合った。祖母はキャットフード以外に隠れてウナギの頭をやっている。ウナギの頭はミーの大好物だった。田鶴が冷蔵庫に入れて後でやろうと思っていたのに、いつの間にかめざとく見つけてミーにやってしまう。
「花江おばあちゃん、抜け駆けしてずるいわ」
 有紀の声が玄関の方から聞こえる。有紀は祖母を花江おばあちゃん、母を咲江おばあちゃんと呼んでいた。
 
 でも、娘の有紀は淋しいのかもしれない……、ふと、湧いた気持ちを振り払うように玄関ドアを後ろ手に閉め、通い慣れた駅への道をあれこれ悩みながらここまで来た。
 道は桜の大樹を挟んで二手に分かれている。一方は土手を斜めに登り、上の幹線道路にでる坂道だ。一方は左手の土手の下を潜るトンネルの道だ。トンネルを抜けると、駅までの時間を七分ほど短縮できる。土手を登る道はしばらく、幹線道路に沿って横断歩道のある信号まで駅とは反対方向に歩かなければならなかったからだ。それで駅へ早く着くために高速道路なみの速度で車が流れる幹線道路を無茶な乱横断する人が何年かに一人の割で轢かれて死んだ。噂によると、何回横断できるか賭をしている女の子だけのグループもいるらしい。田鶴は幹線道路の切れ目のない車の流れを見ているうちに死んだ少女の葬送の列を土手の上に見たような気になった。
 有紀を産んでひとり育てようと決めたときもそうだったが、田鶴はいつもこの分岐点で無意識のうちに一瞬、立ち止まる。自然に気持ちが足を止めるのだ。
「あのトンネルにはネ、何か棲んでるんよ。ひとりで通ったらだめ」
 母咲江はいつも言っていた。変な男が潜んでいるかもしれない、そんな心配が女の子を持つ母親の間で噂話として広がっていったのだ。また車の急流を渡りきれずに死んだ霊が浮遊しているとも言われた。田鶴も有紀に母と同じ注意をしていた。
「あの中にはなア、もっと恐ろしいもんがおるワ」
「ああ、いる。いる。あたしは泣き声を聞いたわ。うめき声を聞いた人もいるのよ」
 これは町の噂だ。焼きたてが評判のパン屋でレジを待っているとき、女子高校生らしい二人づれが言っていた。田鶴の心に確かめたい気持ちが湧く。首筋に花冷えの風を感じる。
 風がにわかに吹いて暗い闇の詰まったトンネルに桜の花びらを押し込んだ。
 
 有紀を妊娠したと分かったときも桜の季節だった。田鶴は駅の近くにある町の病院へ行くとき、このトンネルをできるだけ独りでは通りたくなかった。トンネルの闇を吸い込むと、それと一緒に呪いも吸い込んでしまいそうに思えた。産むかどうか、田鶴にはやはり躊躇があった。トンネルを通ると、子を堕胎なければならなくなるような気がしていた。それでかなり遠回りだったけれど、土手の坂道を上がってしばらく駅とは反対方向へ歩いて病院へ行った。赤ん坊のために運動しなければ、と自分に言い聞かせて。
 母咲江も未婚で田鶴を産んだ。祖母花江も結婚前に子ができたが、親戚が騒ぎ回って無理矢理結婚させた。田鶴は自分に祖母や母と同じDNAがあることを感じていた。未婚の母の苦労は分かっているつもりだった。なぜ未婚の母という言葉は猥雑なイメージを周囲にまき散らすのだろうか。本当は男に無知で純粋な気持ちを持った女の群れなのに……。
「未婚の母なの」今ではそんなに珍しいことでないと思えるのに、田鶴のこの一言を聞くと男も女も一様に驚いてみせ、彼女の顔を改めてしげしげと見詰め、誰もが注意していなければ見過ごしてしまいそうなぐらいかすかに顔の表情を曇らせる。未婚って人が決めたルールでしかないわ、あたしにとっては生まれたときと同じなのよ、何も変わっていないわ、鬼の子を産むわけでもないの、と心のなかで呟く。額にたれた多すぎる黒髪を手で後ろになで上げた。
 子供は母と祖母にも協力してもらわなければ、働きに出られない。自信はなかった。そして一度だけ病院へ行くとき、トンネルを通った。予約の時間に間に合いそうになかったから。通ったというより駈け込んだと言う方が正しいかもしれない。小さな灯がぼんやりと連なって続き、出口はこれも小さな光の馬蹄形となって茫っと見えた。どこからか忍び泣くような声を聞いたように思えた。風が通る音だろうか?
 腹の中で赤子が動いた。
「怖いよー、母さん走ろうよ」
 そう赤子は言ったと思う。田鶴は闇を飲み込むまいと、息を止めて光に向かって走った。
 田鶴を育てたのは主に祖母花江だった。寝床の中で息が詰まるほど強く祖母に抱きしめられた記憶もある。
 
 母と祖母の前で病院から帰ってきて妊娠と出産の決意を告げたとき、
「あら、ひとりで産むの? そう……」
 母の言葉はつまった。顔は笑いを含んでいるようにも見えたが、眉間にしわが寄っている。
「血統かしら?」
 祖母は小さな仏壇に飾ってある祖父の写真に目をやって言った。
 次にふたりは同時に言った。
「こんなことまねなくていいんよ」
「でも、もう好きな人が現れないかもしれないから」
「そんなことないよ。きっと現れるわ」
「母さんには現れたの?」
 田鶴の問いにわずかな間が開いた。母咲江が何かを飲み込んだような間だった。そのとき、祖母花江はこの頃よくする無表情な顔になっていた。田鶴は母にも別れた父以外に好きな人が出来ていたのかもしれないと秘やかに思った。それは母の身体に生じたかすかな硬さと、きっと、という言葉に込められた声の強さだ。硬さも声もまるで匂いのように母から伝わってきた。田鶴は父のいる家庭を知らない。父に甘える方法はもちろん、女が男に甘えることさえどうしたらいいか分からない。心のなかで父を求めたこともあった。母を恨んだこともある。有紀の父である職場の部長にも密かに父を感じていたのかもしれない。
 田鶴も娘有紀と同じように自分の父に会いたくなって何回も母を責めた。
「一回でいいの」
「もう死んだわ
「うそ!」田鶴は母の動揺を感じて叫んだ。「一回でいいからさ。母さんの気持もわかるけど、どんな顔をしていて、どんな笑い顔かみたいの」
「笑い顔ですって? なぜ?」

「だって母さん、いつも父さんの笑い顔は素敵だったと言ってたじゃない?」
「母さんの好きだったのは顔じゃないわ。飾り職人の才能よ」

 そして黒梨地に金象嵌の髪飾りを田鶴に見せてくれた。少し暗い我が家の明かりの下でそれは輝いて見えた。
「この花、何?」
 田鶴は尋ねた。
「芍薬だって。田鶴にあげるわ」
 母咲江は髪飾りを丁寧に白い布に包みながら、初めて父の仕事を明かした。そして田鶴は男のどこを好きになったかも同じなような気がした。
 田鶴が出産の決意を花江と咲江に話した、あのとき確か外は雨が降っていた。軒の樋が壊れているのか、落ち葉が溜まったせいか、軒先の一か所から激しく雨水が落ちていた。そして灰色の空はいつまでも晴れないように田鶴には思えた。
 いいのよ、田鶴は同じ境遇になって初めて分った気持ちを込めて心のなかで呟いた。また一方で田鶴は迷っていた。宿った生命を密かに葬って自由になりたいという気持ちにもときどきなった。しかしどこかが傷ついて子供を産めない身体になることを極端に恐れていた。母咲江もきっと田鶴を葬ることをひととき考えたこともあると思う。もし咲江が田鶴を産むことを断念していたら、またもっとさかのぼれば、祖母花江が咲江を産むことをあきらめていたら、と今ここにいない自分を意識していた。祖母と母が田鶴の中に引き継いだ意思の灯を自分の代で消してしまいたくなかった。家の跡取りが途絶えるとか、そんなことは女だけの家族の中であまり考えなかったけれど、母の悪いところしか継いでいないように思える血をなぜか田鶴の代で終わらせたくなかった。それにもうひとつ祖母花江と母咲江と田鶴に共通の悩みがあった。左の小指の第二関節が曲がらないことだ。それがどんなに不自由なことか説明できないが、不謹慎とののしられても、かえってない方がいい、と思えるくらいだった。
 それでも、産みたい思いは後ろ向きな理由を超えて身体の中から沸き上がってきた。
 
 まだ有紀が保育所へ行く前だった。平日は祖母が一日中相手して近くの公園や買い物に連れていったが、たまにとれる休みの日は田鶴が努めて一緒にいた。有紀は赤い小さな長靴が好きでいつも履いていた。
「足がむれて臭くなるよ」
 田鶴が何とかして天気のよい日は普通のスニーカーを履かせようとしたけれど、ぐずってきかなかった。
 雨が上がった日曜日の朝、田鶴と有紀は久しぶりで散歩する。有紀は陽射しが映える水たまりをたどって歩いていく。ぴしゃぴしゃと音を立てる。ピンクの花模様のつなぎのズボンに泥がはねる。有紀はなおさらはしゃぐ。

 あのとき、田鶴に見せた有紀の笑顔が忘れられない。田鶴はしゃがみ込んで抱きしめたくなる。その手をかいくぐるようにして有紀は次の水たまりへ駈けていく。まるで水たまりの飛石をたどるように……。次第にピンクのつなぎが土色の水玉に染まる。和紙に落とした墨が中黒の周りに薄墨の滲んだ輪を創るように、有紀のピンクのつなぎに水玉が踊った。
 やがて有紀はつなぎとTシャツを脱ぎ捨て次の水たまりめがけて突進する。これはうれしいときの有紀の癖だった。今はまだショーツを履いているけれど、喜びがさらに高まると、もうすぐそれも脱いで旗のように振り出すに違いない。そして子供のくせにすべての苦しみから抜け出して来たみたいな晴れやかな顔で丸くかわいい腹を突き出して走り回る。青草の生えていない、柔らかそうな割れ目を惜しげもなくさらして走る。すれ違う男の視線が怖い。田鶴はなんだか自分が見られている気持ちになって恥ずかしくなる。左手の小指を密かに隠すような思いだ。有紀は巧みに田鶴の手をかいくぐる。田鶴は追い回しながら、有紀のなだらかな腹のふくらみを美しいと思い、かけがえのない輝きの光を必死で追いかけた。
 そのとき、有紀が成長してひとりの男に身をゆだねる情景がふっと浮かんだ。田鶴はあわてて打ち消し、有紀の行く末を按じた。母咲江や田鶴のたどった道を歩かせたくなかった。有紀の奔放さの中に田鶴は母や自分が受け継いできた危うさを見たような気がしたからだ。
 田鶴が出張で何日か家を空けたときも有紀は帰ってきた彼女を見るなりすべての洋服を脱いでぶんぶんと振り回したことだってある。
「やめなさい」
 田鶴の声が後を追う。ふと、心のなかが突然固まる。服をすべて脱いでしまうことがもしかして嬉しさの表現でなく、悲しさのパフォーマンスだったとしたら、と凍りつく思いを慌てて打ち消した。
「気持ちいいの。嬉しいの」
 有紀の奇妙なくせは小学校一年まで続いた。その最後は運動会の日だった。短い距離の徒競走があって一番になったときだ。有紀はゴールするなり、赤い帽子も紺色の短パンもすべて脱いでしまったのだ。そしてその場の先生たちと追いかけっこを演じた。好意的な爆笑の中、田鶴は曲がらない左手の小指をパンツのポケットに突っ込んだ。ふと右手にいる母の様子を横目でうかがった。咲江も同じように左手をパンツのポケットに突っ込んでいる。祖母花江は家で留守番をしていた。このごろあまり外に出たがらない。
 そういえば、まだ田鶴が小さかった頃、母咲江が何回か帰ってこない晩があった。祖母は自分の布団だけ敷いて田鶴と一緒に寝てくれた。息ができないほど祖母が彼女を抱きしめてくれた晩だったと思う。
「今日はお母さん帰ってこないの?」
「お仕事が忙しいだって……」
 祖母花江は語尾を濁した。出張のときは、東京に行ってくるわ、お土産、東京バナナがいい? なんて必ず田鶴の目を見て行き先を告げて出発したのに。それで祖母の気配に今日は特別なんだわ、と田鶴は思った。彼女は理由も分からず悲しくなって祖母の胸に乳の匂いを求めた。祖母の匂いは咲江の替わりにはならなかった。涙が止めどもなく流れる。祖母が寝間着の袖で拭いてくれたけれど、止めることができないで泣き疲れて眠ってしまった。
 そして朝、腰のまわりの冷たさに目覚める。
「淋しかったの?」
 祖母は田鶴の目の奥を覗き込むように訊いた。しかし田鶴は心のなかを占めている悲しみに似た思いを祖母に伝えることができなかった。
 祖母は黙ったままの田鶴を寝間に残し、いつも下着を乾す裏庭に布団を干してくれた。
 母が帰ってきた次の日の夕方、田鶴は飛び込んだ母の胸からたばこを喫わないはずなのに、その臭いを嗅いで顔をそむけた。
 遠く雷が鳴っている土曜日の夜だった。闇夜がさらに暗く感じた。田鶴は雷が嫌いだ。雷は独り淋しい気持ちでいる彼女に追い打ちをかけるように不安にさせたから。遠雷でさえ恐怖が胸を締め付ける。
 母咲江が勤め帰りに職場の同僚を連れて来た。少し長目の髪をしきりにかき上げる男で、田鶴を見る形のよい目に冷たさを感じた。
「彼は英文科出身なの。田鶴にこれからときどき英語を教えてくれるって」
 母咲江は何が嬉しいのか、おかしいのか、笑いながら言った。田鶴はその母の顔を嫌いだと思った。
「あたし、英語きらいです」
 田鶴は母も相手も嫌いです、という意味を込めて言うと、頭を形だけ下げて襖一枚を隔てた祖母花江の部屋に逃げた。
 それからしばらく隣の部屋から笑い声が聞こえていた。
 田鶴は祖母の膝枕で眠ろうとしたときだった。笑い声が途絶えて衣擦れの音と母の苦しそうなうめき声を聞いたように思えた。
「始めたね」祖母は訳の分からないことを言って田鶴の肩に手を置いた。田鶴は立ち上がって襖を開け放ちたい気持ちになった。しかし祖母の手に次第に力が入るのを感じると、跳ね起きることができずにじっとしているうちに眠ってしまったらしい。
 気がつくと朝だった。
「おかあさん、もう夕べのお客さん連れてこないでね。あたし英語はひとりでできるから」
 田鶴は起き抜けから母に迫った。昨夜の雷雨でできた水たまりが陽射しを反射して天井に水玉の光の輪を踊らせる。田鶴は心が乱れ、どこかで母をいじめていると思いながら言いつのった。

「あの人と、もうつきあうのやめて、嫌いなの、あたし」
 田鶴は日曜日の爽やかな朝にふさわしくない言葉だけを連ねて言った。困惑の表情が母咲江の表ににじむ。
 今の田鶴なら女としてその出来事の大体の想像もつくし、母も許せる。しかし当時は田鶴の心は抑制が効かなかった。言いつのるほど身内に快感が渦巻く。とめどもなく意地悪な思いが浮かび、口に出た。
 やがて快感は苦味のある心の痛みに変わり、あたしは母を悲しませている心の狭い子、ひとが嫌うことばかり言うとんでもなく厭らしい子だわ、あたしに母を責める資格があるの? と田鶴は極端に落ち込んだ。そして左手の小指を見つめる。
 理屈ではどうしようもない感情をどう納めたらいいのか分からなかった。
 
 有紀が小学校に入学した年、酷暑の夏が過ぎた。
 暑かったから、今年の紅葉はきれいだよ、と祖母花江から聞いていたが、温暖化のせいかなかなか紅葉の季節にならなかった。
「田鶴、紅葉を見に行かない?」
 祖母は言った。
「いいけど、まだ早いわ」
 田鶴は見に行くのだったら、十二月の初めぐらいを、と考えながら言った。
「そんなことないよ。ほら! 山は一面真っ赤じゃない」
 祖母は言いながら窓から見える山を眺めていた。田鶴にはまだ紅葉が始まったとしか見えなかった。一瞬、答えにとまどっていると、「山が燃えているわ」とも言った。いよいよ返事に困る。祖母の視野はすでにすべてが真っ赤なのだ。ふと、祖母が自分で山に火をつけたら、どうなるだろうと思う。
「わかったわ。このところ忙しいから、十二月の初めぐらいにしてくれる」
 田鶴は逆らわずに答え、もういちど山を見つめた。山はどう見てもまだ緑に勢いがあるように見えた。紅葉の始まった山は一度色褪せ、そして黄色や黄土色、朱や赤銅、茶や焦げ茶などに変わり、最後に錦繍に覆われる。
 
祖母の季節はすでにもう終わりが近づいているのだろうか? 田鶴はふっとそんな不吉な思いを打ち消した。田鶴は紅葉を祖母と見てしまうと、祖母の灯火が消えてしまう気がして祖母と紅葉を見に行く日をできるだけ遅く遠くに延ばしたいと思った。
 それから何日かして、火事があった。
 祖母は家いえのシルエットの縁が赤く染まり、闇夜が橙色のグラデーションとなって浮かび上がるのを見て、

「きれいや」と呟いた。横顔が輝いて見える。「闇夜に火が燃える。いいねえ」火事の災難にあった人びとのことに考えが及ばないのだろうか。どこか愉しんでいる気配さえを感じるのだ。
「そんなこと言うもんじゃないわ」
「夜空を焦がす炎を見てると、心が安まるの」
 と、きょとんとした目を向けただけだった。
 その日以降、祖母の夜間徘徊が始まった。
 田鶴は母の咲江にその異変を告げた。火付けでもされたら大変だと思ったから……。
「あなたもあたしも同じ血が流れているわ」
 咲江は言った。左手の小指と同じだというの? 田鶴の心は動揺した。どうして? こう悪いことばかり似るの? いいことは引き継がれていないの?
「花江おばあちゃんがまたいないよ」
 その頃、年末商戦の広告で仕事はピークを迎えていた。二、三日家に帰れない日が続いた後、ようやく我が家に帰って、テレビの前のソファでミーと一緒にうとうとしていたとき、田鶴は有紀に起こされた。ミーも有紀を見上げている。そして身体を伸ばして立ち上がり、有紀の足にまとわりついた。
「なんなの?」

 田鶴は自然に閉じられる目をこすりながら訊いた。
「このところ夜によくどこかにでかけるの」壁の時計は十一時をさしていた。「どこへいくの? って訊いたら、火事を見に行くのよ、と目を輝かせたわ」
「ひとりで行かせたら、だめじゃない」

「だって、咲江おばあちゃんに相談したら、思いのままにさせてやったら……って」
 母咲江には祖母の様子は関心がないようだ。
 今夜は大分冷え込んでいる。祖母はどこを彷徨っているのだろうか? 寒くないのだろうか? どんな格好で出かけたのだろう。素足に草履を突っかけ、火事を探す様子が浮かぶ。裸足だったらどうしよう。
「かあさん、おばあちゃんを探すの手伝って」
 田鶴は母咲江へ襖越しに声をかけた。
「放っといたらいいのよ。そのうち、帰ってくるわ」

 自分も年寄りのくせにそんなことと言わないでほしいと思いながら、
「迎えに行かないと、凍え死ぬわ」
 と言い返した。きっと母咲江はこたつから出たくないのだ。田鶴はさっきから左手の小指の疼きが止まらない。母も疼いているはずなのに……。
「有紀、ふたりで探すよ」
 キッチンの方に声をかけると、田鶴は首にマフラーをまいた。
 玄関で靴を履く。有紀も黙って横に座り、赤いスニーカーのひもを結んだ。ミーも寄ってきて一緒に出かけるつもりかもう一度入念な伸びをした。
「あてある?」
 田鶴は目に力を入れて隣に座っている有紀に訊いた。
「うん、フェリー乗り場の赤灯台下が好きなの。特に夜の。何回か一緒に行ったよ」
「なんで夜なの?」
「あそこね、冬は空気が澄んで、対岸の島の明かりがきれいなの。それに岸からフェリーに乗っている人を見るのもおもしろいわ。そして夏は夜光虫よ」
「夜光虫?」
「そう、暗い海に光が漂うの」
 「波のまにまに?」

「波が夜光虫で縁取られるの」
 田鶴はずっと心のなかにしまっていたことを思い出していた。有紀の父でない、本当に心から思った男の、心の疼きを伴う思い出だった。遠い誰も知った人のいない岸壁でいつまでもふたりで眺めた夜光虫。
 そして遠い夏の光が砕け散った。
 有紀と行ったという赤灯台の下に祖母はいなかった。田鶴と有紀が呼ぶ声が闇に吸い取られる。
「あっ、あれよ」
 有紀が叫んだ。赤灯台と対峙するように港の水路を隔てた向こうに対の白灯台がある。その下に黒い影がうずくまっている。
 ふたりは白灯台をめざして漁船だまりを大回りして走った。
 黒いショールを被った祖母は岸壁に打ち寄せる波を見つめていた。田鶴と有紀が手を差し出しても握ろうとしなかった。
 闇に薄いベールを張るように打ち寄せ、砕ける波を見ているうちに、田鶴は夜光虫を一緒に眺めた男の横顔を思い出していた。その面影ははっきりとした映像を結んだわけではなかったが、心のなかに封印したままであっただけに色褪せることもなくある程度の鮮明さをもっていた。
 田鶴は大学の夏休みを利用して彼のふるさとへ行った。そして彼の家に泊まった。二人は結婚を約束していた。しかし彼の母は田鶴が未婚の母の子であることにこだわった。
「我が家は古い家です。そんなこと許されるはずがありません」
 彼の母の言い分だ。
「母さん、……」
 彼は口ごもり、まだ田鶴を守って自分の主張を十分押し通すことができなかった。また田鶴自身も男のいる家族について知識がなかった。女だけの家族で育った田鶴は男の気持ちを十分理解することができなかったし、正直いって少し怖かったと思う。それは男の身体についても言えた。男の身体に過剰反応する心だ。彼が近づくと、田鶴の身体はこわばり、極度の緊張が襲う。触ってほしいのに、こわい。小鳥のように淡くキスされた唇は腫れた。心は願っているのに、表面は恐怖に満ち、ひたすら左手の曲がらない小指のせいにした。あたしは小指が曲がらないから彼に近づいてはいけないの、好きだからこそ、未婚の母の子であることや小指の欠陥が田鶴を責めた。彼は手紙や電話や電報まで使って心の内を伝えて来たし、何回か田鶴の家にも訪ねてきたが、狂ってしまった行き違いを修復できなかった。
 そして田鶴は夜光虫の美しいが冷たい光を思い浮かべながら、彼を心のなかに封印した。
 
 田鶴の有紀に対する心配が日増しに強まった夏は、酷暑だった。各地の貯水池は干からび始めていた。
「今年の夏休みはお父さんのところで過ごすわ」
「死んだわ」
 母咲江もあたしに同じことを言ってたわ、と思いながらいつものように言った。ただ心のなかでは、父に会いたい気持ち、自分もそうだったから、有紀の気持ちがひしひしと伝わってきた。分かるわ、でも、困るのよ、この気持ちどう伝えたらいいのかわからない。
「そんなことないわ」有紀は膝に置いた両手の拳をぎゅっと握って言い、「あたしには会う権利があるの。お母さんのいないときに、タンスの中をしらべさせてもらったわ」と続けた。
「それは犯罪よ。まだ小学三年生でしょ?」

「お父さんの実家が分かったわ。あたし行ってきます」「死んだって言ったでしょ?」
「それでもいいの。おじいちゃんかおばあちゃんにお父さんのこと、いろいろ教えてもらいたいの」
 もし有紀が父親の実家へ行ったら先方は仰天するだろう。そしてきっと真相を田鶴に訊いてくる。
「違います。父親は他の方ですよ。誰かはいえません。プライバシーの問題ですから」
 田鶴はいつでも答えられるよう有紀の父親は彼ではないと思い込もうとしていた。違うと思うことがどんなに田鶴を楽にしたか? 有紀には悪いのだが、行きずりがどんなに気楽か、交通事故のようなもので厭なことはすべてをいち早く忘れさせてくれるのだ。有紀は小学校一年の運動会を最後に、服を脱がなくなった。それと同時に有紀の父再会願望は一段と強くなったような気がする。低学年なのに思っていたより現状を調べる能力がある。もしかしたら、田鶴の血でなく、父親ゆずりかもしれない。いずれ有紀が父親に巡り会う確率はかなり高い。それはもう明日かもしれないのだ。
「どうしても教えてくれないなら、有紀、明日からもう勉強しないわ」
「教えようがないわよ」
 有紀は突然ランドセルを逆さにして教科書や夏休みの宿題のテキストを床の上にまき散らした。

 田鶴は有紀の挑発に耐えられなかった。右の平手打ちが飛んだ。
 田鶴の平手はスローモーションのようにゆっくりと目の前を通り過ぎたように見えた。
 頬を打つ音がとてつもなく大きく聞こえ、有紀の顔が変形し、苦痛にゆがむ。パンツのポケットに突っ込んだ左小指が泣いている。ワーと叫んで有紀は泣き伏した。田鶴は跪いてその肩を抱いてやりたいのに、できないでいる。独りで産むことを選択したときから、こんなことが起きることは予想されただろう。
「母さん、きもいわ。今日のことは忘れないからね」
「ええ、あたしも忘れないわ。やっと有紀は本当に母さんの子よ」
 田鶴は少し涙ぐんだ声で言った。今まで有紀を一人で産んで育てた、父親のない子にしてしまった、という負い目があった。今、有紀を平手打ちにすることで田鶴は親として子を叱る権利を得たような気になっていた。しかし有紀にその意味が分かったかどうか疑問だった。冷房が効いているはずの部屋なのに、額や脇の下はとめどもなく汗が伝い流れた。有紀も汗まみれだ。部屋の隅でミーがふたりを見つめている。恥ずかしいやりきれない気持ちが湧いてきた。
 田鶴は有紀を抱きしめた。母親として他にできることがあるはずだが、左手の小指の存在さえ忘れるほど、初めて平手打ちをした手は痺れ、心は動揺していた。
「わかったわ。今度の日曜日、二人でどこかへ行こう。これからのことを話しにね」
 そういいながら、有紀の父である元部長のふるさとへ有紀を誘う気はまったくなかった。田鶴は有紀を心に封印した男のふるさとの海に連れて行きたかった。
「父さんにも会わせてくれるの?」
「違うの。いなかにはもう誰もいないわ」

 田鶴と有紀の間にしばらく沈黙が続いた。
「いいわ。母さんとこれからのことを話しにどこかに行くのもいいかもしれないわ」
 有紀は打たれた頬から手を放してようやく言った。
 ミーはいつも爪を研ぐ柱で、ときどきかりかりと音を立てた。
 雲ひとつもない夏の空は何かが足りないように思えた。入道雲がもくもくと空に湧き上がっている方がやはり夏を感じる。田鶴は列車の車窓からずっと夏空を見続けていた。すっきりしない気持ちで雲のない空は落ち着かない。
 ローカル線の列車は単線だった。行き違う時間を調整するためかゆっくりした速度で走っていた。車内は国なまりが高く低く聞こえてくる。座席越しにいくつかの頭が見える。
 列車がごとんと駅に止まった。無人駅のようだ。田舎のバス停留所みたいな屋根がけの駅舎だ。
 車内放送もない。静かだ。陽射しだけ暑い。
 有紀は少女漫画を読んでいたが、疲れたのか頭を窓に預けて眠っている。寝顔はどちらかというと、田鶴より祖母花江に似ている。鼻の形やまつげの長さもそっくりだった。
 大きなリュックサックを背負った青年が乗ってきた。かなり背が高い。客車の入り口でスポーツ刈りの頭をさげ、潜るような動作で車内に入ってきた。日に焼けた顔は眉毛と無精ひげが濃い。
 有紀は目を覚まし、臍が出ていたTシャツの裾を引っ張りながら青年を見ている。有紀の目に田鶴がもうとっく忘れてしまっていた輝きが宿っていた。まだ小学校三年だよ、と思いつつ、田鶴は有紀の左手の小指を見る。母咲江と田鶴の指に似た、長目の形のよい指だ。何の支障もないらしい。密かに胸をなで下ろした。青年が有紀に笑顔を向けた。有紀も今まで家族には見せたことがないような笑顔を返した。青年は網棚にリュックサックを載せると、田鶴たちの後ろのボックスに座った。有紀はしきりに後ろを気にしている。まだ小学三年生有紀が行きずりの青年に興味を示すことに、田鶴は不安になった。それは田鶴もその行きずりの青年に惹かれ、心の深奥を覗かれたような気がしたからだ。
 彼のふるさとの駅に着いたとき、田鶴は心のなかの封印を切って、ここが本当に好きだった人のいなかであることや、有紀の父に対する現在の気持ちも含めてできる限り正確に話した。有紀には少し残酷かもしれないと思いながらも話してしまう自分にあきれながら、そしてこんな思いやりのない母はいないと感じながら……。
「母さんは今でもその人が好きなの? 私の父さん……よりも」やはり有紀の顔は曇った。
「ええ、ずっと。だから、すり替えかもしれないけど、有紀の父親も彼よ、と思ったこともあるわ」田鶴は黒髪に手をやり、額に浮いた汗を白いハンカチーフで拭いて続けた。「ここが彼のふるさとなの。夜光虫を見つめた海のある場所よ。その人が有紀の父親だったらどんなによかったか分からないわ」
「そうなんだ。わかったわ。母さんが大切してきたものが……」
 有紀は何かを考えているように見えた。
 駅のホームのすぐ真下が海だった。波の音はさっきからかなり大きく聞こえる。夏の海はあくまで青く、それでいて少し粘りを含んでいるように煌めいていた。
 田鶴と有紀は自分の心のなかをさらけ出すようにぎこちなく浜辺の果ての半島の突端をめざして浜辺を歩き始めた。まるでふたりの人生と同じように、暑い砂が靴の中に入って歩きにくかった。砂はきめ細かくきゅきゅと泣いた。黒い日傘に田鶴はつかの間の涼しさを感じていた。「でもね、ここはやはりあたしのふるさとではないわ。母さんの気持ちは分かるけれどね」 有紀の大人びた顔は麦わら帽の小さな影に陰った。
 この旅行は田鶴と有紀の気持ちを少し近づけた。ふたりの間にある溝を完全に埋めるものではないが、仮橋ぐらいは架けたと田鶴は思った。しかしそれは甘い判断とすぐ悟らされる結果となった。
 月の輝きが夜の涼しさを感じさせる季節になって有紀が通う小学校から連絡が入った。初め祖母花江が電話を取ったので、要領を得なかった。
「有紀が今日学校を休んだらしいよ」

 祖母はそれしか言わない。田鶴は仕方なく担任の女教師に夜遅く電話をした。
「何の連絡もなく休まれたので、念のため連絡しました。風邪でもひかれたのですか?」

「いえ、元気で登校したはずですわ」
 田鶴はそう答えながら変な返事をしていると思った。思い当たるのは有紀の父のふるさとへ行ったかもしれないことだった。ひとりあの小さな駅に有紀は今頃降り立っているかもしれないと、田鶴は思った。何か起こる前に有紀を見つけ出さなければならない。
「警察へ頼むのかい? ちょっと様子を見たら……」
 祖母花江と母咲江は同じことを言った。しかしふたりとも狼狽している、と確信した。田鶴の左手の小指の硬直は痛みをともなっていた。祖母や母の小指がそのままであるはずがないように思えた。
 警察に捜査願いを出した後、田鶴は有紀の部屋に入った。有紀は田鶴に似て掃除が極端に嫌いなのに、今日はよく片付いている。普段は漫画本や教科書がうずたかく積まれている机の上には何もない。ベッドも乱れた様子がない。毎朝、壊れたアコーディオンの蛇腹のように脱ぎ捨てられていたパジャマのパンツが上着とともにきちんと畳まれてベッドの上においてあった。それが有紀の意思を感じさせた。

「汚い方が落ち着くの」いつもそう言っていた有紀の声が蘇る。だから妙に片付けられた部屋は田鶴に不安な予感を抱かせた。ミーも田鶴について部屋に入ったが、いつの間にかいなくなっている。有紀のいない部屋に入ってはいけないと思ったのだろうか。
 窓から外を見ると、台風が接近中か、真っ黒な雲が恐ろしい速度で灰色の空を西から東へ不気味に吹き渡っていく。
 机の一番上の引き出しの中は乱雑に携帯電話のトラップや少女漫画のカードが入っていた。
「勝手に人の机の引き出し開けないでね」
 どこかで有紀が口を尖らせる声を聞いたように思えた。

 二番目の引き出しを開けると、一番上にメモを見つけた。かわいいピンクのメモ用紙には、母さん、父さんのいなかに行ってきます。探さないでください、とあった。
 そのメモを見るなり、田鶴の目から涙が溢れた。
 今ごろ、有紀はどこにいるのだろうか? 田鶴にとって、そして今の我が家にとって有紀は女三人の血を引いた生命の源だった。祖母花江にかすれゆく記憶にかろうじて対抗する意思とエネルギーを与え、母咲江には未婚の母の誇りを朽ちさせない存在だ。そして田鶴にとって有紀は人生のすべてといえた。
 田鶴は居間の片隅に置かれた白い電話機を見つめる。有紀の消息を知らせる着信音を彼女は待っていた。ほんの一時間前に警察へ連絡したばかりなのにもう一日が経ったように思える。
 黒雲の流れる速度がさらに増した。量も暗黒の度合いも増えた。有紀は死んだのでは、と根拠のない不安はさらに膨れあがり、田鶴を責めた。もっともっと有紀の話を聞いてあげればよかったと。
 警察からの連絡は午後九時を過ぎてもなかった。普段なら有紀を入れて女四人と一匹、風呂の順番を待ちながら、テレビの前で笑い声が溢れる時間だ。それなのに今日は三人の女が黙ってテーブルに座っている。ミーは爪を研ぐ柱の前にうずくまっている。そしてときどき前足を愛しげになめていた。祖母花江も事態を理解しているらしく、ときどき深いため息をついた。母咲江は左小指を立てたままやりにくそうにリンゴの皮をむき続けている。途中で皮が切れないよう細心の注意を払っている。その技に祈りを込めているのだろうか? テーブルに置かれたリンゴの数は四つだった。ようやく二つ目がむけたところだ。しかし誰も食べようとしなかった。一つ目のリンゴの表面がさび色の砂をまぶしたように変化し始めていた。
 午後十一時が過ぎたとき、警察から連絡が入った。受話器を持つ手が脂汗でべっとりしている。田鶴は受話器を持ちかえた。有紀を彼女の父のふるさとの駅で保護したと。明日一番で迎えに来てほしい、とのことだった。田鶴は礼を述べて電話を切った。

 母咲江が立ち上がって風呂に入る用意を始めた。
 
「あたし謝らないわ。うちは女だけの四人家族、たまらないわ。かばい合っているように見えるけど、結構お互いに意地悪してるよ」
 有紀は家に戻ってみんなに言った。ミーが有紀の膝で死んだように眠っている。よく見ると、腹がかすかに息づかいを伝えてくる。
「意地悪なんてしてないわ!」
 三人の女が声をそろえて応えた。
「ほら、自覚がないでしょ? それがたまらないのよ。誰かあたしの父に会わせてくれた?」
「それは有紀によくないわ」
 田鶴は慌てて応える。
「なぜ? 母さんが困るだけでしょ? 決めるのはあたし」

 小学五年生にしてはしっかりしている、と田鶴は思った。そしてこんなことまで考えさせてしまったのは自分のせいだと感じ始めていた。
「まだ大人しか分からないことがあるからね。仕方ないわ」
 咲江が言った。
「でもあたしにとってはしかたがないではすまないの。男の人がいる家族がほしいわ。母さんが父の役割をしてくれてきたけど、やはりね」
「そんなこと言ったって我が家は代々女家族なの」

「そんなの厭!」有紀は叫んだ。
「みんな好きな人と暮らすのをあきらめただけよね」

 田鶴がそれに和し、「女ではどうにもできないわ。父親は男しかできないの。やはり……」と続けた。
「母さん、分かってくれた?」
 有紀の顔が晴れやかになった。花江は、ほう、ほう、と訳の分からない声を発し、咲江は何も言えないで、両手をテーブルの下に隠している。ただひたすら左手の小指の疼きに耐えているのだろうか?

「ところで有紀、誰かに会えたの?」
 祖母花江がとろんとした目で訊いた。田鶴もとても気になっていたが、反発が怖くて訊けないでいた。田鶴は一度だけ彼に連れられてあの村に行ったことがあった。しかし彼の両親に会わせてもらったわけでもなく、有紀と同じように彼の育ったふるさとの空気を吸っただけだった。
「ううん、調べた住所へ行ったけど……」有紀は言葉を切り、壁にかかっているブルーの靄を抽象化した絵に目をやって、「あたしの背丈ぐらいの枯れかけた草がぼうぼうと繁って屋根は傾き、壁は落ち……、なんて言うんだっけ? そういうの、漫画で見たことあるんだけど」と田鶴の目を見た。

「廃墟?」と田鶴は小さな声で言った。
「あっ、そうよ。廃墟になってたの」
 野草が生い茂り、崩れた屋根にすすきが生え、格子だけの障子や朽ちた壁にやぶがらしやくずなどの蔦が複雑に絡みついているモノトーンの廃墟。そこにこぼれ種の季節外れの朝顔がたった一輪だけ薄い紫の花を淋しく咲かせている情景を田鶴は思い浮かべていた。
 そしてそれは廃墟に立つ有紀の姿と重なった。
「それから?」母咲江が言葉をかける。
「一日中、村中を歩いたわ。父さんの育ったふるさとよ、って思いながらね。足は痛くなるし、人には会わないし……」有紀は涙ぐんだ。「悲しくなって、心細くなって、みんなのところへ戻りたくなったの」
 田鶴は祖母と母のぬれた視線を感じながら、ごめんね、これからはもっとあなたの話を聞くわ、と口の中で呟き、有紀を抱きしめた。有紀の膝の上で眠っていたミーが目を開けてにゃーと鳴いた。

 

 ふと、桜の花びらが顔に当たるのを感じた。田鶴は桜の大樹を見上げる。桜はトンネルにも土手の坂にも均等に大枝を広げていた。花びらはゆるやかにZを描いて舞い落ちる。初めにふわりと、方向をゆらりと変え、終わりにまた踵を返すように方向をかえてすらりとたゆとう。 田鶴はまた時計を見た。今日はいつもトンネルを一緒に抜ける、黒い背広姿が見えない。気にかけているつもりはないが、会えないと気になる。もう土手の上を歩く道では遅刻しそうだった。ひとりで抜けるしかない。トンネルの上に頭上注意と赤い字が見える。ずっと以前に小型車が通行できたときのサインだ。白地の鉄板には錆が噴き出し朽ちる寸前だった。トンネルの壁に固定したビスが一つ外れたのか、標識は右下りに傾いていた。コンクリートの壁に標識の白い痕が残っている。色褪せて落ちそうな感じだ。今は手前に車止めが設置され、人の通行のみが許されていた。
 田鶴にはそのサインが他のものにも注意せよ、と言っているように思えた。思い切って花びらに後押しされてトンネルに走り込んだ。
 闇のずっと向こうに馬蹄形の光が見えた。