花四季彩-小説『円筒の家』

八月の群れ第１５号収録�2000　ISBN4-7883-3100-4

円筒の家

野 元 正

　マンホールのステップを一歩いっぽ注意深く降りていった。
　中はひんやりとしていて、深さは三メートル以上もある。底に真っ暗な横穴があり、スコップで壁を叩くと、こだまが返ってくる。腐臭の中にかすかな風にのって時折、潮の香りが混じる。
　土木作業員、洋一の今日の仕事はマンホールの中を掃除することだった。
　作業は捗らない。洋一の心にはアパートの大家が告げた言葉が引っかかっていた。
「山村さん、今度、アパートを取り壊すことになりましてねぇ。三か月後には引き払ってくれませんか。たまっている　家賃はまけときますよ。もちろん少ないけど、見舞金も出しますから……」
大家は普段はむっつりしているのに、いやに今朝は愛想がよかった。
「仕事に出かける朝にそんなこと言わんといてください。気になりますから。地上げですか。もう少し待ってもらうわけにいきませんか」
　どこにも行くあてのない洋一は訊いた。
「いやね、待ってあげたいんだけど……、もう売ってしまったんでね。なんでもここに大きなスーパーが建つらしいよ。その開店の日が決まってるんでね。だから頼むよ」
　大家はすまなそうな態度を装っていたが、言葉の調子は有無を言わせない響きがあった。
「考えておきます」
　小さな声で答えて歩き出した。店子の都合も少しは考えてほしいと思ったが、ここで頑張ると、たまった二か月分の家賃を催促されることになりかねない。家賃が棒引きになり、見舞金もくれるのは魅力だった。
　洋一は振り返って二階にある自分の部屋の窓を見た。窓ガラスはこのアパートに越してきたときから割れていた。そこに貼られたビニールの風呂敷が剥がれて、わずかな風に揺れている。アパートの入口に面した舗装されていない道端の溝が土で埋まり雑草が生えて詰まり、夏の陽射しに照らされ、悪臭を漂わせ始めていた。
　このあたりで一本しかない路地の角のくすのきの下を洋一は肩を落として曲がった。一瞬ひんやりとした葉群れの間から蝉の鳴き声が降ってきた。もう大家のしつこい眼は追ってこなかった。
　市場の中を通る道は両側からせり出した商品で二、三人がやっと通れるぐらいだった。
「仕事かい？ 魚安いよ。とっとくから帰りに寄んなよ」
　顔馴染みの魚屋のおばさんが声を掛けてきた。洋一は元気のない笑顔を向けただけで、これからどこに住んだらいいのか、と途方に暮れながら黙って通り過ぎた。

　マンホールにたまったへどろを取り除いても真っ黒な水と臭気が残った。
　洋一は海の匂いを求めて歩いてみたくなった。暗く円い壁を伝いながら歩き始めた。水は淀んで、あまり流れていない。地上の汚さを集めて濃縮したような腐った臭気が鼻をつく。
　雨水下水道はコンクリートヒューム管でできていて円形なので底も円いし、苔が生えていて滑りやすく歩きにくい。洋一は水を求めて彷徨うように何回も転びそうになりながら歩いた。
　ところどころで、マンホールの蓋にあいた穴から闇を区切る何本かの直線の光が射し込んでいて、洋一を勇気づける。水の音だけが従いてくる。
　海だ。急に潮の香りが強くなり、すえた匂いが薄れた。ずっと先に小さな光の煌めきが見える。
　洋一は嬉しくなった。自然に歩くのが速くなる。振り返ると、背後は真っ暗な闇が詰まっていた。
　大学を出てから十年間、一流ホテルのフロントマンだったこと、その間に両親も死んでしまったこと、好きな女とも　別れたことなど自分の過去が、その闇の中に詰まっているように、洋一には思えた。
　前方の煌めきが次第に輝きに変わってきた。大きな円の中ほどまで明るい海に満たされ、その上は空だった。底を流れる水は、射し込む陽の光に反射して海に通じる白い道になっていた。
　海峡の向こうに紫に煙る島が見える。海は銀色の小さな板を何枚も敷き詰めたように明るく輝いていた。
　暗いトンネルを抜けて来たせいか、こんなに海を新鮮に、そして身近に感じたことはなかった。
　そのとき、洋一はここに住もうと思った。
　開かれた海とだけ外界とつながっているのが気に入った。再び、暗い地下の道を戻りたくなかった。
　次の日、十万円ほど見舞金をもらって安アパートを引き払った。荷物はホテルマンを辞めて、土木作業員になってから、その日暮らしの糧に売り払ってしまった。ほとんどめぼしい烽ﾌは残っていない。ひげ剃り、歯ブラシ、石鹸、タオルそれに下着と着替えなど身の回りの物をボストンバックひとつと古びた紙の買物袋ふたつにつめ込んだ。
　引っ越しは大家だけが笑顔で見送ってくれた。
　
　雨水管の中は普通の家より天井が高かった。弧を描く天井がお洒落に思えて気に入った。床は海岸から拾ってきた石の上に流木と板切れを並べ、段ボールを敷いた。段ボールはＪＲ駅の北側にあるスーパーのゴミ置き場から取ってきた。ちゃぶ台と日常品を入れる家具としても使った。部屋の円い壁に添って、炊事道具、毛布二枚などを並べ、荒ゴミ置場で拾ってきたラジカセと懐中電灯も置いた。枕元になる位置に置いた。大雨が降り、いつ濁流が襲ってきて押し流されてしまうかもしれないから、持ち物は最小限でなければならない。それにホテルマンを辞めて、日毎に荷物の減っていくアパートの部屋を眺めるうちに、何にもないほうがすっきりしていると思えるようになっていた。
　壁に絵も飾りたいと思ったが、我が家づくりの休憩時間に前方に開けた海を眺めるうちにそんな考えはなくなった。
　こうして洋一は、海に注ぐ直径三メートル巨大な下水道管を棲み家にした。なんの足かせもなく、誰にも邪魔されない気ままな生活が始まった。
　すぐに週刊誌、脱いだ靴下、使いさしのトイレットペーパー、汁にラードが浮いている即席ラーメンのカップなどが散乱しはじめた。しかし、色褪せた畳のいたるところに煙草の焼け焦げが、ごきぶりの死骸のように残るアパートより、広くて快適だった。
　薄暗く粗末な家だが、陽一の心と海が見える視界を遮るものは何も無かった。べた凪の穏やかな海や北風が吹きすさむ荒れ狂う海などいろいろな海の表情を好きなときに好きなだけ眺められると思うと楽しくなった。海のない町で育った洋一には、小さいときから海の見える家に住みたい、という夢が十分とは言えないにしても実現したことも心を踊らせた。
　しばらく雨が降っていないので、床下を流れる水は、底を這うようにしか流れていない。雨水管の吐け口から波打ち際までは小さな川になっている。だから棲み家に行くには潮の満ち引きによって違うが、水深二・三十センチの川を遡る。靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくり上げ、川を遡っていくとき、自分の家が滝の後ろに隠された秘密の洞窟のように、　誰にも知られていないことが洋一を浮きうきさせた。
　棲み家の上にある海の見える公園で夕方の散歩なのか、犬を呼ぶ女の声が聞こえる。その声に糞をそのままにしないでくれよな、なんて考えた。
　公園には便所も水飲み場もあるのでトイレや水の心配もない。洗濯も公園の水飲み場でして、近くの樹に引っ掛け、海風で乾かしたらいいと思った。
　三日か四日に一度、土木の仕事をし、後は海を眺めて暮らした。陽光に揺り起こされ、なんとなく起き、海が夕日に染まり、雨水管の中が闇に包まれると眠った。昼寝をして眠れないときは、対岸の島に煌めくまばらな明かりや闇に白く光る波や海峡を行き交う船の灯火や空の星座を膝小僧を抱えて、眠たくなるまで眺めた。
　喧噪な都会の煩わしさを忘れた。
洋一の顔から青白さが消えた。何も考えないで過ごせる気楽で自由な生活だ。ホテルマンのときと違っておし着せの制服を着て、きりっと背筋をたて、神経を擦り減らすこともない。お腹の力を抜き、背を丸め、ゆったりできた。髭も伸びるにまかせる。鏡を見ると似合っている。洋一は型にはめられた心を解きほぐしてくれる口髭をはやすことにした。

　朝から夏の雨が降っている。
　土木作業に出る日だったが、おそらくあぶれだろう。しかし、雨でも器具庫の整理や道具の手入れなど、仕事が出ることがあったので、とにかく仕事場まで行ってみようと思った。
　雨の日の棲み家は蒸し暑いうえに湿気がこもって居心地が悪い。洋一は髭が湿ると野良猫みたいな気持ちになって気が滅入る。
　毛布を二つに畳んで板の間の端に押しやる。床下の流れの水嵩が少し増えている。
　川を渡って誰もいないひっそりとした浜辺に出た。波が赤く錆びたジュースの空き缶を弄んでいる。空き缶は緩い砂の傾斜を登りつめてはまた、引いていく波を慕うみたいに転がって波打ち際まで戻っていく。黒い雲が垂れ込め、海と空の境が定かでなかった。洋一は沈んだ心を引きずるようにゆっくりと公園への石段を昇った。
　雨を避けて公園の松林を抜けた。
　公園のはずれにある駅が見えてきた。白い壁のペンキが剥げて魚の鱗のようにめくれた、色褪せた木造の小じんまりとした駅舎だ。寂れた感じが、雨に似合っている。駅前の花壇に、はまなすの赤い花がひっそりと咲いている。
　女がひとり雨に濡れて花壇を背にした白いベンチに座っている。ヒマワリ柄のワンピースが女の身体にべっとりとまとわりついていた。
「どうしたの？　傘は？」
　洋一は声をかけた。見知らぬ髭の男に声をかけられて、女はちょっとびくっとした。それからゆっくり洋一に顔を向ける。整った顔に二重の大きな眼が澄んでいる。しかし、どこか焦点の定まらない感じだった。
「せっかくのあめだから……、ユウコ、ぬれてあげてるの」
　女は自分のことをユウコと言った。子供のまま大人になったようなあどけなさが顔に残っている。ユウコはしばらく黙ってじっと見つめてきた。洋一は女の黒い瞳の奥にひらひらとあてもなく翔んでいる蝶のような白い影を見た。
　雨が作業服の肩を打つのが分かった。
「おじさんもあめにぬれてあげてるの？」
　ユウコは微笑んだ。
「いや、傘が……」と言いかけて止めた。ユウコは雨を自然に受け止めている。洋一の心に爽やかさが広がった。
　駅の時計を見る。
　洋一はユウコに軽く手を上げて駅舎に入った。灯が点いていないせいか、中は薄暗かった。改札口の黒い縁取りに生け捕られたホームの植え込みの緑が雨に洗われて、眼にしみる。
　気がつくと、ユウコが後ろに立っていた。いつの間にか従いてきたのだ。洋一は、小学生の頃、隣の女の子が彼のセーターの後ろを掴んでどこまでも従いてきたときに似た、困ったような、それでいてそのままでいたいような感じを抱いた。
「おじさん、これからどこへいくの？」
「仕事だよ」
「ついていってもいい？ ユウコ、いくとこないの」
「仕事だからこまるなあ」
　洋一は慌てて言った。
「おしごとじゃなければいいの？」
　駅員が事務室から出てきて、洋一たちのほうを見ている。
　電車が入ってきた。雨で見にくいのかライトをつけている。その輝きがかえって周囲を暗くし、仕事に行こうとしている洋一の意欲を少し削いだ。
　雨足が激しくなってきた。運転台のワイパーの動きがせわしい。
「もう、行くよ」
　洋一は気持ちをユウコに残しながら、きっぱりした態度をとらなければ、と回れ右をするようにぎこちなく背中を見せた。
「ユウコもでんしゃにのりたいな。だめならここでおじさんのかえってくるのをまってるわ」
　ユウコはちよっとだだをこねる。ノースリーブの白い肩に顎をすりつけるように頭を斜めに振った。
　発車のベルが鳴っている。
　困ったなあと思いつつ、ユウコを放っておけない気になった。
　ドアが閉まり、電車はゆっくり走り出した。赤い尾燈を見送る。電車が見えなくなって振り返ると、彼女は洋一を見つめながら嬉しそうに笑っていた。ユウコの頭の中に描かれている世界がどんなものなのか、まったく見当がつかない。洋一の心に戸惑いと恐れに似た感情が湧いた。
「どこから来たの？」
　洋一は訊いてみる。
「わかんない。あっちのほう……」
　ユウコは少し頭を傾げて、海のほうを指差した。
「とにかく服を乾かさなきゃ……」と言うと、こっくり頷いた。今日は雨だから、公園の管理人も巡って来ないだろう。雨のかからないところで焚火をしてユウコの服を乾かすために、公園の休憩所に行こう、と洋一は思った。
　ふたりは松林を抜け、海の見える休憩所に行った。風と雨に松林が低い声で共鳴している。
　海は灰色に煙っていた。粘り気のある波がうねり、浜辺に寄せてくる。空の色を映した海原を群れてよぎる海鳥の姿もない。波以外の音をかき消した静けさが灰色の海を覆っていた。
　時折、海峡を通過する船の霧笛が遠くで聞こえた。
「たきぎを拾ってくるから、ここに居るんだよ」
　洋一は念を押すと、浜辺に通じる石段を駆け降りた。ユウコの焦点の定まらない、しかしそれでいて何か訴えているすがるような眼差しが心の奥に残った。
　雨の浜辺で、洋一は流木の切れ端を拾い集める。雨が顔を打ち、生暖かい滴が眼や口を伝って落ちた。
　たきぎが湿っていて、火はなかなかつかない。ユウコも煙にむせびながら、眼にいっぱい涙をためて、小さな火種に息を吹きかける。膨らませた頬が赤く染まっている。洋一は休憩所の片隅に海風が吹き寄せた乾いた松葉を手で集め、火種に敷くように被せた。炎は乾いた松葉をなめるように燃え上がるが、雨を吸い込んだ流木には火がつかない。相変わらず煙だけがふたりをおおった。洋一は乾いた松葉の量を増やした。
　ようやく火は燃え出す。あたりに松葉の燃える匂いが立ち込めた。ユウコは黙ってじっと小さな火を見つめている。
「雨が小降りになって、服が乾いたら、家まで送っていくからね。家の人も心配してるよ。きっと……」
　洋一はユウコの濡れたヒマワリ柄のワンピースが乾くにつれて、鮮やかな黄色になっていくのを見ながら言った。その黄色はユウコの髪を黒く際立たせた。雨の滴なのか、涙なのか分からないが、彼女の頬を一筋の滴が伝った。
「ユウコ、いえにかえるのいや。そとにだしてもらえないもの。いろんなところにいってみたいなあ」
　ユウコは言った。そして、洋一の顔色を窺い、少し頭を傾けて続けた。「おじさん、ひとり？ おじさんちにおいて……」
　彼女の澄んだ眼がなんの恐れもなく、洋一の答えを待っている。
「それはできないよ」
　洋一はそう言いながら、ユウコと会ってから短い時間しか経っていないのに、ずっと彼の心を捕らえて放さないすがすがしさはなんだろうかと考えていた。ホテルのきらびやかなシャンデリアの下では会ったことのない人間がそこにいた。偽ることも飾ることも知らない、今、海から生まれてきたのではないかと思えるほど澄んだ心を持っている。洋一が子供の頃、砂浜で拾って宝物にしていたすりガラスのかけらみたいだった。表面は波と砂にもまれて淡く曇っているけれど、その曇った内側にとてつもない輝きを秘めているように思えた。
　雨が小降りになり、西の空が明るくなってきた。一色に塗りつぶされていた雨雲の表面が濃淡を織り交ぜた色へ変わった。
　洋一は焚火の後始末をして立ち上がる。
「じゃ、送るよ」と促したが、ユウコは小枝で消した焚火をひっ繰り返している。
「それじゃ、勝手にしなさい。おじさん、帰るよ」
　もう一度声をかけると、洋一は砂浜に降りて川を遡るまで決して振り返らないでおこうと思いながら、海に向かって歩き出した。
　川まで来た。靴を脱ごうとしたとき、ユウコの叫び声が聞こえた。
「おじさーん、ユウコをひとりにしないでよー。かえるところがないの。おねがーい」
　誰もいない浜辺をユウコの声が追い駆けてくる。大きな声ではなかったが、黒い雨雲の隙間から彼に向かって一直線に射した陽の光のように、一語一語が洋一の心を貫いた。
　彼は思わず振り返る。ユウコは石段を降り、砂浜を走って来る。
　仕方なくユウコが追いつくのを待った。
　彼女の眼に涙が光っていた。息を弾ませて苦しそうにしている。
「ついておいで」と言いたくなる気持ちを打ち消し、洋一は黙って川を渡り始めた。後ろから水の中を歩く音が従いて来る。
　そして、凹んだ護岸の石積みにぽっかりと開いた黒い穴に洋一の後に続いて黄色い風が吸い込まれた。

　公園のヒマワリに種ができた。
　洋一はそれを取ってきて、ふたりで煎って食べた。ユウコはおうむのように上手に殻を吐き出した。
　ふたりで雨水管に住み出してから半月が過ぎた。
「ユウコ、うみがすきなの。まいにち、みれてうれしいな」
　無邪気に洋一のそばに居ることを喜んでいる風だった。うまくはできなかったが、炊事や洗濯も洋一のすることを真似て、手伝ってくれた。
　暑い晩、洋一は真っ暗な棲み家の中で、海からのわずかな光に照らされて白く浮いて見える花が気になった。洋一は何回も眠っているユウコの顔を闇の中で見つめた。しかし、ユウコの穏やかで安心しきった寝息と目覚めたときの笑顔は、このままそっと暮らさなければと、洋一の心を静めた。都会生活に疲れ、生臭い汚れの抜け切らない手で、しかもあと一歩で明るい海に達する、明暗の狭間にある棲み家でユウコを犯すことは許されないように思えた。
　棲み家の前で、ユウコは波と追いかけごっこをしている。ふと、洋一の視線に気づいて笑った。太陽を仰ぐように見上げた顔の、とりわけ顎の線が光に溶けて透き通って見えた。
　土木の仕事に出た日などは、帰ってくる洋一を見つけると、ユウコは砂浜を駆けてくる。そんな姿は照りつける夏の太陽より眩しかった。
　しかし、洋一はユウコの両親が必死で彼女を捜しているかもしれないという恐れにいつも苛まれていた。まさか海の見える公園の地下にある円筒の家で生活しているなんて思ってもみないだろうが、いつか見つけられ、別れねばならない、という不安が募っていった。
　ユウコが一緒に住むようになってから、一日の過ぎる時間が早くなったように、洋一には思えた。土木の仕事に行かないとき、ふたりの日課は渚の小石をひっくり返して、魚の餌になるゴカイを取ることだった。釣り道具屋に持っていくと小遣いにはなった。
「ユウコ、いや」
　やがて慣れるにつれて、周りのことをすべて忘れて、一生懸命没頭した。そして、いつの間にか、牛乳びんいっぱいのゴカイを取っていた。ユウコはびんをかざして笑った。洋一も心から笑い返した。
　突然、ユウコは渚に打ち寄せる波に向かって走り出し、牛乳びんを波間に投げた。
「むしさん、やっぱり、うみにかえりたいって。きょうはかえしてあげたの」
　追いついた彼に言った。ユウコは思うまま、気の向くまま行動している。洋一も気にかかることや誰かに文句を言われることもなく、穏やかにユウコを眺めていた。
　また、ホテルマンをしていた頃を思い出された。
「申し訳ありませんが、それはできません。取り決めでございますから……」
　史郎はまっすぐ前を見据えて言った。しかし内心はやってあげたいと思っていた。
「なにーい、客の言うことがきけないって言うんか？」
「はっ、申し訳ありません。大変失礼をいたしました」
　空しさが胸を締め付け、顔が内側から強ばる。
　怒りを笑顔に隠して客に接した。まして自分の意見を主張するなんてできないと思っていた。
　思うままに何かをしたくなってホテルを辞めたが、次にやりたいものは何もなかった。学生時代からこのホテルでアルバイトをしていたので、ホテル業務しか知らない。いつの間にか、狭い世界に閉じ込められ、柔軟にものを考えることができなくなっていたのだ。
　一日、カーテンを引いた暗く汚いアパートの部屋でうつらうつらして過ごすしかなかった。少しあった貯金もすぐ底を尽いた。日に三度、特売の即席ラーメンをすする日が続いた。そして土木の日雇いに出た。
　ホテルマンの日々と比べて今は、ユウコとふたりで海を眺め、人との煩わしい付き合いもない。本音で話し、仮面を被る必要もない。生活に追われ、人を傷つけ、傷つけられた苦い思いが洗い流され、何ものにもとらわれない平静な心でいられることがすがすがしかった。
　心は海が氷のように見えるときは冷え、明るく輝いているときは暖かく、海の表情を映しているようだった。そして、あるときは気温に体温を合わせる魚や爬虫類になったつもりで、またときには、周りの保護色に身体を変色させ、そっと巣で息をひそめる臆病な動物や昆虫になったつもりで、棲み家の環境に合わせて生きていこう、と洋一は思った。
　一日当りふたりの生活費が千円を超えると、洋一の稼ぎでは生活が苦しかった。ユウコは毎日、洋一がひらがなで書いた買物メモと千円を握りしめて、駅の近くにたった一軒ある食料品店に行く。初めは無事帰ってこられるか心配だったので、後からそっと従いて行った。
　ユウコは買物メモを見て、主婦のように一生懸命、少しでもいいものを買おうと努力していた。
「もっとやすいのないの？ おかねこれしかないの」
　ユウコは店のおやじに千円札を先に渡してから言った。
「これで何が欲しいんだい？ メモ見せてごらん」
　おやじはてきぱきとユウコの買い物カゴに品物を投げ入れ、最後にお釣りの入った透明なビニール袋を手渡した。ユウコは礼を言っている。
「自分の家に帰れないのに、どうしてここに戻ってこられるのかなあ」
　洋一は先回りして、帰ってきたユウコに訊いた。
「うみのにおいがするの。おうちはここ」
　ユウコは洋一の眼を見つめて言った。苦笑するしかなかった。
　だが、ホテルマンだったときのように、何でも買え、月に一度は好きな女や友達としゃれたレストランで食事をしたり、仕事が終わった後のうさばらしに、ネオン街を渡り鳥みたいに飲み歩く生活より、充実していると思った。人の顔色を窺い、気を使うこともなかった。他人の行動や人間関係を詮索したり、憶測したり、邪推したりして、裏を覗くことも、そのとばっちりを受けることもない。
　ユウコは洋一の言うことを素直に聴いてくれる。どうしても嫌なときは、しばらくの間円い壁と向きあったままであったり、沖を通過する船を追うように海を眺めたままであったりした。
独りでいるとき、洋一は仕事から帰ると、海で泳いで汗を流し、あとは公園の水飲み場で身体を洗って風呂に入ったつもりになっていた。しかし、ユウコが来てからはそうはいかなくなった。ときどき潮の香に混じるすえた臭いが気になった。
　公園の西端は、山が海に落ち込むように迫っていた。その山の間を小さな谷川が海に注いでいる。河口には海からしか見えない砂浜があった。洋一はそこにユウコのために浜辺に漂着したドラム缶で風呂を作ろうと思った。
　川岸に転がっている人の頭ほどの石を流木を組み合わせたテコで動かし、リング状に並べた。その釜石の上にドラム缶を据える。次に川の水を上流から高さを考えて竹藪から採ってきた真竹で作ったかけひでドラム缶まで引く。五右衛門風呂の底に敷くスノコも海辺に漂着した板切れで作った。
　水はドラム缶にたまっていく。ユウコは両手で水をすくう。
「さあ、まきを集めよう」
　洋一はそう言って、ふたりで谷川を遡る。まきはいくらでもあった。
「こんなにあったよ」
　ユウコは前が見えないくらい枯れ木や柴を両腕に抱えている。
　洋一はドラム缶の下に薪を差し込んで火を付けた。ユウコはじっと炎を見つめていた。煙が濃い灰色から紺に、紺から淡いブルーに、そして白に、やがて薄れて空に立ちのぼる。
　底から気泡がしきりに上がり、湯気が立ち出した。
　洋一はユウコが風呂から出てくるまで河口に立って海を眺める。
「いいゆだな。いいゆだな。こっち向いて……」
　そっと盗み見ると、ユウコは胸のふくらみも隠さないで半身を乗り出して手を振った。洋一は白い裸身に関心がない素振りを装って、河口に打ち寄せる波に見入っているふりをした。
　お金が乏しくなったので久しぶりに仕事に出た。
　午後三時頃から激しい夕立になった。仕事を切り上げ、公園駅に戻ってくると、ホームのベンチの上に小さなプラスチックの箱があるのに気づいた。トランプだ。トランプを見るなんて久しぶりだった。
　手に取っているうちに小学生の頃、母や弟とクリスマスの晩や正月に何回も同じゲームを繰り返しやったのを思い出した。ゲームごとに、負けた順番に手を重ね、一番勝った者が他の者の手の甲を叩くのが罰だった。今でも母や弟に叩かれた感触が快い痛みとなって、手の甲に残っている。洋一は今晩、ユウコとトランプをやろうと思った。
　夕立に洗われて、埃を落とした松の葉が夕日に映えている。洋一はトランプを繰りながら、公園の休憩所まで歩いた。若いカップルが寄りそって海を見つめている。
　緑色の貨物船が海峡を通り過ぎていく。そのさらに沖を巨大なタンカーが船橋を金色に染めてゆっくりと通過していった。

　夕立で暑さがしのぎやすくなった。カップルの後ろ姿が濃さを増し、ふたりの輪郭が黄金色に輝き出し、寄り添う接点は光の煌めきに紛れて融合しているように見えた。
「おじさん、トランプ占いできる？」
　女が突然、訊いてきた。洋一は反射的に頷いてしまった。
「じゃ、占ってくれる？」
　女は畳みかける。洋一は曖昧な笑顔を作って、トランプを切る。
「何を占ってほしいのかな？」
「もち、わたしたちのこと……」
　女は言った。
　洋一は、休憩所の野外卓に円形にカードを並べる。ホテルマンのときに、テレビで見た占い師の動作を思い出しながら体裁を整える。
　女は真剣な面持ちで洋一の手さばきを見ている。洋一はカードを開きながら、適当に何かを言わなければならいので、内心少し焦っている。
　まあいいや、と開き直る。一枚目のカードをめくる。スペードが出たら、何か不吉なことを口走ればいいと思っていた。
　ユウコが一緒に住むようになってから勘が鋭くなったみたいなのだ。ユウコの純粋な心が洋一の感性を変化させたのかもしれない。
　トラップを繰り、カードを卓上に並べることに専念する。無心になれたとき、彼の心のずっと奥に暗黒と光の世界があった。その暗闇に海と思える広い水面が意識できる。そこに満月が出ているときと、細い三日月が出ているときがあった。満月は煌々と水面を照らし、青白い道が洋一のほうに真っ直ぐのびている。三日月のときは細いサーベルのような光以外、何も見えない。そして、思うままにいい加減なことを口にする。
　今は満月が思い浮かんでいる。
「何回か、危機を迎えますが、意地を張らずに素直になってください、きっと新しい展開が期待できます」
　女は頷いている。
「おじさん、ありがとう。これ、見料、少ないけど……」
　女は千円札を洋一に差し出した。いかさまだから胸が痛んだ。ちゃんとした占いなんてあるかどうか知らない。彼の場合は習ったことも本を読んだこともない。すべてでまかせだ。相手の心に希望を呼び起こせば、まあ、いいか、と洋一は自分を無理矢理納得させた。
　それから毎日、夕方になると洋一は公園の休憩所でトランプ占いを始めた。どこで噂を聞いてくるのか口コミで客は少しずつ増えた。特に女子中学生は集団でやってくる。いつの間にか、見料の相場も決まった。中学生は三百円、その他大人は千円とした。収入は土木作業に出なくても済むくらいになった。
　いい加減な占いだったが、人の裏を見るうえで十年やったフロントマンの経験が役に立った。客はルーズソックスのしわをできるだけ美しく見せるように触ったり、普段はかけないボタンを賭けたりして、神妙な面持ちで洋一の前に立つ。フロントマンのときと同じように客の素姓を無意識に想像する。
　自殺しそうなほど思い詰めてはいないか、荷物の量は宿泊数の割りには少なすぎるとか、ホテルのマニュアルには女の一人旅は疑えなど書いてある。
　ホテルの仕事では人の裏を思うだけで嫌だった。今は客のためになるのだからあまり苦にならない。
「ふたりの仲はうまくいかないでしょう」
「わたしのせいで……？」
　女客は身を乗り出して問い返した。洋一はもう一枚カードをめくり、少し考えるふりをする。
「いや、ふたりとも悪いですね。もともと相性がねぇ」
　申し訳ないがという苦悩に満ちた顔で言い渋る。
「はっきり教えてください。そのほうが諦めがつきますわ」
　客はとっくに悟っているのかもしれない。納得するために洋一の手助けを求めているのだ。客は都会生活に疲れ、公園行きの電車に乗って、洋一の占いに安らぎと救いを期待してやってくるのだろうか。
　僕の言うことなんて当てになりませんよ、下水道の中でユウコとふたりで海を見て生活をしている、人生を捨ててしまった男の言うことが役に立つんですかね、と考えながら、客に思いつきを呟いている。
　幸運なカードが出て、客にしあわせ一杯の運勢を伝えられたとき、輝く顔を見ると嬉しくなった。反対に不吉な予感しか言えないときは、洋一も気が滅入る。
　ユウコもそばで洋一の占いを見ている。彼女にも分かるのだろうか、「あっ」とか「うっ」とか奇妙な声を張り上げる。
　夕方の日ざしが海の見える公園の休憩所に射し込んでいる。ふたりの影がだいぶ長くなった。
　客は途絶えた。
「もう、かえろう」
　ユウコの口癖だ。どこに連れて行ってもすぐ言った。
　今日は対岸の島がよく見える。海は色を失うことを惜しむように黄金色に煌めいている。ゆるやかな波のうねりに合わせて、煌めきの間に漆黒の海が見え隠れし始めている。その黒い影が海の煌めきを一層際立たせた。
　ユウコは先に立って、浜辺に降りていった。

　朝早く目覚めた。
　海からの風に少し冷たさが含まれ始めている。洋一は夏の白い眩しさの中で爽やかな涼しい風がいつまでも吹き続けることを願っていた。
　そばでユウコはまだ眠っている。この頃、洋一はよく眠れなかった。ユウコがいなくなって、真っ暗な雨水管の中を奥に向かって彷徨い歩いている夢にうなされることが多かった。ユウコがいなくなっている状態は夢を見る度に違っていたが、閉じ込められた出口のない雨水管を歩き廻るのはいつも同じだ。独り暮らすことが気楽だと思っていたのに、いつの間にか洋一の心の中にユウコが住み始めていた。男と女でなく父親と娘のような生活だが、海を眺めていてもふと、ユウコがいるかどうか確かめたくなって、振り返ることがたびたびあった。トランプ占いをしていてもユウコがそばにいないと、客が新たな期待に胸を膨らますようなうまい言い廻しで、思いつきを言えなくなった。
　そんなある朝、洋一はまた、夢にうなされて目を覚ました。浜辺近くの海は、波に攪拌された砂で灰色に濁っている。灰濁色の向こうは澄んで碧く見える。海の表情は変わらない。
　だが、どこか騒がしい。夥しい漁船と一隻の大きな作業船が海峡の真ん中あたりでせわしく動いている。漁船のマストには色とりどりの測量の目印になる旗が靡き、まるで源平の舟戦のように一定の秩序を保って走ってはとまる。
　黄色い測量ブイも朝日に光っている。遠く海峡の入口にさしかかった巨大なクレーン船がこちらに向かっている。気のせいか船足が早まった。
　洋一は公園のトイレに行った。その途中、海の見える休憩所の近くに三、四人の作業員が看板を立てていた。海峡を渡る白い大きな釣橋の完成予想図が描いてあった。大きな鳥が羽ばたいているような軽やかな形をしていた。予想図の隅に長さや海面からの高さなど橋の説明や工事の協力依頼がそえられている。
　トイレから戻ってしばらくしたとき、洋一の棲み家に男の声が響いた。
「おーい、中に人が住んでるぞ」
　同時に中を覗く男の眼と洋一の眼がぶつかった。覗いた眼は、思ってもみないところに人が住んでいる驚きに大きく見開かれている。ユウコも気づいて、洋一の後ろに隠れる。彼の背中に置かれたユウコの手に力が入るのが分かる。
　その日は覗いただけで男は立ち去った。後は何事もなかったように海からの陽射しが静かに忍び込んできた。 洋一は暗い気持ちで海上の空に出た鰯雲をじっと眺めた。雲は少しずつ形を変化させていった。
「あのひと、だれ？」とユウコは訊いてくる。
「さあ、知らないよ。人んちを断りもなく覗くなんて、けしからんなあ」
　洋一の顔が曇る。ユウコにもそれが伝染った。
　できるだけ外に出ないで、不安な数日が経った。
　洋一は夕方近く、ユウコとトランプ占いのために海辺の川を渡った。
「あなたがたですか。あの雨水管に住んでいるのは？」
　二人の男が声をかけてきた。男たちは薄い緑色の作業服に黒い安全靴を履いていた。襟元からネクタイが見える。洋一は頷いた。
「もうご存じだと思いますが、ここからあの島まで釣橋が架かります。世紀の大事業なんです。あの雨水管も他にルートを替えなければなりません。この辺の浜辺は埋め立ててアンカレジを建てます」
　男たちのうち、年配の眼鏡をかけた男が言った。
「アンカレジ？　何です？　それ……？」
「橋桁を吊るメインロープを固定する錘みたいなものです。両岸に必要です。ところでご協力をお願いします」
　男は、立ち退いてほしい、という言葉を使わないで巧妙に退去しろ、と言っている。
「急にそんなこと言われたって、わたしたちには住む家がないんです。こまるんです。そっとしといてもらうわけにいきませんか」
　洋一は二人の男を均等に見ながら言った。
「それはできませんね。雨水管の中に住んでるなんて危険ですし、違法です。大雨が降って流されたらどうするんですか」
　若いほうの男が言った。顔がぴくついている。
「水が多くなるときは、遠くのほうからゴオーという音がするから分かりますよ」
　洋一はわざとのんびり言った。若い男の靴先が砂を蹴っている。交渉は怒らしたほうが得をする。洋一は相手の出方次第だと身構える。その気配を察したのか年配のほうの男が急に言った。
「今日のところは立ち退いていただきたい、とお伝えするだけにしましょう。じゃ、よく考えておいてくださいね。これから毎日お願いに来ます」
　通告通り次の朝もふたりは立ち会いの警察官も同行して雨水管の吐け口までやってきた。カメラと巻尺を持っている。
「今から聴聞を取ります。答えてください。それから調査もしますから、よろしいですね」
　年配のほうの男が言って、紙ばさみに挟んだ聴聞書を出して訊き始めた。
「おふたりのお名前は？ いつから住んでいるんですか」
　もうひとりの男はカメラを構えている。一瞬、暗い雨水管の中にフラッシュの閃光が走る。
「わたしは山村洋一、三十六歳です。それ以外に言うことは何にもありません。彼女はユウコ。本名は知りません。それから、言っときますが、ここを立ち退く気はありませんからね」
「そんなこと言っても……」若い男が口をとがらせる。
「まあ、まあ」ともうひとりの男がなだめる。
「ユウコ、わかんない。どうしてここにすんではいけないの？ だれにもめいわくかけてないよ。せっかくおじさんとうみと、ともだちになったのに……」
　ユウコの眼に涙が浮かんだ。立ち会いの警察官の眼が光る。手製の小さな手帳を取り出した。裏に活字が見える。コピー用紙の裏を使っているらしい。
「ユウコさんといったかな？ いえはどこ？」
「ユウコのおうちはここよ」
　警察官は苦笑し、少し考えてから言い替えた。
「そう、どこからきたの？」
「うみから……」とユウコは海を指さしながら言った。警察官は噛み合わない会話にどうしたらいいのか分からないといった様子で質問を打ち切った。
　ユウコのほうも、なんで分かんないの、という表情で顔を伏せる。
　雨水管の中で沈黙が睨み合う。遠くの浜辺で子供たちが遊ぶ声も切れぎれに織り込んで、波の打ち寄せる音が思いがけないほど近くで大きく聞こえた。
「わたしたちは、できるかぎり穏便に……と思っているんですよ。世紀の大事業なんです。橋を架けるのにここは重要な地点です。そのへんのところをご理解いただき、ご協力をお願いしたいと思います」
　沈黙を打ち破るように年配の男が役所言葉丸出しで言い、あなた方の生活も大変だということも理解しているつもりだ、とつけ加えた。
「それって、補償金を払ってくれるということですか」
「場合によっては……」
「係長、そんなの生温いですよ。どんなことがあっても立ち退いてもらいます。いいですね」
　若い男は洋一を睨んで言った。
「この浜辺を土で埋めてしまうんですか。あなたたちは季節や時間によって表情を変えるこの浜辺と海を失ってもいいと思っているんですか。ここを町にしようというのですか」
　洋一は怒りが込み上げてきた。ユウコの言うように洋一も都会の煩わしさから逃れて海や浜辺を友達と思って暮らしているのだ。
「いやいや、望橋というか望海といいますか、展望台と橋の博物館は計画されていますが、町にするなんて言ってませんよ。ここを埋め立てても、それなりの対策は取らせてもらいます。」
「どんな対策ですか。あなたたちの言うことは具体的でないので理解できないねえ」
「今は言えません。でも悪いようにはしません。また来ますからよく考えておいてください。じゃ……」
　男は煮え切らない。分が悪くなったと思ったのか、慌てて引き揚げていった。
　それからしばらく男たちは現れなかった。
「役所も諦めたのかもしれないね」
　洋一はユウコに話した。彼女も笑顔を見せた。

「ユウコ、お母さんよ、どんなに探したか、分かる？」
　ある朝、ふたりは突然、枕もとで女の声を聞いた。ユウコもきょとんとしている。雨水管の吐け口に見知らぬ女が立っていた。白髪の小さな頭、曲がった背中、痩せ細った身体、全身で話しかけている。ユウコは立ち上がると奥の暗闇に走って行こうとした。そのとき、女は年に似合わない素早い動作でユウコに抱きついた。
「もう離さないよ。お父さんは警察に頼んでも駄目だって言ったけど、お母さんはいつか見つかると思っていたわ。だってお母さん、ユウコのことばかり考えていたんだから……」
　ユウコはきつく抱き絞められたまま母親の顔をじっと見つめている。母親はやさしくユウコの髪をなでている。「ユウコ、ここにいたいの。おじさんひとりになっちゃう。かわいそう……。ここ、よるになると、とてもくらくてこわいの。おじさんこわがるから、ユウコもいるわ」
　母に訴えるユウコの顔は輝いて見えた。ここに残ると言いながら、懐かしい母を眼の前にして心は混乱しているに違いない。一生懸命考えている気持ちが伝わってくる。
「ユウちゃん、お母さんのところにお帰り……」
「いや、おじさんどうするの？ わたしがいなかったらこまるわ。かいもの、だれにたのむの？」
「そんなこといいんだ。もともとここに居ちゃいけないんだよ」
　洋一は言った。ユウコは大きく頭を振る。母親はそんなユウコをもう一度しっかりと抱いた。そして、洋一のほうに　敵意に満ちた眼を向けて言った。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「こんな子を瞞して……。連れて帰ります」
　ユウコはそんな母親の手から逃れようともがき、助けを求める眼で洋一を見ている。
「おかあさん、ユウコかえらない。ここがわたしのおうちといったでしょ。おじさん、おかあさんもすんじゃいけない？」
「そりゃだめだよ。ユウちゃんは特別のお客さんだったんだ。それにおじさんもここから追い出されるんだ」
　ユウコの母は黙って彼女の手を引っ張り、外に連れだした。川の水はユウコの母の膝上まであった。ユウコも母の気持ちに逆らえないらしい。
　手を引かれて川を渡り出した。洋一はその後ろ姿をじっと見送った。
　ユウコと母親は浜辺を石段のほうへ歩いていく。浜辺にユウコの引きずるような足跡が残った。石段を登り切ったところで、ユウコは立ち止まって、こちらに手を振った。
「またくるからねー」
　湿った声が海風に乗って聞こえてきた。ユウコは本当の家に帰る気になったらしい。
　急に棲み家ががらんとして寒々と見えた。奥の暗闇からすえた臭いを含んだ風が吹いてきた。洋一は段ボールの床に仰向けに寝転んで眼を閉じた。

　ユウコの母親が彼女を引き取って行ったのを警察から連絡を受けたのだろうか。次の日からまた、例の二人組が洋一を説得に現れた。
　彼が落胆しているとみてとって、一気に決着をつけようと思ったのかもしれない。洋一の頭の奥には、「またくるからねー」と言ったユウコの最後の言葉が残っていた。声の調子や抑揚が鮮明に思い出される。彼女が再びここを訪れたとき、埋め立てられた浜辺と、無くなってしまった棲み家に気づいて、悲しませたくなかった。だから洋一はここに住み続けていたいと思った。
「山村さん、そろそろ決心してくださいよ。何回も言うようですが、いつまでもここに居られると思ったら大間違いです。不法占拠ですから、本当は一銭も補償できないんですが、係長が上司に掛けあってくれましてね、見舞い金を出せるようにしてくれたんです。それもこれ以上、頑張ると強制的に立ち退いてもらうことになりますから、出なくなりますよ。そんなのつまらんでしょ？　ここはひとつ、損得を考えてくださいよ」
　若い男は飴と強権をちらつかせながら迫ってくる。洋一は黙って取り合わない。男は続ける。この頃、年配の係長のほうはほとんどしゃべらない。若いほうに任せている。男が言い過ぎて、いやわざと言わせて、洋一の顔色が変わると洋一の味方を装い、若い男をなだめる。二人の役柄はやくざの脅しのように決まっているのだ。
「トランプ占いを公園でやっているらしいですねえ。あれも大目に見てるんですよ。わたしが一言、管理者に連絡を取れば、今日からでも営業できなくなります。わかってくださいよ。あなたの占い、かなりのファンがいるらしいですねえ。収入も多いんでしょ？賃貸住宅ぐらいどこか世話しますよ」
　洋一のことを調べ尽くしているらしい。しかし、洋一はここを出て行く気にはなれなかった。ユウコが戻ってきたとき、困るだろうし、もう、町の雑踏の中でせわしく過ごしたくないと思っていた。物質的には恵まれなかったが、海と向かい合ってユウコと暮らした日々は時間がゆっくり流れ、あくせくすることもなく、優雅だった。人につまらない気を使って生活するなんて真っ平だ。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「山村さん、もう待てませんよ。いいですか。強制立ち退きの手続きを取りますからね」
　若い男はいきり立つ。
「そんなこと言ったって……。行くあてがないんですよ」
　同じところを堂々巡りしている。
　公園のイチョウが黄色くなりはじめた。
　ラジオが大型の台風が本土に接近しているので十分警戒するよう警報を伝えている。
海峡にはまだ大きな影響は出ていない。波は少し高くなっている。北から南へ風が吹き出していた。雨水管の上の公園から落葉樹の落ち葉が散って、洋一の棲み家の前の川や浜辺に飛んでくる。床下を流れる水にもかなり落ち葉が混ざり出した。川幅も広がった。
　満潮になると、落ち葉の固まりが逆流して吐け口にたまった。海を漂流していた木切れやごみも流れ着いた。洋一はすべてが棲み家に寄ってくるような気がして不安になった。
　雨はまだそれほど強く降っていない。ユウコがいなくなってから、何もしないでほとんど寝転がって、波の音だけを聞いて過ごしていた。
　昼過ぎに例の男たちがやってきた。
「台風が近付いています。避難してください。今夕から暴風雨圏に入ります。この雨水管も増水して危険です。いくら立ち退かないと言っても水が勝手に、こんな床なんかひとたまりもなく押し流してしまいますよ」
　若い男は台風に期待している口ぶりだ。洋一も水の恐ろしさを知っている。何もかも押し流してしまうだろう。おそらく床を押し流されたら、彼等は直ちにこの雨水管に誰も入れないような措置を取ることは想像できた。

　風雨が強くなり出した。
　沖を通る船の数も少なくなっている。いつもなら船を見ているだけでも楽しいくらいたくさんの船を見ることができるのに、今日は時たましか海峡を通過しない。それも大型船だけで、漁船や小型貨物船の姿が見えなかった。
「ここは危険なので退去を勧告します。命にかかわります。直ちに立ち退いてください」
「わたしはここに留まります。慣れていますから、本当に危険になったら逃げますよ。放って置いてください」
　洋一はまた抵抗を試みる。自然には勝てないことは分かっていたが、素直に勧告を聞き入れられる心境ではなかった。ぎりぎりまで粘ってみたかった。その上で駄目なら、ユウコにも申し訳が立つ気がする。自分の意思で立ち退くのはどうしても許されない。
「もう一度だけ言います。早急に退去しなさい。いいですね」
　男たちはそう言うと、横殴りの雨を避けるように合羽の帽子を手で押さえながら帰っていった。
　海から雨混じりの強い風が吹き込んでくる。洋一はラジオのスイッチを入れた。雨水管の中に静かな音楽が満ちた。
　波も高く、うねりもきつくなった。沖は白い三角波が立っている。ちぎれた波の切れ端がしぶきとなって頬に吹きつける。雨水管を流れる水は刻々と増水している。
　荒れ狂う波は浜辺を飲み込み、直接護岸に砕け始めた。早く逃げ出さないと駄目かもしれない。洋一は恐怖に慄きながら、海が真っ黒に盛り上がって近付いて来るのを眺めていた。そして、このまま深い海の底に運ばれてもいいと思った。
　棲み家の床が心なしか浮いた感じがした。
　そのとき、雨水管のずっと奥からゴオーという音を聞いた。それは、はやくにげてー、と叫ぶユウコの声のように思えた。ぐらっと床が動き出す。次の瞬間、床ごと洋一は波間に放り出されていた。
　潮は西に流れている。眼の前に公園に上がる石段が見える。手摺りに必死で取りつき、波に洗われた石段を一歩一歩上っていった。
　洋一は、町から流れてきた土色の水が、うねる海をしだいに汚濁していくのを海の見える公園からいつまでも眺めていた。　　　　　　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 了