ドールハウス

野元 正

 路地の角にある八重桜の花が散って十日目だった。
 とろ箱に播いたハーブが双葉を土の表面に出した。種類ごとにとろ箱を変え、種子袋を割り箸に挟んで立ててあったので、どうにか種類は判別できる。
「バジル、パセリ、セイジ、タイム、オレガノ、ローズマリー蒔いといてや」
 娘の継子からキッチンハーブと呼ばれる料理用ハーブばかりを育ててほしい、と頼まれていた。
「ふつう、男は妻を亡くすと、一年以内に後を追うように死ぬもんよ」
 継子は憎まれ口をたたくが、洋平はもう三年以上、執念深く生きている。娘は一週間に二回ぐらい、郊外電車で二駅向こうから、一人暮らしをしている彼の様子を見に通ってくる。掃除や洗濯など世話をしてくれる娘を若いときの妻が戻ってきたのではないか、と錯覚したことが何回もあった。ずんぐりな洋平と違ってすらりとした身体つきや色白で大きな目も妻に似ている。
 洋平は娘の頼みどおりに料理によく使うハーブ六種類を園芸屋で聴いたことや本を参考にして蒔いたのだった。
 市バスの運転手を定年で辞めてから、五年ほど民間会社のお抱え運転手をしたのち、今は年金だけの暮らしをしている。どうせ何かしていないと気のすまない性格だから、娘からいろいろ頼まれることが嬉しかった。
 家は表通りから二筋目、細い路地に面していた。
 緑の芽をしばらく見つめて立ち上がったとき、家々の屋根のうえにガラスの塔のような高層ビルが煌めいて見えた。その瞬間、軽い目眩を感じた。
 洋平は慌てて足元を見るように視線を路地に戻した。重そうな瓦で葺かれた土蔵や長屋、それに屋根の低い二階屋の一戸建が、路地を挟んで軒を連ねている。ほとんどが戦災を免れた戦前の建物だ。焼夷弾や爆弾はまるでこの町を避けるように落ち、炎が周囲を焼きつくしたのに、不思議と延焼しなかった。
 発泡スチロールの魚箱、とろ箱、壊れた七輪や火鉢などいろいろな容器に植えられた緑が、路地をさらに狭く感じさせていた。
 洋平は生まれてからずっとここに住んできた。特に天満宮の秋祭りには町の神輿を繰り出すために子供から老人まで、それぞれ自分のできる仕事を分担した。神輿は狭い路地から路地へきらびやかに渡った。
 また、娘の継子が赤痢になったとき、リヤカーに積んだ動力噴霧機で町中が真っ白になるまで家々は消毒された。洋平は町内を詫びて回った。誰も苦情ひとつ言わずに継子の容体を案じてくれた。
 洋平はこの町に住む人たちの心も路地を通じてひとつだと思っていた。しかし気がつくと、高層ビルの谷間になっていたし、いつの間にか町全体が都会に侵食され次第に縮みはじめていた。生活の匂いが滲んだ路地は周りの都会より空気が濃い、と思うことで姿の見えない圧力に洋平は耐えた。
 バブル崩壊後、下火になった地あげも形を変えてはじめられているようだった。前のようにやくざまがいの人たちではなかったが、背広をきちんと着込んだ、一見真面目そうな人間がスーツケースを下げて路地を徘徊している。そして洋平の家を残して、話し合いの成果を誇示するように、古ぼけ朽ちはじめた無人の家のまわりに白い塀を張りめぐらしていく。このところまた塀の長さが増したようだ。
 洋平のところにも道路を整理し、インテリジェントビルを建てたい、と何回か交渉に来たが、取り合わなかった。この家は親の代からのものだし、洋平が娘や孫たちに残してやれる唯一の財産だった。簡単に決めたくない。
 彼らは作戦を変えたのか、もう何ヵ月も接触がない。洋平の周りだけ宇宙に開いた穴みたいだ。顔を知っている住人の数も減った。
「ほかに行っても、知った人がいないから淋しい。ここにいるつもりや」と言っていた友人が突然、どこかへ越していく。
 塀は確実に距離を延ばし、町は白い塀の迷路になりはじめていた。
 毎日、たくさんの若い男女が、町の北東の外にできた八階建ての、黄色いビルを目指してこの迷路をぬける。土曜日や日曜日はひっきりなしというか、南側にある駅からそのビルまで人々は途切れなくつづき、白い壁でできた迷路は笑い声が溢れ、人の川となった。
 洋平の家も見せ物小屋のように日に何度か覗かれた。若者たちは、顔が大きいずんぐりした年寄の姿を見つけて一瞬ひるみ、いやなものを見た目つきで流れに戻っていった。路地に作った草花が盗まれることもあったが、花泥棒だから仕方ないと諦めていた。いや、むしろ盗まれることが楽しかった。最近で最も人気があったのは、桔梗だった。洋平はブルーの清楚な花とバルーンフラワーと呼ばれる風船のような蕾を思い浮かべた。
 今日も、若者の集団は顔を輝かせて黄色いビルを目指していく。洋平は一階の格子戸の隙間から一日、その流れを眺めて過ごす日もあった。彼らの表情も身なりもそれぞれ違っていて飽きない。
 路地の角にある桜の葉が濃さを増した。もう何日も雨が降っていない。今年は空梅雨なのかもしれない。洋平はなぜか説明のつかない不安な、落ち着かない気持ちだった。
 若者の群れが通うビルに行ってみようと思った。何が若者たちを魅きつけているのか知りたかったし、また今まではあまり近過ぎて行ってみたいという気にもならなかったが、六つのとろ箱に植えたハーブが順調に育ち、キッチンハーブとしてひとつにまとめて植えるプランターがほしかった。うまく育ったら、自転車に乗せて継子のマンションまで運んでやろうと思っていた。まだ頑張っている土いじりの好きな人が、あの黄色いビルに洒落たプランターも売っているよ、と言っていたのを思い出したのだ。
 ビルには今、流行っている手作りのための材料、家具、カバン、本、時計、園芸品、革製品、文房具などがデパートとはまったく違ったシステムでディスプレーされ、各階に溢れていた。洋平がほしいと思っているものは何でもあった。
 プランターは煉瓦色の素焼き鉢を買った。暖かい感じのする花鉢だった。ヨーロッパではキッチンハーブは鉢ごと母から子へ引き継がれていくという。洋平は継子と孫娘の顔を思い浮べた。一緒に腐葉土と遅効性の化成肥料と土も買った。
 家に帰ると、早速植え替えにかかる。プランターの底穴をネットと石でふさぎ、小石敷き詰めた。そのうえに腐葉土と土の混合土を入れ、元肥に化成肥料を混ぜた。
 次は植えつけだ。まずプランターの縁取りにパセリを、中心に大きくなるローズマリーを、その横に肉や魚、野菜、スープ類に香で料理を引立てる、ハーブの王さまバジルを、次いで肉の脂肪を中和し、臭みを消すセイジを、それに添えるようにピザソースやミートソースに加えると風味を増すオレガノを植え、最後にパセリと他のハーブの間をハーブビネガーやハーブオイルに適したタイムで埋めつくし、ジョウロで水をたっぷりやった。見栄えよく植わったと満足だった。

 洋平は黄色いビルの虜になった。何しろあのビルは夢を育む刺激に満ちている。休みの日以外は毎日、午前十一時の開店を外で待って通った。
 店に入ると、洋平は正面のエスカレーターで最上階の八階までまず上がる。今日は何か面白いものが見つかるのではないか、と心をわくわくさせ、階が上がるにしたがってエスカレーターの動きをもどかしく思った。ほとんど毎日来ているが、各階の印象は日毎違うように洋平には思えた。階ごとに商品の内容が異なるので、丹念に見て次第に下に降りる。
 五階だった。下りのエスカレーターから降りた突き当たりに昨日と違ったデスプレイを見つけた。映画で見たアメリカ西部のバーの内部がミニチィアで再現されていた。
 木のカウンターを挟んでバーテンと客たちが笑っている。中央に近い丸い椅子のとまり木に赤いドレスを着たホステスが、足を組んで客と話している。はだけた胸元の奥に白いブラジャーが見える。バーテンの後にある棚も酒の壜が無数に並んでいる。部屋の隅にあるレストルームからカーボーイハットを被った男がまさに出ようとしている。壁紙が剥がれ、下地の板張が見えている。片手にウイスキーグラスを持ったままアンテックな壁掛電話に向かってしゃべっている男など、すべてが生きているように見える。材料は本物と同じものでできているようだ。
 洋平はじっとミニチィアを見つめた。そのコーナーには、木のテーブル、椅子、冷蔵庫、レンジ、シンクのある流し台、お皿、鍋、くだもの、壜類などさまざまなミニチィアが展示されていた。
「わあー、すてき。今、これ女の子の間で流行っているのよ。組合せで自分のすきなドールハウスを作るの。わたしも何か揃えようかしら?」
 隣でミニチィアを見ていた若いカップルの女の子が言った。男は何も言わなかったが、洋平には女の子が夢見ていることが十分理解できる。無意識にうなずいてしまった。男が気づいて変な顔をしている。
 そのとき、洋平は都会に埋没して消えかけているわが町の、印象に残っている場面や住んでいた人たちの生活をドールハウスで再現したいと思い立った。

 路地の角にある桜の葉の間に小さな実がなった。あの樹の下には昔から地蔵尊がある。洋平は子供の頃を思い出していた。
 地蔵盆には袋に入ったお菓子をもらうのが楽しみだった。隣に住んでいた幼なじみの美佐子と手をつないでいつもふたりで行った。東京にいるんよ、と教えてくれた彼女の母も亡くなってしまった。美佐子も含めて所有者は誰なのかはっきり知らないが、すでに隣の家は白い塀で囲まれている。洋平は自分の手を広げて記憶に残っているぬくもりの向こう側をじっと覗いた。
 そして桜の樹の下にある地蔵のほこらから造ろうと思った。地蔵の周りには、この界隈のたくさんの思い出が凝縮されているように思える。洋平としては、地蔵まで早々とどこかへ移転されてはよりどころをひとつ失って困るのだ。まずお地蔵さまにプレッシャーをかけなければならない、と思った。
 縮尺は二十分の一にしようと決めたり、お供え物はどんな具合だったか、地蔵の顔はどうだったか、などあれこれ思いを巡らせた。ほこらは今もまだ桜の樹の下にあるから、実物を見てメモったり、測ったり、写真を撮ったりした。
 造る材料は、だいたい何でも黄色いビルにあった。工作道具も売っている。ついでにベニヤ板を六枚買ってきて、畳のうえに敷き、客間をアトリエにした。客間をアトリエみたいな自分の趣味のための仕事場にしようと考えていたのは若いときからだった。
「お客さんが来られたら、どうすんねん?」
 いつも妻の一言で希望は却下された。今は自由だ。迎えが来る前のわがままが言える時期だと思っている。誰にも気兼ねする必要もない。
 ベニヤ板を敷き詰め、床の間に道具類を並べた。アトリエの窓を開けると、新しいプランターに植えられたキッチンハーブがそよ風に揺れていた。淡い緑が目の奥までしみ込んでくる。
「わたしたちのマンションに一緒に住んでもいいんよ」といつも声をかけてくれる娘には悪いが、洋平はこのアトリエの真ん中で死にたい、と思っている。
 黄色いビルに地蔵本体のミニチィアは売っていなかったが、地蔵の形をしたお守りが縮尺に合った大きさだったので、代用することした。お顔が柔和でなかなかいい、と洋平はひとり勝手に気に入っている。地蔵を納めるほこらは縮尺どおり正式な小屋組を研究して造った。そして分からないところができると、路地の角まで見にいく。文献も調べる。昔、市バスの運転手をしていた頃は、本なんて滅多に読まないことを誇りにしていたのに……。 小さな格子戸をつくるときや顔の微妙な表情を表現するとき、老眼で見えにくいのには困った。目がかすんで、人の目の位置がわずかにずれても、イメージとまったく違った顔が出来てしまった。夢中になりすぎて気がつくと、いつの間か昼の陽射しが夕日になっていることもあった。
 灯明、お供えを盛る皿、茶わん、花瓶、供花の束、小さな蝋燭、提灯、よだれかけ、神社にあるような鈴、南瓜や胡瓜や薩摩芋それに人参や大根の野菜類などはすぐ揃った。
 ほこらができると、その前に小さなむしろを敷いて子供たちが地蔵盆に集まってきた様子を再現した。本当はむしろのうえに桜の花びらを散らしたいなどと思ったけれど、地蔵盆と季節も一致しないし、陳腐過ぎるかもしれないと思ってやめた。外を川となって通りすぎる若者たちなら、どうするか訊いてみたい気もした。お金のミニチィアでもばらまいたら、とでも言い出すかもしれない、と思った。
 娘の継子が南瓜の煮物を持って来た。洋平の好物だ。ひとつ摘んで食べ、ズボンで指先を拭いた。
「何やってんの?」
 ミニチィアづくりに熱中している洋平に継子は心配そうに訊いた。
「今のうちに作っとかんとなあ……」
 と応えた。彼女は怪訝な様子だった。それからもう一度床の間に飾ってある作品をじっと見つめていたが、ひとりうなずいて、「そこのお地蔵さんね。かわいいやん」と意図を理解したのか、歓声を上げた。その声に顔を上げた洋平は思い出したように言った。
「あとで見といてや。表にキッチンハーブできとるんよ。忙しいよって、まだよう持っていけんのや。そのうちいくわ」
「うん、いつでもいいわ。みんな、会いたがっとるよ」
 継子は孫と旦那を一緒にして、みんな、と表現して言った。
 次は町内にあった古い居酒屋の内部を造りたいと洋平は思っていた。スケッチブックに思い出した内部の様子を出来るかぎり克明に描き留める。女将と写した古い写真もどこかにあるはずだ、とアルバムをめくる。
 継子は南瓜の煮物を冷蔵庫に入れると、またミニチィアを見つめている。
「これ、ようできとうわ。ところで今年、ここで地蔵盆やるんやろか? 人、減ったさかい。子供もいないみたいしなあ」
 継子は独り言のように言った。洋平のしゃべりたくない話題だった。黙っていると、「ふたりでもやろか? わたしが用意しようか?」娘は目を輝かせて言った。
「そうやなあ。そういやあ、座敷の天袋にあそこの提灯、何個かあったわ」
 洋平はスケッチブックを閉じ、身を乗り出して言った。身体のなかに力が漲ってくるのが分かる。暮れかけた路地の角で提灯に燈をともし、娘とふたりだけの地蔵盆もいいかもしれない、と思った。もちろん孫の顔が最初に浮かんだが、白い塀の迷路を通る若者たちを誘ったら面白い、とも考えた。高層ビルの谷間で蝋燭の光だけに照らされた顔を見合わせるのも楽しい気がする。
 近ごろ、西の空に空中楼閣と称する巨大な建物が出現した。バベルの塔のような神を恐れぬ人間の仕業だろうか。日増しにわが町は狭められ、空さえも奪われつづけている。もうこの町のうえにしか、しかもとても小さな空しか残っていない。
 居酒屋の内部を忠実に復元することは、非常に難しいことだった。アルバムから見つけた古い写真には、洋平が知りたい情報が写っていない。
 木戸があった。確かくぐり戸だったと思う。天井はなくて、太い棟木が力強く見えたはずだ。テーブルも時代劇に出てくるみたいな一枚板で出来ていたように思った。とっくり、ぐいのみ、皿、盛りあわせの料理、店員の衣装、酔った客、火消しの家のような壁の装飾。確か天窓があった。常連客ばかりのとき、店の明かりを消して天の川を見たことを覚えている。料理は野菜のてんぷらがうまかった。
「店の前に咲いてるパンジーの花、てんぷらにしてな」
 洋平は女将に頼んだ。
「いくらうちのてんぷらがうまい、と言ったって、それはあかんわ」
 女将はやんわり断った。
「わし、嫁さんにプロポーズしたときな、気がついたら、そばにあった植木鉢のパンジーの花を全部、食べてしまってたんや」
 洋平が話しだすと、女将がくすっと笑った。
「それでな、あれから食べたことないさかい、どんな味か試してみたいんや。頼むわ」
「へー、ご馳走さん。そこまでのろけられたら、仕方がないから、やってみるけど、味は保証せんよ」
 女将は表に出て、赤、黄、青、紫色の花を一つかみ取ってきた。
「赤いのはサラダにしようか。うちのドレッシングは最高やから」と言って女将はいたずらっぽく笑った。他の常連客も一緒になった笑い声が店のなかにいつまでも満ちていた。帰りがけ路地から暖簾の向こうに見えた明かりがとても暖かに思えた。

 玄関が開く音に洋平は我に返った。つぶやくように返事して玄関に立った。誰もいなかった。土間にカラー刷りのパンフレットが投げ込まれている。多色刷りの豪華なパンフレットだった。この辺をマルチメディアの基地として日本全国、いや世界への発進基地にしたい、そのためにご協力を、という趣旨だ。マルチメディアなんて何だかよく理解できない。しかしこの町を取り巻く情勢が日一日と切迫してきているのは感じ取れる。
 まだ雨は降っていない。一ヵ月近くなる。高層ビルの照り返しで暑い。ここは周りをビルで囲まれた盆地なのだ。風が通らないから、暑さがこもる。桜の葉が黄色くなってふるい出した。なんとか葉を落として、炎暑をしのごうとしている。
 アトリエに戻ると、路地に面した窓から日焼けした少年がなかを覗き込んでいた。
「もっとじっくり見せてもらえませんか」
 少年は言った。洋平は黙って玄関のほうを指さす。
 少年は遠慮がちに部屋のなかを見回しながら、アトリエに入ってきた。鴨居のところでくぐるように頭を下げた。床の間のほうへ案内した。目を輝かせて地蔵盆の風景を見つめている。
「いいですねえ。ぼくはこういうのが好きです」
 少年は標準語で言った。黒い顔に歯並びのいい白い歯が印象的だった。洋平は理解者が増えたような気になって目を細める。
「こんなものをたくさん造ったり、集めたりして博物館でもしたらどうですか」
 少年は思つきですけれど、と断ってから、洋平の目をじっと見つめて言った。
 この界隈を映したドールハウスを気の済むまで造って、最終的に我が家全体をその博物館にする、洋平は思ってもみなかった提案に内心では戸惑いながらも強く魅かれた。誰も見てくれなくてもいい、とにかくこんな町がここにあったことを、こんな人々が住んでいたことを残しておきたい、と思った。
「ありがとう。考えてみるよ」
 洋平は標準語で応えて、少年を玄関まで見送った。戸口近くの路地からローズマリーの心地よい香が漂ってきた。海のしずくといわれる淡い小さなブルーの花が咲いている。
 洋平はキッチンハーブのプランターを継子のところに届けがてら、ふたりっきりの地蔵盆の打ち合せや少年が提案した博物館構想など彼女に聞いてもらいたいと思った。
 自転車の荷台にプランターを乗せた。しばらくドールハウスづくりに専念していたので、体力が弱ったのか重いプランターを持ち上げるとき、腰がふらついた。
 風がハーブの仄かな香を辺りに漂わせる。身体の奥までしみ込んできて心を鎮める香だった。
 継子のところへ行くのは半年ぶりぐらいだろうか。白い塀の迷路は、相変わらずたくさんの若者たちが流れている。洋平はその流れに逆らうように自転車の尻を振りながら、ペタルを踏んだ。迷路いっぱいに広がって五、六人連れのグループが洋平の前に立ちはだかった。若い男女の群れは何がおかしいのか、後を振り返って笑っている。洋平は必死でグループを避けようとした。その瞬間、バランスを失った。
 灼熱の太陽が渦を巻いて回転して見えた。
 人が流れる川のざわめきが遠退いていく。それでもどこかずっと遠くで誰かが洋平を呼んでいた。

                                       了