神戸文学散歩―

7.神戸文学散歩・中央区編

(1)『三ノ宮炎上』井上靖・『火垂るの墓』野坂昭如

 

 
上図は昭和30(1955)年代の国鉄「三ノ宮駅」南広場、新聞会館、そごうなどの建物群と右図は昭和21(1946)年頃、そごう屋上から撮った現・マルイあたりとその西のジャンジャン市場(51軒の飲食店)と高架下の闇市の光景を撮った写真だ。新聞会館東側旭通4丁目や雲井通6丁目にあった国際マーケットもジャンジャン市場に移った。『三ノ宮炎上』は第二次世界大戦の中、神戸空襲で炎上する前夜の三ノ宮を舞台に純で魅力的な不良少女の生態を鮮やかに描いた小説だ。自由で明るく楽しい天地は三ノ宮以外ないとするのが嬉しい。その中で「三宮のオミツ」こと主人公「わたし」がずっと思い続けている<ぞっとするような美貌の秋野の兄さん>を別の不良仲間で<長身の、身なりのいやに調った>目玉の竜子に取られたことから始まる。また、『火垂るの墓』は開高健とともに焼け跡闇市派といわれる野坂昭如の『アメリカひじき』とともに直木賞を受賞した作品である。その中で省線「三ノ宮駅」は、主人公C太の終焉の地となっている。小説は、<昭和二十年九月二十二日午後、三宮駅(野元注:原文まま)構内で野垂れ死にした清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた。>で終わる。冒頭も清太が死に、その遺体の腹巻きの中からちいさなドロップ缶を見つけ出し、と三ノ宮駅南広場に、< ――略―― ドロップの缶もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、ふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。>と蛍が南広場から飛び立つイメージが描かれている。
(2)『孤愁 サウダーデ』新田次郎
 1)孤愁 サウダーデとは?
  
この小説は昭和54(1979)年8月より翌年4月まで毎日新聞に連載されたが、新田次郎はこの期間中の昭和55(1980)年2月15日突然逝去された。したがってこの作品は絶筆小説である。ベストセラー『国家の品格』で有名な数学者でエッセイストの藤原正彦は、新田次郎と戦後初のベストセラー『流れる星は生きている』の藤原ていの次男として生まれた。そして藤原正彦は父次郎の絶筆となった作品を引き継いでいつか完成させたいとしている。「父がモラエスに入れ込んだモラエスのサウダーデに圧倒されたからだ」と正彦は言い、最近では新田次郎が気象庁に勤務しながら執筆活動を続けていたときの疎外感を境遇の近いモラエスに重ね合わせたからだ、とも言う。
 サウダーデはポルトガル人特有の感情とされ、日本語や英語に翻訳できない言葉であるという。新田次郎は小説の中では、小野浜外人墓地で堺事件生き残りの元土佐藩士で、墓守の老人と遭遇し、老人はモラエスに事件の内容やフランス軍艦ジュープレ号の水兵11人を斬殺した土佐藩士11人の切腹の模様を話した。その中でサウダーデは二人の会話を通して語られる。引用しよう。
<「ポルトガル人のあなたに、私が言うのはおかしいですが、ポルトガル人はサウダーデという言葉を多様に使っています。別れた恋人を思うことも、死んだ人のことを思うことも、過去に訪れた景色を思い出すことも、十年前に大儲けをした日のことを懐かしく思い出すのもすべてサウダーデです。そうではありませんか」>と老人が言うと、<「そのとおりですが少々付け加えるとすれば、過去を思い出すだけでなく、そうすることによって甘く、悲しい、せつない感情に浸りこむことです」>とモラエスは補足した。
 また、『孤愁 サウダーデ』の下巻の帯に記されている、ポルトガルのマカオ政庁でモラエスの理解者だったカストロ総督の言葉も載せておく。
<「本国に帰りたい。このごろは毎日のように故国の夢を見るのだよ。…私はサウダーデにかかったのだよモラエス君。そして、この孤愁に取り憑かれたポルトガル人は、誰でもそうだが、故国を慕いながら帰ろうとしなくなるのだ。帰ろうと思えば帰れる、だが帰らない、帰るべきでないという気持ちになって行くのだ。>
  同じく『孤愁 サウダーデ』下巻の帯から少し視点を変えた藤原正彦の解説を読むと、
<「サウダーデという言葉は……「愛するものの不在により引起こされる、胸の疼くようなメランコ
リックな思いや懐かしさ」と言われている。望郷、会いたいが会えない切なさ、追憶などみなサウ
ダーデである。単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしているのが、特色である。>
とある。
 だんだん何が何だか分からなくなる言葉だが、これはむずかしく考える必要がなく、日本人も
同じような思考回路があるように思う。望郷―故郷は遠くにありて思うもの、に共感を覚える我々日本人の思いはまさにサウダーデの範疇に入りそうである。

 2)あらすじ
  
この小説はポルトガルの海軍少佐でマカオの港務副司令官のモラエスが、列強の力関係から日本から大砲や銃器を秘かに購入する密命を帯びて長崎の港に寄港する所から始まる。そして船内で知り合った日本人竹村と俳句の英訳などを通じて親しくなり、日清戦争勃発前夜の神戸・メリケン波止場に着いたとき、再会する。その後、竹村はずっとモラエスの秘書的仕事をこなす。なおその頃、ポルトガル領事館はなくフランス領事館にその業務を委託していた。フランス領事館のフォサリュ領事はメリケン波止場から目と鼻の先の宿舎オリエンタルホテルまで馬車で送った。次の朝、モラエスは前夜フランス領事夫人から推薦された布引の滝を人力車に乗って見に行った。そこで雌滝にあった朝が早かったのでまだ営業していない茶屋で建物の蔭からモラエスを見ている<暗い峡谷の中に咲いた白い花を見るような楚々とした風情>の娘を垣間見た。その後モラエスは何回もこの茶屋を訪れた。茶屋の三人娘のひとり「およね」(現実には二番目の「お福」)に恋をしたがある日彼女の左薬指に指輪が光り、破れた。
 その頃の日本はようやく不平等条約から脱しようと、法治国家の体裁を整えつつあった。そんなとき、日本の裁判所へポルトガル人同士の商取引上の紛争が持ち込まれた。モラエスはまだ慣れていない日本の神戸区裁判所に通訳として出廷し、この事案をうまく処理した。さらにモラエスは花隈の料亭で日本海軍の西田少佐から、かつてモラリスが砲艦の艦長であった経歴をかわれて、明治の日本政府が購入した砲艦千鳥が日本への回航途中にイギリス船と衝突、沈没した海難審判の支援を依頼された。慶應4(1868)年の神戸事件の滝善三郎の切腹の例をあげた、死の覚悟をもって依頼してきたのだ、というフランス領事の説明を待たずにモラエスは支援を承諾した。彼は日本海軍に味方して事故傷痕からイギリス船の非を計算上証明し、日本海軍を勝訴へ導き、恩を売った。その縁でモラエスは真の任務である、大砲、小銃の購入を日本海軍に依頼した。
  ところでモラエスにはマカオに妻、亜珍(あちゃん)とふたりの子どもがいた。亜珍はイギリス人と中国人の混血で白人に近い顔をしていたが、彼女は子どもたちがポルトガル語をしゃべることを嫌い、広東語だけをしゃべるよう強要した。モラエスはポルトガル語の修得を願ったが、亜珍はきかなかった。損案険悪な家庭状況の中、家族をおいて再び神戸に向かう。
 神戸に帰ったモラエスは野砲購入の打ち合わせで大阪・川口外国人居留地へ行く途中でおよねと運命の出会いをする。およねは大阪の「松島の松鶴楼」の芸者だった。
  日本海軍に依頼した武器購入は野砲十門を購入することで決着がついたが、さらにマカオ政庁からモラリスに日本では村田銃の発明により時代遅れのスナイドル銃の実包購入の指示が来る。それも三個師団で運用できるほど多量の実包購入は何を意味するのか、モラエスはマカオ政庁の真意を図りかねた。
 日本が日清戦争に勝ったため、ポルトガルも公使を派遣してくることになり、モラエスは大阪・神戸副領事館臨時事務取扱となった。もともとポルトガル領事館は海岸通りにあったが、二年ほどで閉館し、フランス領事館に事務を委任していた。
 モラリスは神戸に領事館を設立した。そしてモラリスは亜珍や子どもたちを忘れる努力しながら孤愁の海を泳いでいた。そして子ども達があげていた凧の糸が切れて小野浜墓地を訪れただった。そこで前述の墓守の老人と孤愁について語り合う。
 松島の松鶴楼のおよねは身体をこわして徳島へ帰っていた。モラエスは海岸通りのポルトガル領事館に勤務していた。明治31(1898)年彼は帰国命令をを受けるが、神戸に残ることを決心する。明治32(1899)年治外法権が撤廃されたが、外国人は海岸通り付近に集合しており、折から進められていた電化に反対していた。モラエスも電灯よりガス灯の方が好きだった。(注:旧神戸居留地は当初から地下電線管が考えられていた。)
 モラリスは彼女に求婚し、亜珍や子ども達は愛しているけれど、もう既にサウダーデの愛だと話した。そしてふたりは生田神社で神前結婚をし、披露宴は諏訪山の常磐楼に席を変えて行われた。
海岸通りのポルトガル領事館は諏訪山下の山本通り3丁目に移った。
 モラエスはその著『大日本』で日本女性の素晴らしさを書き、およねと岡本梅林にでかけ、梅なら
ぬポルトガルの花アーモンドの話した。(このあと、おそらくおよねが死ぬまでと、徳島でおよねの姪こはると結婚したが、こはるもすぐ亡くなり、すべてがサウダーデの世界となるのであろうが、そこまで書かれていない未完の小説である。)


 3)モラエス(1845〜1929年)
 1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれのポルトガル人で、軍人・外交官・作家・エッセイストだ。正式な名前は、ヴェンセスラオ・デ・モラエスである。海軍兵学校を卒業のポルトガル海軍士官で少佐、中佐、大佐となる。1889年来日当初はマカオ政庁港務副司令官であったが、後に大阪・神戸副領事館事務取扱、領事、後に総領事となり、1913年まで勤める。
 モラエスは1902年から1913年まで、ポルト市の著名な新聞「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介しており、それが次々に集録されて「Cartas do Jap?o(日本通信)」という6冊の本に納められている。
 布引の滝の茶店三人美人姉妹の二女お副に失恋した。それから1年ほどして店は閉店になったが、お福は胸の病で亡くなったという。彼は故国でも画家で文人である女性を愛したが、彼女の夫は狂っていたが、カトリックの戒律から離婚できず、悲恋に終わった。またマカオ政庁時代、父母がイギリス人と中国人の混血亜珍と正式ではないが、結婚し、二児をもうける。しかし、亜珍にはひもがいて、モラエスの留守中に彼女と彼の荷物も含めて売り飛ばしてしまったらしい。『孤愁 サウダーデ』では亜珍は子ども含めてマカオを離れたくないと主張する女として描かれている。女運の悪いモラエスに同情して新田次郎のせめても思いやりであろうか。
 大阪松鶴楼の芸者およね(本名は福本ヨネ)と出会い、明治33(1900)年に結婚する。大正元(1912)年におよねがなくなると、大正2(1913)年に引退した。彼は加納町1〜2丁目、今のYMCAの北側あたりに住んでいた住まいを引き払って、ヨネの故郷である徳島市に移住し、その墓を守って暮らす。およねの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。徳島での生活は必ずしも楽ではなかったとされているが、死後かなりの遺産が残されていたという。スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれたりして大正4(1929)年、徳島市で孤独の内に没した。
 戒名は「藻光院扁窓文献大居士」である。吉井勇の歌がある。
 モラエスは 阿波の辺土に 死ぬるまで 日本を恋いぬ 悲しきまでにモラエスはキリスト教徒であったが、日本の多神信仰があっていたようで、すべてに神の存在を見て、なんでも、「かわいそうに」と言ったという。モラエスは日本人になろうとしたのだろうか。
 このテキストの冒頭に挙げた「モラエス像」は現在、東遊園地にある。ポルトガル海軍がモラエスに敬意を表して建立した。

 4)新田次郎と作品
 
新田次郎(1912年〜1980年)は、長野県上諏訪町(現 諏訪市)生まれ。『強力伝』で直木賞を、『武田
信玄』等で吉川英治文学賞を受賞した小説家だ。無線電信講習所を卒業後、昭和7(1932)年中央気象台(現 気象庁)に入庁した気象学者でもある。『富士に死す』『銀嶺の人』『八甲田山死の彷徨』『縦走路』『アラスカ物語』など作品多数。妻は作家の「藤原てい」で、昭和20(1945)年満州新京の気象台に赴任していた彼を残して子供と先に帰国したが、その体験を描いた『流れる星は生きている』は戦後のベストセラーになった。また長男の「藤原正彦」は数学者でエッセイストとして著名だ。彼が出版し
た『国家の品格』新潮新書は、200万部を越えるベストセラーとなった。新田次郎は周到な構成と専
門の気象とであらゆる状況を駆使して緻密な小説を構築していった。
 新田次郎は造詣深い山岳を題材とした作品が多く、山岳小説の分野を拓いた先駆者といえるが、彼は山岳小説といわれることを嫌ったようだ。歴史小説の分野でも力を注いでいる。新田次郎は『孤愁 サウダーデ』『孤高の人』など神戸という風土を原点として培った主人公をよく書いてくれたことに心から感謝したい。

 5)『孤愁 サウダーデ』の舞台
  1)布引の滝
 
日光・華厳の滝、紀州・那智の滝と並び称される日本三大神滝といわれている。時として布引の滝だけは規模が小さいといわれるが、現在の雄滝の高さは43mであるが、かつて高さが100mあったといわれているし、水量も布引ダムや他の砂防堰堤もなく、市立森林植物園の西の六甲ドライブウエイ沿いにある神秘的な「獺(かわうそ)池(いけ)」に源流を発し流域も水量も多かった。また、雄滝、夫婦滝、鼓滝、雌滝と四連の滝が連なるのも珍しい。しかも町から近い滝景観は十分景勝としての価値があると思われる。町から手軽にすぐ幽谷深山に行ける故に、古くから多くの人々に親しまれてきた。『摂津名所図会』には「岩面を流れ落つる事、白布を曝(さら)すに似たり」と記されているように、布引の滝の名は、2 00mほどの間に連続して流れる様子が白布のように見えることに由来する。
 「いざ、この山の上にありという布引の滝見に登らん」と『伊勢物語』では在原業平が誘っている。
      『古今集』の在原行平の一首は
        我世をは今日か明日かと待つ甲斐の
                        涙の滝といつれ高けむ     
 また、明治に行くと、鉄道唱歌では、
        磯にはながめ晴れわたる 和田のみさきを控えつつ
                        山には絶えず布引の 滝見にのぼりゆく    
 と歌われた。ここには36聖歌人の布引の滝に関する歌碑が点在している。
 現在の茶店は雄滝にあるが、往時は滝見客目当ての茶店が軒を連ねていたらしい。
『平家物語』には雄滝の高さは43m、滝壺の深さは6.6mで、水は6段に折れながら滝つぼに落ちており、その段ごとに、水がえぐった穴が開いています。この穴は最大で33平方メートルもある。ここには乙姫様が住む竜宮城があり、龍神となった乙姫が海へ出かけ、多くの船を守ったという言い伝えが残されている。『平家物語』では、平清盛が福原の別荘から布引の滝見物の際に同行の難波経房が悪源太源義平の怨霊の雷に討たれて死ぬ話(国芳の図)や、『源平盛衰記』では、清盛の長男重盛が滝を見にきたとき、家来の難波経俊が滝つぼに入り竜宮城を見て出たところ(乙姫伝説)を雷に打たれたなどの伝説がある。
 なお、右の「雌滝と茶店」の写真から分かるように当時茶店は雌滝が見えるよう渓谷に橋が架けられていた。「摂津名所図会」の名所絵の「布引の滝」には一天俄にかき曇り、悪源太源義平の怨霊が登場する。
源義朝の長男で悪源太と呼ばれた剛の関東武者だ。悪とは必ずしも悪人という意味でなく猛々しいとか、強いとかの意味であり、よい意味に使われていた。平治の乱が起こると、上京し、平家を相手に奮戦するが敗れて落ち延びる。父義人もが殺されたため、京へ戻って平清盛の暗殺を図るが失敗し、捕えられて斬首された。そして雷神となったという。


(3)神戸外国人居留地
 
神戸外国人居留地は慶応3年12月(1868年1月)の神戸開港に伴 い、旧生田川河口の西側、南は海岸通り、東は旧生田川(現・フラワーロード)、西は鯉川筋、北は市道花時計線に囲まれた区域で開設された。低湿地帯で外国人たちは苦労してまち初代兵庫県知事伊藤俊輔(後の博文)の指揮のもと、イギリス人技師J.W.ハートが都市設計を担当した。当時から東洋一美しい居留地といわれており、現在もその面影をうかがうことができる。明治4年4月17日付英字新聞から引用すると、<神戸はたしかに美しく、東洋の居留地として、最もよく設計されている。>とあり、また具体的には<清潔な道路、充分な歩道、美しい背後の丘、湾内の輝くさざなみ、そしてこぎれいで心地の良い建築は、すべて目新しく、魅力のあるものである。>と他の外国新聞から記事を転載している。明治38(1899)年不平等条約の解消により日本に返還された。それまでは警察、消防などをはじめ自治組織が居留地38番に行事局をおいて自主統治した。新田次郎『孤愁 サウダーデ』、堀辰雄『旅の絵』、宮本輝『花の降る午後』、山崎豊子『華麗なる一族』、司馬遼太郎『街道をゆく-神戸散歩』、庄野潤三『早春』稲垣足穂『星を造る人』などの小説舞台としても書かれている。

 1)『孤愁 サウダーデ』と居留地
 モラエスは神戸着任後、居留地の海岸取り沿いにあったフランス領事館に間借りするポルトガル領事館を基地にして、秘かな任務である日本陸軍から武器の買い付けのととっかかりを模索する。当時の日本は不平等条約の撤廃をめざしていた。そんなとき、ポルトガル人同士の裁判問題が起き、モラエスはこの問題をうまく処理する。また、モラエスが艦長していた砲艦ドウロ号と同型の砲艦千鳥がイギリス商船と瀬戸内海で衝突、沈没したが、その交渉で日本海軍に力を貸してほしい頼まれる、などモラエスの活躍は居留地を中心に行われた。ちなみに彼の宿舎「オリエンタルホテル」は若干疑問があるにせよ、小説の上では居留地の海岸通り沿いにあったことになっている。

 2)オリエンタルホテル物語
 
現在、居留地に建つオリエンタルホテルは、五代目で四代目も同じ位置にあった。『神戸・横浜開化物語』神戸市立博物館編によると、一代目は右の写真のような木造2階建てで京町筋に面した居留地79番にあり、オランダ人ブリスが経営していたことが、明治3(1870)年8月3日の英字新聞「THE HIOGO NEWS」増刊号の広告からわかる。その後ブリスは長崎に転居した。明治21(1888)年、二代目のオリエンタルホテルが79番の隣、80番今のランプミュージアムのあるところに横浜から来た名コックであったというフランス人L.ビーゴーによって開設された。かなりクラシックな雰囲気のある建物だった。ここの地下大食堂の料理は評判がよかったらしい。そして下の写真の明治末の写真が三代目のオリエンタルホテルで明治40(1907)年に居留地6番に六甲山に日本最初のゴルフ場を創設したイギリス人A.H.グルームを中心に開設された。
『孤愁 サウダーデ』では、明治22(1889)年にメリケン波止場に上陸したモラエスは、ポルトガル領事館の仕事を委託していたフランスのフォサリュ領事に馬車で迎えられ、<ホテルは目の前にあった。>とすぐ近くなのに馬車で迎えに来るとは大仰な、と思うモラエスだった。<モラエスはオリエンタルホテルに泊る予定になっていた。その二階建ての洋館はすぐそこに見えていた。彼はトランクを両手に持った。ホテルまで歩こうかと思ったほどそれは問近にあった。ホテルの蔭にかくれて山が半分見えなくなっていた。>
そしてフォサリュ領事は<「オリエンタルホテル」と張りのある声で言った。>とある。しかし、このとき、オリエンタルホテルは目の前にはなかった。オリエンタルに行くには、かなり馬車に乗ることになる。当時のオリエンタルホテルなら、メリケン波止場から右に曲がって、海岸通を東へ行き、京町筋で左に折れて北上し、居留地80番にあった二代目のオリエンタルホテルに行かねばならない。ちなみに目の前のホテルは何ホテルか? それは「ヒョウゴホテル」であろう。明治中期の海岸通を東から見ると、突き当たりに見えるのが、「ヒョウゴホテル」である。経営者は美人の誉れ高いメアリー・エリザベス・グリーンだった。彼女はイギリスの外交官であった夫の死後、母親似の美しい二人の娘とこの外国人専用ホテルを切りまわしていた。メリケン波止場に近く料金が安かったから人気があった。この辺は小説と現実の違いである









その後、「ヒョウゴホテル」は大正時代に現在でも現地に残る「日本郵船ビル」へと変わる。それが下の写真だ。ポールの立つ建物は神戸と外国を結んだ初の船会社パシフィック・メールだ。海岸通のビューポイントとしてなかなかいい建物だったが、戦災で焼失、昭和28(1953)年改修され、ドームを取り除き、窓を増やし
正面の円柱を角柱に変更して今日に至っている。阪神・淡路大震災ではほとんど無傷だった。このビルは山崎豊子の『華麗なる一族』に万俵阪神銀行頭取の次男銀平が地下のバーに飲みに行く場面が出てくる。また、谷崎潤一郎の名作『細雪』上巻では、冒頭近くで、幸子・雪子・妙子の芦屋に住む蒔岡家三姉妹のうち、なかなか縁談が決まらない雪子の見合いをこのオリエンタルホテルでするところ始まる。時代は昭和11(1936)年から昭和16(1941)年ごろだから、見合いの舞台は、は三代目オリエンタルホテルであろう。なお、雪子の見合い相手は海岸通にあるフランスの外資系の会社という設定だ。雪子の縁談がまとまったときの会食もこのホテルで行われる。

 3)東遊園地
 
東遊園地は明治5(1872)年の太政官布告による、日本における最初の都市公園の一つであるが、旧生田川の堤防敷にあり、明治8(1875)年、神戸外国人居留地の外国人専用運動公園として開放されたのが始まりである。ここでクリケット、野球、サッカー、ラグビー、ホッケー、テニスなどの近代
スポーツが行われ、盛装した外国人紳士淑女が試合を観戦している写真も残っている。その後日本側に返還されたが、「東遊園地」の呼称は大正11年(1936年) からだ。この名は旧居留地内西側(今のNTT西日本新神戸ビル辺り)にあった「遊園地Public garden」に対して命名された。ここには外国人スポーツクラブKR&AC(コーベ・レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ)の創始者で日本最初のラムネを販売した「A.C.シムの記念碑」「近代洋服発祥地の碑」「ボウリング発祥の地の碑」などがあり、明治における外国との異文化交流の軌跡を偲べる。特に文学散歩からいうと、「モラエス像」だ。なお、KR&ACは現在もフラワーロードの東の磯上公園の一部に現存し、居留地時代の名残から、というか、ある程度の一般開放もあるが、移転の条件からほぼ外国人専用コートとしてテニスコートが供用されている。なお、現東遊園地の大噴水周辺の建物は、社交クラブの神戸クラブやKR&ACのクラブハウスのデザインイメージを踏襲している。なお、稲垣足穂も『星を作る人』の冒頭は東遊園地から始まる。

 4)小野浜外国人墓地(1868〜1961年)
 
外国人墓地は当初山手に設置されることになっていた。しかし、開港前に死者が出たため、居留地の東、旧生田川の左岸(今のフラワーロードの東側)川尻の小野浜に急遽設けられた。洪水や波の冠水などが心配され適地ではなかった。『弧愁 サウダーデ』では主人公モラエスがこの墓地で堺事件の生き残り元土佐藩士で墓守の老人と偶然会い、互いの心に宿る"サウダーデ"を話し合う。庄野潤三の「私の神戸物語」である『早春』で、主人公は小野浜墓地跡を訪れ、当時あった臨港線の踏み切り名に「外国人墓地踏切」を見つける。
 明治32(1899)年、一杯になった小野浜外国人墓地の次代外国人墓地として、当初からの約束であった高台の筒井町に墓地が設置された。江戸時代からある墓地の横に接して設けられた。ここは神戸を舞台とした文学上重要な墓地のようだ。堀辰雄『旅の絵』、島尾敏雄『贋学生』、野坂昭如『火垂る墓』などに出てくる。
 そして、昭和36年(1961年)小野浜、春日野両墓地を統合し、再度山に「神戸市立外国人墓地」を造成、移転した。風光明媚なこの地には約2,650柱の人々がやすらかに眠っている。右下写真は小野浜から移転埋葬された堺事件のフランス兵11名の墓所である。この仏蘭西兵11人の墓ほか、F.D.モロゾフ氏、シム氏、ハンター氏、マーシャル氏、ウォルシュ氏など神戸を愛し、神戸に貢献した人々の墓もある。

 
 5)三宮神社
 この神社は神戸八の宮社の三の宮である。大丸(居留地42番)の北東の居留地に接している。航海の安全と商工業の繁栄を守る神として、古くから一般の崇敬厚い神社である。古い記録がなく、起源は不明であるが、祭神は水の神である湍津姫命(たきつひめのみこと)だ。境内に源平の戦いで生田の森への先陣で功のあった河原兄弟を祀った「河原霊社」や「史蹟 神戸事件発生地碑」や当時の大砲が置かれている。神戸事件の概要については、『孤愁 サウダーデ』から引用する。
< 一八六八年一月十一日一慶応四年二月四日一のことである。神戸市内を通過中の備前岡山藩の日置帯刀が指揮する五百人の部隊の先頭を外国人が横切ろうとした。隊長が手で制するとその外国人は引き下ったが、この時飛び出した別の外
国人はピストルを擬しながら隊列の前を走り抜けた。第三隊長の滝善三郎は怒ってこれに追いつき、槍でその男の腰のあたりを突いた。男はピストルを発射しながら逃げ、これに対して、日本側が発砲した。これがきっかけになって、英、米、蘭、仏側の運合軍隊が日本側に向って発砲した。神戸の町は一時混乱に陥ったが、事件は、日本側と外国人側との話し合いによって、滝善三郎が各国公使の面前で切腹するという条件で解決を見た。
 滝善三郎は一ヶ月後の二月九日に各国公使の前で切腹した。

 
この事件は事件の内容よりも、切腹という日本人的な決着方法が神戸在住の諸外国の公使を驚かせた。切腹の立会いを命ぜられたある公使は、その凄惨なありさまを見て、もうよいから止めてくれと声を上げたし、ある国の公使の代理として出席した男は切腹を目のあたりに見て気を失ったほどであった。>
 上の絵のように神戸市立博物館蔵の明治11(1878)年に描かれたC.B.バーナードの『三宮神社付近風景』でも分かるように、三宮神社が居留地に接していたことが分かる。


 6)『孤愁 サウダーデ』に出てくるポルトガル語由来の日本語
 
<「ポルトガル語で日本化したものは非常に多い。一般には四百とか五百とか言われているが、そればかりでは
ないらしい。パン、ビスケツト、カステラ、テンプラ、カルタ、
ボタン、タバコ、キセルのようにポルトガル語から来た言葉だと誰でも知っているものの他に、京都の先斗町なども、ポルトガル語のポンタ(Ponta 先端の意味)から来たものだ」>

 他にはエニシダのことをポルトガル語で「イニェスタ」という。


 7)『孤愁 サウダーデ』からの抜粋
  @六甲山
<モラエスはベルギー号から降りる客を迎えに来た艀に乗ってメリケン波止場に向うまでの間に長崎と神戸をもう一度頭の中で比較した。やはり山だと思った。彼は神戸を特徴づけるものは山以外にはなく、この山が神戸に住む人たちにとって最も重要なものであろうと思った。
 誰かと話したかった。あの英国人でもいいし、日本人でもよかった。ひとことふたこと、このすばらしい神戸の山のことについて話してみたいと思った。だが二人はそこにはいなかった。>


  A布引の滝
< 神戸の場合はいままでと何処かで違っていた。飛び込んだ自然森林がそのまま公園のように整備されていたのではない。自然そのものが公園の景体をなしていたからだった。クスやシイの木の他にハンの木が多かった。ハゼの木やネムの木はマカオでよく見かける木であった。道は小川の上に出て次第に高度を増し、やがて滝の音が聞こえた。滝を見おろすところに茶屋があったが、まだ閉じられたままだった。
 滝は雄滝と雌滝の二つがあった。上部の雄滝は高いところから滝壷に流れ落ちる滝であり、雌滝は、背はそれほど高くはないが幅が広い滝であると、領事夫人が言っていたことから想像して、今、目の前に見る滝は多分雌滝であろうとモラエスは思った。
  閉じられた茶屋の前の縁台に腰をおろしていると滝のしぶきがかかった。そこは山と山にはさまれた峡谷になっているから、おそらく一日中、太陽の姿を見ることはないだろうと思った。>


  B布引の茶屋三人娘
< 彼はほとんど休まずに坂を登り、滝への一本道をまっしぐらに歩いた。いつものようにまわりの景色を眺めるようなことはなかった。滝の茶屋まで一気に登りつめて、いつものように、まだ開いていない茶屋の縁台に休んで滝を眺め、汗が引いたころを見計らって帰ろうと思っていた。
 だが茶屋はいつもと違っていた。
 雨戸は開けられ、縁台の上に座蒲団が一枚置いてあった。
 モラエスがその座蒲団に坐っていいかどうかいぶかるような顔で立っていると、いらっしやいま
せと、澄んだ女性の合唱のような挨拶が聞こえた。三人のよく似た娘が揃って現われた。一番末
の妹を中にして両側に姉たちが立っているような形であった。三人ともそれぞれ違った花模様の
着物に帯をしめていた。>


  C居留地
< モラエスはホテルの外に出た。人力車の車夫が寄って来たが、それには手を振ってことわると、神戸のことならよく知ってるのだと言わんばかりに、山手に向ってさっさと歩いて行った。山々の緑が間近に見えて来るあたりに、新築の洋館がぼつぼつ見えた。雑居区域として早くから外国人の居住を認められていたところである。海岸通りの外国人居住地区をオフィス専用として、山手に住居をかまえる外国人が増えているのも日清戦争後の特徴の一つである。>
 <明治三十二年の七月から治外法権は撤廃されたが、外国人は依然として海岸通りに集合していた。彼等は治外法権は失ったとしても特権意識はあった。それが海岸通りの電化をこばんだのである。海岸通りに電柱を立てれば風致を害するというのも反対の理由の一つになっていた。モラェスは領事になったばかりだからこの問題には口をさしはさ  まずに黙っていた。>

 居留地自治は38番の居留地行事局で外国人の手で返還日の朝まで行われた。写真は居留地警察官。消防隊もあった。

  Dモラエスとおよねの結婚式
 
モラエスとおよねは生田神社で結婚式をあげ、披露宴は諏訪山の常磐楼で行った。
< 一般的に神前結婚が行われるようになったのは大正になってからである。明治三十年ころは、ほとんど、仲人結婚の形式を取り、民家で行われていた。しかし神戸ではこのころ既に生田神杜で神前結婚をする者があり、たまたまこれを見た外国人が神秘的な結婚式と評したことがあった。このころの生田神社では休憩所に祭壇を設けて結婚式場としていたらしい。常盤楼は現在の諏訪山公園の東側にあり、それぞれ二階建ての常盤楼本店、常盤楼中店、常盤楼東店を持つ、当時としては神戸一の大料亭であった。>















■三代目オリエンタル
          (25番)