ふるさと・文学散歩4

   『火垂るの墓』野坂昭如著〜三宮・灘・西宮
1.初出とこの作品の書かれた背景
 1)『火垂るの墓』は1967年(S42)10月、「オール読物」に発表された。
翌年1968年(S43)『アメリカひじき』とともに第58回直木賞を受賞した。
 2) 野坂昭如は1945年(S20)6月5日の神戸大空襲で神戸市灘区中郷町3丁目の自宅と養父張満谷善三氏を失い、養母節子は大火傷を負った。養母の面倒は祖母が見たという。焼け出された後、初めての誕生日が過ぎたばかりの妹と、7月末まで西宮の親戚に預けられ、飢えた妹恵子はよく夜泣きした。はた迷惑なので外に連れ出し、頭をこづいて黙らせたらしい。そのことを野坂は後で自分のことと西宮の家の娘京子のことばかり思って、妹恵子のことを少しもかわいがらなかった、もっとかわいがればよかった、と反省している。その後福井県春江市に疎開し、そこで妹恵子は一歳六ヶ月で他界した。
『火垂るの墓』では戦災死した父は海軍大佐で巡洋艦に乗り組み音信不通、空襲で大火傷を負った母と戦後、転倒して寝たきりとなった祖母は戦災死とした。そのことにより、清太は、<必然的にぼく(=野坂だと読者が思うように)は、あわれな戦災孤児となった。>
 3)『名作を歩く』神戸新聞文化部 神戸新聞総合出版センター刊によれば、<「とにかく何でもいい。正直に書きたいと思った。贖罪の意識が書かせた作品という思いが強いですね。あの作品に出てくるほど僕は妹に優しくはなかったから」>と野坂は語り、<贖罪の文学>だという。
 4)『文壇』野坂昭如著 文藝春秋刊によれば、< ことさらかわいそうな戦災孤児の兄妹、舞台は、空襲後二ケ月余り過ごしたあたりに設定。実際の妹は一歳四ケ月、これでは会話ができない。十六年生れということにし、急性腸炎で三日寝つき死んだ、前の妹と同年。あの妹が生きていたらと、はっきり残る面影をしのび、戦時下とはいえ、暮しにゆとりがあって、ぼくは確かにかわいがった。この気持を、まったく異なる飢餓状況下に置きかえた。
 夜泣きをうるさいと小突き、脳靂凄起させた兄ではない、書くうち、意識して、いかにも書き手白身と、読者が考えるだろう、兄の優しい心を強調、周辺の大人を意地悪に描く。.兄妹は、苛酷な明け暮れを憐れ健気に生きる、その細部、とめどなく文字となる。初めの妹に抱いていた「これはまぎれもない愛情、養家先で初めて抱いた気持。血はつながっていないが、いとしく、何ものにも替えがたく思った気持をそのまま写した。自分を美化しているとの自覚が、さらに妹をいたわる虚構について、確かに、自虐的に書きこませる。わけ判らずではない、自分をいたぶる気持があった。こんな風な美しい兄妹愛を知らない。ただ文字は当時の自分の気持、しかとはつかめないが、これとまったくかけ離れた万全の配慮を記し、兄は妹にとってのすべて。妹もすべてを兄に預け、さらにいたわり兄の愛情にこたえる。周辺の、人間関係以外、はぼ体験したことだから、絵空事ではない。ありもしない妹の可憐な台詞が滾々と生れ、これを耳にする兄の気持が折目を埋めつくし溢れる。蚊帳の中に、せめて妹をなぐさめようと兄が蛍を放つ、妹がそのほのかな灯の動きを追い「上った、下った」という。この台詞は四年の夏、林間学校で、液体を入れた試験管に封じこめられた玉が、上部のゴムの膜を押すことで上下、少し知恵おくれの子供の呟いていた言葉。朝になると死んでいる蛍の埋葬は、映画「禁じられた遊び」。妹が死んだ時、ぼくは重荷から解放された思い、悲しみは片鱗もない。妹の骨と皮の遺体を眼にした。焼く時、火加減が判らず、骨は爪の先ほどしか残らなかった。何も考えなかった。>と『火垂るの墓』を執筆中の心境を書いている。

2.あらすじ
(1)終 焉
 1) 冒頭、省線(現JR線)三宮駅構内の浜側の柱にもたれかかったまま、尻をつき、栄養失調から来るひどい下痢が続き、もう<清太には目と鼻の便所へ這いいずる力も、すでになかった。>
 2) 「戦災孤児等保護対策要綱」が決定された翌日の昭和20年9月21日、<自分が座ってる時のままの姿でくの字なりに横倒しに>なり、<清太は死んだ。>
 3)<白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。>清太の遺体を覗き込んだ駅員は彼の死を確認し、腹巻きの中から節子の遺骨の入ったドロップの缶を見つけ出して、<もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。>

(2)大空襲
 4) 6月5日神戸は3月17日、5月11日に続いて、B29の大編隊の空襲を受けた。中学3年の清太は神戸製鋼所に勤労動員されていたが、その日は節電日で自宅待機中であった。家の床下に掘った防空壕など信用していなかったから、先に病身の母を町内会のコンクリート製の壕に避難させた。そのあと、清太は裏庭に火鉢を埋め、米卵大豆鰹節バター干しにしんなど貴重な食糧を埋め、<海軍大佐で巡洋艦に乗り組んだまま音信>のない父の写真を胸に入れ、節子を背負って外に出た。そのとき、すでに焼夷弾の落下凄まじく、清太たちは、かねてから決めていたとおり阪神電車の高架沿いを東に走り、石屋川の堤防へ逃げた。
 5)<「お母ちゃんどこに行った?」ム略ム「きっと石屋川二本松のねきに来てるわ、もうちょっとやすんでからいこ」と母があの焔から逃れたと信じるしかなかった。夕立が止んで石屋川の土手に上がってみると、御影公会堂が歩いてきたみたいに近くに見え、国道でも3台連結の電車が往生しており、六甲山の麓まで一面の焼け野原だった。
 6)<「御影国民学校へ集合して下さい。上西、上中、一里塚の皆さん」清太の住む町名を呼ばれ、>母も避難してるかもしれないと行った避難所の御影国民学校で火傷を負った母に巡り会うが、二日後に母は死ぬ。荼毘に付す母の遺体に標識をつけるとき、夥しい蛆がこぼれ落ちた。
 7) 一王山下の広場に掘られた直径十メートルぐらいの穴に建物疎開の棟木柱障子襖が積まれ、母の遺体は他の屍体とともに、重油をかけられてまるでもののように焼かれた。節子には母の死は知らせなかった。

(3)西宮おばさんの家
 8) 母が荼毘に付された夜、かねてから母が着物夜具蚊帳を疎開させてあった、遠縁の西宮の家にたどりついた。
 9) しばらくして、清太は我が家の焼け跡から埋めて置いた食糧を掘り出し、借りた大八車で石屋川、住吉川、芦屋川、夙川と四つの川を渡って一日がかりで運んだ。遠縁の未亡人は<「軍人さんの家族ばっかりぜいたくして」といいつつ、近所にお裾分けをしたりした。中島飛行機に動員されていたが休んでいた女学校四年の娘さんだけは節子を<あやす。>未亡人に清太節子は次第に疎まれ、食事も差別された。
 10)つらい生活だったが、一歩外に出ると、夜など<すぐそばの貯水池の食用蛙が、ブオンブオンと鳴き、そこから流れ出る豊かな流れの、両側に生い繁る草の、葉末に一つずつ平家蛍が点滅し、手をさしのべればそのまま指の中に光が移り、「ほら、つかまえてみ」節子の掌に与えると、節子は力いっぱいにぎるから、たちまちづぶれて、掌に鼻をさすような生臭いにおいが残る、ぬめるような六月の闇で、西宮とはいっても山の際、空襲はまだ他人ごとのようだった。>
 11) また気晴らしと治療に<「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただもう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」去年の夏までは、須磨に部屋を借りて、夏を過ごし、節子を浜に置去りにして、沖に浮かぶ漁師の網の硝子玉まで往復し、浜茶屋といって一軒、甘酒をのます店があって、二人でしょうがのにおいのそれを、フウフウと飲み、かえれば母のつくったハッタイコ、節子は口いっぱいほおばってむせかえり顔中粉だらけ、節子覚えてるやろかと、口に出しかけて、いやうっかり想い出させてはあかん。>
 12) 海辺から<警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB二九が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。         
 13) おばさんのいじめは日ごとにひどくなった。
 七月六日、梅雨の名残りの雨の中をB29が明石を襲っているとき、ニテコ池の横穴で、いつも離さぬ人形を抱いて、節子は言った。<「お家かえりたいわあ。小母さんとこもういやや」と。<「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きできるよ>と兄は応じた。

(4)ニテコ池の畔で
 14) 洞穴に過ぎない我が家に気が滅入ったが、節子は<「ここがお台所、こっちが玄関」>とはしゃぎまわり、喜んだ。
 15) 夜になると、洞穴の中は真っ暗だった。清太は夥しい数の螢をつかまえて、蚊帳の中に離した。<五つ六つゆらゆらと光が走り、蚊帳にとまって息づき、>お互いの顔は見えないが、心が落ち着いた。<朝になると、螢の半分は死んで落ち、節子はその死骸を壕の入口に埋めた、>そして、節子は小母さんから聞いたと、母の死を知っていることを清太に伝えた。<はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓へいこな、節子覚えてえへんか。布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母さん」>と節子に話した。
 16) 栄養失調からか、<清太の両手の指の間に湿疹ができ、節子もまた次第におとろえた。>
 17) 節子に食べさせるために止む止まれず、芋や砂糖黍など畑を荒らし、農夫に捕まったり、折檻されたこともあった。さらに空襲警報の出たとき、家に忍び込んで衣類や食べ物を盗み、飢えをしのがねばならなかった。
 18) 節子を阪急夙川駅近くの医者に連れて行ったが、とおりいっぺんの診察で済まされた。
 19)<八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。>
 20)<満池谷を見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形蟇口下着一切をまわりにつめ、いわれた通り大豆の殻を敷き枯木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるうちに一筋いきおいよく空に向かい、清太、便意をもよおして、その焔ながめつつしゃがむ、清太にも慢性の下痢が襲いかかっていた。>
 21) 日が暮れて丘から見える谷あいの町は灯火管制がとけて昔と変わらない灯火が見えた。夜更けに火は燃えつき、夥しい螢が<上がったり下ったりついと横へ走ったり>した。
(5)冒頭へ
 22) 節子の遺骨を拾って、サクマ式ドロップの缶に入れた清太は三宮駅に住みつき、闇市の様子やかたわらを通り過ぎる脚の群れを見ながら野垂れ死んだ。<清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた。>
    *(注)布引の上の寺とは徳光院のことか?
3.表題について
 表題が決まった経緯は『文壇』野坂昭如著・文藝春秋刊に寄れば、<「しんみり、しつとり」私小説、題名は「蛍の川」とし、すぐ伊藤桂一の受賞作「蛍の河」に思い当り、しかし蛍に執着があった。百科辞典をひくと、古語に「火垂る」、火が垂れる、つまり空襲、すぐ「墓」とつづいた。>とあり、後で論じるが全編に螢のイメージを感じる。直木賞を狙った作者の執念めいたものを感じる。宮本輝の芥川賞受賞作品『螢川』もこの系列か?

4.『火垂るの墓』の舞台について
 1)省線(現JR)三宮駅構内浜側
 冒頭、行き過ぎる雑踏と闇市を感じながら、三宮駅浜側の円い柱に寄りかかったまま清太は死ぬ。ポートピア‘81に備え、駅ビルができ、ポートライナーが建設され様変わりしたが、駅を支える円柱は当時のまま健在、1995年(H7)1月17日の震災にも耐えた。西、東のガード下トラス鉄柱桁が少しずれたが、すぐ復旧された。南側の広場は当時の面影もないだろうが、震災で崩壊した新聞会館がないので、皮肉にも広がりは当時に近いと思う。ポートライナーの東は1980年まで戦後の闇市の面影を残すバラックが建ち並んでいた。今も一部にその面影を感じる。

 2)三宮ガード下の闇市
 今は若者向けに改装された雑貨屋、衣料店、チケット屋、安物のジュエリー屋などが多くなったが、最近まで食堂、骨董屋、古道具屋、古着屋、生地屋などいろいろな店があって面白かった。ふと、どこからか闇市の雑踏の音が聞こえてきそうな雰囲気は今も受け継いでいる。
 3)阪急三宮駅
 昭和11年に完成した阪急三宮駅ビルは震災で崩壊した。そのビルの二階に発着する電車の色は今も同じだ。大きなアーチが特色だった。
 4)石屋川
 6月5日の神戸大空襲で清太は阪神電車の高架に沿って石屋川の堤防に逃げる定めを避難民で混雑していたため、一度御影の浜のある海に出て海辺を西へ石屋川まで行き、ところどころにあるくぼみに身を隠した。1945年(S20)ごろ石屋川は神戸市の東の境であった。したがって、上中付近に住む清太は御影町に住んでいたことになる。
 
 5)阪神電車の高架
 阪神電車は三宮駅から地下で岩屋駅まで行き、地上に出て高架となり、青木あたりで地上を走る。『火垂るの墓』では6月5日の大空襲で上中から阪神の高架沿いに石屋川まで逃げるのがかねてからの手はずであったらしいことが窺える。

 6)御影公会堂
 清水栄二が設計し、1933年(S8)に竣工した御影公会堂は強運のRC造建築物だ。
『火垂るの墓』でも1945年(S20)6月5日の大空襲に耐え、1995年(H7)1月17日の阪神・淡路大震災も残った。二度の試練をくぐり抜けたこの建物は関西モダニズム建築20選にも選ばれている。様式は円柱などJR三宮駅と似ている。小説の描写はもちろんだが、アニメや絵本の一面の焼け野原に立つ御影公会堂は印象的で戦争を知らない野元は大震災の大火災が過ぎていった凄惨な情景を思い出した。
 7)御影国民学校(現御影小学校)・成徳小学校
 明治6年御影小学校として発足。明治32年御影師範付属小学校。明治41年御影尋常小学校となる。『火垂るの墓』では1945年(S20)6月5日の大空襲のあと、清太と節子はここの救護所で大火傷を負い瀕死の母と対面するが、母は二日後になくなる。1941年(S16)12月8日戦争の始まった朝、清太はこの学校の鉄棒で46回の前周り記録を作ったこともあった。今は使われていない南門は御影町立御影国民学校のものといわれている。ちなみに野坂昭如が通学した小学校は灘区備後町1丁目の成徳小学校であった。成徳とは教育勅語の「徳器を成就し」からとられている。
 8)上中交差点・一里塚橋
 <「御影国民学校へ集合して下さい、上西、上中、一里塚の皆さん」清太の住む町名を呼ばれ>とあるが、この町名はいずれもなく“上中”は“上中交差点”、“一里塚”は現御影小学校の東を流れる橋の名としてかろうじて残っている。現地は何の変哲もない交差点だった。一里塚橋は御影小学校の北東角にあり、幅3m長さ4mぐらいの見落としてしまいそうな本当に小さな橋だった。

 9)一王山十善寺
 『火垂るの墓』では母の遺体は一王山下の広場で荼毘に付されたとあるが、この近辺であろうか? この寺は臨済宗永源寺派で、後冷泉天皇の天喜5年(1057年)に創建され、73の七堂伽藍僧坊があったという。1333年赤松一族の戦乱で戦火にまみれ荒廃した。その後、1665年(宝暦5年)に再建され今日に至る。四国88ヶ所めぐりなどがあり、裏山巡りが盛んだ。
 10)住吉川・芦屋川・夙川
 『火垂るの墓』では清太が西宮の小母さんのところへ移ってから、戦災にあった我が家の庭に埋めてあった食糧を掘り出し、大八車で石屋川・住吉川・芦屋川と渡り、夙川に辿り着いたときはもう夕暮れだった、というふうに出てくる。夙川以外はすべて天井川であった。
 11)西宮の家(現大井手町・南郷町・満池谷町辺りか?)
 『火垂るの墓』の5.の「満池谷見下ろす丘について」の考察や『私の小説から』などの記述から西宮の家(=未亡人の家)はニセコ池に近いらしいことから、野元は西宮の家を南郷町のニテコ池よりか、満池谷町と想定したい。
 12)西宮満池谷横穴防空壕=ニテコ池の畔
 かって櫻の名所であったが、震災で堤防が大きな被害を受けて大改修したせいか少なくなったようだ。戦国時代の水越城の内堀か? 『火垂るの墓』では清太と節子のふたりの生活が描かれており、節子終焉の地でもある。周囲の緑は少なくなったと思うが、今でもその水は清らかだ。なお、ニテコ池のいわれは西宮神社(西宮戎)の土塀の土をこの池で「練って来い、練って来い」から来ているとか。
 13)満地谷見下ろす丘(現大社中学校か? 城山か?)
 5.の「満池谷見下ろす丘」で詳述する。


 14)満地谷
 5.の「満池谷見下ろす丘」で詳述する。


 15)満池谷墓地
 5.の「満池谷見下ろす丘」で詳述する。


 16)御前の浜(香櫨園浜)
 夙川の河口にあり、干潟として多数の鳥を見かける。かっては関西で有数の海水浴場だった。御前の浜とは西宮神社の御前か? 『火垂るの墓』では2.のあらすじ11)を参照。
 17)西宮回生病院
 『火垂るの墓』では2.のあらすじ12)を参照。
 18)春日野墓地(神戸市中央区中島通5丁目に一部現存)
 1899年(M32)神戸市は現在も残る江戸初期から存続している墓地に隣接して、東側に市営春日野共葬墓地を、南側に狭隘となった小野浜外国人墓地を補完するため、春日野外国人墓地を造成した。戦後(S38〜S41)、市営墓地は鵯越墓園に、外国人墓地は小野浜外国人墓地と共に再度山の修法ヶ原に神戸市立外国人墓地として移転した。跡地は住宅と病院になっている。『火垂るの墓』では節子が小母さんから聞いたと、母の死を知っていることを清太に伝えた。<はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓へいこな、節子覚えてえへんか。布引の近くの春日野墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母さん」>と出てくる。清太と節子の母の墓はおそらく市営墓地だと思う。
 19)阪急夙川駅
 震災で駅ビルは倒壊した。清太と節子が乗り降りした駅の面影はない。ただ空気と雰囲気を感じたい。また清太は節子を阪急夙川駅近くの医者に連れて行ったが、とおりいっぺんの診察で済まされた。
 20)徳光院(布引)
 清太は<布引の上の寺で荼毘に付され>、とあるが、この寺は徳光院ではないかと思う。川崎造船所創始者、川崎正蔵が明治38年に建立した臨済宗天竜寺派の寺院である。
多宝塔は国の重要文化財に指定されている。


5.満池谷見下ろす丘について
<満池谷を見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形蟇口下着一切をまわりにつめ、いわれた通り大豆の殻を敷き枯木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるうちに一筋いきおいよく空に向かいー以下略ム>と節子の亡骸を荼毘に付すプロットがある。現実では野坂は福井県春江市で妹恵子を亡くしているので、もちろん葬送の場所も違うと思う。したがって、『火垂るの墓』における節子を荼毘に付した場所<満池谷見下ろす丘>は作者の想定によるものと推測できる。野元はまず小説の文面から推測できる文章を探してみた。
 1)<一点雲なき陽ざしを浴び、清太は節子を抱いて山に登る、>
 2)<市役所へ頼むと、火葬場は満員で、ム略ム「子供さんやったら、お寺のすみなど借りて焼かせてもらい、裸にしてな、大豆の殻で火イつけるとうまいこと燃えるわ」
 3)<満池谷を見下ろす丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて>
 4)<暮れるにしたがって、ム略ム夕空には星、そして見下せば、二日前から灯火管制のとけた谷あいの家並み、ちらほらなつかしい明りがみえて、ム略ム遠くあの未亡人の家をながめた記憶と、いささかもかわるところはない。>
 5)<暁に眼ざめ、白い骨、ム略ム集めて山を降り、未亡人の家の裏の露天の防空壕の中にー略ムそのまま壕にはもどらなかった。>
 さて、1)から想像できることは節子の遺体と行李と遺品を持って登る山は壕からそんなに遠くない。2)は<お寺のすみなど借りて>からニテコ池上の満池谷墓地、如意寺、積翠寺などを作者は思い浮かべたのではないだろうか? しかし1)、3)、4)は該当しない。満池谷墓地、如意寺、積翠寺などは<山に登る>、<満池谷を見下ろす丘><家並み、ちらほらなつかしい明りがみえて、>螢が飛ぶ地形でないので、ここは考えにくい。3)は核心の<満地谷見下ろす丘>なのである。ある説がいう大社中学校は確かに満池谷の北の丘の上にある。しかし、1)からいうとあまりに遠い。4)の満池谷が高低差や緑の繁り具合から、うまく見下ろせるだろうか。今より濃い緑に視界が遮られたと思う。また5)は山を降りて未亡人の家近くまで行っていること、書き方から山を降りてすぐという感じがする。
 さて、1)から5)まですべてを満たす場所がニテコ池の壕周辺にあるのだろうか?
それは、池の東側の小高い丘だ。ここを字名で城山という。1)の壕から近い。2)のお寺にも近いし、拝せる位置なので野辺送りには絶好な場所だ。3)は見下ろせる。4)は町並みも明かりも眺められる。当時は山だったろうから、螢も飛び交っていたと思う。5)は『火垂るの墓』や『私の小説から』などの記述から小説でも現実でも西宮の家(未亡人の家)はニテコ池畔に近かったことを証明しているし、山と未亡人の家は案外近かったように思われる。
*(注) サンケイ新聞2003年8月7日朝刊『神戸阪神時空散歩』の園田学園女子大教授田辺眞人の「山城の盛衰語る遺構」には<京の都から西摂平野を南西に横切ってきた山陽道は、西宮で大阪湾岸の交通路と合流する。合流点のすぐ北には甲山から南に、六甲山地東端の丘陵が伸びてくる。この丘陵には、戦国時代に越水城があった。夙川と御手洗川に東西を守られ、さらに西の内堀のような満池谷を持つこの城は、東を人工の堀で守られていた。西宮市の城ヶ堀という町名が城の縄張りを示している。>と記され、ニテコ池や満池谷は越水城の内堀だったらしい。また作者が知っていたか分からないが、ニテコ池に接する東側にある小高い丘“城山”の地名も『火垂るの墓』の舞台としてふさわしいように思えてならない。

6.節子の由来
 『火垂るの墓』における義妹“節子”の名前は偶然とは言えないと思う。『野坂昭如アドリブ自叙伝』によると、養母節子の名前でもあり、野坂昭如が一目惚れした初恋の人藤原節子の名前でもあることから意図があったと解釈したい。
 その他、
<ぼくの処女作『エロ事師達』の主人公スブやんの娘の名を、恵子とつけたのは、やはり義妹への思いがあるからだろう。そして、ぼくは小説の中で、たいへん心やさしく、美しい女性に、しばしば京子という名をあたえる。あまりその頻度が多いから、近頃控えるようになったけれど、理想の女性、といっても、ぼくの場合、深窓の令嬢という形ではあらわれず、娼婦だったり、父親に犯される娘だったり、境遇としては気の毒なのだが、作者として、いとおしむ女主人公には、つい恵子とか、京子とか名づけ、呼びかけつつ、ストーリーをすすめていくと、書くのに楽なのだ。>


7.野坂昭如の原風景
 阪神・淡路大震災のとき、瓦礫の山や一面焼け野原の彼方に六甲山系の山影がいつもと変わりなく厳然と存在し、私たちの心を癒してくれた。また、一方では、瓦礫の下で生きたまま身体も心も焼かれていった人びとのことと、消すことも出来ずにただ燃えるにまかせて広がる炎の凄まじさが今も映像のように心に焼き付けられている。
 それと同じように野坂昭如の心のなかに広がる原風景は、子供のころ遊び回った中郷町とその界隈や戦争中、逃げ回った町や逃げまどい、食べ物を探すひもじい心を片時であるが癒してくれる、夥しい数の螢が乱舞するなど焼け野原に秘やかに息づく自然やジュラルミンの煌めきを放ちながら単機、飛行機雲を引き、高空を飛んでいくB29の機影の美しさだろうか。
 また焼け跡の清掃などを通して、さっきまで生きていた遺体やもののように埋葬される夥しい遺体の様子などから、人の命のはかなさを彼の心のなかに鮮明に焼き付けていったような気がしてならない。それは悲しみをともないながらも彼を次第にたのもしくさせていったと思う。
 しかし、彼の意識はそんな状態であっても、<焼け跡の上では、ぼくははっきりスカートを見ているんですね。>と生きていることに一生懸命であったと思う。
 なお、『火垂るの墓』の中に出てくる西宮での原風景は、1969年(S44)に書かれたエッセイ『私の小説から』に克明に書かれているので、引用したい。

<ぼくが、神戸で空襲にあい、貯水池のそばの遠縁に、とりあえず身を寄せたのは、昭
和二十年六月八日で、昼間、その女主人に宿をたのみ、すぐ引っかえして、灘の焼け跡から、庭に埋めた食料や洒、衣類など、掘りおこし、大八車に積み、石屋川、住吉川、芦屋川と、川に近づくにつれ、坂となる阪神国道を汗にまみれつつ引いて、夙川の堤防にたどりついた時は、すでに暮れていた。今度は北に向い、後で歩いてみると、さしたる距離ではないのに、この時は果てしなく思え、ようやく谷あいの、畠の道へ入って、こやしの臭いと、かたわらを流れる小川のせせらぎに、しみじみ生きのびた実感がわき、前をみると、おびただしい蛍だった。
 この時の印象を、ぼくは忘れないだろうと思う。貯水池からの、溝のような流れだが、その両岸に水の面かくすほど、夏草がおいしげり、その葉先の一つ一つに青い光が点滅し、手をのばせば、いくらもとれる。
 掌にくるむと、蛍の光に指の間が、ほの赤く浮上がり、ひらくと、しばらくそのままでいて、ついと、ゆらめきつつ飛去り、よく近ごろの写真などで、とびかう蛍の光の跡をみるけれど、ぼくが満池谷にいた間、それは七月末までだったが、最後のころは数すくなくなっても、常にひっそり草の葉末にすがりついているだけで、あの蛍がいっせ一いに飛立ち乱舞すれば、さぞや豪奢なながめだったろうが、その記憶はまったくない。
 女主人には、娘が四人あり、上二人と下の妹は工場へ動員され、電休日にしか帰らなかったが、体をこわしたと称し、ズル休みしている三女が、ぼくと妹の世話をしてくれ、ある時ぼくはこの美しい女性を、月丘夢路に似ているように思い、そのことをいったら、彼女は、返礼の如く「昭ちゃんは、水島道太郎みたいな眉毛をしてる」とつぶやき、「私、水島道太郎みたいな人好きや」
 低くつけ加えた。
 ぼくが、流れの上に身を乗出して蛍に手をのべ、彼女は、落ちるといけないから、左手をにぎっていてくれ、とらえた蛍を、ハンケチにくるんで、彼女が提灯のように下げる、「B29に見えへんやろか」半ば本気でいった。
 耳をすませば、いつも敵機の爆音がひびいているように思えるころで、だが、それを打消し、食用蛙が太鼓打つような喉をひびかせ、満池谷には、この他に田螺が沢山いた。
 食用蛙はとても獲れなかったが、立入厳禁とある、低い柵を越え、水ぎわに降りれば、小石のようにならぶ田螺はいくらも手づかみにでき、海からくんだ塩水で茹でて、姉娘と舌鼓をうつ、あるいは、貯水池はそばにあっても、断水していたから、一つバケツを二人で下げて、金持の庭の井戸にもらい水ポンプ押すたび、はねちる冷たいしぶきが、彼女の素脚にかかり、それは黄金色にかがやいていたように思う。家庭菜園の、小指ほどの胡瓜、青いトマトを二人でかじり合い、実は一年四ケ月の妹など、ぼくはいつも背負っていたし、時に彼女もかわってくれたのだが、まるで念頭になく、もとより、それを恋と意識はしないまでも、いつ死ぬかわからぬ時代に、またそれだからこそ、きわめて贅沢な青春を、ぼくはひたすら楽しんでいたのだ。
 山ぎわにまで、B29の爆弾が落ちはじめ、ぼくはふつうの壕などてんから信用できず、丘陵の斜面利用した横穴にとびこみ、火の洗礼受けていない人たちは、臆病とそしり、面とむかってなじったが、生命にはかえられぬ、横穴のしめった暗い中で、おちこちにわき立つ爆弾の落下音、炸裂する地ひびきをききつつ、ぼくは妹を横たえ、そしてこの時もかたわらに彼女がいた。白いブラウスに、あくまでスカート、もんぺをはかず、手首に赤い皮の腕時計をして、そのブラウスの、にじみでる汗に、はりついていくさまを覚えている。そして彼女は陽に灼けたぼくの背中や腕の、ささくれた皮膚をおもしろがってむきたがり、わずかにふれる爪の肌ざわり、むけるにつれて走るむずがゆい感触を思い出す。
 一年四ケ月の妹の、母となり父のかわりつとめることほ、ぼくにできず、それほたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何もまぎらわせるむののない殊に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗症と、風で妹の肌はまだらに色どられ、海で、水浴させたこともある。
 しかし、ぼくの満池谷での生活は、姉娘との、片想いにせよ、交情を中心に動いていて、満池谷の堤防から海をながめると沈没した船のマストが三本ならび、山をみると、雲のきれまから、銀粉をまいたようなP51が、仁川とおぼしきあたりに急降下をくりかえし、さらに足もとの畠の中央に、素掘りの壕があり、雨水がたまって、ぼくが入れておいた焼け残りの行李の、中の衣類の色がとけ出し、赤黒い色となっていたが、みな絵空ごとのように実感がなく、ただ、姉娘のことばかり考えていたように思う。
 八月に、ぼくほ福井へ移り、二十二日、栄養失調で妹は死んだ。九月にもどって、預けてあった荷物をとりに、満池谷へ釆たが、娘は学校へいって留守、女主人が妹の死をきき、さもおどろいたような表情をしたのが、かえって、ぼくをおどろかせた。死ぬのが当り前のように、自分で考えていたからだ。
 一年後の夏、姉娘に会いたくて、近くにキャンプに来た嘘をつき、満池谷をおとずれたら、彼女はすでに嫁いだ後で、器量をのぞまれ、羽振りのいい御亭主だと、近所の人がうらやましそうにいった。
 ぼくの小説『火垂るの墓』は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンティックな色どり濃いものとなるだろう。しかし、ぼくにほ書けない。ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
 今、冬枯れた貯水池をながめると、自分のこうしているのが、嘘に思えてくる。あのわずかな時間ほど、ぼくにとって、めくるめく時は、なかったし、これからもないにちがいない。>
 以上が野坂昭如の原風景の概要であり、この情景は『火垂るの墓』に色濃く反映されているといえよう。

8.焼跡闇市派・野坂昭如
 野坂昭如は開高健などとともに焼跡闇市派と称せられているが、『アメリカひじき・火垂るの墓』新潮文庫刊の解説で文芸評論家尾崎秀樹によれば、野坂昭如は直木賞受賞後のエッセイで<「ぼくを規定すると、焼跡闇市逃亡派といった方がいいかも知れぬ。空襲をうけて肉親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが生き残った。燃えさかる我家にむけて、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは一目散に六甲山へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。やがて少年院に入り、飢えと寒さのため、つぎつぎに死ぬ少年達の中でぼくだけ、まるでお伽噺の主人公のごとき幸運により、家庭生活に復帰し、ここでも、ぼくだけ逃げた、うしろも見ずに逃げ込んだ。自分に対する甘えかも知れぬが、やはりうしろめたい。ぼくはいつも逃げている」これはいわゆる焼跡闇市派の宣言ともなったものだが、彼は小説を書くことによって、焼跡闇市派への回帰をくり返した。>

『生き方の流儀・野坂昭如対談集成』筑摩書房刊「われら焼け跡 闇市派」という野坂昭如と開高健の対談によると、<講演のとき野坂昭如は、焼け跡の水道栓から、一条の清らかな水が無心にほとばしっていたといい出すクセがあってね>と開高健がいうと、<あれは一種の枕言葉ですよ。水が流れているということに気をとめたのは、自分の家が焼けないときの焼け跡だね。焼けたときは、水が出てるなアというゆとりはなかった>と答え、<あれはほんとうによく見た風景で、昼も夜も出っぱなしで、水がタッタッタッタとほとばしっているんだけれども、おれの記憶ではすぐ下に苔がついていたね。青い苔が、まるで谷川のせせらぎのように。美しかったね>と開高健が焼け跡の水の様子をまとめた。
 また開高健はいう。<実に死は安々と輝いていたなア。死が濁ってきたのは戦後になってからだよ。><焼け跡というのは、ぼくにいわせると、アジア唯一の工業国に突如として現出した、ほかに比類を見ない大自然なのよ。> 
 一方で野坂昭如は<何にもない焼け野原にこの高速道路があって、向こうに赤い夕日が沈んでいくと、「ほゥら見やがれ。おれのの思ったとおりでじゃないか」、そういう感じがとてもするね。>といい、私は今回の大震災で倒壊した高速道路を思い浮かべて野坂昭如がいうことが分かったような気になる。
 この立場は、野坂文学の独自性であり、彼の文学の原点であるといえよう。

9.飢餓と飽食の時代
 今世界には飢えで苦しんでいる人たちはたくさんいる。現代日本は食物の約40%しか自給出来ない。世界的な不作などが起これば、一瞬にして日本は飢える。
そして、日本では約5千万人が餓死するといわれている。今、スーパーや食料品屋にたくさんの食糧があふれ、次から次へと平気で食糧をすてる。そんな光景を心ある人はこのままではいかない、と嘆いている。私も恐ろしくてならない。
こんな危険状況のなか、何回も警告は発せられているが、人びとはその恐ろしさを理解できずにわがままに振る舞っている。そういう意味で『火垂るの墓』は亡き妹にたいするレクイエムであると同時に飢餓と飽食に対する大きな警告でもある。

●参考文献
『アメリカひじき・火垂るの墓』野坂昭如著 新潮文庫
『野坂昭如アドリブ自叙伝』 日本図書センター刊 
『生きかたの流儀・野坂昭如対談集成』筑摩書房刊 ・『火垂るの墓』徳間アニメ絵本 
『絶望的楽観主義ニッポン』野坂昭如著 PHP刊 ・『文壇』野坂昭如著 文芸春秋刊
『兵庫県都市地図(神戸区分)』昭文社刊 ・『名作を歩く』神戸新聞文化部 神戸新聞総合出版センター刊など。


『火垂るの墓』野坂昭如-花四季彩-花四季彩