おばあちゃんの戦中記

出征した夫の留守を守って

出会いと結婚

  私は、昭和14年の暮れに結婚しました。生まれたのは農家で、機屋(丹後はちり めん産地で、機屋〔はたや〕はちりめん工場のことです。)に就職していましたが一旦退職して生家に帰り、 支那事変(昭和12年〜20年)から復員し草津温泉での養生から帰って来 た人のところへ嫁いで来ました。
  夫は、同じお寺の檀家というだけでそれまで出会ったことはあり ませんでした。生家から7kmほど離れた村です。農業のことはあまり知りませんでしたが、夫に教えられるままについて来ました。


夫と義弟の応召

  そのうち大東亜戦争(=太平洋戦争:16年12月開戦)が始まり、結婚から1年半でまた、応召 しました。夫33歳、昭和16年7月のことです。残されたのは、70歳の義母と25歳の私です。米作りは、私1人の 肩にかかって来ました。手が足りないときは人を頼みました。そのころ年間25俵供出していました。家では支 那事変から帰った年に子牛を買っていましたが、私1人では牛は飼えません。涙を飲んで安い値で同じ部落の人に買 っていただきました。おとなしい牛でしたから、重い物を運ぶときにはその牛を借りました。
  夫の留守に、夫の弟 に召集令状が来ました。そのころ弟は、大阪に勤めていたので電報を打ったのですが返事がありません。親類には出立の知らせ がしてあります。困って警察へ相談したら、警察からの連絡で時間に間に合いました。弟は内地勤務でしたので終戦と共に復員 しました。


5年後、夫の復員

  夫は福知山から朝鮮に行き、そこからは便りがありましたがその後5年の間音信不通、終戦を迎えてもなし、21年 6月田植えをしていたら、電報と共に復員しました。「着のみ着のままでシラミ3匹いるかも知れぬ。湯を沸かして服を 煮てくれ」と言われて、大きな鍋で湯を沸かし大きなタライで服を蒸しました。戦争末期には軍隊でも食料が不足し、飢 えに耐え切れず若い兵隊の中には草を食べ過ぎて体を壊した人も多く4人に3人は帰れなかったそうです。年の大きく経 験のある夫は我慢我慢で帰って来たということです。後で聞くと、夫の部隊は朝鮮から台湾を経てタイへ船で渡り、ビルマ 方面へ行っていたようです。


福知山の民家にお礼に

  福知山で陸軍に入隊した訳ですが、支那事変で泊めてもらった民家へまた、大東亜戦の時も 泊めてもらったそうです。夫が戦地から帰って来て、夫婦で福知山までお礼に伺ったらご主人は亡くなっておられたので、 お墓参りをして来ました。その家には4人一緒に泊めてもらったそうですが、手紙を出したのは夫1人だったそうです。 京都の人も帰っているはずだけどということでした。そんな訳で、戦地から送った夫の写真が飾られていました。


留守中の5年間

  夫の留守の5年間、金毘羅様やら氏神様へよく参りました。サツマイモも畑の反別(面積)に合わせて割り当てられ、俵 で年間25俵くらい供出しました。くず根掘りにも行きました。隣組の人と一緒に、割り当てられた割木の手伝いもやりまし た。肥料も魚も衣類も配給でしたが、畑に綿〔わた〕を作り糸を紡ぎ、手機〔てばた〕で布を織って衣類を賄〔まかな〕いました。機織りを覚えたお陰で 戦後は機屋の残糸で布を織り、今でもその布を大事に使っています。ウールは軽くて暖かいです。
  畑に渋柿が多くな ったのを皮をむいて干し、この皮も供出しました。これは、薬になるということでした。その皮が大きなカゴに2杯くらい ありました。毎晩11時頃まで柿の皮むきでした。小さいとき母に昔話がして欲しいと毎夜頼んだ私ですが、戦時中は、夫の お母さんの髪を結ってあげたり、夜は昔話をしてあげたりして時間をつぶしていました。本を読むのが好きだった私には 話の種は尽きませんでした。


今、振り返ってみて

  戦時中の5年間は大変でしたが、今はそのお陰で恩給をいただいています。 人は困れば知恵が出てくると思います。お金があれば何でも買える時に育った人が、皆最後まで幸せでしょうか。
   なお、夫は平成6年に亡くなりました。記憶の確かなうちにと戦後生まれの娘に頼まれて、この文章を書きました。