「国まさに滅びんとす」-------------中西輝政--------------(集英社)
「選ばなかった冒険」--------------岡田淳----------------(偕成社)
「宇宙からの帰還」------------立花隆------------------(中公文庫)
「海の都の物語(下)」---------塩野七生-----------------(中公文庫)
「サル学の現在(上)」----------立花隆------------------(文春文庫)
「19分25秒」---------------引間徹----------------(集英社文庫)
「ゴルディアスの結び目」-----小松左京---------------(ハルキ文庫)
「本所深川散歩、神田界隈」---司馬遼太郎-----------(朝日文芸文庫)
「草野球の神様」-----------ビートたけし---------------(新潮文庫)
「裸のサル」----------------デズモンド・モリス----------(角川文庫)
「草原の椅子」----------------宮本輝----------------(毎日新聞社)
「朝の少女」----------------マイケル・ドリス------------(新潮文庫)
「開高健 青春の闇」----------向井敏------------------(文春文庫)
「詩を読む人のために」--------------三好達治----------(岩波文庫)
「ローマ人の物語Y」----------------塩野七生------------(新潮社)
「R.P.G.」---------------------宮部みゆき-----------(集英社文庫)
「『量子論』を楽しむ本」------------佐藤勝彦監修-------(PHP文庫)
「沈まぬ太陽」-----------------山崎豊子-------------(新潮文庫)
「大地の子」-------------------山崎豊子-------------(文春文庫)
「坂の上の雲」---------------司馬遼太郎-------------(文春文庫)
「文豪」---------------------松本清張---------------(文春文庫)
「ローマ人の物語(文庫版)」
----------塩野七生-----------(新潮文庫)
「新解さんの謎」--------------赤瀬川原平-------------(文春文庫)
「身体の文学史」-------------養老孟司--------------(新潮文庫)
「ポケットに名言を」-----------寺山修司--------------(角川文庫)
「構造デフレの世紀」-----------榊原英資----------(中央公論新社)
友達が薦めてくれた本---------------------------------------
「ゴットル・・・生活としての経済」--------吉田和夫------(同文館出版)
「新々百人一首」---------------丸谷才一-------------(新潮文庫)
「初期万葉論」-----------------白川 静-------------(中公文庫)
「大宇宙・七つの不思議」---------佐藤勝彦監修-------(PHP文庫)
「定刻発車」-----------------三戸祐子---------------(新潮文庫)
「重耳」------------------宮城谷昌光--------------(講談社文庫)
「佐賀のがばいばあちゃん」----------島田洋七---------(徳間文庫)
「長崎ぶらぶら節」-------------なかにし礼------------(文春文庫)
「悪夢のサイクル」-------------内橋克人--------------(文藝春秋)
「六番目の小夜子」-------------恩田 陸--------------(新潮文庫)
「薬指の標本」---------------小川洋子----------------(新潮文庫)
「憲法九条を世界遺産に」------太田光、中沢新一------(集英社新書)
「ニッポン・サバイバル」--------カン サンジュン-------(集英社新書)
「日本語はなぜ美しいのか」--------黒川伊保子-------(集英社新書)
「フェルメール全点踏破の旅」--------朽木ゆり子------(集英社新書)
「青空の卵」-----------------坂木司---------------(創元推理文庫)
「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」-----小山鉄郎-------(共同通信社)
「密やかな結晶」---------------小川洋子-------------(講談社文庫)
「日本人の遊び場」---------------開高健-------------(光文社文庫)
「手塚治虫昆虫図鑑」-----手塚治虫+小林準治-----(講談社+α文庫)
「言葉はなぜ通じないのか 」----------小浜逸郎---------(PHP新書)
「黒と茶の幻想」---------------恩田陸--------------(講談社文庫)
「暖簾」-------------------山崎豊子------------------(新潮文庫)
「太陽の塔」----------------森見登美彦---------------(新潮文庫)
「大大阪モダン建築」----------高岡伸一・三木学編著--------(青幻舎)
「百億の昼と千億の夜」------光瀬龍原作・萩尾望都絵------(秋田書店)
「思い出のマーニー」のあとがき------松野正子------(岩波少年文庫)
「書評家〈狐〉の読書遺産」-------------山村修----------(文春新書)
「龍馬を読む愉しさ」--------------宮川禎一------------(臨川選書)
「ひらがなで読めばわかる日本語」-------中西進----------(新潮文庫)
「三國志」-----------------宮城谷昌光----------------(新潮文庫)
「真釈 般若心経」------------宮坂宥洪------------(角川ソフィア文庫)
「殺人犯罪学」---------------影山任佐----------------(ナツメ社)
「親鸞」-------------------五木寛之--------------------(講談社)
「空海の風景」---------------司馬遼太郎--------------(中公文庫)
「写真ノ中ノ空」--------谷川俊太郎詩・荒木経惟写真-------(アートン)
「雨色の京都」-----------水野克比古写真-----------(SUIKO BOOKS)
「ん」-----------------------山口謡司----------------(新潮新書)
「せやし だし巻 京そだち」-----小林明子作・ハンジリョオ画-----(140B)
「図書館の神様」--------------瀬尾まいこ-------------(ちくま文庫)
「日本経済新聞は信用できるか」----------東谷暁-------(ちくま文庫)
「利久にたずねよ」------------山本兼一-----------(PHP文芸文庫)
「薔薇の雨」-----------------田辺聖子-----------------(新潮文庫)
「ボックス」----------------百田尚樹---------------(太田出版)
3月のとある日、仕事先で初めてお会いした方が、「国まさに滅びんとす」というベストセラーを私に薦めてくれました。ベストセラーは、私の嗜好ではありません。文庫本になってから読む主義です。しかし、10年以上関与してきたその仕事先の方から本を薦められたのは初めての経験だったせいか、帰ってすぐに中西京大教授著す「英国史にみる日本の未来」と副題のついたこの本を読みました。
この本には、日本の採るべき政策を示しているわけではありません。日本の進むべき道筋を教えてくれるわけでもありません。終章..日本にとっての意味..に至るまでの三部9章には、日本と英国の比較論はほとんど論じられません。それにも関わらず、この本には、日本の政治を、政策を考える頭脳細胞を刺激せずにはいられない魅力的な論点がいくつもあるように思われました。
「政治は市場を打倒する決断をすることがある」
「エリートが、外来の観念論や新しい価値観・理念に抵抗力を失い目立って脆弱になるのは、このときのイギリスに限らない大国衰退の一つのパターンだと言える。」
「大衆化した民主主義の中では「国のために痛みを」と言っても、そんな呼びかけに賛成する市民は本当に一握りに過ぎない、というのがローマ帝国以来、「万古不易」の傾向と言わざるを得ない。」・・・
そんな訳で、今月から折を見て、私が読んで気に入った本を、ホームページで紹介していこうと思います。
会話では、押しつけになる場合もある本の話題も、ホームページでは、関心がある人が関心がある部分だけをつまみ食いできるという利点があって、嫌みにはならないでしょうから。
「国まさに滅びんとす」を読んで、ヴェネチア共和国の衰亡の歴史を書いた「海の都の物語」(下巻)を読みたくなりました。国が栄える部分までは以前に読んだものの、滅び去っていく国の歴史は読みづらくて長い間放ってあったものです。
[up net on 98/7/5]
6月中旬に小社より、『扉のむこうの物語』などでおなじみ岡田淳の新刊『プロフェッサーPの研究室』が発売されます。この作品は、ある人から見れば岡田淳の「異色作」であり、ある人からすれば「本領発揮作」とも言えるでしょう。岡田淳自身、発売を長い間願っていた「自信作」なのです。なお、巻末には、1966年発表の『星泥棒』から2000年発売の『ドラゴン伝説』まで、岡田淳の私家版(自費出版)を含む全作品リストが収録されています。私家版の中には、あと数十冊だけですが在庫があるものもあり、それらの在庫情報も載っています。詳しくは小社HPをご覧ください。
この本は読んでみるつもりです。おもしろかったなら、また、このページで紹介します。
[up net on 00/5/7]
夕ぐれの時はよい時
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
それは季節にかかはらぬ、
冬なれば暖炉のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、
それは人の心が、
ときに、しばしば、
静寂を愛することを、
知つてゐるもののやうに、
小声にささやき、小声にかたる・・・・・・
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
若さににほふ人々の為めには、
それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、
それは希望でいつぱいなひと時、
また青春の夢とほく
失ひはてた人々の為めには、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去つた夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど
しかも全く忘れかねた
その上の日のなつかしい移り香。
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?
だれもそれを知らぬ!
(おお! だれが何を知つてゐるものか?)
それは夜とともに密度を増し、
人をより強き夢幻へみちびく・・・・・・
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれ時、
自然は人に安息をすすめるやうだ。
風は落ち、
ものの響は絶え、
人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
今まで風にゆられてゐた草の葉も
たちまち静まりかへり、
小鳥は翼の間に頭をうづめる・・・・・・
夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。
[up net on 00/2/6]
奥付で刷数を比べると次の通りです。
第1巻 ローマは一日にして成らず 36刷 1992年7月7日発行
第2巻 ハンニバル戦記 23刷 1993年8月7日発行
第4巻 ユリウス・カエサル―ルビコン以前 13刷 1995年9月30日発行
第5巻 ユリウス・カエサル―ルビコン以後 15刷 1996年3月30日発行
第6巻 パクス・ロマーナ 1刷 1997年7月7日発行
第1巻の1刷の冊数と第4巻以降のそれとは随分違うでしょうし発刊後の年数もちがいますので一概に比較できませんが、第4巻と第5巻はもっと読まれてもいいと思います。
また、第6巻はいかにも少なすぎます。アウグストゥスはカエサルに次いで興味をそそられる存在です。共和制に見せかけながら帝政をはじめた人物として、天才的なカエサルの後を天才でもないのにカエサルの期待に違わず継承した人物として、その生涯は凡人をして考えさせられるものがあります。
アウグストゥスは、カエサルの姉の孫に当るオクタヴィアヌスの尊称(神聖で崇敬されてしかるべきものという意)です。カエサルは、遺言状にオクタヴィアヌスを後継者とすることを明記しました。ユリウス・カエサルという名を与え養子とすることによってです。
軍事能力には長けなかった彼のためにアグリッパという右腕を用意しています。(左腕には、フランス語のメセナの語源となったマエケナスがいます。)
第6巻には、他の巻には見られない「読者へ」という前書があります。アウグストゥスは、痛快でもなく、愉快でもないが、その業績を追っていて退屈することはないと、作者がわざわざ断りを入れています。
確かに痛快ではないし、大勝利を収めるような戦争もないわけですが、アウグストゥスの物語には、冷徹で慎重な指導者がその時代に最も適した政体をいかにスムーズに造っていったかを教えてくれます。後の歴史学者は、アウグストゥスを初代皇帝と位置付けるのですが、アウグストゥスの同時代人は、彼を、共和制を復帰させた執政官として歓迎したのです。
作者は、「アウグストゥスは、見たいと欲する現実しか見ない人々に、それをそのままで見せるやり方を選んだのである。」と述べています。
第5巻のカエサル暗殺後の動きを、キケロなどの暗殺賛成派の記録をもとにドキュメンタリタッチで物語っている部分は、我々が思い込んでいる劇的な物語をひとつづつ事実を確認しながら覆し、息をもつかせず読ませてしまう、5巻の中でも特に圧巻だと思いますが、アウグストゥスの物語は、6巻すべてが、そのような物語として読ませてくれます。
「ローマ人の物語」がおもしろいのは、たとえば、帝政というと、帝国主義という一律に悪い意味合をもったイメージで、一様に評価してしまう、その常識を覆してくれる点にもあると思います。ローマというと、西洋と決めて掛りますが、現在の世界の政治を牛耳っているところのキリスト教世界とは、全く異質な世界であったこと。ローマ帝国は、一神教のキリスト教社会では容認することのできない多神教の世界であったために、中世以降の西欧世界では、悪いイメージが繰返し植付けられてきたこと。リフレッシュや親密な付合いのために温泉につかる点で、ローマ人と日本人には共通点があるが、今の西欧人とは異なること。ローマ人に劣等感を抱くのは、日本人だけではなく、今の西欧人にもあること。・・・など、我々が持っている常識を考え直さねばならない事柄が次から次へと示されていきます。
「ローマ人への20の質問」(文春新書―690円)は、そのような話題のエッセンスであり、「ローマ人の物語」の最高の宣伝パンフです。これを読んだら、「ローマ人の物語」を読まずにいられなくなります。
[up net on 00/9/3]
最後に、立花隆のことを。
「立花隆の無知蒙昧を衝く」のなかに、佐藤進と出ることになっていたシンポジウムを直前になってキャンセルしたという話が載っていて、残念に思ったので、彼のホームページを探してみました。あまり立花隆に関するホームページはなかったのですが、どこにも佐藤進への反論やコメントは見つけられませんでした。佐藤教授は、京都大学工学部の先生ですし、本の中身を読んでみても、その批判が的はずれではないことは確かなようです。反論できないということなら、誤った解釈の部分をどこかでコメントしてほしいと思っています。
その上で、私は立花ワールドと絶縁する気にはなりません。その読書する姿勢、テーマへの取り組み方、実地に積み重ねるインタビューのやり方、週刊誌的に興味をそそる書き方に魅力があるからです。
「立花隆、『旧石器発掘ねつ造』事件を追う」(朝日新聞社)のなかで、大沼克彦教授の指導のもとに石器を作る場面は、考古学者の一部には石器を自ら作った経験があればわかることを知らないばかりにとんでもない自説を主張する人たちがいることを明らかにしていておもしろく読みました。この現場主義は、ジャーナリストにとって大切な姿勢ではないでしょうか。
また、本の虫であるのも魅力的な点です。本の虫を自称する出久根達郎も立花語録に膝を打って喜んでいます。「・・・立花氏のアドバイスで私が思わず膝を打った部分は、買ってきた本は書棚に入れないで机に重ねよ、という一条である。これこそまさに「体験的」至言である。「書棚に入れてしまうと、なんとなしそれですんでしまったような気になるが、机の上に置いておけば読まねばならぬ気がしてくる」・・・(「いつのまにやら本の虫」講談社文庫)
全面的に彼の言質を信じることは出来なくなりましたが、それでも立花ワールドにはのめり込んでいきたいと思っています。
なぜ?.....それはそうでしょう、「『量子論』を楽しむ本」というめっけものに巡り会わせてくれたのですから。
[up net on 02/2/3]
[up net on 02/9/8]
唇の定義は、「からだを読む」(ちくま新書)でした。[up net on 03/05/04]
それに乗った!
と、心の裡で叫んで、もっとそこにいたかったかも知れない、自己主張の強い小さな本を取り上げた。
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「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときである。
少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだと思った。Hungry Youngmen は Angry Youngmen にはなれないと知ったのである。
そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまの心の傷手を癒すための薬に。エーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。」
「花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ」
「死んだ女より
もっとかわいそうなのは
忘れられた女です」
「人びとは、いわばひとつのことばをスクラップにすることによって、それを処理しおえたと信じこむ。しかし、ある真理をかたづけることはある商品をかたづけることほどに、たやすくない。」
「幸福とは幸福をさがすことである。
----私はこのルナアルの言葉を、高等学校の便所の落書のなかで発見したのだ。私はこの大きな真理を何べんもよみながら、目にしみるような窓の青空に目をやった。
人と人に出会いがあるように、人と言葉のあいだにも、ふしぎな出会いがあるものだなあ、と思いながら。」
「しばしば勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ。」
「青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。」
「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。」
「なみだは人間の作るいちばん小さな海です」
[up net on 03/06/08]
勸君金屈巵
満酌不須辭
花發多風雨
人生足別離
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
[up net on 03/08/04]
君に勧む 金屈巵(キンクッシ)
満酌(マンシャク) 辞するを須(モチ)いず
花発(ヒラ)けば風雨多く
人生 別離足(オオ)し
[up net on 07/06/28]
第1章で、「1990年代から現在に至る「経済失政」の最大の原因が財・サービス市場の構造的デフレを認識できていないこと」だといいます。「もしデフレが構造的であるとすれば、財政・金融政策、あるいは、マクロ政策によるリフレーションの試みは短期的にはともかく、中長期的には失敗する可能性が高い。財・サービス価格と資産価格の間のいわゆるデフレ・スパイラルを防ぐためには、財・サービスのデフレ下でも企業が充分な収益を上げられるような環境を作ることが必要である。」「政策のポイントは総需要管理を目的とするマクロ政策から、企業や個人の活力を強化し、システムの健全性を維持するための、効率を重視したミクロ政策に移らねばならない。」マクロ政策から「構造改革政策」への転換である。
構造的デフレーションが日本だけの現象でないことも著者は指摘しています。世界的にはディスインフレ傾向が認められ、「データを素直に見る限り、デフレーションが構造的かつグローバルである可能性はかなり高」い。「少なくとも、構造的インフレの時代が終わったことはほぼ確実なのだから、各国の経済政策のあり方を大きく変えて行かなくてはならない時が来ているといえるだろう。」
第2章では構造デフレの原因をもとめ、「第三次産業革命とでも呼ぶべき巨大な技術革新の波と、冷戦崩壊後に加速度的に進展したグローバリゼイションの流れである。」と結論しています。「情報通信革命を中心とする第三次産業革命とグローバリゼーションの組み合わせは、製造業のほとんどの分野、サービス業のかなりの分野でコストを大幅に削減し、競争を激化させ、構造的デフレーションの大きな流れをつくりだしている」と見ます。この供給に需要が同時的に追いつけばデフレは起きないわけですが、需要が追いつくには、中国・インド・ASEANの28億人が中産階級化して商品やサービスを大量消費する10から20年後を待たねばならず、それも構造的インフレではなく、エネルギー危機や食糧危機としての需給逼迫でしかないと見ています。
また、「急激な技術革新、資本・金融分野での規制の緩和、そして強力な新しいプレイヤー達の世界経済への参加という点で」、今日の状況が1870〜1913年の「パックス・ブリタニカ」の時代に似ていることを指摘しています。この時代は構造的デフレの時代でした。
第3章では、第二次世界大戦後続いてきた「パックス・アメリカーナ」の時代は終わり、「リオリエント」(1800年頃までがそうであったように世界経済の中心が再びアジアに戻ってくること)な時代に入りつつあることが、構造的デフレーションを引き起こしている理由であると述べています。リオリエントの主役を演じるのが中国とインドであり、両国は「港湾・輸送インフラ等のハードも、華僑・印僑等による海外の商業ネットワーク等のソフト」も持っています。中国は、「熾烈な競争の国」でもって、インドは「ソフトウェア技術者の質の高さと、量の多さ」でもって「巨大な供給過剰、コストの削減」を引き起こしています。
第4章は、「デフレが構造的であるという認識がなく、新しい環境に適応するための構造改革を怠ったこと」が1990年代の経済失策の原因だったが、「どうして日本だけが十余年にわたる不況に見舞われなければならなかったのか。」を問うています。その答えは、「高コスト体質の定着等による企業の衰退、収益を生む投資機会の減少に求めることができる」と言います。「例えば、建設業の生産性は年平均3.0%低下、この不況の10年の間で建設業への就業者は66.5万人増加した。」「景気回復、総需要拡大のために毎年のように積み上げていった公共事業が、生産性を低下、コストを上昇させ、むしろ、日本経済の足を引っ張り続けたのだという事実をここでははっきり確認しておく必要があるだろう。」
第5章では、日本が戦後の経済成長期を実現するために作り上げてきたビジネスモデルが制度化されたインフレ体質をもっており、この構造的デフレの世界では、かえって日本経済の足を引っぱり続けている点を指摘しています。
不動産価格は、大都市圏の中高層住宅価格の年収比で5倍前後(米では3倍)、株価は、株価収益率で約40倍(米では約15倍)とアメリカに比較すると高い。これはバブルの結果ではなく、「戦後継続して起こってきていたもので、現在も続いている資産価格の調整は単にバブル以前への回帰ということだけではなく、戦後の構造的インフレ体質の修正と考えた方がいいのだろう。」
「こうした財・サービス及び資産価格の上昇は、不動産担保、株式持ち合い等を制度化したのみならず、多くの日本企業に過剰債務問題を引き起こすことになった。」
第6章では、構造デフレと大きく構造が変わっている時に、「マクロ経済学が影響力を持ちすぎるということは、むしろ、構造改革を阻害し、結果として、日本の停滞をますます長引かせることになる」とマクロ理論を批判しています。それは、「現在のマクロ経済学の枠組みが、構造的デフレのもとにある世界経済を分析する上で」以下のような限界と問題点をもつからだと指摘しています。
現代マクロ理論は、基本的には
1.所得決定の理論であり、価格決定の理論ではない。
2.フローを分析する枠組みであり、ストックの分析をするメカニズムをもたない。
3.経済の構造が一定だと仮定している。
4.一国の経済は、貿易というチャンネルを除いては自己完結的に決定されると仮定している。
マクロ理論の限界を打ち破る理論として、著者は、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサイエティー」概念に基づく「相互作用性」とスタンフォード・グループによる「比較制度分析」を紹介している。
第7章では、金融システムが変貌しているにもかかわらず、金融理論が変わっていないことを批判しています。例えば、「インフレターゲット論者達の言っていることは、我々の奉じているのは正しい理論なのだから、信じて下さいと言うことに過ぎないように思われる。」と批判しています。
「最近のデータからは、貨幣の流通速度が安定的、あるいは、予測可能だという結論は導き出せない」上に、「貨幣という概念の定義すら曖昧になってきている時、貨幣供給量と経済活動の間に安定的関係が存在すると仮定し続けることに無理があるのだろう。」
理論で問題なのは「現実の新しい展開に対して、どう理論を変えていくかということであって、理論にしたがってどう政策を変え、現実を変えるかということではないのである。」「現実を論理的に整理し、分析する上で理論は有益である。しかし、現実を説明できなくなり、現実から遊離してしまった理論が、信仰でしかないというのも、また、事実なのである。」(最後のフレーズは警句集に載せられますね)
第8章は、グローバル化した金融資産市場が世界経済を動かすようになってきており、金融資産と金融負債というストックに関する分析可能な理論が必要とされているものの、国際金融市場への参加者がそれぞれの立場で論理を主張するだけで、ストック理論がないままに「世界は海図のない航海に乗り出している」と警告しています。
金融資産市場は、1990年代の10年の間に先進各国でほぼ倍以上になり、「資産市場のフローの経済活動への影響力は格段に増加してきている。」また、金融資産・金融負債が急拡大した要素に海外資産・海外負債の著しい増加を挙げなければならない。1980年代までの国際的危機は、「国内景気の過熱、インフレの促進、経常収支の悪化といった、いわばフローの財・サービスの世界の危機であった。」これに対して1997年の「東アジア危機は資本収支危機であった。」「グローバル化した金融資産市場の一角でバブルが崩壊し、そのバブルの崩壊が信用システムのネットワークを通じて他の市場、他の主権国家に波及した」のだ。しかしながら、これを分析するストックの経済学はないのだ。
第9章で著者は、海図のない航海に乗り出していく処方箋を示しています。日本経済にとって重要なのは、企業の構造改革であり、そこで求められるのは、カール・ポパー流にいうところの「開かれた」行動原理であると言います。
「絶対に確実なことなどない」という立場に立てば、「私は絶対にまちがっていない」と思い込むことはなく、「まちがう可能性が決して低くないのだから、慎重にしかも断固として決断しながらも、あらゆる事態に備えた戦略をその裏にもって」行動しようとしなければならないと主張します。これは、ロバート・ルービンの経済哲学でもあるといいます。
「何も絶対的なものとしては信じないが、不断に努力する、それが「開かれた社会」の知識人であり、その知的謙虚さこそが、進歩と民主主義の基本なのだろう。」
第10章は「大恐慌の再来はあるのか」と題して、デフレスパイラルが大恐慌に陥らないためには、今や一国だけの経済政策では解決しないこと、構造デフレは日本だけの経済事象ではなくグローバルであることを述べ、デフレ先進国である日本が「日本の経験等をベースに、国際的フォーラムで議論を開始し、具体的協調行動をとるべき」だと締めくくっています。
(ニューディール政策は、同時期のヒットラー政権下の政策や高橋是清の政策に比べて、結果的には遙かにパフォーマンスが低い失敗作であったことも明らかにしています。)
「欧米のエコノミスト達の口車に乗せられて乱暴な実験をさせられ」たり、現実の経済事象に対して理論を構築せずに、自己の信奉する理論に従って政策を実施し、不況の振れを大きくしたりすることを避けねばなりません。デフレが構造的であることを認識して、インフレが構造的であった時代の経済理論を盲目的に信奉することを止めて新たなパラダイムを打ち立てるべく、日本は「ねばり強く、したたかに構造改革を進める必要がある」と著者は繰り返し主張しています。
とてもわかりやすく説得力のある論旨だと感じました。
[up net on 03/08/10]
「ドリトル先生のアフリカゆき」---ロフティング作絵・井伏鱒二訳---(岩波書店)は、
小学校5年の時に鷲尾君が、「えっー! ドリトル先生を読んだことがないの!」と驚いて薦めてくれた名著だ。よくぞ教えてくれたものだ。井伏鱒二のドリトル先生シリーズを知らずして大人になるなんて、今ではとても考えられないことだ。大亀のドロンコの話にたどりつくまで何年もかけて何度も読み返した。中でもおもしろいのは。「航海記」とこの「アフリカゆき」である。
大学時代の友人富永君には、随分いろいろ紹介してもらった。
「そして誰もいなくなった」---アガサ・クリスティ作---(ハヤカワミステリー)
「御先祖様万歳」---小松左京---(ハヤカワJA文庫)
薦めてくれた本もよかったが、紹介してくれる話の内容も本と同じくらいおもしろかった。「御先祖様万歳」の中に入っている「カマガサキ2013年」なんかは、富永君の話で笑い、小松左京で抱腹絶倒してしまった。
「そして誰もいなくなった」は、言わずとしれた英米ミステリーの最高傑作だが、彼に強く勧められなかったなら、お高くまとった感じの強い(その上値段も高い)ハヤカワミステリーを読むことはなかっただろう。
[up net on 04/11/14]
七つの不思議とは、次の事柄です。
1:火星の水と生命のゆくえ
2:第二の地球・無数の地球
3:沈黙を続けるETたち
4:宇宙のはてから来る光
5:目には見えない宇宙の主役
6:高次元空間に浮かぶ膜宇宙
7:宇宙が人間を生んだ意味
新しい理論を生み出す契機となるのが、天文観測によるデータの積み重ねであり、また、その理論を実証するのが、膨大な観測データの解析であることに感動を覚えました。ケプラーの昔から、天文学のアプローチは普遍であるようです。観測データが示すかすかなブレから旧来の理論の根拠が疑われ、より汎用的な、より大いなる視野に立った新しい理論が構築されます。そして、その新しい理論が、旧来の理論では説明のつかなかった事象を矛盾なく説明でき、新理論で予想された現象が観測されたときに、新理論が旧理論に取って代わられるという天文学のアプローチが、会計の世界にどっぷりと浸かっている私にとってはとても好ましいものに写りました。
「ビッグバン」という天文学の専門用語を借用している最近の会計学の世界は、理論を置き去りにした現状追認に走り回る世界ですので、なおのこと強く感じました。
開いたヒモからなる素粒子は膜から離れられないが、閉じたヒモからなる重力子は膜から離れることができるので、これが「暗黒エネルギー」があるかのように見える鍵となるとのお話は、何とも不思議な感じです。
地球はなぜこんなにも生命の誕生に適しているのかについての著者の説明は説得力のあるものでした。私たちが生まれたからこそ、地球が生命が生まれるための諸条件をことごとく満たしているのであって、奇跡でも偶然でもないのだと。
(いずれの話も、これだけを言ったのでは、何のことか伝わらないでしょうが、私には、正確にお伝えする自信がありませんので、この程度の紹介に止めておきます。読んでみられたなら、きっと、理解してもらえることは保証しますので)
読んでいて感じたのは、文章がこなれていて読みやすく、難解な理論がスーッと頭に入ってしまう不思議さでした。読みやすいだけでなく、一言一言が選び抜かれた言葉で表現されており、誤解や批判の余地がないと思われる点でした。この本を紹介するのに、下手な要約や断片的な引用をすると著者の真意が伝わりません。
また、章のはじめと終わりに挿入されている詩や小説の一節が、著者の教養の広さを窺わせ、無味乾燥な専門知識の解説書に貶めていない点にも感じ入りました。
私たち人間がどうして生まれ、将来どこへゆくのかというテーマは、天文学の範疇にとどまるものではありません。人間にとって根源的な問い掛けです。したがって、広範囲な教養が求められるのは当然のことなのでしょう。
果たしてこの広い宇宙の中に高等な進化した生命体はいるのでしょうか。
もし、他の惑星に生命体がいてあえるのなら、この同じ問い掛けをしてみたいものです。「われら何処より来たるや、われら何者なるや、われら何処へ行くや」
この本を読んだ後で、自分の存在がおおらかに、大きく感じられることは請け合いです。
[up net on 05/04/17]
[up net on 05/11/03]
ぜったい泣けます。
三度は泣けます。
大人であればね。
内の中学生の息子は、大笑いはするほど面白かったが、涙がこぼれるほどの場面はなかったと言いました。藤原正彦さんによれば、齢を重ねるほどに情緒が豊かになって泣くことが出来るそうです。
島田洋七が語るこの物語には、思いやりのある人だけが登場していることに気が付きます。
母親から離れて極貧のお祖母さんに育てられる子供を見守る人達(担任の先生、お医者さん、豆腐屋のおじさん・・・)、友達、憧れのマドンナ。どの人達も思いやりがあってやさしい。なによりも、主人公の昭広じしんが優しい心根をもった少年です。
そんなやさしい心をもった人達ばかりの世界だと、こうして涙が流れるのでしょう。不幸で辛くてあるいは悔しくて惨めになって流す涙ではありません。感動で心の臓がふるえて流す涙です。
2002年10月10日初刊なのに、第1刷のままであるのが理解できないくらい感動的な物語です。
なかにし礼の小説は、長い間気に掛かっていました。作詞家の書いた小説というのが引っかかって、どうしても二流小説のように思えてしまうのです。
テーマが満州での戦争であったり肉親の相克であったり暗く重いことも食傷気味にさせるのです。
(映画化された時に愛八を吉永小百合が演じたようですが、吉永小百合では様にならない主人公です。小説では美人ではないのです。姉たちとは違って美人でなかったところに愛八の屈託があるのですから、他の女優さんを持ってこなければいけません。敢えて言えば、樹木希林が似合いでしょうか。渡哲也が古賀十二郎をやるのもミスキャスティングです。常軌を逸するものの則を超えない小柄で真心を持った偏屈者を演じられるのは香川照之でしょうか)
長崎楽会で愛八を巡る史実と虚構が検証されています。
[up net on 06/02/26]
恩田陸と小川洋子の共通点は何でしょうか?
どちらも本屋大賞を受賞した作品を書いた女性作家です。2004年本屋大賞(第一回)には、小川洋子の『博士の愛した数式』が、2005年本屋大賞(第二回)には、恩田陸の『夜のピクニック』が選ばれています。この受賞作は、本当にいい本です。はったりがなく、どぎつくなく、しみじみと感動に浸れるところがよく似ています。そんな小説を書く人たちなので、他の作品もおもしろいはずだと思いました。それでも、食わず嫌いな僕は、学園ホラー物なんていうキャッチフレーズに惑わされて、「六番目の小夜子」を随分長い間手に取ろうとしませんでした。もっと早くに読んでおけばよかったと悔やんでしまうくらい、ゾクゾクとしておもしろい小説です。途中でページを置くのが惜しくなる類の本です。不可解な妖怪話として納得させられそうな不思議な出来事が続けて起こりますが、高校生活の匂いをを思い起こさせてくれるディーテールももったお話しです。不可解な謎、合理的には説明のつかない出来事、非現実的だと思いながらも納得してしまいそうになる気持ち、といったテーマが、「薬指の標本」と 「六番目の小夜子」には共通しています。標本技術士が一日中閉じこもって作業をする地下室と竜巻で外れた扉から見る快晴の風景とでは雰囲気はまるで違いますが・・・
[up net on 07/05/06]
なぜか今、集英社新書がおもしろい
[up net on 07/05/06]
目次
第1章 言葉はなぜ通じるのか(言葉は不思議なもの;吉本隆明の言語本質論を読み解く ほか)
第2章 言語には七つの特性がある(言語は音声表出が基本;言葉は順序立てて説明しなければならない ほか)
第3章 意味とは何か、「わかる」とは何か(西欧の言語哲学の関心;言語的な意味とは何か ほか)
第4章 言葉の無理解はなぜ生じるのか(言葉はなぜ通じないのか;言語に対する信頼と言語信憑)
[up net on 07/10/08]
この光瀬龍のSF小説は夙に有名で昔から気にはなっていたが、難解なイメージがあり、ずうっと手を出しかねていました。先月監査でお会いした方がこの本はなぜ宗教が存在するのかというテーマで書かれた小説であり、萩尾望都が描いたマンガはその原作を完璧に絵にしていると絶賛されていたので、やっと読む気になったものです。マンガなら読めるだろうと思ったからです。萩尾望都が好きな作家でもあったからです。
長大な小説を覚悟していましたら、萩尾望都は2冊で描き上げていました。彼女のファンでもある妹が「訳が分からないお話だよ」と忠告して貸してくれた昭和53年3月の3版(350円)で読みました。(最新版は、平成20年9月5日発行の37版だそうです。今でも版を重ねているのですね。大型書店のマンガコーナーを初めて覗きました。萩尾望都をどう探してよいか分かりませんでした。そこの書店では、少女コミック、少年コミック、青年コミックといった分類で棚割がされていました。まさか少女コミックに分類されるとは思いもしませんでしたので、萩尾望都を見つけるのに時間がかかりました。しかも、目的の作品はありません。膨大な新作の洪水の中に古い作品を展示する余地は無いようでした。)
確かに難解です。
56億7千万年後に兜率天から下って人々を救いにこの世に現れるという弥勒菩薩信仰やキリスト教の最後の審判と復活信仰は、天国へ人類を導くためにあるのか、それとも人類消滅のための欺瞞であるのか、結論のでない問いが追求されます。人類はこの地球上に約40億年前に誕生したそうです。月探査衛星「かぐや」から送られてくるデータにより、そのころ木星の何らかの軌道移動を受けて大量の小惑星が地球に降り注ぎ、小惑星が持ってきた鉄が地球に存在していた水やメタンなどと化合して生命体が生まれたと考えられるようです。
(書きかけ)
[up net on 08/10/14]
J・ロビンソンという作家が書いた「思い出のマーニー」は、とても感動的なお話です。読み返すたびに涙があふれてきます。
そんなお話を読むことが出来たのは、この本を訳した松野さんが「訳者あとがき」に次のように書いてくれていたからです。本を選ぶとき−買おうか買うまいか決めるとき−必ず「あとがき」を読みます。その内容によって本屋の店先で手に取った本を家に連れて帰るかどうかが変わります。そんな大切な「あとがき」の中で、松野さんのそれは最高のものでした。
「もしも、この物語を読もうかどうしようかと迷いながら、このあとがきを先に読んでくださっている方があったら、はじまりの部分が少し読みにくいかもしれないけれど、どうぞ続けて読んでいただきたい―、これが、翻訳を終えてあとがきを書く今、作者と読者の仲立ち―訳者としての私の心を一番大きく占めていることです。アンナが一人ぼっちでディーゼル機関車の引く列車に乗って、ロンドンからノーフォークへの旅に出る第一章は、日本の読者にはとっつきにくいのではないか、ここで読むのをやめてしまう人があるのではないか―と、原書を読みながら何度も思いました。(もう物語を読んでくださった方には、私のいう意味をおわかりいただけると思います。)でも、作者には作者の考えがあっての大切なはじまりのはずです。ここを通り抜けると、すばらしい物語が展開していきます。これ以上は、もうなにも解説などなしに読むのが一番おもしろい―、これは、そういう種類の物語です。」
松野さんが指摘されるとおりです。本屋の店先で、この本の冒頭を読んでみて、その暗い退屈なはじまり方に、読み続ける値打ちがあるようには思えませんでした。それなのに、「ここを通り抜けると、すばらしい物語が展開していきます。これ以上は、もうなにも解説などなしに読むのが一番おもしろい―、これは、そういう種類の物語です。」と断定されて心が揺らぎました。そこで、訳者を信じて読むことにしたのです。
全くの正解でした。訳者のいう通りだったのです。リトル・オーバートンに着いてアンナが「その」屋敷を見たときから、俄然物語はおもしろくなります。上巻の終わり方はあっけなくて、もっともっと続きを聞かせてほしいと思わずにはいられません。でも下巻で登場人物が全く変わってしまってから、違った展開にまたまた夢中になってしまいます。ファンタジーが過不足無くリアリティになる終章に感動が待っています。読みづらいのははじめだけ!あとは、本を置く気にさせず、一気に読んでしまいます。
こんなに素敵な物語を読ませてくれた松野さんの「あとがき」は、僕が出会った「あとがき」の中で最高のそれでした。
[up net on 08/10/20]
表題のおぞましさに一瞬たじろぎました。それでも読み進むにつれて、真摯な姿勢で書かれている啓蒙書であることが分かり安心しました。
「図解雑学 殺人犯罪学」
と題された本は、通り魔殺人や無差別殺人、テロといったショッキングな社会をネタにした興味本位の内容かと思いましたが、いやなかなか、人間そのものに迫ろうとする内容であることが分かります。
「興味本位で本書を覗いたとしても、そこから『人間』という不思議で興味と魅力の尽きない存在について、一歩でも深い理解にたどり着いて頂ければ」と著者である影山任佐東京工業大学教授が書いていらっしゃるとおりの内容です。
殺人に関して抱いている様々な誤解が解かされていきます。
日本では殺人が減少していること。自死は逆に増えており世界の中でも自殺率の高い国になったこと。殺人は戦争経験と相関関係が認められること。死刑制度との相関関係は曖昧であること。殺人の多くが自宅内で発生していること。都会よりも地方の農村部で発生率が高いこと。テロは学歴の低い貧困にあえぐ者が実行しているわけではないこと・・・
そして、著者の研究成果を紹介されることによって、殺人犯罪学(人間学)として人間の不可解さに思いをはせるようになります。「エゴパシー」や「空虚な自己」といった影山教授の造語で説明される自己確認型少年犯罪。知らない世界を知ることができました。
また、「哲学・文学と殺人」というコラムがあって、ニーチェからドストエフスキー、ジュネにいたるまで、その人を解明しています。まさに殺人学は人間学だという実例を見せられているようです。
人間を理解するため、自分を理解するため、読むに値する本だと感じました。
[up net on 08/12/23]
五木寛之の「親鸞」は、京都新聞に連載されてた時に面白くて毎朝新聞を開くのが待ち遠しくてたまりませんでした。一枚二枚とページを繰って5面の下に掲載された小説を真っ先に読むのが日課となっていました。出張があったり間違って古紙回収に出してしまったりで読み損ねた回がいくつかあったこともあり、単行本が出ることを知って早速に購入しました。
ところで、きょう、ここに書くことは、「親鸞」でぐいぐいと読者を引き込んでしまう五木寛之の魅力ではなく、「本」の在り方への苦言です。
「講談社創業100周年企画」という触れ込みで、新聞広告にも大々的にキャンペーンが張られていますので、期待して買いました。しかし、持って帰った本を開いて、なんともいえない憤りを感じました。小説そのものは感動的でかつ次を読まずにはいられないわくわく感をもった傑作です。中身はすばらしいのに、その装丁のや安すけないこと。表紙・裏表紙がぺらぺらです。はじめから反っています。活字の割り付けが寂しいです。紙面いっぱいに広がっていて余白がほとんどありません。窮屈です。
本というのは、その中身と釣り合いの取れた装丁でもって、このその小説に逢えた喜びを高めてくれるものだと思います。吉川英治の「宮本武蔵」は作者が選んだという紺絣の装丁がされていました。武蔵の心持ち、作者の人柄が感じられて、小説にふさわしい装丁だと昔高校生の頃に感じたことがあります。いい小説に出会ったら、その小説を読める喜びにひたるとともに、その小説が収められている「本」を指先で撫で、胸に抱きしめて慈しみたくなるものだと思います。それが本というものではないでしょうか。
文庫本なら、装丁にそれほど期待は掛けません。中身さえよければその本を読んだことに満足します。それでも、活字が小さすぎたり、逆に大きすぎたり、上辺、下辺、左右の余白が狭すぎたりすれば、同じ内容でも、ずいぶんと印象は変わってしまいます。読んでいる途中で、いらいらと神経を逆なでされているような落ち着かない、読みづらい気分に追い込まれます。
「ウィンパーのアルプス登攀記」なら、著者の描いた口絵がなければ、いくら文庫本といえども買って持って帰る気にはならないでしょう。文庫本の「ローマ人の物語」も塩野七生がカバーに凝らなければ、家に持って帰ることはなかったでしょう。「本」には、そういう文芸とい中身だけではない魅力があります。蔵書をしない人もたくさんいます。読んでしまったら、古本屋に売ってしまうか、紙資源として捨ててしまう人達です。私には、それが出来ません。私が本を捨てるのは、全く裏切られたと感じた時、つまらない本を読んでしまったと怒るほどの気分になった時だけです。読んでよかったと感じた本は、我が子と一緒です。大切にしたい、きれいに着飾ってやりたいと思います。友人と一緒です。近くにいてほしいと思います。
活字の色や大きさ、フォント、行間隔や余白の大きさ。「本」にする時には、そうした形あるものも大切です。
同じ出版社の出した本でも、宮本輝の「骸骨ビルの庭」は、しっかりした装丁で活字の組み方も読みやすい本です。(もちろん、小説そのものも感動的です)創業何周年企画と銘打つのなら、もっとお金を掛ければよかったのにと思わないではいられません。それと、広告宣伝の仕方にも文句があります。今日の朝刊に載っていた5段抜きの広告では、「画・山口晃」とあって、新聞に連載された時の挿絵が大書した親鸞というタイトルの背景に描かれています。これは、若干誇大広告です。本の中には、山口画伯の挿絵はひとつも入っていません。本の方には、「装画 山口晃」とあります。表紙や見返しに絵が描かれていることを指しているのでしょう。新聞連載の時には、挿絵も楽しみだったので、本になって口絵ひとつ入っていないのが残念でした。
[up net on 10/01/31]
百田尚樹は、ひゃくたなおきと読むそうです。作者の名を息子が知っていたのと、「探偵ナイトスクープ」の構成をしていたと見返に書いてあったので読む気になりました。四六判580頁の長編です。(文庫本では上下2冊)
高校のボクシング部の物語です。調子のいいサクセスストーリーだったらがっかりするだろうな・・・と不安を持ちながら読み始めました。スポーツを題材にした小説では、宮本輝の「青が散る」がピカイチだと信じています。30頁にわたって描かれているテニスの試合が秀逸なのです。小説だからこう書いたというのではなく、実際あったことを書いたのでこれほどリアリティーが感じられるのだと思えるほどに、配球の妙や打ち合っている二人(シングルスの試合です)の心理が説得力をもって書き込まれているのです。
[up net on 11/01/01]