本を読んで


最近読んだ中で人に薦めてみたい本

「国まさに滅びんとす」-------------中西輝政--------------(集英社)
「選ばなかった冒険」--------------岡田淳----------------(偕成社)
「宇宙からの帰還」------------立花隆------------------(中公文庫)
「海の都の物語(下)」---------塩野七生-----------------(中公文庫)
「サル学の現在(上)」----------立花隆------------------(文春文庫)
「19分25秒」---------------引間徹----------------(集英社文庫)
「ゴルディアスの結び目」-----小松左京---------------(ハルキ文庫)
「本所深川散歩、神田界隈」---司馬遼太郎-----------(朝日文芸文庫)
「草野球の神様」-----------ビートたけし---------------(新潮文庫)
「裸のサル」----------------デズモンド・モリス----------(角川文庫)
「草原の椅子」----------------宮本輝----------------(毎日新聞社)
「朝の少女」----------------マイケル・ドリス------------(新潮文庫)
「開高健 青春の闇」----------向井敏------------------(文春文庫)
「詩を読む人のために」--------------三好達治----------(岩波文庫)
「ローマ人の物語Y」----------------塩野七生------------(新潮社)
「R.P.G.」---------------------宮部みゆき-----------(集英社文庫)
「『量子論』を楽しむ本」------------佐藤勝彦監修-------(PHP文庫)
「沈まぬ太陽」-----------------山崎豊子-------------(新潮文庫)
「大地の子」-------------------山崎豊子-------------(文春文庫)
「坂の上の雲」---------------司馬遼太郎-------------(文春文庫)
「文豪」---------------------松本清張---------------(文春文庫)
「ローマ人の物語(文庫版)」 ----------塩野七生-----------(新潮文庫)
「新解さんの謎」--------------赤瀬川原平-------------(文春文庫)
「身体の文学史」-------------養老孟司--------------(新潮文庫)
「ポケットに名言を」-----------寺山修司--------------(角川文庫)
「構造デフレの世紀」-----------榊原英資----------(中央公論新社)
友達が薦めてくれた本---------------------------------------
「ゴットル・・・生活としての経済」--------吉田和夫------(同文館出版)
「新々百人一首」---------------丸谷才一-------------(新潮文庫)
「初期万葉論」-----------------白川 静-------------(中公文庫)
「大宇宙・七つの不思議」---------佐藤勝彦監修-------(PHP文庫)
「定刻発車」-----------------三戸祐子---------------(新潮文庫)
「重耳」------------------宮城谷昌光--------------(講談社文庫)
「佐賀のがばいばあちゃん」----------島田洋七---------(徳間文庫)
「長崎ぶらぶら節」-------------なかにし礼------------(文春文庫)
「悪夢のサイクル」-------------内橋克人--------------(文藝春秋)
「六番目の小夜子」-------------恩田 陸--------------(新潮文庫)
「薬指の標本」---------------小川洋子----------------(新潮文庫)
「憲法九条を世界遺産に」------太田光、中沢新一------(集英社新書)
「ニッポン・サバイバル」--------カン サンジュン-------(集英社新書)
「日本語はなぜ美しいのか」--------黒川伊保子-------(集英社新書)
「フェルメール全点踏破の旅」--------朽木ゆり子------(集英社新書)
「青空の卵」-----------------坂木司---------------(創元推理文庫)
「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」-----小山鉄郎-------(共同通信社)
「密やかな結晶」---------------小川洋子-------------(講談社文庫)
「日本人の遊び場」---------------開高健-------------(光文社文庫)
「手塚治虫昆虫図鑑」-----手塚治虫+小林準治-----(講談社+α文庫)
「言葉はなぜ通じないのか 」----------小浜逸郎---------(PHP新書)
「黒と茶の幻想」---------------恩田陸--------------(講談社文庫)
「暖簾」-------------------山崎豊子------------------(新潮文庫)
「太陽の塔」----------------森見登美彦---------------(新潮文庫)
「大大阪モダン建築」----------高岡伸一・三木学編著--------(青幻舎)
「百億の昼と千億の夜」------光瀬龍原作・萩尾望都絵------(秋田書店)
「思い出のマーニー」のあとがき------松野正子------(岩波少年文庫)
「書評家〈狐〉の読書遺産」-------------山村修----------(文春新書)
「龍馬を読む愉しさ」--------------宮川禎一------------(臨川選書)
「ひらがなで読めばわかる日本語」-------中西進----------(新潮文庫)
「三國志」-----------------宮城谷昌光----------------(新潮文庫)
「真釈 般若心経」------------宮坂宥洪------------(角川ソフィア文庫)
「殺人犯罪学」---------------影山任佐----------------(ナツメ社)
「親鸞」-------------------五木寛之--------------------(講談社)
「空海の風景」---------------司馬遼太郎--------------(中公文庫)
「写真ノ中ノ空」--------谷川俊太郎詩・荒木経惟写真-------(アートン)
「雨色の京都」-----------水野克比古写真-----------(SUIKO BOOKS)
「ん」-----------------------山口謡司----------------(新潮新書)
「せやし だし巻 京そだち」-----小林明子作・ハンジリョオ画-----(140B)
「図書館の神様」--------------瀬尾まいこ-------------(ちくま文庫)
「日本経済新聞は信用できるか」----------東谷暁-------(ちくま文庫)
「利久にたずねよ」------------山本兼一-----------(PHP文芸文庫)
「薔薇の雨」-----------------田辺聖子-----------------(新潮文庫)
「ボックス」----------------百田尚樹---------------(太田出版)

[up net on 10/06/01]

「国まさに滅びんとす」

ホームページには、あまりプライベートなことがらは書くものではないと考えていました。自分の家族の写真や日記を載せることは、多くの人に見てもらおうとするホームページには似合わないことです。プライベートなことがらは、限られた仲間や家族の中でしか共有できないものであり、仲間内でのみ公開すべきものです。
自分が読んで気に入った本を人に薦めることも、自分の家族を人に自慢するのと同じでホームページには似合わないことだと思っていました。誰かとの話の中で、こんなおもしろい本がありましたと思い入れ激しく始めたら、無関心な反応が返ってきて一度ならず興ざめしたことがあったからです。
私に関心のあることが、他人にとって関心を惹くこととは限らないのです。本の話題というのは人を選びます。

3月のとある日、仕事先で初めてお会いした方が、「国まさに滅びんとす」というベストセラーを私に薦めてくれました。ベストセラーは、私の嗜好ではありません。文庫本になってから読む主義です。しかし、10年以上関与してきたその仕事先の方から本を薦められたのは初めての経験だったせいか、帰ってすぐに中西京大教授著す「英国史にみる日本の未来」と副題のついたこの本を読みました。
この本には、日本の採るべき政策を示しているわけではありません。日本の進むべき道筋を教えてくれるわけでもありません。終章..日本にとっての意味..に至るまでの三部9章には、日本と英国の比較論はほとんど論じられません。それにも関わらず、この本には、日本の政治を、政策を考える頭脳細胞を刺激せずにはいられない魅力的な論点がいくつもあるように思われました。
「政治は市場を打倒する決断をすることがある」
「エリートが、外来の観念論や新しい価値観・理念に抵抗力を失い目立って脆弱になるのは、このときのイギリスに限らない大国衰退の一つのパターンだと言える。」
「大衆化した民主主義の中では「国のために痛みを」と言っても、そんな呼びかけに賛成する市民は本当に一握りに過ぎない、というのがローマ帝国以来、「万古不易」の傾向と言わざるを得ない。」・・・

そんな訳で、今月から折を見て、私が読んで気に入った本を、ホームページで紹介していこうと思います。
会話では、押しつけになる場合もある本の話題も、ホームページでは、関心がある人が関心がある部分だけをつまみ食いできるという利点があって、嫌みにはならないでしょうから。
「国まさに滅びんとす」を読んで、ヴェネチア共和国の衰亡の歴史を書いた「海の都の物語」(下巻)を読みたくなりました。国が栄える部分までは以前に読んだものの、滅び去っていく国の歴史は読みづらくて長い間放ってあったものです。
[up net on 98/7/5]


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「選ばなかった冒険」

岡田淳の作品はどれもおもしろい。最近口答えが多くなった小学校5年生の娘とも心底意見が一致するのが「淳さん」(うちでは、親しみを込めてこう呼んでいる)の作品のおもしろさだ。
「ビリッカスの神様」を、読んで聞かすと、小学校2年生の子供でも涙をこぼさんばかりに笑い転げ、最後はしんみりと何かに思いをはせる。「雨やどりはすべり台の下で」は、みんな瞳が輝いて自分だけのとっておきのファンタジーを心の中につむぎだそうとするのだ。
「選ばなかった冒険」の冒頭を読み始めると、ニヤッとしてしまう。「2分間の冒険」と物語の進み具合がとても似通っているからだ。ところが(もちろん)、同じ保健室へ行くといっても、"長い"2分間に知力と体力を尽くして悪と戦った冒険とは違い、"選ばなかった"冒険では、ファンタジーの世界と現実の世界が立ち替わり現れる。いつの間にか、前とは違った物語の展開に引き込まれてしまう。
この物語には、いろんな二面性が現れる。現実の世界と夢の世界、殺されるものと殺すもの、いじめる者といじめられる者、敵と味方、終わりと始まり。そして、そのどれもが二律背反であるように見えてそうではない。現実の世界にいると思えば、次の瞬間には夢の世界にいたりする。
いま実際に生活している社会で、現実は夢であり、夢は現実であると、人を説得することはとても難しい。いじめているその同じ子供がいじめを受けている子供と同じなんだという説は、誤った文脈の中で語られると、とんでもない暴論になるが、ある文脈の中では真実であるのだ。だがしかし、その真実を正しく伝えることはとても難しい。
「選ばなかった冒険」は、その難しいことを、しっとりと語りかけ考えさせてくれる。声高に一方的な意見を押しつけたりはしないし、短絡的な結論を披露もしない。我々読者に考えさせて物語は幕を閉じられるのだ。(ひどく興奮したクライマックスの後で・・・)
[up net on 98/11/1]
17出版というところから次のようなメールが届きました。

6月中旬に小社より、『扉のむこうの物語』などでおなじみ岡田淳の新刊『プロフェッサーPの研究室』が発売されます。この作品は、ある人から見れば岡田淳の「異色作」であり、ある人からすれば「本領発揮作」とも言えるでしょう。岡田淳自身、発売を長い間願っていた「自信作」なのです。なお、巻末には、1966年発表の『星泥棒』から2000年発売の『ドラゴン伝説』まで、岡田淳の私家版(自費出版)を含む全作品リストが収録されています。私家版の中には、あと数十冊だけですが在庫があるものもあり、それらの在庫情報も載っています。詳しくは小社HPをご覧ください。

この本は読んでみるつもりです。おもしろかったなら、また、このページで紹介します。
[up net on 00/5/7]


『プロフェッサーPの研究室』を入手しました。 始めに苦言を申します。上記の出版社の宣伝文句はフェアではありませんね。この本がマンガ集であることをまず言うべきでしょうね。
マンガであるから購入しないという人が多いとでも思ったのでしょうか。岡田淳さんの著作がお気に入りの人なら画集もマンガも見てみたいと思うはずです。私も買ったでしょう。
「異色作」というのもどうでしょう。思わせぶり過ぎやしないでしょうか。
小説で扱っているような真面目なテーマがないという意味であれば、ただジャンルが違うと言った方が適切かもしれません。
苦言はここまでにします。
この本で、作者がいかに苦しんで作品を作っているかがわかり面白く見ました。柔軟な発想をすることの難しさがみえました。
[up net on 00/7/2]
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「夕ぐれの時はよい時」

1月から、トップページに堀口大學の「歴史」という詩を掲げている。実は、「夕ぐれの時はよい時」という詩を掲げたかったのだが、ちょっと長めの詩なのでトップページに収まらなくて諦めたのである。
この2年ほどトップページには、その年を占うメッセージ性のある詞書きを載せるのがスタイルとなっている。今年は、自分の拙い言葉よりも感動的な言葉を載せたいと考えていた。そのとき、心に浮んだのが堀口大學の「夕ぐれの時はよい時」である。
自分には、もともと詩の趣味はない。それが、あるとき何かの弾みで三好達治の「詩を読む人のために」を読んで、この詩を知った。この詩に流れるやさしい心持。その醸し出す薄暗く不安であるが暖かな雰囲気。それらが、閉塞した日本経済の今について考える時、何か心の拠所になるような気がしたのだ。てんで的外れかもしれない。詩心をわかっていないのかもしれない。だが、なぜかこの詩を口ずさみたい気分になる心情なのだ。

夕ぐれの時はよい時

夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、
冬なれば暖炉のかたはら、
夏なれば大樹の木かげ、
それはいつも神秘に満ち、
それはいつも人の心を誘ふ、
それは人の心が、
ときに、しばしば、
静寂を愛することを、
知つてゐるもののやうに、
小声にささやき、小声にかたる・・・・・・

夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

若さににほふ人々の為めには、
それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、
それは希望でいつぱいなひと時、
また青春の夢とほく
失ひはてた人々の為めには、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去つた夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど
しかも全く忘れかねた
その上の日のなつかしい移り香。

夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?
だれもそれを知らぬ!
(おお! だれが何を知つてゐるものか?)
それは夜とともに密度を増し、
人をより強き夢幻へみちびく・・・・・・

夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれ時、
自然は人に安息をすすめるやうだ。
風は落ち、
ものの響は絶え、
人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、
今まで風にゆられてゐた草の葉も
たちまち静まりかへり、
小鳥は翼の間に頭をうづめる・・・・・・

夕ぐれの時はよい時。
かぎりなくやさしいひと時。

[up net on 00/2/6]


「ローマ人の物語Y」

「ローマ人の物語」は、1992年に第一巻「ローマは一日にして成らず」が上梓されてから、一年に一冊づつ書下ろされている塩野七生の物語です。ローマの歴史書ではなく、あくまでも「ローマ人」の物語ですが、ローマの建国からローマ帝国の滅亡までを編年体で綴られつつあります。
本は文庫本で読む主義の私としては、文庫本化が待遠しく、読みたくて読みたくてしようがないのをじっと我慢してきていました。新聞に新潮社の広告が載るたびに唾を呑み込み目を閉じて見なかったことに―子供の頃、店先の美味しそうなお菓子をみてそうしたように―していました。
でも、「ローマ人の物語」は15巻になる連作です。文庫本化は、全巻が完成してから数年をおいてから実現することに今年になって気がつきました。うかつでした。20年も待てはしません。
今年に入ってから、第1巻を読みました。面白くて、一気に読んでしまいました。
第2巻もかばんに詰め込んで重い思いをしながら電車の中で読みました。
第3巻を本屋で見つけられなかったことをいいことにして、第4巻と第5巻をまとめて購い、これも一気に読みました。この2巻はカエサルの話です。塩野ファンなら誰でも知っているように、彼女はカエサルの熱烈な心酔者です。ローマ人の物語といいながら、その内の2巻をカエサルのことに費やしているにはそれだけのわけがあります。本の厚さも他の巻の比ではありません。そして、何よりもその物語がおもしろいのです。
ローマという国が長く繁栄する転換期に、その進路を指し示した類まれな指導者がカエサルであったからです。「賽は投げられた」とか「来た、見た、勝った」とか「ブルータスおまえもか」といった断片的なエピソードでしかシーザを知らない私にとって、はじめてカエサルの全貌に接することが出来たのがこの物語です。しかも、歴史年表のなかの人物としてではなく、国のあり方に的確な展望を持ちそれを実行することのできる政治家であり、部下を縦横に使いこなす魅力に溢れた軍人であり、後世の作家をもうならせる明晰な文筆家であるところの血肉ある人間として、塩野七生は私にカエサルの物語を読ませてくれます。

奥付で刷数を比べると次の通りです。
第1巻 ローマは一日にして成らず     36刷 1992年7月7日発行
第2巻 ハンニバル戦記          23刷 1993年8月7日発行
第4巻 ユリウス・カエサル―ルビコン以前 13刷 1995年9月30日発行
第5巻 ユリウス・カエサル―ルビコン以後 15刷 1996年3月30日発行
第6巻 パクス・ロマーナ          1刷 1997年7月7日発行
 第1巻の1刷の冊数と第4巻以降のそれとは随分違うでしょうし発刊後の年数もちがいますので一概に比較できませんが、第4巻と第5巻はもっと読まれてもいいと思います。

また、第6巻はいかにも少なすぎます。アウグストゥスはカエサルに次いで興味をそそられる存在です。共和制に見せかけながら帝政をはじめた人物として、天才的なカエサルの後を天才でもないのにカエサルの期待に違わず継承した人物として、その生涯は凡人をして考えさせられるものがあります。
アウグストゥスは、カエサルの姉の孫に当るオクタヴィアヌスの尊称(神聖で崇敬されてしかるべきものという意)です。カエサルは、遺言状にオクタヴィアヌスを後継者とすることを明記しました。ユリウス・カエサルという名を与え養子とすることによってです。 軍事能力には長けなかった彼のためにアグリッパという右腕を用意しています。(左腕には、フランス語のメセナの語源となったマエケナスがいます。)
第6巻には、他の巻には見られない「読者へ」という前書があります。アウグストゥスは、痛快でもなく、愉快でもないが、その業績を追っていて退屈することはないと、作者がわざわざ断りを入れています。
確かに痛快ではないし、大勝利を収めるような戦争もないわけですが、アウグストゥスの物語には、冷徹で慎重な指導者がその時代に最も適した政体をいかにスムーズに造っていったかを教えてくれます。後の歴史学者は、アウグストゥスを初代皇帝と位置付けるのですが、アウグストゥスの同時代人は、彼を、共和制を復帰させた執政官として歓迎したのです。
作者は、「アウグストゥスは、見たいと欲する現実しか見ない人々に、それをそのままで見せるやり方を選んだのである。」と述べています。
第5巻のカエサル暗殺後の動きを、キケロなどの暗殺賛成派の記録をもとにドキュメンタリタッチで物語っている部分は、我々が思い込んでいる劇的な物語をひとつづつ事実を確認しながら覆し、息をもつかせず読ませてしまう、5巻の中でも特に圧巻だと思いますが、アウグストゥスの物語は、6巻すべてが、そのような物語として読ませてくれます。
「ローマ人の物語」がおもしろいのは、たとえば、帝政というと、帝国主義という一律に悪い意味合をもったイメージで、一様に評価してしまう、その常識を覆してくれる点にもあると思います。ローマというと、西洋と決めて掛りますが、現在の世界の政治を牛耳っているところのキリスト教世界とは、全く異質な世界であったこと。ローマ帝国は、一神教のキリスト教社会では容認することのできない多神教の世界であったために、中世以降の西欧世界では、悪いイメージが繰返し植付けられてきたこと。リフレッシュや親密な付合いのために温泉につかる点で、ローマ人と日本人には共通点があるが、今の西欧人とは異なること。ローマ人に劣等感を抱くのは、日本人だけではなく、今の西欧人にもあること。・・・など、我々が持っている常識を考え直さねばならない事柄が次から次へと示されていきます。
「ローマ人への20の質問」(文春新書―690円)は、そのような話題のエッセンスであり、「ローマ人の物語」の最高の宣伝パンフです。これを読んだら、「ローマ人の物語」を読まずにいられなくなります。

[up net on 00/9/3]


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「R.P.G.」

現在の作家のうちで、新作が出たなら買わずにいられない小説家というと、私にとっては宮本輝と出久根達郎と宮部みゆきの3人です。日本の推理小説には、たくさん好きな本がありますが、一人の作家で何冊もいいなと思えた作家は限られています。陳舜臣は好きです。が、推理小説では「枯草の根」の鮮やかな印象が強すぎてその他の作品が心にとまりません。神戸で生きる華僑の漂白の心情というものが神戸の景色の中で激情を抑えて書かれたこの本を超える”推理小説”に出会わないのです。仁木悦子も、「猫は知っていた」の明るい憂鬱とでも言えような独特の雰囲気の中で語られる鮮やかな推理が大好きです。が、この他の作品はいずれも期待はずれでした。天藤真も「大誘拐」がそうでした。
推理小説作家でそのほとんどが傑作だというのは、松本清張と宮部みゆきをおいて他にはないのではないかと思っています。
その宮部みゆきの最新作(文庫のための書き下ろし)である「R.P.G.」は、他の作品と比べても傑作です。まちがいなく傑作です。清水義範が書くその解説がまたとても的を得たものなので、「R.P.G.」が傑作である所以を引用すると、「・・・この小説自体が、ロール・プレーイング・ゲームのように作られています、ということなのである。プレーヤーはいろんなキャラに出会いながら、その予想外の展開をただただ楽しめばよい、ということであろう。・・・こういう小説は、読者をひっかけるべく、破綻なくきっちりと作り上げることがとても大変であろう。・・・それを宮部さんは見事にやりきっている。・・・」
そして、宮部みゆきは、ここでEメールを使ったネット上の擬似家族をテーマにしています。ネット上で擬似家族が作られ壊れていく様をごくごく自然に書いています。チャットをしたこともなく、ハンドルネームを持ったこともない私には、なじみのない世界ですが、その様はあり得ることだと納得ができるものでした。そして、仮想の世界ではなく、現実の世界で殺人が起るわけです。
犯人はおおよそ想像がつきます。しかし、R.P.G.の意味を最後に知らされた時に、宮部みゆきにしてやられたことを思い知らされました。脱帽です。
・・・・・
同じ頃、宮本輝の「森のなかの海」(光文社)を読みました。この小説も傑作だと思います。宮本輝の小説はほとんどどれも傑作で駄作がありません。「泥の河」に始り「優駿」や「錦繍」、「流転の海」・「地の星」・「血脈の火」とつづく大河小説までどれも作者の語りに引き込まれ一気に読まずにはいられない傑作です。(この他に私が好きなのは、「青が散る」や「私たちが好きだったこと」や「彗星物語」や短編小説や・・・)
「森のなかの海」には、”ターハイ”と名付けられる幾種類もの樹が絡み合ってできた不思議な巨木がでてきます。この樹を見つめあるいは触って心を癒される数多くの人達がでてきます。神戸の大震災やあるいは家庭の不幸によって深く傷ついた人達です。その人達が自身の不幸に打ち克とうとしていく物語といえるかもしれません。
・・・・・
「R.P.G.」も「森のなかの海」も後世に残る傑作だと思いながら、実はどちらの小説からも、いつも得られていたような感動がわいてきませんでした。
「R.P.G.」は推理小説だから感動がわくものではないと言う人がいるかもしれません。しかし、「火車」を読んだことのある人なら、宮部みゆきの推理小説には、重いテーマと感動があるのを知っているはずです。今回の「R.P.G.」も、しあわせ芝居を演じようとする擬似家族という重いテーマが語られています。それなのに、読み終わって感動が私のからだの中からわいてこないのです。
あまりに小説の仕掛けが鮮やかに決ったからでしょうか。
「森のなかの海」も、”ターハイ”という存在には感じさせられるものがあるのに、上下二巻を読み終わった後には、なぜか感動がわき起こってこなかった。ハッピーエンドになっているわけではないが、物語の中で語られる出来事があまりに都合よく展開していくからなのでしょうか。
それとも、読んでいる私に原因があるのでしょうか。
どうしてなのかよく分りません。
[up net on 01/10/7]
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「『量子論』を楽しむ本」

私は立花隆の科学系読本のファンです。このページに載せた「宇宙からの帰還」や「サル学の現在」にはとてもおもしろいエピソードがたくさん載っています。本来のジャーナリストとして(現場主義に徹しない聞屋もどきが多い中で)、宇宙であれば多数の宇宙飛行士に、サルであれば多くのサル学者に会ってインタビューをしています。インタビューの前には膨大な関連論文や著作を読んでいます。そうして得た知識を我々素人におもしろく読みやすく紹介してくれています。「宇宙からの帰還」での霊感らしき存在や、「サル学の現在」での子殺しの話などはそのほんの僅かな例です。読者の数だけ関心を持つエピソードが違うほどふんだんにエピソードが盛り込まれています。
ファン故に「脳を鍛える」も読みました。そして、彼の絶大な推薦をうけてアインシュタインの「相対性理論」も読んでみました。(訳者である内山龍雄の懇切なまえがきと本文よりも長い解説の付いた岩波文庫版は名著だと思います)立花隆の著作を読んでいる内に、現代物理学の基礎は「相対性理論」だという思い込みが植え付けられたためです。
ところが、ここに「立花隆の無知蒙昧を衝く」(佐藤進著−社会評論社刊)という立花隆の科学書を根幹から鋭く批判する本が現れました。(最近別冊宝島からも同様の批判を集めたムック本が出ています)遺伝子問題から宇宙論まで批判の俎上にあげている中で、相対性理論もやり玉に挙がっています。立花隆が量子論を無視して相対性理論だけを取り上げているという問題です。現代物理学は相対性理論も重要であるが、より広く影響があり重要である理論が「量子論」であるというのです。現代物理学が古典物理学と峻別されるのは相対性理論と量子論をもつ点にあるのに、量子論にほとんど触れないのは彼の物理学への理解が足りないからだというのが批判の論点です。
専門家がそう指摘しているので、づっと気になっていたところ、「『量子論』を楽しむ本」に出会いました。この本は初心者向けに書かれており、「理論的な部分は完全に理解されなくても結構です」とか「この章の中ですべてを理解しようとしなくても大丈夫です」とか、難しいことはとりあえず脇に置いて読み進めるように工夫してあります。各章毎に、イントロダクションとまとめで要点をかいつまんで述べてくれますので、とても読みやすい内容となっています。
中心となる章立ては次の通りです。
1章:量子の誕生−−−−−−−−−−−−−量子論前夜
2章:原子の中の世界へ−−−−−−−−−−前期量子論
3章:見ようとすると見えない波−−−−−量子論の完成
4章:自然の本当の姿を求めて−−−量子論の本質に迫る
5章:枝分かれしていく世界−−−−−−解釈問題を追う
ミクロの物質は、「粒でもあり波でもある」という性質をもっていると考えるのが量子論の世界です。ただし、その波であるときの姿は見ることが出来ない。また、1個の電子の入った箱を仕切って二つの空間に分けたとき右の空間にあるか左の空間にあるかは確率的に決まると説明しますが、それは例えば50%の確率で右の空間にあるというのではなく、「こっちにもいるがあっちにもいる」という状況だと言います。なんとも理解しがたい世界です。
その上、この波の動きを説明する式を求めてみると、そこには虚数を含むことが明らかになりました。実数で表現できる波は図に描くことが出来ますが、虚数で出来た波は図に描くことはおろか想像することも出来ません。手塚治虫の漫画に、二次元の世界である漫画の世界の登場人物が三次元の世界を想像しようとするが出来ないのを三次元の世界の人物が笑うという作品がありました。その比喩でいけば虚数の波も三次元の世界の我々には理解できないだけだと納得がいきます。
量子の動きは量子論に基づく量子力学により正確に計算されるのに、量子論の公理には常識的に納得できない仮定があります。その物質が波であるときの姿は見ることが出来ないという不自然な解釈を説明するために、パラレルワールドという解が提示されています。これは、SF的嗜好のある文系人間にとっては、まだ理解できる説明です。そこで、死んでもいるが生きてもいるという「シュレーディンガーの猫」も理解できるというものです。
このように、文系の素人として、この本を「楽しく」読み、「量子論」のおおよそがわかった気になりました。文系の人間にとってはとても読みよいいい本だと思います。

最後に、立花隆のことを。
「立花隆の無知蒙昧を衝く」のなかに、佐藤進と出ることになっていたシンポジウムを直前になってキャンセルしたという話が載っていて、残念に思ったので、彼のホームページを探してみました。あまり立花隆に関するホームページはなかったのですが、どこにも佐藤進への反論やコメントは見つけられませんでした。佐藤教授は、京都大学工学部の先生ですし、本の中身を読んでみても、その批判が的はずれではないことは確かなようです。反論できないということなら、誤った解釈の部分をどこかでコメントしてほしいと思っています。
その上で、私は立花ワールドと絶縁する気にはなりません。その読書する姿勢、テーマへの取り組み方、実地に積み重ねるインタビューのやり方、週刊誌的に興味をそそる書き方に魅力があるからです。
「立花隆、『旧石器発掘ねつ造』事件を追う」(朝日新聞社)のなかで、大沼克彦教授の指導のもとに石器を作る場面は、考古学者の一部には石器を自ら作った経験があればわかることを知らないばかりにとんでもない自説を主張する人たちがいることを明らかにしていておもしろく読みました。この現場主義は、ジャーナリストにとって大切な姿勢ではないでしょうか。
また、本の虫であるのも魅力的な点です。本の虫を自称する出久根達郎も立花語録に膝を打って喜んでいます。「・・・立花氏のアドバイスで私が思わず膝を打った部分は、買ってきた本は書棚に入れないで机に重ねよ、という一条である。これこそまさに「体験的」至言である。「書棚に入れてしまうと、なんとなしそれですんでしまったような気になるが、机の上に置いておけば読まねばならぬ気がしてくる」・・・(「いつのまにやら本の虫」講談社文庫)

全面的に彼の言質を信じることは出来なくなりましたが、それでも立花ワールドにはのめり込んでいきたいと思っています。
なぜ?.....それはそうでしょう、「『量子論』を楽しむ本」というめっけものに巡り会わせてくれたのですから。

[up net on 02/2/3]


「ローマ人の物語」(文庫版)

思いがけず早くに「ローマ人の物語」の文庫版が新潮文庫から発売されました。ハードカバーのオリジナルで第1巻にあたる「ローマは一日にして成らず」が、文庫版では「ローマは一日にして成らず」上下になって1,2巻として、「ハンニバル戦記」が上中下になって、3,4,5巻として、「勝者の混迷」が上下になって、6,7巻として発売されました。それぞれ、6月1日、7月1日、9月1日に出ています。この次の巻は、2年後だそうです。
ハードカバー本があるのにと思って買いそびれていましたが、書店で手に取ってみると、どうしても欲しくなって1巻を買ってしまいました。1巻を買ってみると、全部欲しくなって7巻まで揃えてしまいました。
「ローマ人の物語」は作者が装丁にこる人で、表紙を見るだけでも楽しい本です。ハードカバーの表紙には、物語の主人公となる人物の彫像が飾られています。顔の部分です。今度の文庫版では、金貨、銀貨が表紙には表を、裏表紙には裏が載せられています。何という色でしょうか、灰色がかった薄紫色をバックにして金貨か銀貨が輝いています。金色にも銀色にも合うとてもいい配色です。このカバーの美しさと文庫らしい本の厚さに感激して買ってしまいました。ポケットについつい入れてもっていきたくなるコンパクトさです。きれいな本は持って歩きたくなるものですね。

[up net on 02/9/8]


「新解さんの謎」と「身体の文学史」

このホームページを見てくれている人はお気づきのことと思いますが、最近の私はシステム監査用語集にかなりの時間を割いています。システム監査人協会の活動の中で、何人かの人たちと議論しながら大分内容も充実してきました。はじめはひとりでやっていましたので、独りよがりな点が無きにしもあらずだったのですが、人と議論し始めると、より厳密にまた納得しあえるように定義をしていかなくてはなりません。そこで、言葉の定義に関する本に関心が向かうことになります。
赤瀬川原平さんの「新解さんの謎」は、言葉の定義をいかにするかを考える場合に出色の啓蒙書であり読み本です。「新解さん」とは、三省堂が出版している新明解国語辞典の編者のことです。とても破天荒な辞典であることを赤瀬川さんが教えてくれます。あまりにおかしくて電車の中で読んで吹き出したのは、「ドクトルマンボウ航海記」以来のことです。
「新解さん」は、明解に言葉の意味がわかるように懇切丁寧に説明をします。ふつうの辞書のように短く冷たく定義しようとはしません。なにか思い入れが感じられるほどの熱意を持って言葉の意味が明快にわかるように言葉を尽くして説明しようとします。
例えば、「恋愛」を「新解さん」はこう説明します。「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。」
すごいでしょう。
「読書」はこうなります。「(研究調査のためや興味本位ではなく)教養のために書物を読むこと。(寝ころがって読んだり、雑誌・週刊誌を読むことは、本来の読書には含まれない)」
「凡人」は、こうです。「自ら高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。」
言葉の意味を調べるために辞書を開いたのに、ガツーンと頭をたたかれたような気になりませんか。恋していた頃を思い出して涙してみたり、俺の人生は何だったんだろうかなどと落ち込んでみたりしそうです。
ただ、新明解国語辞典を持っていたからといって、このように感じるとは限りません。ちょっと変な辞書だと思うぐらいで終わるかもしれません。赤瀬川さんが、「世の中には、新解さんのわかる人と、新解さんのわからない人に分かれるんじゃないか」と言っているように、新明解国語辞典は新解さんのわからない人にとっては何もおもしろくない辞書でしょう。私も、「新解さんの謎」を読んではじめてこの辞書のユニークさを知ったわけですし、赤瀬川さんの文章がなければそのユニークさに気がつきもしなかったでしょう。「新解さんの謎」は、世の中に、新解さんのわかる人を生み出す本であると思います。赤瀬川さんの文章がとてもいいのです。このユーモアをたたえて押しつけのない、そしてシニカルでありながら正直な文章でもって、新解さんを紹介されたからこそ「新解さんのわかる人」になれたと思います。(赤瀬川原平という名は知っていても、その著作を読んだり見たことがなかった私にとって、赤瀬川原平を知ったことはうれしい発見でした。)
「新解さんの謎」を読んで、言葉は、定義する人自身の人生をさらけ出してこそ、説得力のある定義ができることがわかりました。赤瀬川さんは、なにもそんなことは言っていませんが、システム監査用語集をどう作ろうか考えている私にとっては、「新解さんの謎」を読んでみて気付かされたことです。
用語の定義を考えている私にとって、是非とも読みたいと思っていたのは、養老孟司と南伸坊の「解剖学個人授業」(新潮文庫)です。一月ほど前に本屋で手にとって「唇」の定義のところを読んでおもしろいと思いました。(もしかして、「唇」の定義は「解剖学個人授業」ではなかったかもしれません)なぜかそのときは買わずに帰りました。「新解さんの謎」がおもしろかったので、次は養老孟司だと本屋へ行ったところ、「身体の文学史」だけが棚に並んでいました。やむなく買ったのが、この本です。
薄い本(私の中学生の頃だったら80円ぐらいで買えたでしょう。今は400円です)ですが、中身が濃くて難しい。専門書以外で、読んでいて意味がわからない、ついていけないという本に出会ったのは久しぶりです。何章か進むと、それまでの要約を著者自らがしてくれるので、ああーそういう意味で言っていたのだなとわかります。どれだけ難しいかというと、解説を書いている東大の先生が解説の頭から誤解を述べていることからもわかるぐらいです。
現代日本人の精神と身体についての偏向した考え方の様式を見事に教えてくれる名著です。言葉を−例えば自己という言葉を−定義するときに、いかに時代的・地域的な暗黙の前提というものにとらわれているかを教えてくれます。
[up net on 02/12/04]

唇の定義は、「からだを読む」(ちくま新書)でした。[up net on 03/05/04]


「ポケットに名言を」

土曜日のおそい夕方、ビールをちょっと一杯飲みながら読める文庫はないかしらと、
天満橋のLIBROを思わず知らず覗いてみたら、
新刊の文庫が平積みされた上、
梶井基次郎の「檸檬」を気取ったように、
寺山修司の「ポケットに名言を」が置いてあった。
おあつらえ向きに薄い文庫で、
レモン色の表紙に黒い襟、黄色いスーツを着た少女のイラストが描いてある。
遠目にもよく目立つ色合い。
あとで買おうと置き忘れたのではない。
きっと画集の上に梶井が檸檬を置いて示したかったように、
これを置いた誰かも、八方ふさがりの窒息しそうなこの世間に、何かをプロテストしてみたかったのだろう。

それに乗った!
と、心の裡で叫んで、もっとそこにいたかったかも知れない、自己主張の強い小さな本を取り上げた。

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「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときである。

少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだと思った。Hungry Youngmen は Angry Youngmen にはなれないと知ったのである。
そのかわり私は、詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。
だが、同時に言葉は薬でなければならない。さまざまの心の傷手を癒すための薬に。エーリッヒ・ケストナーの「人生処方詩集」ぐらいの効果はもとより、どんな深い裏切りにあったあとでも、その一言によってなぐさむような言葉。」

「花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ」

「死んだ女より
もっとかわいそうなのは
忘れられた女です」

「人びとは、いわばひとつのことばをスクラップにすることによって、それを処理しおえたと信じこむ。しかし、ある真理をかたづけることはある商品をかたづけることほどに、たやすくない。」

「幸福とは幸福をさがすことである。
----私はこのルナアルの言葉を、高等学校の便所の落書のなかで発見したのだ。私はこの大きな真理を何べんもよみながら、目にしみるような窓の青空に目をやった。
人と人に出会いがあるように、人と言葉のあいだにも、ふしぎな出会いがあるものだなあ、と思いながら。」

「しばしば勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ。」

「青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。」

「政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。」

「なみだは人間の作るいちばん小さな海です」

[up net on 03/06/08]


「サヨナラ」ダケガ人生ダ

6月に寺山修司「ポケットに名言を」から載せたこの詩は、干武陵の「勤酒」という漢詩を井伏鱒二が訳したものである。無寥を慰めるために数多くの漢詩を自由な形式で訳した中のひとつで、特に名訳として多くの人から愛されているものである。
もとの漢詩と訳の全体は次の通りである。

勸君金屈巵
満酌不須辭
花發多風雨
人生足別離

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

[up net on 03/08/04]


干武陵(ウ ブリョウ)の「勤酒」の読みが、京都新聞の朝刊のコラム「井波律子の一日一言」に載っていた(2007/05/29)ので、書き写します。

君に勧む 金屈巵(キンクッシ)
満酌(マンシャク) 辞するを須(モチ)いず
花発(ヒラ)けば風雨多く
人生 別離足(オオ)し 

[up net on 07/06/28]


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「構造デフレの世紀」

この不況をどうすればいいのか?政府のすることと正反対の政策を実施すればよい!---というのは世間ではやっている小話ですが、実際にどうすれば良いかの真剣な政策議論は百家争鳴、船頭多くして山に登るの様相を来しています。しかも、不況に苦しんでいる人達をもっと窮地に追い込むような政策が声高に叫ばれ、自らの腕や足で稼いでいる企業人を救いのない気持ちに追いつめ、希望の持てる政策も展望もないのが現状です。
榊原英資前財務官の「構造デフレの世紀」は、経済学者やエコノミスト達が唱えている経済政策が彼らの信奉する理論が正しいという根拠のない前提に拠っていること、現状を謙虚に見ようとしていないこと、理論を見直そうとしないことを批判し、今日のデフレが一過性のものではなく構造的なものであることを立証して、経済政策の変更を求めています。

第1章で、「1990年代から現在に至る「経済失政」の最大の原因が財・サービス市場の構造的デフレを認識できていないこと」だといいます。「もしデフレが構造的であるとすれば、財政・金融政策、あるいは、マクロ政策によるリフレーションの試みは短期的にはともかく、中長期的には失敗する可能性が高い。財・サービス価格と資産価格の間のいわゆるデフレ・スパイラルを防ぐためには、財・サービスのデフレ下でも企業が充分な収益を上げられるような環境を作ることが必要である。」「政策のポイントは総需要管理を目的とするマクロ政策から、企業や個人の活力を強化し、システムの健全性を維持するための、効率を重視したミクロ政策に移らねばならない。」マクロ政策から「構造改革政策」への転換である。
構造的デフレーションが日本だけの現象でないことも著者は指摘しています。世界的にはディスインフレ傾向が認められ、「データを素直に見る限り、デフレーションが構造的かつグローバルである可能性はかなり高」い。「少なくとも、構造的インフレの時代が終わったことはほぼ確実なのだから、各国の経済政策のあり方を大きく変えて行かなくてはならない時が来ているといえるだろう。」
第2章では構造デフレの原因をもとめ、「第三次産業革命とでも呼ぶべき巨大な技術革新の波と、冷戦崩壊後に加速度的に進展したグローバリゼイションの流れである。」と結論しています。「情報通信革命を中心とする第三次産業革命とグローバリゼーションの組み合わせは、製造業のほとんどの分野、サービス業のかなりの分野でコストを大幅に削減し、競争を激化させ、構造的デフレーションの大きな流れをつくりだしている」と見ます。この供給に需要が同時的に追いつけばデフレは起きないわけですが、需要が追いつくには、中国・インド・ASEANの28億人が中産階級化して商品やサービスを大量消費する10から20年後を待たねばならず、それも構造的インフレではなく、エネルギー危機や食糧危機としての需給逼迫でしかないと見ています。
また、「急激な技術革新、資本・金融分野での規制の緩和、そして強力な新しいプレイヤー達の世界経済への参加という点で」、今日の状況が1870〜1913年の「パックス・ブリタニカ」の時代に似ていることを指摘しています。この時代は構造的デフレの時代でした。
第3章では、第二次世界大戦後続いてきた「パックス・アメリカーナ」の時代は終わり、「リオリエント」(1800年頃までがそうであったように世界経済の中心が再びアジアに戻ってくること)な時代に入りつつあることが、構造的デフレーションを引き起こしている理由であると述べています。リオリエントの主役を演じるのが中国とインドであり、両国は「港湾・輸送インフラ等のハードも、華僑・印僑等による海外の商業ネットワーク等のソフト」も持っています。中国は、「熾烈な競争の国」でもって、インドは「ソフトウェア技術者の質の高さと、量の多さ」でもって「巨大な供給過剰、コストの削減」を引き起こしています。
第4章は、「デフレが構造的であるという認識がなく、新しい環境に適応するための構造改革を怠ったこと」が1990年代の経済失策の原因だったが、「どうして日本だけが十余年にわたる不況に見舞われなければならなかったのか。」を問うています。その答えは、「高コスト体質の定着等による企業の衰退、収益を生む投資機会の減少に求めることができる」と言います。「例えば、建設業の生産性は年平均3.0%低下、この不況の10年の間で建設業への就業者は66.5万人増加した。」「景気回復、総需要拡大のために毎年のように積み上げていった公共事業が、生産性を低下、コストを上昇させ、むしろ、日本経済の足を引っ張り続けたのだという事実をここでははっきり確認しておく必要があるだろう。」
第5章では、日本が戦後の経済成長期を実現するために作り上げてきたビジネスモデルが制度化されたインフレ体質をもっており、この構造的デフレの世界では、かえって日本経済の足を引っぱり続けている点を指摘しています。
不動産価格は、大都市圏の中高層住宅価格の年収比で5倍前後(米では3倍)、株価は、株価収益率で約40倍(米では約15倍)とアメリカに比較すると高い。これはバブルの結果ではなく、「戦後継続して起こってきていたもので、現在も続いている資産価格の調整は単にバブル以前への回帰ということだけではなく、戦後の構造的インフレ体質の修正と考えた方がいいのだろう。」
「こうした財・サービス及び資産価格の上昇は、不動産担保、株式持ち合い等を制度化したのみならず、多くの日本企業に過剰債務問題を引き起こすことになった。」
第6章では、構造デフレと大きく構造が変わっている時に、「マクロ経済学が影響力を持ちすぎるということは、むしろ、構造改革を阻害し、結果として、日本の停滞をますます長引かせることになる」とマクロ理論を批判しています。それは、「現在のマクロ経済学の枠組みが、構造的デフレのもとにある世界経済を分析する上で」以下のような限界と問題点をもつからだと指摘しています。
現代マクロ理論は、基本的には
1.所得決定の理論であり、価格決定の理論ではない。
2.フローを分析する枠組みであり、ストックの分析をするメカニズムをもたない。
3.経済の構造が一定だと仮定している。
4.一国の経済は、貿易というチャンネルを除いては自己完結的に決定されると仮定している。
マクロ理論の限界を打ち破る理論として、著者は、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサイエティー」概念に基づく「相互作用性」とスタンフォード・グループによる「比較制度分析」を紹介している。
第7章では、金融システムが変貌しているにもかかわらず、金融理論が変わっていないことを批判しています。例えば、「インフレターゲット論者達の言っていることは、我々の奉じているのは正しい理論なのだから、信じて下さいと言うことに過ぎないように思われる。」と批判しています。
「最近のデータからは、貨幣の流通速度が安定的、あるいは、予測可能だという結論は導き出せない」上に、「貨幣という概念の定義すら曖昧になってきている時、貨幣供給量と経済活動の間に安定的関係が存在すると仮定し続けることに無理があるのだろう。」
理論で問題なのは「現実の新しい展開に対して、どう理論を変えていくかということであって、理論にしたがってどう政策を変え、現実を変えるかということではないのである。」「現実を論理的に整理し、分析する上で理論は有益である。しかし、現実を説明できなくなり、現実から遊離してしまった理論が、信仰でしかないというのも、また、事実なのである。」(最後のフレーズは警句集に載せられますね)
第8章は、グローバル化した金融資産市場が世界経済を動かすようになってきており、金融資産と金融負債というストックに関する分析可能な理論が必要とされているものの、国際金融市場への参加者がそれぞれの立場で論理を主張するだけで、ストック理論がないままに「世界は海図のない航海に乗り出している」と警告しています。
金融資産市場は、1990年代の10年の間に先進各国でほぼ倍以上になり、「資産市場のフローの経済活動への影響力は格段に増加してきている。」また、金融資産・金融負債が急拡大した要素に海外資産・海外負債の著しい増加を挙げなければならない。1980年代までの国際的危機は、「国内景気の過熱、インフレの促進、経常収支の悪化といった、いわばフローの財・サービスの世界の危機であった。」これに対して1997年の「東アジア危機は資本収支危機であった。」「グローバル化した金融資産市場の一角でバブルが崩壊し、そのバブルの崩壊が信用システムのネットワークを通じて他の市場、他の主権国家に波及した」のだ。しかしながら、これを分析するストックの経済学はないのだ。
第9章で著者は、海図のない航海に乗り出していく処方箋を示しています。日本経済にとって重要なのは、企業の構造改革であり、そこで求められるのは、カール・ポパー流にいうところの「開かれた」行動原理であると言います。
「絶対に確実なことなどない」という立場に立てば、「私は絶対にまちがっていない」と思い込むことはなく、「まちがう可能性が決して低くないのだから、慎重にしかも断固として決断しながらも、あらゆる事態に備えた戦略をその裏にもって」行動しようとしなければならないと主張します。これは、ロバート・ルービンの経済哲学でもあるといいます。
「何も絶対的なものとしては信じないが、不断に努力する、それが「開かれた社会」の知識人であり、その知的謙虚さこそが、進歩と民主主義の基本なのだろう。」
第10章は「大恐慌の再来はあるのか」と題して、デフレスパイラルが大恐慌に陥らないためには、今や一国だけの経済政策では解決しないこと、構造デフレは日本だけの経済事象ではなくグローバルであることを述べ、デフレ先進国である日本が「日本の経験等をベースに、国際的フォーラムで議論を開始し、具体的協調行動をとるべき」だと締めくくっています。
(ニューディール政策は、同時期のヒットラー政権下の政策や高橋是清の政策に比べて、結果的には遙かにパフォーマンスが低い失敗作であったことも明らかにしています。)
「欧米のエコノミスト達の口車に乗せられて乱暴な実験をさせられ」たり、現実の経済事象に対して理論を構築せずに、自己の信奉する理論に従って政策を実施し、不況の振れを大きくしたりすることを避けねばなりません。デフレが構造的であることを認識して、インフレが構造的であった時代の経済理論を盲目的に信奉することを止めて新たなパラダイムを打ち立てるべく、日本は「ねばり強く、したたかに構造改革を進める必要がある」と著者は繰り返し主張しています。
とてもわかりやすく説得力のある論旨だと感じました。 [up net on 03/08/10]


友達が薦めてくれた本

本棚を漁っていたら、
「天才と狂人の間」---杉本久英著---(角川文庫)が出てきた。
今は忘れられた大正時代の流行作家島田清次郎の話だ。裏表紙を見ると、「崔本くん推薦ス 1972.11.4」とある。中学時代の親友が、大学生の頃に教えてくれたことが分かる。てっきり自分で見つけた本だと思っていたが、あいつこんな渋い本を読んでいたんだと感心してしまった。

「ドリトル先生のアフリカゆき」---ロフティング作絵・井伏鱒二訳---(岩波書店)は、
小学校5年の時に鷲尾君が、「えっー! ドリトル先生を読んだことがないの!」と驚いて薦めてくれた名著だ。よくぞ教えてくれたものだ。井伏鱒二のドリトル先生シリーズを知らずして大人になるなんて、今ではとても考えられないことだ。大亀のドロンコの話にたどりつくまで何年もかけて何度も読み返した。中でもおもしろいのは。「航海記」とこの「アフリカゆき」である。

大学時代の友人富永君には、随分いろいろ紹介してもらった。
「そして誰もいなくなった」---アガサ・クリスティ作---(ハヤカワミステリー)
「御先祖様万歳」---小松左京---(ハヤカワJA文庫)
薦めてくれた本もよかったが、紹介してくれる話の内容も本と同じくらいおもしろかった。「御先祖様万歳」の中に入っている「カマガサキ2013年」なんかは、富永君の話で笑い、小松左京で抱腹絶倒してしまった。
「そして誰もいなくなった」は、言わずとしれた英米ミステリーの最高傑作だが、彼に強く勧められなかったなら、お高くまとった感じの強い(その上値段も高い)ハヤカワミステリーを読むことはなかっただろう。

[up net on 04/11/14]


「大宇宙・七つの不思議」

 このホームページに若干縁のある本です。
 この本と同じに佐藤勝彦教授が監修されている「『量子論』を楽しむ本」を、このページで取り上げたときに、手塚治虫の漫画の話を書きました。それを見た中村俊宏さんから、その漫画の出典はどこですかとメールをいただきました。中村さんは、前書きによると、この本の執筆・編集協力者とあります。中村さんは、宇宙の七不思議をテーマにした制作中の本のなかで、最新の宇宙モデルである「膜宇宙論」を取り上げることになり、そこで多次元の世界を説明するには手塚漫画での描写が巧みでおもしろいと目を付けられたわけです。
 残念ながら、どこにそのシーンがあったのか私は探すことが出来ずお役に立てませんでした。かえって、中村さん自身が本屋で探して見つけられました。まるでお手伝いにならなかったにもかかわらず、出来立ての「大宇宙・七つの不思議」を頂いてしまいました。そういった縁のある本です。
 300頁と結構ボリュームがありますが、読みやすく、最新の宇宙学の概要がすうっと理解出来たような気がしました。どの「不思議」もおもしろく、知的好奇心を大いに刺激してくれて、最後には人間の生きていく意味(本来の哲学)を考えさせてくれる好著です。よくぞ、「『量子論』を楽しむ本」に出会ったものだと、本のえにしに感謝してします。
 数学と物理学の進展が、宇宙学に大きな影響を与えたこと、宇宙の不思議を解明するために、数学と物理学が大いに貢献していることを、この本を読んで知りました。「『量子論』を楽しむ本」と「大宇宙・七つの不思議」が同じ著者によって書かれている所以は、その辺りにあるようです。

 七つの不思議とは、次の事柄です。
  1:火星の水と生命のゆくえ
  2:第二の地球・無数の地球
  3:沈黙を続けるETたち
  4:宇宙のはてから来る光
  5:目には見えない宇宙の主役
  6:高次元空間に浮かぶ膜宇宙
  7:宇宙が人間を生んだ意味

 新しい理論を生み出す契機となるのが、天文観測によるデータの積み重ねであり、また、その理論を実証するのが、膨大な観測データの解析であることに感動を覚えました。ケプラーの昔から、天文学のアプローチは普遍であるようです。観測データが示すかすかなブレから旧来の理論の根拠が疑われ、より汎用的な、より大いなる視野に立った新しい理論が構築されます。そして、その新しい理論が、旧来の理論では説明のつかなかった事象を矛盾なく説明でき、新理論で予想された現象が観測されたときに、新理論が旧理論に取って代わられるという天文学のアプローチが、会計の世界にどっぷりと浸かっている私にとってはとても好ましいものに写りました。
 「ビッグバン」という天文学の専門用語を借用している最近の会計学の世界は、理論を置き去りにした現状追認に走り回る世界ですので、なおのこと強く感じました。
 開いたヒモからなる素粒子は膜から離れられないが、閉じたヒモからなる重力子は膜から離れることができるので、これが「暗黒エネルギー」があるかのように見える鍵となるとのお話は、何とも不思議な感じです。
 地球はなぜこんなにも生命の誕生に適しているのかについての著者の説明は説得力のあるものでした。私たちが生まれたからこそ、地球が生命が生まれるための諸条件をことごとく満たしているのであって、奇跡でも偶然でもないのだと。
 (いずれの話も、これだけを言ったのでは、何のことか伝わらないでしょうが、私には、正確にお伝えする自信がありませんので、この程度の紹介に止めておきます。読んでみられたなら、きっと、理解してもらえることは保証しますので)
 読んでいて感じたのは、文章がこなれていて読みやすく、難解な理論がスーッと頭に入ってしまう不思議さでした。読みやすいだけでなく、一言一言が選び抜かれた言葉で表現されており、誤解や批判の余地がないと思われる点でした。この本を紹介するのに、下手な要約や断片的な引用をすると著者の真意が伝わりません。
 また、章のはじめと終わりに挿入されている詩や小説の一節が、著者の教養の広さを窺わせ、無味乾燥な専門知識の解説書に貶めていない点にも感じ入りました。
 私たち人間がどうして生まれ、将来どこへゆくのかというテーマは、天文学の範疇にとどまるものではありません。人間にとって根源的な問い掛けです。したがって、広範囲な教養が求められるのは当然のことなのでしょう。
 果たしてこの広い宇宙の中に高等な進化した生命体はいるのでしょうか。
もし、他の惑星に生命体がいてあえるのなら、この同じ問い掛けをしてみたいものです。「われら何処より来たるや、われら何者なるや、われら何処へ行くや」
 この本を読んだ後で、自分の存在がおおらかに、大きく感じられることは請け合いです。

[up net on 05/04/17]


「重耳」

 今、宮城谷昌光にはまっています。他人と同じことをするのが嫌いな質で、「今よく売れている本ベスト10」なんて本は手に取る気がしません。しばらく前から、本屋で、宮城谷昌光という作家の本が棚積みされていたり書架の中でじわじわと領地を広げてきていました。新聞でも大きな広告が目につくようになりました。宮城谷?聞いたことのない作家だ、と触手が動かないままに、書架の前を素通りしていました。
 それが、題名に惹かれた弾みに「侠骨記」(講談社文庫)を手にしたこの夏から今日まで、宮城谷昌光ばかり読んでいます。この文庫本の後書きに、甲骨文や金文と出会わなかったら、中国の歴史小説を書いていなかっただろうということが記されています。そこで、「衛」という字が金文ではどのように書かれており、その象形文字から何がわかるかが説明されています。宮城谷さんによれば、金文で見ると人の足が左まわりに移動していることが、はっきりわかるそうです。「つまり衛士とは、左まわりに哨戒していたわけであり、これは敵と遭遇したとき、右手の武器で相手を撃つことになり、古代の人々も右ききであった証左になる。」「そんなふうに、衛という字だけを見ても想像が発展するわけで、やがてその想像が充分な厚みと広がりとをもつと、物語を成り立たせる大気の元、すなわち元気が生まれ、そうなってはじめて、古代の人々がおのずと動くというふしぎさを、心の中で目撃した。」と書かれています。これがすごいと思いました。甲骨文字や金文を読み解いていくことで、古代の人々の生活を明らかにするというのは、白川静(しらかわしずか)博士の手法です。博士の「漢字百話」(中公文庫BIBLIO)を読むと、土の中から掘り出す遺跡にも増して、漢字が、古代の人々の祭事や思考や生活の様式をまざまざと我々現代人にみせてくれるという奇跡のような事実に感嘆の声を思わず知らず発してしまいます。白川博士の「中国の古代文学」(同前)には、第6章 二 貴種流離譚で、文公重耳の説話を取り上げています。そこでは、「断章賦詩」や「ことば改め」などを考察しており、重耳の説話を物語としてではなく漢字形成過程での文献として読むため、私にとっては、重耳という歴史上の人物の人柄に想いが届くことはありませんでした。その頃(紀元前630年頃)の習俗がおぼろげながら目に映ってきたといったところでした。
 ところが、宮城谷昌光の「重耳」を読むと、重耳が時々に狐氏に助けられる由縁、十九年も放浪しなくてはならなかった意味合、弟の夷吾が先に晋の君主となった理由、重耳を暗殺しようとしていた寺人の披が忠実な臣下となったわけなどが、心の裡に納得して入ってきます。「三舎を避ける」といった成句の背景もよくわかります。なにしろ、宮城谷昌光は小説家なのです。「衛」という漢字から古代の人々も右利きだったと想像をふくらませられるのですから、歴史小説の登場人物に血肉をつけ生き生きと演じさせることに疎漏はありません。よくこの少ない文献から想像力をふくらませ、大河小説を生み出せるものだなと感心させられます。その想像力の豊かさにほれぼれとしてしまいます。
 そんなわけで、今、宮城谷昌光にはまっています。司馬遼太郎のように、長編小説がいくつもあるので、次の物語をわくわくしながら待つという楽しみに浸っています。

[up net on 05/11/03]


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「佐賀のがばいばあちゃん」

 ぜったい泣けます。
 三度は泣けます。
 大人であればね。
内の中学生の息子は、大笑いはするほど面白かったが、涙がこぼれるほどの場面はなかったと言いました。藤原正彦さんによれば、齢を重ねるほどに情緒が豊かになって泣くことが出来るそうです。
 島田洋七が語るこの物語には、思いやりのある人だけが登場していることに気が付きます。
 母親から離れて極貧のお祖母さんに育てられる子供を見守る人達(担任の先生、お医者さん、豆腐屋のおじさん・・・)、友達、憧れのマドンナ。どの人達も思いやりがあってやさしい。なによりも、主人公の昭広じしんが優しい心根をもった少年です。
 そんなやさしい心をもった人達ばかりの世界だと、こうして涙が流れるのでしょう。不幸で辛くてあるいは悔しくて惨めになって流す涙ではありません。感動で心の臓がふるえて流す涙です。

佐賀のがばいばあちゃんのホームページ

「長崎ぶらぶら節」

 2002年10月10日初刊なのに、第1刷のままであるのが理解できないくらい感動的な物語です。
 なかにし礼の小説は、長い間気に掛かっていました。作詞家の書いた小説というのが引っかかって、どうしても二流小説のように思えてしまうのです。
テーマが満州での戦争であったり肉親の相克であったり暗く重いことも食傷気味にさせるのです。 (映画化された時に愛八を吉永小百合が演じたようですが、吉永小百合では様にならない主人公です。小説では美人ではないのです。姉たちとは違って美人でなかったところに愛八の屈託があるのですから、他の女優さんを持ってこなければいけません。敢えて言えば、樹木希林が似合いでしょうか。渡哲也が古賀十二郎をやるのもミスキャスティングです。常軌を逸するものの則を超えない小柄で真心を持った偏屈者を演じられるのは香川照之でしょうか)

長崎楽会で愛八を巡る史実と虚構が検証されています。

[up net on 06/02/26]


「六番目の小夜子」、「薬指の標本」

 恩田陸と小川洋子の共通点は何でしょうか?
どちらも本屋大賞を受賞した作品を書いた女性作家です。2004年本屋大賞(第一回)には、小川洋子の『博士の愛した数式』が、2005年本屋大賞(第二回)には、恩田陸の『夜のピクニック』が選ばれています。この受賞作は、本当にいい本です。はったりがなく、どぎつくなく、しみじみと感動に浸れるところがよく似ています。そんな小説を書く人たちなので、他の作品もおもしろいはずだと思いました。それでも、食わず嫌いな僕は、学園ホラー物なんていうキャッチフレーズに惑わされて、「六番目の小夜子」を随分長い間手に取ろうとしませんでした。もっと早くに読んでおけばよかったと悔やんでしまうくらい、ゾクゾクとしておもしろい小説です。途中でページを置くのが惜しくなる類の本です。不可解な妖怪話として納得させられそうな不思議な出来事が続けて起こりますが、高校生活の匂いをを思い起こさせてくれるディーテールももったお話しです。不可解な謎、合理的には説明のつかない出来事、非現実的だと思いながらも納得してしまいそうになる気持ち、といったテーマが、「薬指の標本」と 「六番目の小夜子」には共通しています。標本技術士が一日中閉じこもって作業をする地下室と竜巻で外れた扉から見る快晴の風景とでは雰囲気はまるで違いますが・・・

[up net on 07/05/06]


「憲法九条を世界遺産に」「ニッポン・サバイバル」「日本語はなぜ美しいのか」「フェルメール全点踏破の旅」

なぜか今、集英社新書がおもしろい

[up net on 07/05/06]


「言葉はなぜ通じないのか 」

目次
第1章 言葉はなぜ通じるのか(言葉は不思議なもの;吉本隆明の言語本質論を読み解く ほか)
第2章 言語には七つの特性がある(言語は音声表出が基本;言葉は順序立てて説明しなければならない ほか)
第3章 意味とは何か、「わかる」とは何か(西欧の言語哲学の関心;言語的な意味とは何か ほか)
第4章 言葉の無理解はなぜ生じるのか(言葉はなぜ通じないのか;言語に対する信頼と言語信憑)
[up net on 07/10/08]


「 百億の昼と千億の夜」

 この光瀬龍のSF小説は夙に有名で昔から気にはなっていたが、難解なイメージがあり、ずうっと手を出しかねていました。先月監査でお会いした方がこの本はなぜ宗教が存在するのかというテーマで書かれた小説であり、萩尾望都が描いたマンガはその原作を完璧に絵にしていると絶賛されていたので、やっと読む気になったものです。マンガなら読めるだろうと思ったからです。萩尾望都が好きな作家でもあったからです。
 長大な小説を覚悟していましたら、萩尾望都は2冊で描き上げていました。彼女のファンでもある妹が「訳が分からないお話だよ」と忠告して貸してくれた昭和53年3月の3版(350円)で読みました。(最新版は、平成20年9月5日発行の37版だそうです。今でも版を重ねているのですね。大型書店のマンガコーナーを初めて覗きました。萩尾望都をどう探してよいか分かりませんでした。そこの書店では、少女コミック、少年コミック、青年コミックといった分類で棚割がされていました。まさか少女コミックに分類されるとは思いもしませんでしたので、萩尾望都を見つけるのに時間がかかりました。しかも、目的の作品はありません。膨大な新作の洪水の中に古い作品を展示する余地は無いようでした。)
 確かに難解です。
 56億7千万年後に兜率天から下って人々を救いにこの世に現れるという弥勒菩薩信仰やキリスト教の最後の審判と復活信仰は、天国へ人類を導くためにあるのか、それとも人類消滅のための欺瞞であるのか、結論のでない問いが追求されます。人類はこの地球上に約40億年前に誕生したそうです。月探査衛星「かぐや」から送られてくるデータにより、そのころ木星の何らかの軌道移動を受けて大量の小惑星が地球に降り注ぎ、小惑星が持ってきた鉄が地球に存在していた水やメタンなどと化合して生命体が生まれたと考えられるようです。
(書きかけ)
[up net on 08/10/14]


「思い出のマーニー」のあとがき

 J・ロビンソンという作家が書いた「思い出のマーニー」は、とても感動的なお話です。読み返すたびに涙があふれてきます。
 そんなお話を読むことが出来たのは、この本を訳した松野さんが「訳者あとがき」に次のように書いてくれていたからです。本を選ぶとき−買おうか買うまいか決めるとき−必ず「あとがき」を読みます。その内容によって本屋の店先で手に取った本を家に連れて帰るかどうかが変わります。そんな大切な「あとがき」の中で、松野さんのそれは最高のものでした。
 「もしも、この物語を読もうかどうしようかと迷いながら、このあとがきを先に読んでくださっている方があったら、はじまりの部分が少し読みにくいかもしれないけれど、どうぞ続けて読んでいただきたい―、これが、翻訳を終えてあとがきを書く今、作者と読者の仲立ち―訳者としての私の心を一番大きく占めていることです。アンナが一人ぼっちでディーゼル機関車の引く列車に乗って、ロンドンからノーフォークへの旅に出る第一章は、日本の読者にはとっつきにくいのではないか、ここで読むのをやめてしまう人があるのではないか―と、原書を読みながら何度も思いました。(もう物語を読んでくださった方には、私のいう意味をおわかりいただけると思います。)でも、作者には作者の考えがあっての大切なはじまりのはずです。ここを通り抜けると、すばらしい物語が展開していきます。これ以上は、もうなにも解説などなしに読むのが一番おもしろい―、これは、そういう種類の物語です。」
松野さんが指摘されるとおりです。本屋の店先で、この本の冒頭を読んでみて、その暗い退屈なはじまり方に、読み続ける値打ちがあるようには思えませんでした。それなのに、「ここを通り抜けると、すばらしい物語が展開していきます。これ以上は、もうなにも解説などなしに読むのが一番おもしろい―、これは、そういう種類の物語です。」と断定されて心が揺らぎました。そこで、訳者を信じて読むことにしたのです。
 全くの正解でした。訳者のいう通りだったのです。リトル・オーバートンに着いてアンナが「その」屋敷を見たときから、俄然物語はおもしろくなります。上巻の終わり方はあっけなくて、もっともっと続きを聞かせてほしいと思わずにはいられません。でも下巻で登場人物が全く変わってしまってから、違った展開にまたまた夢中になってしまいます。ファンタジーが過不足無くリアリティになる終章に感動が待っています。読みづらいのははじめだけ!あとは、本を置く気にさせず、一気に読んでしまいます。
 こんなに素敵な物語を読ませてくれた松野さんの「あとがき」は、僕が出会った「あとがき」の中で最高のそれでした。 
[up net on 08/10/20]


 

「殺人犯罪学」

 表題のおぞましさに一瞬たじろぎました。それでも読み進むにつれて、真摯な姿勢で書かれている啓蒙書であることが分かり安心しました。 「図解雑学 殺人犯罪学」 と題された本は、通り魔殺人や無差別殺人、テロといったショッキングな社会をネタにした興味本位の内容かと思いましたが、いやなかなか、人間そのものに迫ろうとする内容であることが分かります。
 「興味本位で本書を覗いたとしても、そこから『人間』という不思議で興味と魅力の尽きない存在について、一歩でも深い理解にたどり着いて頂ければ」と著者である影山任佐東京工業大学教授が書いていらっしゃるとおりの内容です。
 殺人に関して抱いている様々な誤解が解かされていきます。
 日本では殺人が減少していること。自死は逆に増えており世界の中でも自殺率の高い国になったこと。殺人は戦争経験と相関関係が認められること。死刑制度との相関関係は曖昧であること。殺人の多くが自宅内で発生していること。都会よりも地方の農村部で発生率が高いこと。テロは学歴の低い貧困にあえぐ者が実行しているわけではないこと・・・
 そして、著者の研究成果を紹介されることによって、殺人犯罪学(人間学)として人間の不可解さに思いをはせるようになります。「エゴパシー」や「空虚な自己」といった影山教授の造語で説明される自己確認型少年犯罪。知らない世界を知ることができました。
 また、「哲学・文学と殺人」というコラムがあって、ニーチェからドストエフスキー、ジュネにいたるまで、その人を解明しています。まさに殺人学は人間学だという実例を見せられているようです。
 人間を理解するため、自分を理解するため、読むに値する本だと感じました。

[up net on 08/12/23]


「親鸞」

 五木寛之の「親鸞」は、京都新聞に連載されてた時に面白くて毎朝新聞を開くのが待ち遠しくてたまりませんでした。一枚二枚とページを繰って5面の下に掲載された小説を真っ先に読むのが日課となっていました。出張があったり間違って古紙回収に出してしまったりで読み損ねた回がいくつかあったこともあり、単行本が出ることを知って早速に購入しました。
 ところで、きょう、ここに書くことは、「親鸞」でぐいぐいと読者を引き込んでしまう五木寛之の魅力ではなく、「本」の在り方への苦言です。
 「講談社創業100周年企画」という触れ込みで、新聞広告にも大々的にキャンペーンが張られていますので、期待して買いました。しかし、持って帰った本を開いて、なんともいえない憤りを感じました。小説そのものは感動的でかつ次を読まずにはいられないわくわく感をもった傑作です。中身はすばらしいのに、その装丁のや安すけないこと。表紙・裏表紙がぺらぺらです。はじめから反っています。活字の割り付けが寂しいです。紙面いっぱいに広がっていて余白がほとんどありません。窮屈です。
 本というのは、その中身と釣り合いの取れた装丁でもって、このその小説に逢えた喜びを高めてくれるものだと思います。吉川英治の「宮本武蔵」は作者が選んだという紺絣の装丁がされていました。武蔵の心持ち、作者の人柄が感じられて、小説にふさわしい装丁だと昔高校生の頃に感じたことがあります。いい小説に出会ったら、その小説を読める喜びにひたるとともに、その小説が収められている「本」を指先で撫で、胸に抱きしめて慈しみたくなるものだと思います。それが本というものではないでしょうか。
 文庫本なら、装丁にそれほど期待は掛けません。中身さえよければその本を読んだことに満足します。それでも、活字が小さすぎたり、逆に大きすぎたり、上辺、下辺、左右の余白が狭すぎたりすれば、同じ内容でも、ずいぶんと印象は変わってしまいます。読んでいる途中で、いらいらと神経を逆なでされているような落ち着かない、読みづらい気分に追い込まれます。
 「ウィンパーのアルプス登攀記」なら、著者の描いた口絵がなければ、いくら文庫本といえども買って持って帰る気にはならないでしょう。文庫本の「ローマ人の物語」も塩野七生がカバーに凝らなければ、家に持って帰ることはなかったでしょう。「本」には、そういう文芸とい中身だけではない魅力があります。蔵書をしない人もたくさんいます。読んでしまったら、古本屋に売ってしまうか、紙資源として捨ててしまう人達です。私には、それが出来ません。私が本を捨てるのは、全く裏切られたと感じた時、つまらない本を読んでしまったと怒るほどの気分になった時だけです。読んでよかったと感じた本は、我が子と一緒です。大切にしたい、きれいに着飾ってやりたいと思います。友人と一緒です。近くにいてほしいと思います。 
 活字の色や大きさ、フォント、行間隔や余白の大きさ。「本」にする時には、そうした形あるものも大切です。
 同じ出版社の出した本でも、宮本輝の「骸骨ビルの庭」は、しっかりした装丁で活字の組み方も読みやすい本です。(もちろん、小説そのものも感動的です)創業何周年企画と銘打つのなら、もっとお金を掛ければよかったのにと思わないではいられません。それと、広告宣伝の仕方にも文句があります。今日の朝刊に載っていた5段抜きの広告では、「画・山口晃」とあって、新聞に連載された時の挿絵が大書した親鸞というタイトルの背景に描かれています。これは、若干誇大広告です。本の中には、山口画伯の挿絵はひとつも入っていません。本の方には、「装画 山口晃」とあります。表紙や見返しに絵が描かれていることを指しているのでしょう。新聞連載の時には、挿絵も楽しみだったので、本になって口絵ひとつ入っていないのが残念でした。

[up net on 10/01/31]


「ボックス」

百田尚樹は、ひゃくたなおきと読むそうです。作者の名を息子が知っていたのと、「探偵ナイトスクープ」の構成をしていたと見返に書いてあったので読む気になりました。四六判580頁の長編です。(文庫本では上下2冊)
 高校のボクシング部の物語です。調子のいいサクセスストーリーだったらがっかりするだろうな・・・と不安を持ちながら読み始めました。スポーツを題材にした小説では、宮本輝の「青が散る」がピカイチだと信じています。30頁にわたって描かれているテニスの試合が秀逸なのです。小説だからこう書いたというのではなく、実際あったことを書いたのでこれほどリアリティーが感じられるのだと思えるほどに、配球の妙や打ち合っている二人(シングルスの試合です)の心理が説得力をもって書き込まれているのです。

[up net on 11/01/01]


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藤野正純(Fujino Tadazumi)
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