一運寺 歴史

DSC01909.JPG飛鳥への小径 石碑
中央「仏法最初聖徳皇太子御建立の地」 右側「日本諸宗の祖師御旧跡」 左側「元祖圓光大師御旧跡」 ※圓光大師とは法然上人のこと

最澄の神通力

最澄は弘仁年中、比叡山を下り住吉大社に参詣され説法された。折しも当時住吉の地に原因不明の熱病が流行していて人々が苦しんでいた。最澄はこの病魔を祓う為にこの寺で自ら阿弥陀仏の尊像を刻み七日間法要を営まれました。すると忽ちにして疫病患者の容態は悉く癒え、「住吉の地に再び病の侵す事なし」と言われました。以後この阿弥陀仏像は無病息災の仏様として愛されており、また「汗かき阿弥陀如来」と呼ばれ天変地異が起こるときには汗をかくと言われている。平成十七年一月の阪神淡路大震災の折には本堂内に数ヶ所お供えしていたお茶湯のうち汗かき阿弥陀如来のお湯のみだけが倒れてお茶がこぼれ、さもこの阿弥陀様が汗をおかきになったように見えましたことがあり心に残っております。 

安全祈願された高僧方

すぐ横に大海神社がある関係上、航海安全祈願をされた後一運寺にお寄りになる高僧が多かったようである。重源(一一二一~一二〇六)幡随意上人(一五四二~一六一五)も当寺に来られました。重源は三度、宋(中国)を訪れたといいその航海の無事を祈願するため参詣され当寺にも御逗留された。
幡随意上人は徳川家康の命により九州に下りキリシタンの改宗に力を尽くした方であるが、この方も九州に行かれる途中大海神社と当寺に立ち寄られた。その時万代池の龍女(今で言う妖怪のような者)をご教化になり池の中央に龍王の社を建て祈願された。その念願成就の日に池の蓮の花の内、一茎に二蓮の花が咲き実をつけた。その不思議さに蓮台そのままに当寺に持ち込み寺寶として今も大切に保存されております。

御本尊の中に・・・

当寺は何度も焼失、復興を重ね室町時代・寶徳二年(一四五〇)一蓮社光日良公上人が法然上人ご旧跡として法性山宝樹院一運寺(現在は金龍山寶珠院一運寺)と命名し浄土宗の寺として再建された。それまでは天台宗の寺院だったようである。浄土宗一運寺になって現在第24世である。
紙本墨書一運寺縁起によると寛永九年(一六三二)当時の宝物として聖徳太子作の七寸五分(約二十三センチ)の阿弥陀像「御腹籠之御尊像」が本尊とされているが元禄十四年(一七〇一)の摂陽群談には「浄土宗知恩院末 開基宝徳二年良公上人造立 定朝手作りの弥陀(座像二尺九寸)本尊とす」こちらが現在の本尊阿弥陀像である。わずか六十八年の間に御本尊が代わっているのである。「御腹籠之御尊像」とあるようにもしかしたら現在の本尊の中に聖徳太子作の小さい阿弥陀様が入っているのかもと思うとロマンを感じずにはいられません。


元々山門は

一運寺の山門は元々住吉細井川の近くにあった明治天皇の側室のお屋敷の門であった。その後その屋敷を大阪出身の作家、藤沢桓夫氏が買い取り住んでおりましたが新築する事になり門もろとも潰されることになりました。その工事を請け負った大工が寺の総代で当時寺は地震倒壊で山門が無い状態でした。そこでその家の門を譲り受け山門となりました。昭和三十年ごろの話でございます。

紙本墨書一運寺縁起.JPG 紙本墨書一運寺縁起

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