法然上人

建永の法難

鎌倉時代、法然上人(一一三三~一二一二)は「南無阿弥陀仏」というお念仏を世間に広めておりました。しかし法然上人の「念仏すればどんな悪人も往生できる」という教えが「念仏すれば全て許され何をしてもよい」と悪く便乗された言動が横行してしまい、また当時の既成仏教教団等から「いままで積み上げてきた高等な仏教をそんな簡単なものにして良いのか」と反感を受け念仏を停止せよと弾圧されてしまう。また運の悪いことに住蓮、安楽という弟子が各所で行った念仏興行の美声に魅了された後鳥羽上皇の女官である鈴虫、松虫が勝手に出家して髪を落とし尼になってしまい上皇の逆鱗にふれて住蓮、安楽は死罪、法然上人は四国へ流罪となってしまった。これが法然上人率いる法然教団念仏衆徒が弾圧され日本各地へ流罪になった事件、建永の法難であり一二〇七年の出来事であります。 
法然上人は讃岐の国(香川)親鸞聖人は越後(新潟)に流罪となった
讃岐に流されていた法然上人はすぐ赦免されましたがまだ都に帰る事は許されませんでした。勅命で箕面の勝尾寺に入る事になり一路箕面を目指し船にお乗りになりました。しかし途中嵐に遭われ泉州岸和田へ漂着、船が住吉の浜まで流されました。船の修理する間法然上人は当山に長くご滞在されまたご説法され「ゆきめぐる山路も里も吉水の清き流れの尽きじとぞ思う」と御歌を詠まれて当寺を去られたのであります。法然上人七十五歳の時でありました。吉水とは今の知恩院周辺のことでありそこから脈々とつづくお念仏の教えであり、法然上人が巡って来た山里には吉水の流れがしっかりと続きこれからも途絶える事はないでしょうという上人の願いが込められた御歌と思われます。そしてその年の十二月八日に無事勝尾寺に入られたということであります。

幻の四十八ヶ所霊場

文化八年(一八一二)に書かれた「紙本墨書一運寺縁起」。これは一運寺から一心寺への手紙の写しでありその内容は法然上人の四十八ヶ所霊場(現在は二十五霊場)を新たに設けようとするにあたり一運寺から一心寺へ宛てた御協力願いであり、その中に元禄十年(一六九七)に一運寺から大阪奉行所へ提出した由緒書き、また延宝五年(一六七七)に一運寺から検地奉行である青山大膳亮に宛てた縁起などの写しが含まれる。始まりは「大師二十五霊場に漏れ候御旧跡有につき新たに四十八か場を造建いたしたく・・・」とあり「右の通り写し差し上げ申し候、弘覚大師(法然上人)御旧跡の儀宜しくお願い奉り申し上げ候  一運寺」と手紙の最後はしめくくられている。一運寺にはこのような高僧が来られておりその証拠として各写しが添えられ、何卒法然上人の新四十八か場に入れていただくようお願いしたわけだがその甲斐なく現在も大師二十五霊場のままである。またその縁起には宝物として法然上人の御袈裟や御自筆の御名号などが伝えられているが残念ながら現存はしていない。

平成22年5月 総本山知恩院より法然上人御分身が当寺にお越しになりました

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