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 定期健診で注射針が腕に刺さっているのを目の当たりにするだけで冷や汗が滴り落ちる。痛いのは大嫌いだ。少々悪いところがあっても暫くすれば自然に治るだろうと放っておく。そんな不摂生が祟ってか入院する羽目になった。

「智歯(親不知)の抜歯手術のために入院してきます。一週間ほど仕事を休ませていただきます。入院日まで急ぎの業務は片付けておきますので」直属の上司に伝えた。

 歯を抜くだけで入院なんて聞いたことがない……本当は重病を隠しているのではないか……散々根掘り葉掘り社内のおもちゃにされた後、「深夜には気を付けろ。窓の外から口から血を流した女が覗いているぞ」と送り出された。

「人の不幸は蜜の味」を公言するが少し憎めないところもある上司である。筆者の業務の半分くらいはクレーム処理だ。入院で不在にする間、大口顧客からクレームが出るような爆弾を二、三発残し、「私が不在の間は上司の○○が対応させていただきます」と顧客へのメール送信をクリックし退社した。

 いよいよ入院日がやってきた。そろそろ疼痛も我慢できない。何時にない冬の寒さも充分に味わっている。かつ高額療養費という有り難い補助制度を見込んで、二月月初を設定し病院に逃げ込んだ。

「三階のナースステーションにお廻り下さい」受付で手続きを済ます。

 病室まで辿り着くと建物外観から想像される以上に綺麗だ。窓の外は小枯らしが吹いているが中は天国、常夏だ。荷物をロッカーに仕舞い込み売店、食堂を徘徊する。当分は食えなくなるであろうカツ丼は美味く安かった。

 病室に戻り、意外にも快適な空間にうとうとしていると「こんにちは」と看護師が顔を覗かせた。

「病棟のお世話をさせていただく○○です。困った事があれば何でも相談して下さい」とにっこり微笑んだ。

 ――ナース衣装のコスプレお姉さんもよいがナチュラルなこっちの方がもっと良いなぁと、続く入院規則の説明をほんのり聞いていた。

「ではリストバンドを着けさせてもらいますね」一通りの説明も終わり手首に巻かれた個人識別バンド。医療過誤を防ぐため入院の間はずっと外せないという。これで一気に患者の身分に引き戻された。

「夕食までに血液検査に行っておいて下さいね。後で担当の先生と麻酔の先生も来ますから忙しいですよ」彼女は自分の仕事に戻って行った。

 ここ数日、幾度となく見ている自分の腕にチクリと刺さっている針作業を終え、再度病室でぬくぬくと蓑虫のような優雅な一時を過ごす。途中、手術看護師や麻酔医、担当医も代わる代わる術前説明にやって来る。各々に諄いくらい「何か聞いておきたい事や不安は?」と言葉を掛けてもらうが、これはまた各々に「不安はなく問題無しです」と回答するしかない。まな板の鯉になりますとも言わず、「あとは全てお任せ致します」と書面にサインをした。紙に書かれた病名は「埋伏智歯抜歯」およびそれが原因でできた「嚢胞摘出手術」なるものだった。あとは明日の手術に向けて体力を蓄えるべく消灯を待つだけだった。



 夜が明けた。日ごろ会社にコキ使われているせいかぐっすり眠れた。

 検温や血圧測定が終わると本来は朝食だが、手術当日は絶飲・絶食だ。不味い病院食でもささやかな楽しみを抜かれると気分も割引になる。起床も早いので、やる事もなくラジオを聞く。しかしこれから行われる、身体の一部を切り裂く儀式を思うと心中穏やかでない。例えは悪いが刑を待つ極刑囚の気分か。

「用意はいいですか。そろそろ行きましょう」

 午前九時前、迎えに来た看護師に連れられ階上へ。「手術室」と書かれた照明灯の下ではパジャマ姿の中年女性と付添いの息子、女性の姉らしき人物と鉢合わせする。皆一様に不安げな表情をしている。――こちらはどんな手術をするのだろうか、と考えていると扉が開いた。

「それではまた後でお会いしましょう」看護師に背中を押されるように中に入る。術前待機室のようだ。手術衣に帽子、マスクと完全装備の医局員も数人いる。

「おはようございます。今日は頑張りましょうね」一瞥では顔が覆われて分からなかったが、それぞれ昨日挨拶にやって来てくれた医局員達だ。

 続いて更に奥にある二つ目の扉が開く。その奥は中央に通路があり、その左右にはセル状の空間が見てとれる。いよいよ処置室だ。総合病院なので十室ほどはあったであろうか。

「こちらです」と案内された一室に担当医がいた。

 会釈を交わし手術台に上る。上着を脱ぐよう指示があり仰向けに横たわると術台の狭さがよく分かる。寝返りを打っただけでも転がり落ちそうな幅だ。顔の真上では目が無数にあるライトが仕事を待ちわびている。

 部屋一面ブルーに射された照明、整然と置かれているステンレス製の器具、心電図の電子音だけが反響する空間はテレビドラマそのものだ。

 麻酔が打たれた。酸素吸入器が口元に来た。――即、意識は落ちた。



「……。……さーん、○○さーん」誰かが起こす声が聞こえる。

「手術は無事終わりました。おつかれさまでした」

 特段痛みもなく呆気ないほどに終わっていた。だが、ほっとすると同時に酷い残尿感に襲われた。下半身に違和感があり手を伸ばしてみると尿道に管が刺さっている。このためだ。

 麻酔をすると筋肉が弛緩し失禁する場合があるという。唯一苦痛を感じたのはこの時くらいか。痛いやら恥ずかしいやらで直ぐに抜いてもらう。

「これが取り出したモノです」

 担当医のゴム手袋の上に一センチ程の極太の歯と風船が破裂したような嚢胞の残骸が乗っかっていた。案外大きく、こんなものを数年来抱えていたのかと驚く。嚢胞に至っては放置しておけば周囲の顎骨をどんどん溶かしていったという。

 夕方、一眠りを終え病室で目を覚ます。顔半分の頬は倍に腫れ上がっているが、長年喉に刺さっていた骨が取れたかのような爽快感がある。夕食の粥をすすり終え、自販機のある階下のフロアで缶コーヒーを開ける。

 思えば、「腫瘍の可能性あり」と診断された時から二カ月が経過していた。レントゲンに始まり、CT、MRIと胃が引きつりそうな響きのある検査を経験した。一重に長かった。


 二日後、退院の日。

 大部屋病棟の諸氏に先んじてベッドを後にした。そういえばカーテン一枚で仕切られた前後左右から否応なく会話が聞こえていた。隣人は皆手術を待機する患者たち。糖尿病を患いながらも毎夜菓子を貪り食うのが止められない人。健康体に突然現れた下腹部の異常、そのまま泌尿器系手術に至った人。そして抗癌剤投与に引き続き開腹手術を待つ人と、重軽入り乱れていた。中には不安を隠せない患者もいた。そういう患者に医師は昼夜問わず足繁く様子を窺いにやって来ていた。

 帰り際、エレベーターで手術看護師とすれ違った。処置室では鋭い眼光にハキハキし過ぎるくらいの物言いだったが、場を離れると何処にでもいる普通の女の子ようにきゃぴきゃぴと同僚との会話に夢中だった。

 自宅で充分静養し、会社に戻ってみると机の上に書類が山積みされている。退社した時の爆弾は面白いくらいに爆発していた。書類のほとんどが爆弾処理にあたった上司と顧客のメールの遣り取りであった。出勤してきた上司の恫喝が始まるのかと思いきや逆に優しくなっている。人間の楯が戻ってきたからだ。草村から顔を覗かせた兎のようなのは毎度のことだった。


 雖も、普段のらりくらりとその場をやり過ごしている筆者のようなサラリーマンにとって、医療人の職業意識の高さには見習うべきものがあった。

 少しはマジメに仕事をしてみようか……娑婆の空気はうまかった。

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