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「兄ちゃん、何でここがカマ言うか知ってるか。みんなここに身を沈めたら、まず一番、飯を炊く釜を買うんや。だからや」
 人懐っこい眼をしたおっさんが訥々と語りかけてくる。
 ここは大阪・西成釜ヶ崎地区。東京・山谷と並ぶ日本有数のスラムだ。

 カマの朝は早い。
 午前五時。暗闇にそびえる煤ぼけた建物。通称、センターと呼ばれるあいりん総合センター(*1)のシャッターが一斉に開く。外で待ち構えていたニッカポッカ姿のおっさん、地下足袋履きのおっさん達が洪水のようになだれ込む。
 中では手配師と呼ばれる「人夫出し」業者と仕事にアブレまいとする労働者の駆け引きが始まる。
「兄ちゃん、現金探しとるんか。それとも契約(*2)か? 現金やったらあるで。現場は尼(尼崎)や。どや、近こうてええやろ」
「仕事は何すんの?」
「マンションのコンクリート打ちや。今日はやり終い(*3)やから早よ帰れるで」
「じゃあ、頼んますわ」
「よっしゃ。じゃ、そこのライトバン乗っといて」

 その日を食うか食わんかとする男たち。「顔付け」といって手配師から仕事ぶりを認められ、優先的に仕事を廻してもらう者もいる。ただ、自由度が高い男たちは週三日も仕事に出ればよく働いている方といわれる。顔付けも、真面目な仕事振りで、なお且つ毎日仕事に出てくることが条件。

 ここでは自分の体力だけを武器に、それぞれの事情を抱えた男たちの息遣いが至る所で聞こえてくる。



 センターの外では、取り分けたくさんの人だかりができている一画がある。ビールケースを脚にし、その上に幅広のベニヤ板で売り台を作っている。
 手慣れた手付きの二人組の男。一人がポリ袋に腕を突っ込み何かを弄り出す。――コンビニ弁当の数々。傍らのもう一人は、ベニヤ板の上に放り出された弁当を無造作に並べていく。
「安いで、安いで。どれもこれも百円や」
 台を取り囲んでいたおっさん達が一人、また一人引っ掴むようにして百円を置いて立ち去っていく。飛ぶように売れるとは当にこのような喩えだ。
 よく見ると、弁当の賞味期限は微妙に過ぎている。
「腹入ったらそんなもん一緒や。うちらなんかまだええ方やで。二日も切れたやつ、平気で売ってるヤツもおるもんな」
 弁当売りの男は声高に言い放った。売り始めて二十分も経ってはいないだろう。男の腰に吊された小銭袋はかなりの大きさに膨らんでいる。
「今日はもう品切れや。みんな、また明日頼んますわな」
 綺麗に売り尽くした二人は、そそくさとその場を後にした。

 そろそろ朝日の斜光がカマの街を映し出しにかかってきた。
 センター中央の噴水広場に男が座っている。傍らには高く積み重ねた紙コップが置かれている。
「コーヒー 一杯五十円」
 男が座っている段差部分にマジックで擲り書きされた紙が張り付けられてある。男は座ったまま何をする訳でなく、辺りの様子をぼんやりと眺めている。
 すると、どこからともなくおっさんがぽつりと現れた。男は魔法瓶の蓋を開け紙コップにコーヒーを注ぎこむ。おっさんはホットを美味そうに啜りながらライトバンに乗り込んで行った。
 積み重ねられた紙コップは程よい勢いで減っていく。

 午前七時。センターに詰め掛けていた手配師たちのライトバンがほとんど姿を消した。現金仕事はいくら景気のいい時にでも、この時間になれば定員で埋まってしまう。仕事にアブレた者、仕事を探さずともセンターに仲間とのワンカップの杯を交わしに来た者で怠惰な雰囲気が醸し出されている。
 一方、カマを縦断する南海線の高架下では露店が活気づいている。
 新今宮駅から萩之茶屋駅へと延びる道路脇では思い思いの店が開店している。韓国のり・キムチの袋詰めを売っているおばさん、映画の中古ビデオや海賊版DVDを並べているキャップ帽の若者、古本、古着ありとあらゆる物が売られている。
 中でも多いのがガラクタ雑貨店。時計、工具、電化製品それぞれかなり使い古されたものが店頭に飾られてある。少し気になる写真も売られていた。
「これ何ですの?」
 女性の下半身が露わになった一枚のスナップ写真。
「これは俺特製のお守りや。安くしとくで。一枚二百円でどうや」
 折りたたみイスにどっぷり腰を掛けた男が言葉巧みに売込み始める。店の端には靴も並べられてある。
「こっちの長靴は左足しか売ってないけど…」
「せや。それ、左だけやから半額にまけとくわ」

 ここで仕入れルートなんざ尋ねるのも邪道である。ここでは枠に捕われない男たちの逞しさ、商売の原点があるように感じられる。



 ネズミ色のスーツに身を包んだサラリーマンが出勤を急ぐ頃、仕事に行かなかったカマのおっさん達はすっかり憩いの時間に浸っている。
 人も疎らになったセンターの片隅から威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
「さあ、張った張った。ええか、いきまっせぇ」
 壺の賽を振る男。「丁」「半」と書かれた木の台の周りはおっさん達で埋め尽くされている。
「四六の丁」
 壺から振り落とされた賽が目を覗かせる。わっと喚声が上がる。台の上に張られた紙やコインの山。「半」の方に張られていたものは全て男の懐に入っていった。しかし「丁」の方は二倍になって戻ってきた。
「うぉいっ!」
 その時、何かを一喝するかのような低い声が響き渡った。賽を振る男の仲間からの危険を知らせる合図だ。
 人だかりは蜘蛛の子を散らすかのように散っていったが――いや、今回は当局ではなかった。
 何事もなかったかのようにゲームは再び開帳された。

 センターはカマのカオスともいえる場所だが暫し離れる。カマの中心部を縦断する道路脇では、未だ朝だというのに鉢巻き姿のおっさんの酒盛りが所々で始まっている。中には勢い余って頭から血を流し倒れ込んでいる者までいる。
 カマで救急車のサイレン音を聞かない日は珍しい。
 酒に絡む喧嘩も後を絶たない。しかし、カマと酒は切っても切れない関係にある。今日も朝から周辺の一杯飲み屋は大繁盛だ。
 酒を買う金も乏しく、暇を持て余したおっさんは映画も大好きだ。カマの外れにある映画館は三本立て、大人料金七百円という安さだ。全席禁煙だが、至るところで煙が燻っている。オールナイト上映で一日中居ようと思えばいくらでも居座れる。
 そろそろ稼いだ日当も底を尽いてきた。ドヤ(*4)に泊まるカネもないし、アオカン(*5)するよりはましか……というおっさんには至って快適な場所であることは間違いない。

 その日カマに止まり、まったり過ごす者もいれば現場で汗を流す者もいる。
「兄ちゃん、何で俺等が『あんこう』言うか知ってるか。魚のチョウチンアンコウ知ってるやろ。あれは光りに釣られて餌がやって来た思うたら、何でも食い付くんや。俺等も仕事や! 思うたら何でも食いつくからな」
 そう言いながら剣スコ(剣スコップ)で堀方(ほりかた。パワーショベルの補助的な作業)に勤しむおっさんは腰を伸ばした。
 多くのおっさんは、よほどキツイと噂の立っている現場以外は仕事を選ばない。今日もライトバンに揺られ行き着いた先は、ある時は建築中のビルのガラ出し(*6)。また、ある時は五寸釘が牙を剥いて散らばっている解体現場。さらに、珍しいもので冷凍船の港湾荷役がある。
「ここは昼飯に仕出し弁当が出るんや。しかも格段にええやつや」
 荷役作業の常連で来ているというおっさんが朝礼の合間に語りかけてきた。
「しかもここは一五(イチゴ。日当一万五千円)や。普通の現場より千五百円高いんや。まあ、仕事キツイよってそれだけの値打ちはあるんやけどな」
 防寒着に身を包み、港に停泊している船のタラップを伝い冷凍倉庫へ入って行くおっさん達。倉庫内は少しでも積み荷を動かしたら、凍った埃がキラキラと舞い始める。
「おいっ、入ったらさっさと積んでいかんかっ」
 班長と呼ばれている荷役会社の社員が、天井から見下ろしながら喚き散らしている。倉庫の天井は開閉式になっており、そこからクレーンで吊るされた盤が下りてくる。
 おっさん達は銘々に、倉庫内に高く積まれた米袋大の氷塊の荷を次々に盤に積んでいく。どこから来たのだろう、荷のパッケージにはFROZEN FISHとある。
「グギッ」
 その時、鈍い音とともに盤の横でおっさんが指を庇うように蹲った。他のおっさんが荷を盤に置く直前、重さに耐えきれず他人の手の上に荷を落としてしまったのだ。
 荷は一つ三十キロはあるだろうか。寒さと冷たさと重さで一時間も作業をすれば手の感覚も失せてくる。
 幸いにも蹲っていたおっさんは、暫くして顔を歪めながらも作業に復活した。
「ここはやり終いやからみんな必死で働くんや。今日は二十トン降ろしたら終わりらしいわ」
 常連のおっさんは涼しげな顔をしながら盤出しを続けている。一方、今日初めて冷凍船に来たというおっさんは、顔面の鼻水が凍りつき、被ったヘルメットからは汗の氷柱を垂らしている。

「おぅ、この盤引き上げたら昼飯にするぞ」
 班長の指示が飛んだ。やっとのことで皆、一様に昼まで持ち堪えた感が充満している。梯子を上り数時間ぶりに外気に触れると、倉庫内との気温差で心臓がキュッと軋むような音がする。
 ただ、各々に配られた昼飯は確かに仕出し弁当の中でも上等のものが出ている。極度に体力を消耗した反動で貪るように食らうおっさん達。食堂の片隅からは、反り舌の発音をする言語も聞こえてくる。中国語だ。
「あいつら無茶苦茶よう働きよんねん」
 常連のおっさんがさらにこう続けた。
「中国からどうやって来たんか知らんけど、ここで三日も働いて国へ戻ったら中国の一ヶ月分の給料になるらしいからなぁ」
 その中に福建省から来た親子がいた。たどたどしい日本語で挨拶程度しかできないが、身振り手振りで日本人ともコミュニケーションを取ろうとするその姿は、彼等の実直さをそのまま体現しているようにも見えた。彼等は日本で貯めたお金を元手に、中国で商売をするという。
「まあ、こういうキツイ現場は、カネに貪欲じゃないと勤まらんわな」
 常連のおっさんも自分も含めて、という素振りを見せはにかんだ。
「見ててみぃ。この昼休み終わったら、トンコ(*7)するやつ何人かおるで」
 午後一時、作業開始の号令が掛かった。常連のおっさんの予想通り、午前中は存在していた顔が数名消えている。だが、誰も気に掛けることも口に出すこともなく、作業は黙々と続いている。
 昼からは三時間弱の労働だっただろうか。やり終いの言葉に違わず、午後五時をかなり前にして作業は終了した。たかが数時間の労働だが、ギリギリの極限下で働いた者同志とも言おうか、今朝知り合ったおっさん同志でも不思議な連帯感が生まれていた。

 プシュッー。
 ひと仕事終えた帰りのライトバンの中では、缶ビールやワンカップを景気よく開ける音があちらこちらから聞こえてくる。隣に座っている赤ら顔のおっさんが屈託のない笑顔で話しかけてきた。
「兄ちゃん、明日の仕事は出るんか。俺は休むわ、今日は疲れたよって。手帳(*8)は持ってるから、カネの心配いらんしな」
 最後まで言い終わるか終わらないうちに、もう一杯グビッといっている。どんな仕事でも終わった後の一杯は格別にうまい。おっさんもカマに戻るまでにいい夢の一つでも見ることになるのだろう。

 善きも悪しきも、大も小も、清も濁も何でも拒絶せず飲み込んでしまうカマは、社会の底辺に追いやられた者に対し最後のチャンスを与えていた。
 十数年前のことである。
 ――現在、この街は非合法の薬剤が蔓延し、高齢化したおっさん達を食いものにする福祉ビジネスが横行しているという。日雇い仕事も全盛期の三分の一に激減し、街に活気は感じられない。
「もうここはあと十年もせんうちに終わりや」
 おっさんの一人が寂しそうに呟いた。




*1あいりん総合センター…あいりん職業安定所西成労働福祉センター大阪社会医療センターが入っている建物。七階建ての建物の一階が「寄り場」といわれる場所。毎朝、労働力の需給が交差する場となっている。
*2現金と契約…「現金」は一日限りの日当仕事。対して、三十日間などの「契約」仕事がある。自由度が高いカマのおっさん達はその日ポッキリの現金仕事を好む傾向がある。年度末の工事などが一段落し現金仕事が減ってくると、契約の仕事で手を打つしかなく、古今東西遠方の飯場に入ることになる。
*3やり終い…その日のうちの決められた仕事量が完了すれば終わりの仕事。作業現場の定時は午後五時だが、やり終いの場合、午後三時で終わる場合もある(日勤の場合)。
*4ドヤ労働者のための簡易宿泊所。快適に宿泊できる「宿(ヤド)」と対比し、不潔さゆえ自虐的に逆さ読みしたとも言われている。カマでは百軒ほどが軒を連ねる。安くはカプセルホテルのハシリのようなタコ部屋で、一泊五百円からある。
*5アオカン路上で寝泊まりすること。真冬は凍死の危険性がある。
*6ガラ出し…木片・コンクリート片など、建築中の廃材の片付け。
*7トンコ仕事には来たものの現場が予想以上にキツかったり、人間関係が思うようにいかなかった場合、途中放棄して逃げ帰ってしまうこと。日当は貰えない。
*8手帳日雇労働被保険者手帳。日雇い仕事に出勤すると雇用者から印紙を一枚貼ってもらうことができる。アブレ手当といわれる失業給付は、印紙26枚以上(二ヶ月以内)貼られていることが条件。なお、闇印紙といわれるニセモノを貼ったばかりに、手帳を剥奪される者も後を絶たない。


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