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 同級生を毒殺した。一度、人を殺してみたかったので。男が刃物を持って暴れ、通行人三人が死傷――など、今日もまた凄惨な事件が新聞紙面を賑わす。

 そこで加害者のプライバシーで真っ先に問題になるのが「責任能力」なる言葉だ。

 責任能力とは何か。「事の善悪を判断し、行動をコントロールする能力」といったところのようだ。刑法では責任能力が全くない状態の者を心神喪失者とし、刑事罰の適用外としている。また、部分的にしか責任能力が認められない者を心神耗弱者とし、刑の減軽を規定している。近年ではこの捉えどころの難しい精神構造について注目されることが多くなってきている。つい最近も人気俳優により、精神疾患を題材にしたドラマがゴールデンタイムで放送されたほどだ。

 なるほど、客観的に理解しようとするのは容易ではある。しかし、実際の患者は何を考え、どのような生活を送っているのだろうか。疑問点を解消すべく足を運んでみた。



 大阪東部にある病床数五百余の歴史ある病院。下町の古い商店街を抜けると目の前に高く聳え立つ。

 一階エントランス自動扉を抜けると採光を取り入れた明るいフロアが広がる。カフェテリアのような一角でくつろぐ人々。ここでは精神科病院という、筆者の偏見であった暗雲さは感じられない。

 エスカレーターで二階へ上ってみる。受付があり外来患者が見て取れる。

「それでは一週間分のお薬を処方しておきました」

 受付職員が患者対応をしている光景は一般の病院と大差はない。

 壁に掲げられているインフォメーションを確認すると、階上は入院病棟となっている。上方向のボタンを押したエレベーターではお見舞と思われる年配女性と一緒になり、押されていたボタンのフロアで女性に続き降りてみる。そこは一面ガラス張りの施錠されたフロアが広がっていた。

「こんにちは」

 看護師が腰に巻き付けた鍵で解錠、見舞客のチェックをしている脇を抜け奥へ進んでみる。

 フロア内では何人ものパジャマ姿の患者が目的もなく行き交っている。しかし、どの人物も目の焦点が合っていない。

 まさに“彷徨っている”

「人殺し」

 突然の怒声に声の方向へ目を向けると、患者がナースステーションに詰め寄っている姿が目に飛び込んでくる。

「私、もう薬は飲まない。人殺し」

 処方されている投薬に不満を爆発させている女性。看護師たちは窘める訳でもなく静かに見守る。

「早く部屋に戻りなさい。こっち、こっち」

 片隅では病室に戻ろうとしない患者に職員が手を引っ張り促す。フロアは彷徨える患者たちとその挙動を正そうとする職員の声が混ざり合い、何とも言えないざわめきとなって充満している。

 筆者を一瞥し無意味に仕草を真似てくる患者……。

 病棟の光景は隔絶された異質な空間であることは隠せない。

 面談室で缶コーヒーを片手に休憩をしていると、どこからともなく目前に若い女性が立ちはだかった。化粧気のない彼女は、着古したパジャマに裸足のままだ。

「何でしょうか」問い掛けてみる。

 言葉を発することが難しい彼女が指差す先には筆者の缶コーヒーがある。

「欲しいのですか」

 軽く頷く彼女に飲みかけのコーヒーを渡す。すると足早に立ち去り、心無しか困った表情を浮かべながら右往左往している。瞬間、ハタと気付いたように手に持ったコーヒーを捨て、洗面台の水道を手で受けがぶ飲みを始める。おもむろに顔を上げた彼女は、鏡に映し出された自分の姿に微笑みかける。

 拒食症だったのだろうか……。

 風が吹けば折れそうなその手脚はそう物語っていた。彼女は職員に幾度となく静止されても、暫くすればまた水道の蛇口を捻り出す。

 椅子に腰を掛けうなだれたまま微動だにしない者、湯呑みを携えあてもなく歩き回る者――。

「どなたかお待ちですか」

 職員に問われ筆者は我に返った。実際、患者たちの次の行動は予測不可能であり、早く場を立ち去りたかったのを後押しされた形となった。



 最終的に失敬ながら物見遊山的な観察に終わってしまった感は否めない。また、全ての精神療養患者が事件を起こすなどは全くの過大解釈だとは言える。

 患者の内面には踏み込めなかったものの、辛い過去の延長線上に現在があるのは想像に難くない。そしてその苦しみは如何ばかりなのだろうか、目の当たりにして想いを馳せる。外科的疾患ではなく目に見えない人間の精神というものは、容易に判断が下せるほど単純ではないようだ。


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