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 平成二十年四月某日、午前零時過ぎ――。シンと空気が沈む郊外のベッドタウン。車通りも疎らになった幹線道路にガタイのいい男が立ち塞がる。

「止まれ」

 ミニバイクに跨がり、帰路を急いでいた平凡な会社員 小林浩(仮名)は胃から腸が飛び出しそうな感覚に見舞われた。

 男は手に持っている赤い棒を小刻みに振り、小林を道路脇に誘導しようとする。徐々にスピードを落とせざるを得ないバイクに、男との距離はどんどん縮まっていく。その時、小林は仁王立ちになった男と道路脇の側壁には一メートル位の隙間があることを察知した。

 逃げるには今しかない……

男の間合いに入るか否かの瞬間、小林はエンジンを一気に噴かした。

 ガシャン――バリバリ。

 隙間を掻い潜って逃げようとした小林は見事、男に腰を捕まれ転倒してしまった。ヘルメットは被っていたものの、頭からの転倒で些か血が昇る。

「何をしてくれるんや」

 起き上がりざま小林は男に食ってかかった。

「止まれ言うたやろうが」

腰を掴んだ反動で尻もちをついていた男も起き上がり、イカツイ身体を揺らしながら歩み寄ってきた。周りに散らばっていた男の仲間も騒ぎを聞きつけて駆けつけてくる。

斯くして小林は絶体絶命の危機に陥った。

 その三時間前――。

小林は勤務先から駅を二つほどやり過ごしたラウンジでご機嫌なひと時を過ごしていた。ピンクのネオンに程よく薄暗い店内。その日はウィークデーということも相まって客足もまばら。綺麗どころのお姉さんも暇らしく、何時になく愛想がいい。

「明美ちゃんはカワイイねぇ」

 小林の両隣りには、煌びやかなドレスに身を包んだ蝶がとまっている。

「えぇー、本当ぅ? ありがとうー」

「ところで、カオリちゃんは歌手のアユミに似ていない?」

「うれしぃー。そんなこと言われたのはじめてぇー」

「じゃ、もう一度みんなで乾杯しよう。かんぱーい!」

 小林の前に置かれたブランデーのボトルはハイペースで空になっていった。

ふと気付くと、小林は肌寒い道路脇で屈強な男たちに取り囲まれていた。

「おい、お前。何で逃げようとしたんや」

先程のガタイのいい男が小林を見下ろしながら詰め寄ってくる。

「いいえ、逃げようなんてしていませんが……」

小林の脳ミソは、何とかその場を切り抜けようとフル回転していた。

「逃げようとしてたやないか。やましい事がない限りふつう逃げんやろうがっ」

男の口調はどんどん厳しくなっていく。交通量は少ないものの、行き交う車のヘッドライトで男の帽子や胸口のワッペンがキラリと光る。――菊の御紋。

「そやけどお前、酒の匂いがプンプンするぞ。飲んどったんやろ」

「いいえ、酒なんて飲んでいません」

取り繕う小林の口元に男が鼻を近づけてくる。

「どこが飲んでない言えるんや。完璧、酒の匂いしとるやろうが。取り敢えずお前、ここ、一直線に真っ直ぐ歩いて見せてみぃ」

男は小林を道路脇の縁石に沿って歩かせ、ふらつき具合をチェックしようとする。

「足元には来てないようやな」

 男がボソっと呟いた。

「当たり前ですよ。酒なんて、全然知りません。残業で帰りが遅くなって、帰りを急いでいただけです」

小林もアルコールに浸った回らない頭で必死の応酬を繰り返す。

「そうか……。飲んでない言い切れるんやったら、これ、膨らませてみぃ」

 小林に突き出されたのはチューブの付いたビニール袋。

「これ膨らませて証明してみぃ」

男の手前、どうすることもできなくなった小林は念じた。――俺の肺はアルコール分を咀嚼できる。可能だ。できる。

「見てみぃ。お前、0.5ml出とるやろうが」

 男が何やら装置を指差し睨みつけてくる。

「これは何かの間違いじゃないですか? その機械、故障しているんじゃないですか?」

「…………。よし、わかった」

男が頷き、丸太のような腕に巻かれたダイバーウォッチを確認しながら言った。

「午前零時二十五分、身柄を拘束する」

 小林の両腕に鋼鉄の、妙に冷たく硬い輪っかが填められた。

 黒と白のツートン色の車に押し込められるようにして着いた先は、この地域を管轄する警察署だった。

「こっちや」

 若い警官に前後をサンドイッチ状態にされ、署内の奥まった場所にある小部屋に通される。部屋の入り口には「取調室」との表札が掲げられている。

「ちょっとここで待っといてくれ」

 そう言い残し、若い警官はドアノブの鍵を掛けそそくさと立ち去った。

 事務机とパイプ椅子が一対、無造作に置かれただけの簡素な空間だ。暖房器具もないため、春先の真夜中は結構冷え込んでいた。暫くして一人の警官が入って来た。

 どこで飲んで来たんや――

 第一声、その警官は手慣れた様子で小林の対面にゆっくりと腰を掛けた。年齢的にも小林と同じ三十代半ば位と見受けられた。

「それはそうと、手が重いんですけど。そろそろ輪っかを外してもらえませんか」

 小林は、机の上に冷たい輪っかが巻かれた両手を差し出した。

「おお、そうやった。そうやった」

 警官がおもむろにポケットから鍵を取り出し輪を開錠した。

「でもなぁ君、今週は交通安全週間って知ってた?」

 そう尋ねられて小林はハタと気付いた。――しまった。すっかり忘れていた。

 道理で深夜にも関わらず、署内の雰囲気はやけに慌ただしかった。人の出入りが頻繁で無線も引っ切り無しに入っている。

「そうでしたんか……

 小林は肩を落とした。

「でも、飲んでませんけど……。ただ、あの体格のいいお巡りさんは私に向かって合図をしているんじゃないと思ったんで、ストップしなかっただけなんですけど……

 どうにかして未だ逃げようとする小林に、警官はふぅっと溜め息をついた。

「まあ、今日はええわ」

 警官が天井を見上げながら言った。

 ――何が今日は「ええ」んだろうか?

 小林は警官の言葉尻が気になりながらも、酒の話題は都合が悪いので、それ以上質問することはやめた。

 それからどれ位の時間が経ったのだろうか。警官との雑談ばかりで、怒られる訳でもなく、言い訳を聞いてくれる様子でもない。酔いも程よく醒めてきている。――酔っ払っていることがバレバレで一時、保護されたのだろう。

「もう、ぼちぼち帰りますよ」

 そろそろ睡魔が襲ってきた小林は腰を上げた。

「ああ、ちょっと待って。聞いて来るから」

 部屋を出て行った警官は上司にでも相談に行ったようだ。そう言えば、転倒してしまったバイクは故障していないだろうか。バイクの鍵も返してもらわなければいけないし……。

「お待たせ。この人たちに付いて行って」

 さっきの警官が、また別の警官二名を引き連れて戻って来た。

「それでは、さようなら」

 小林は軽く会釈をし、その二人に付いて行った。しかし、何か変だ。さらに警察署の奥の方へ進んでいる。

 ――そうか、裏から出るんだなぁ。小林はそう思った後ろで大きな音がした。

「バタン」

 一面鉄張りの、分厚い五センチはあろうかという扉が背後で閉まった。

「起床、起床!」

 図太い男の声で小林は目を覚ました。

――いててっ。

頭を前後に傾けただけで激痛が走る。酷い二日酔いだ。

しかし、いつもの寝起きとは違う違和感のある空間。湿気でカビ臭いくすんだ布団に包まっている。部屋の天井には監視カメラ。

そう、小林は檻の中に閉じ込められていた。

連行された時のままのワイシャツにズボン姿。ポケットの中の携帯電話や財布は昨晩のうちに取り上げられてしまった。ズボンのベルトも自殺防止のために。

 昨日は「もう、どうにでもなれ」と思っていたものの、一夜明けて酔いが醒めると大変なことになってしまったと実感する。

「あの……私、ここから出してもらいたいんですけど」

 小林は鉄格子越しに、他の房の世話に忙しく動き回っている警官に尋ねてみた。

「ちょっとこっちではわからん。ここは留置係やから」

 素っ気ない返答が終わらないうちに、また向こうへと立ち去って行った。

 ――そうか、留置されてしまったのか。でも、「留置」って何だろうか!? 

 今は歯磨き、洗面の時間らしい。留置係の警官たちは一つ一つの房の鉄格子を開け、収容されている輩に洗面所の水道を使わせている。留置場のいちばん端にある小林の房まで順番が回ってくるにはそう時間がかからなかった。

「この後、私はどうなるんですか」

小林は顔を洗いながら、横で動静を観察する警官に聞いてみた。

「君は昨日の夜、交通課から回されて来たんやろ。警察では四十八時間、勾留する権限があるんや。取り調べは早くて今日、今日じゃなかったら明日はあると思うけど」

「えっ!?」

 一瞬、小林は硬直してしまい動けなくなってしまった。

「先ずは取り調べが行われて、その後どうするかは交通課の判断次第なんやけど」

 警官が続けた。

 取り調べが明日までかかるかかもしれず、その内容次第でこの先、どうなるかもわからないということか――。

 人間、落胆の度合いが激しい時は全身の力が抜けるというが、当にこの時の小林がそうで、洗面が終わって再び檻の中に戻された時はへなへなと足元から崩れ落ちてしまった。

――どうにかしてここを早く抜け出さなければいけない。どうでもしてこの状況を打開しなければいけない。

未だ酔いの残る頭をシャキッとさせようと、鉄格子の配膳口から配られた朝食のコッペパンとコーヒーを無心に貪りながら一心不乱に考えていた。

このままシラを切り通すべきか、はたまた潔く全てを認めるべきか――。しかし、こうなった以上、どちらに転んでも好転するような見通しはつかなかった。

 ただただ時間だけが過ぎていく。いや、時計もないので時間もわからない。輩から「担当さん」と呼ばれている留置係の警官も「本でも読むんやったら言ってくれ」と文庫棚の本を指差し、それ以外、特に収容者に対し処遇があるようではない。

 グゥーゥ。

 小林の腹が音を立てる。昨日の飲み過ぎで下痢気味のようだ。

「担当さん、便所に行きたいんですけど」

 手持ちぶさたに巡回する警官に尋ねた。

「あぁ、自由に行ってくれ」

 確かにそれぞれの房に便所は設置されてある。ただ、しゃがみ込んで用を足す姿が外からはガラス張りで丸見えだ。

「いえ。そうではなくて、上半身丸見えじゃないですか。カーテンでもないんですか」

「そういうものはない。それはそういうもんや」

 小林は改めて自分が犯罪予備軍で、公の権力によって権利が制限されていることを実感した。

 房の小窓から見える外の風景は春そのものだ。小高い丘には桜が満開に咲き乱れている。

「昼食の準備してくれ」

 担当さんの仕出し弁当を配る合図で十二時になったのが窺える。

 とうとう昼になってしまった。午前中、指紋を両手五本指すべて採られたのと顔写真をバッチリ写されたこと以外進展はない。もしかして、最短でも明日以降じゃないと帰れないということか――。小林の額にも冷や汗が垂れてくる。家のことは、仕事のことは……

 簡素な仕出し弁当を平らげてからは再びすることがない。ボーっと房のじゅうたんに座り込む小林の方に担当さんの足音が近づいてきた。

「出てきてくれ。取り調べがあるそうや」

 やっとのことで物事が進みそうな小林は内心ほっと一息ついた。留置場から他の部屋へ移動するにあたって、また手錠が掛けられる。そして手錠を介して腰縄も打たれる。猿回しの猿そのものだ。

 取調室に連れて行かれ、腰縄をパイプ椅子にぐるぐるに巻き付けられる。

「交通課の刑事が来るから待っといてくれ。便所に行きたい時は呼んでくれたらいいから」

 担当さんはその場を後にした。

 待つこと二、三分。年配の刑事が一人入って来て椅子に腰を下ろす。

「君は警察官の制止を振り切り逃げようとした。飲酒運転の疑いもあり、アルコール検知器も反応している。しかし、君は認めない。よって悪質なものとして逮捕した」

 落ち着いた口調で説明が続く。

「今からその取り調べを始めます」

「但し、あなたには黙秘権があります。自分にとって不利な内容の発言はする必要もありませんし、答えたくないことは答えなくて結構です」

「では、昨日に引き続きもう一度、尋ねます。あなたは昨晩、酒を飲んで原付を運転していましたか?」

「……」

「イエスかノーかだけでも結構です」

 小林は年配刑事のオーラに、これ以上ごて続けても損することはあれど得をすることはないであろうことを直感した。

「はい、言われることで間違いありません。飲酒運転をしました」

 とうとう観念してしまった。

 以降、事務的に淡々と質疑応答が進んでいく。いつ、どこで、誰と飲み、なぜこういう経緯に至ったか――。年配刑事はパソコンに向かい穏やかに、時には諭すように調書を作成していく。

「おぅ、自分。あんなことしたらアカンやろう」

 ドアをバタンと開けて入って来るなり、別の刑事が小林を一喝した。同じく交通課の若い刑事だ。聞けば昨晩の捕り物の現場に居たという。

「自分なぁ、何で逃げようとするんや。危ないやろうが。酒を飲んでる上に人でも轢いたらどないなると思うんや」

 矢継ぎ早にどんどん小林を攻め続ける。

 小林は手錠を填められ、腰縄を椅子に括り付けられた身動き一つするにも困難な状態。しかも昨日は逃げようとしたとはいえ、腰を引っ掴まれ頭から転倒している。

「じゃあ、昨日の捕まえ方は問題ないんか!」

 小林も売り言葉に買い言葉、語気に勢いがついてしまい少々口論となってしまう。

 ――まあまあ。

 二人の遣り取りに聞き入っていた年配刑事が諌めるかのように場を制した。

「けれど君、あれは逃げることで証拠隠滅の可能性があるから仕方ないことなんや。あれでも君を掴んだ警察官も転んで打撲を負ってるんや。あと少しでも状況が酷かったら、公務執行妨害とってるところや。公務執行妨害で逮捕されたら二週間は帰られへんで」

 淡々と続けた。

「二週間は帰られへん」という言葉に、小林は一気に冷静さを取り戻した。

 昼から続いていた取り調べも二時間、三時間と過ぎ、年配刑事の腕時計の針が午後五時を回る頃、ようやく一段落した。

「よし。今から完成した調書を読み上げるから、間違いがあったら言ってくれ。平成二十年四月XX日、午後XX時XX分頃から大阪市XX区のラウンジXXで飲食し――」

 調書が読み終えられた後、小林は頷き間違いがない事の母印を書面に押した。

「君は充分反省しているようにみえる。取り調べはこれで終了します。しかし、今後、飲酒運転はしないように。原付と雖も立派な自動車や。自分はよくても他人を傷つける可能性は充分ある」

 年配刑事は最後に小林の頭にごつんと釘を打ち付けた。

「それでは、家に帰ってもらっても結構です」

 手や腰に巻き付いていた不自由な道具が外れた小林が警察署の正面玄関に向かって歩いていると、遠くの方で声が聞こえた。

「おーい、留置係に晩の仕出し弁当一名分、キャンセルするように言っておいてくれ」と。

 解放された当初は、何気無い日常生活の落とし穴ぐらいにしか捉えていなかった小林であったが、その後は否が応でも自分のやってしまった事の後始末に奔走する毎日となった。

 一ヶ月後――

免許停止に係る聴聞会への出席。行政罰である免許停止処分の決定。処分期間短縮のための講習会への参加。

 二ヶ月後――

 検察庁からの呼び出し、検察官取り調べ。刑事罰である罰金刑の決定。

 そのような中、唯一救いであったことは、人身事故や物損事故を起こしていない点であった。もし、人でも轢いていたならば……今まで体験することのなかった処分や刑罰、そして講習を経て、小林は背筋にゾクっとするものを感じていた。

 生暖かい夜風を浴びながら、小林はアップダウンの激しい道のりを急いでいた。自転車で息も絶え絶えになりながらも爽快な気分である。なぜなら今日は免許停止の満期明け。取り上げられていた免許が返却される日だからだ。

 見覚えのある警察署の玄関をくぐるとヤツがいた。小林を怒鳴り付けた交通課の若手刑事だ。ヤツは夜遅くにも関わらず、今日も同僚たちとパソコンの画面を見ながら何かしら打ち合わせに奔走している。

「はい、何でしょう」

 受付近くにいた警官が小林の方に歩み寄って来た。

「あの……、これお願いします」

 小林は、免許センターから配布された免停満了を証明する書面を差し出した。

「解りました。少々お待ちください」

 警官は、足早に交通課の方へ進んで行く。書面を手渡されたヤツは、小林に鋭い視線を向けると打ち合わせを中断し迫って来た。

「講習受けて来たんやな。もう二度と飲酒運転はしたらあかんで。人生台無しになってしまうよって」

 ヤツは小林の免許と一緒に、爽やかな笑顔も置いて仕事に戻って行った。

 平成十八年八月、福岡県で発生した一家五人死傷事故以来、当局は飲酒運転撲滅をスローガンに掲げ、更に二十一年六月の法改正により厳罰化された。

我々は自由という権利を行使できる反面、社会のルールを守らなければいけないという義務もある――今更ながら小林は身を以て痛感した。



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