和珥氏
赤土山古墳 雄略天皇、継体天皇と深い血縁  越前・若狭紀行
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   天皇家と婚姻関係を結んで勢力を広げるやり方は後世の蘇我氏や藤原氏にも見られるが、その先駆けが和珥(わに、和邇、和爾とも)氏である。応神天皇から敏達天皇まで7人の天皇に9人の后妃(こうひ)を入れ、葛城氏と共に古代大和政権の二大姻族だったが生まれた皇子達は皇位につかず皇女が后妃になることがあった。

 
雄略天皇と和珥臣深目(ふかめ)の娘・童女君(おみなぎみ)の間に生まれたのが春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)であり、春日大娘皇女と第24代・仁賢天皇との間に生まれたのが継体天皇の皇后となった手白香皇后(たしから、手白髪)なので手白香皇后は古代に大きな足跡を残した第21代・雄略天皇の孫である。更に和珥臣河内の はえ姫 が継体天皇に輿入れしていて和珥氏と継体天皇は非常に濃い血縁関係にあった
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 東大寺山古墳群(東大寺山古墳、
赤土山古墳、和爾下古墳)は4世紀末〜5世紀初頭の築造で和珥氏を葬ったとされる。すぐ近くに天理市和爾町の集落や和爾下神社がある。初期大和政権の2大首長として奈良盆地東北部から京都盆地北東部で和珥氏が、奈良盆地西南部では葛城氏が勢力をふるった。

卑弥呼は元々、鍛冶屋の集団である和爾氏の女性だったのでは。蘇我氏が覇権を掌握する前に、和爾氏は最も大事な氏族だった。」(山尾幸久・立命館大学名誉教授)

 
和珥氏は6世紀後半に春日、小野、柿本、粟田などに分かれたが、そこから宮廷歌人・柿本人麻呂、歴史上最も著名な外交官の一人といえる遣隋使・小野妹子、稗田阿礼、小野篁、小野道風、小野小町などを輩出した。
   2001年、赤土山古墳から円筒埴輪(高さ1.1m)や上部が広がった形をしている
朝顔形埴輪(高さ1.4m)12個が出土した。初めは古墳の上に並べられていたが地震の地滑りで埋まり割れた。地震は過去2回あり、1回目の地震は埋まった埴輪の風化が少ないことから古墳が作られて間もない5世紀初め、2回目の地震は887年の南海地震であろうと推定される。破片の全てが残っていてこれ程完全に残った状態で発見されるのはこれが最初で最後だ天理市の担当者は力説する。
ご案内参考資料 
福井県史 和珥氏
赤土山古墳から東大寺山古墳(左向こうの山)を望む  建物はシャープ総合研究所 これ程完璧な朝顔形埴輪はこれが最初で最後 2001年12月2日