近松門左衛門          越前・若狭紀行
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  日本のシェークスピアとも言われる脚本家・近松門左衛門(1653年〜1724年)の出生地については、かつて三河、京都、近江、山口、雲州近松村(出雲) などの諸説があったが今では鯖江説(福井県鯖江市)が定説である。 彼は、福井藩の支藩であった吉江藩に仕える杉森信義の次男・次郎吉(幼名、元服後は信盛)として福井で生まれ、幼少時代を鯖江の風土の中で過ごした後、15才頃に何らかの都合で浪人となった父と共に一家は上京したと推定される。歌舞伎や人形浄瑠璃(現在の文楽)の脚本家であり、小説の井原西鶴の11歳年下である。俳諧の松尾芭蕉も同時期に活躍した人である。当時の脚本家の社会的な地位はすこぶる低いものであったが、京の都の華やかで先進的な文化に触れて成長した近松は公家(くげ)に仕え、更に劇作家としての素養を磨いた。

  近松41歳の時、百人一首に「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」の名歌を残し、福井県越前町(旧宮崎村)に墓が(地図案内)伝わっている蝉丸(?〜?、平安時代中期の歌人)を描いた『蝉丸』(せみまる)の脚本を世に出した(1693年)。元禄以前から北国第一の遊郭とされた越前・三国を舞台とする『傾城仏の原』(1699年、けいせいほとけのはら)には上方の名優・坂田藤十郎が主演し大好評を得た。その後大阪に活躍の場を移し、人形浄瑠璃の『曽根崎心中』(1703年、そねざきしんじゅう)、「傾城反魂香」(1708年、けいせいはんごんこう)、『国姓爺合戦』(1715年、こくせんやがっせん)など多くの傑作を世に出した。それまでは歴史上良く知られた人物や事件を取り上げた「時代物」が主であったが、庶民の悲喜こもごもを題材にした「世話物」である『曽根崎心中』は実際に身近に起こった若者の悲恋・心中事件をリアルに描いた脚本であり、当時の多くの人々が涙したと言われる。

この世の名残 夜も名残 死にに行く身をたとふれば、
  あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く  夢の夢こそ哀れなれ
    あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて  残る一つが今生(こんじょう)の 
      鐘の響きの聞き納め  寂滅為楽(じゃくめついらく、死ぬ事で安楽になる)と響くなり

                                                       『曽根崎心中』
 時は七つ(午前3時)、お初と徳兵衛が二人の心中の地となる露天神
社(お初神社)へと向かうシーンが七五調の巧みな名文で描かれている。
 近松作品に於いて、芸は実と虚構の皮膜の間にあるという「虚実皮膜論」
がよく知られる。      

「近松門左衛門先生由縁之の地」と揮毫された水上勉氏の碑 近松門左衛門翁記念碑(左)と大阪市立大学・森修教授の碑
(鯖江市立待公民館敷地内)