秀吉の養子となった秀康を待っていたのは周囲の冷たい視線だった。ある日、秀康はとんでもない事件を起こしたが、それをきっかけに秀吉のもとで居場所を見つけ、勇猛果敢な若者に育った秀康を秀吉は可愛がった。しかし、1589年秀吉に実子・鶴松が誕生すると一転して秀次(1595年7月秀次切腹、その幼児や妻妾達39人は8月に三条河原で公開処刑。瑞泉寺のサイト(外部サイト))ら他の養子と同様に秀康も不要になった。それは家康にとっては秀吉から秀康を取り返すチャンスであり、秀吉にとっては家来とは言え手強い家康に秀康をつけて関東へ追っ払い、関東開拓に莫大な金を使わせる好機だった。家康、秀吉、結城という三人の父を持った秀康の人生はこの世に生まれた時から波瀾に富んだ。
 
 福井県はNHK大河ドラマの誘致に熱心(外部サイト)だが
大河ドラマに推薦するなら劇的な人生を送った秀康の方が断然面白い。

 
『越前宰相 秀康』 (梓澤 要、文藝春秋)     TOPに戻る  越前・若狭紀行
   
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「皆の者、よう聞け。わが子秀康を侮るは関白への反逆、しかとそう心得よ。また此度のごとき不始末あらば、本人のみならず一族郎党ことごとく累罪といたす」
 ・・・・・秀康は長いこと大広間にひとり座りこんでいた。凍りついたままだった血がようやく溶け、全身を温めながら流れ始めていた。
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やっと自分の居場所が見つかった。関白の側がわしの在るべき場所だ。わしは関白の子なのだ。心底そう思えた。
 
 植松三十里は東京女子大学史学科卒の女性作家。女性作家特有の繊細な感性で人物心理を鋭く描く。 『家康の子』は福井新聞で連載された。
 結城は宇都宮の近く、奥州に向かう入り口にある要地である。結城城主・結城晴朝(ゆうき はるとも、1534~1614)は徳川家康からの密使・本田作左衛門(1529~1596、通称は重次、激しい性格で鬼作左、長篠の戦いで「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」)を迎えていた。
  結城家へ秀康を婿入りさせて関東に拠点を造り、頑敵である北条氏討伐(1590年の小田原征伐)を目指す秀吉の腹案を結城晴朝に持ちかける緊迫した場面。※本多作左衛門の子が初代丸岡藩主・本多成重(なりしげ、仙千代、1572~1647) 

家康の子(植松三十里、中公文庫)                                  
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晴朝は、なおさら仰天した。大大名の徳川家康の実子というだけでなく、関白豊臣家の養子でもある若者を貰うなど、にわかには信じがたい。
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「実質十万石は、お約束致しましょう」
 あまりな高に言葉を失った。
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「結城の家名は残るのでございましょうな」
「それは無論のこと」
 信じがたい好条件に、晴朝は黙り込んだ。その怪訝顔に気づいて、作左衛門が言った。
「何もかも腹を割って、お話ししましょう。実は、
わが殿は、今度の北条攻めが終われば、関白さまから、関東への移封を命じられるだろうと、覚悟しておいでです」
 
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