世説新語

南朝・宋 劉義慶 撰
梁    劉孝標 注
中国   徐震堮 校箋

底本 『世説新語校箋』(徐震堮 中華書局)

政事第三

本文

えちぜん注

賈充初定律令,與羊祜共咨太傅鄭沖。

晉諸公贊曰:「充字公閭,襄陵人。父逵,魏豫州刺史。充起家為尚書,遷廷尉,聽訟稱平。晉受禪,封魯郡公。充有才識,明達治體,加善刑法,由此與散騎常侍裴楷共定科令,蠲除密網,以為晉律。薨贈太宰。」

王隱晉書曰:「沖字文和,滎陽開封人。有核練才,清虚寡欲,喜論經史,草衣緼袍,不以為憂。累遷司徒、太保。晉受禪,進太傅。」

賈充は初めて律令を定めるにあたり,羊祜と共に太傅である鄭沖に相談した。

『晋諸公賛』に「賈充は字を公閭といい、司州平陽郡襄陵県の人である。父の賈逵は魏の豫州刺史であった。賈充は招聘されて尚書に任命され、廷尉に転任した。裁判が公平であると評判であった。晋が禅譲を受けた時、魯郡公に封ぜられた。賈充は才知と見識があり、政治に詳しく、しかも刑法にも通じていた。そこで散騎常侍 裴楷と共に法律を定め、煩雑な法律を簡素化し、これを晋の法律とした。薨去し太宰を追贈された。」とある。

王隠『晋書』に「鄭沖は字を文和といい、司州河南尹開封県(後の司州滎陽郡開封県)の人である。物事を究め通暁する才能があり、〔性格は〕清廉で欲が少なく、好んで経史を論じ、粗末な衣服でも、気に病むことはなかった。昇進して司徒・太保に転任した。晋が禅譲を受けた時、太傅に昇進した。」とある。

沖曰:「皋陶嚴明之旨,非僕闇懦所探。」羊曰:「上意欲令小加弘潤。」沖乃粗下意。

續晉陽秋曰:「初,文帝命荀、賈充、裴秀等分定禮儀律令,皆先咨鄭沖,然後施行也。」

鄭沖は「皋陶が定めたような厳しく公正な法律を尋ねられましても、私は愚かで道理に暗くお答えできません。」と言った。羊祜は「帝はやや緩やかさを加えることを望んでおられます。」と言った。鄭沖はそこで大まかに意見を述べた。

『續晉陽秋』に「その昔、文帝は荀顗・賈充・裴秀等に礼儀・律令を分担して制定するよう命じると、皆まず鄭沖に相談し、その後施行した。」とある。

<更新履歴>
2004.06.28:第一版。