論語
魏 何晏  集解
宋 邢昺  疏
底本 『十三経注疏 論語注疏』(阮元 中華書局)
子張第十九
本文
えちぜん注
子夏曰:博學而篤志〔集解一〕,切問而近思〔集解二〕,仁在其中矣。
〔集解一〕孔曰:廣學而厚識之。
〔集解二〕切問者,切問於己所學未悟之事。近思者,思己所未能及之事。汎問所未學。遠思所未達則於所習者不精,所思者不解。
〔疏〕子夏曰:博學而篤志,切問而近思,仁在其中矣。○正義曰:此章論好學近於仁也。博,廣也。篤,厚也。志,識也。言廣學而厚識之,使不忘。切問者,親切問於己所學未悟之事,不汎濫問之也。近思者,思己所未能及之事,不遠思也。若汎問所未學,遠思所未達則於所習者不精,所思者不解仁者之性純篤。今學者既能篤志近思,故曰仁在其中矣。
子夏は次のように言った。「広く学びしっかりと記憶し、丁寧に質問をして自分のこととして考える。仁はそのような行いの中にあるのだ。」
〔一〕孔安国曰く、広く学びしっかりと学んだことを覚える、ということ。
〔二〕「切問」は、自分が学んでまだ十分理解していないことを丁寧に質問すること。「近思」は、自分がまだできていないことについて考えること。学んでいないことをひろく質問し、できないことを〔できるようにと〕遠く思って(あこがれていて)いては、習ったことは完璧にならず、考えたことは理解できない。
〔疏〕子夏曰:博學而篤志,切問而近思,仁在其中矣。○正義曰く、この章は学問を好むことで仁に近づくことを論じている。「博」は広いである。「篤」は厚い(程度が高い)という意味である。「志」は,識る(覚える)という意味である。〔孔安国が〕言う「廣學而厚識之」は、使って忘れないということだ。「切問者,親切問於己所學未悟之事」は,なんでも質問するということではない。「近思者,思己所未能及之事」は、考えることを遠ざけないということだ。「汎問所未學,遠思所未達則於所習者不精,所思者不解」は、仁者の性質が真心があって人情に厚いものであることを理解できないということだ。今、学ぶということは、しっかりと記憶し(篤志)、できていないことについて考えている(近思)ということなので、「仁在其中矣」というのだ。
<更新履歴>
2006.03.31:第一版。割り注は現代標点に改めた。