1997.11.21 VICL-35010 SPEEDSTAR RECORDS \1,020



ジャケット+デザイン


デビューシングルの「カウントダウン」とは大分違い、
このジャケットでは大人っぽい表情で落ちついた雰囲気のCoccoが印象的。
これだけ見ると、確かに97年頃に"個性派女性アーティスト"としてブレイクしていたUAやCHARAなどの系統の歌手と思われても仕方ないかも。
(Coccoはデビュー当初、顔やルックスからかUAの二番煎じというイメージを持たれていたことがあったらしい。
ちなみにブレイク時は、同時期にブレイクしていたMISIAと混合され、R&B歌手だと未だに一部では誤解されているそうで
CoccoにR&Bは歌えないでしょう、と思わずツッコミをいれてしまいたくなります。)

それでも服装はやはりいつもの水色ジャージ、というニヤリとさせるところがあるけれど。

後ろに見える街並みは東京でしょうか、沖縄でしょうか。
私はどちらかと言えば歌詞に通じる『宝島』である東京ではないかと思っています。
もしかしたらその他の地域かもしれないし、確証はないのですが。

個人的にはタイトル字体、CDの銀色、がCoccoのCDの中でいちばん好みだったり。
歌詞カードの色も、「海」がキーワードではあるけれど
すぐに連想する真青な清々しいものではなく、すこし濁ったような不安をかきたてる色なので
ある意味イメージにぴったりだと思います。





1. 強く儚い者たち  作詞:こっこ 作曲:柴草玲 編曲:根岸孝旨


冒頭からいきなりゴリゴリとしたギター音に、ロック系かと思いきや
「ブーゲンビリア」までのCoccoにはなかった穏やかな、リズムを刻むサウンド。
恐ろしいほどの感情を吐き出すというイメージからはがらりと変わった楽曲に、発売当時戸惑ったファンも多かったようです。
しかし結果的にCMから流れる『飛魚のアーチをくぐって〜』という爽やかなフレーズに、うっかり癒し系ソングと思い込んだ数多くの人々が
このCDを手にとり、驚き拒否した者・その毒に魅入られた者と分かれ、
良くも悪くも「Cocco」という歌手を深く世に印象付けることになったわけですが。

(余談ですが、後に作曲の柴草さんはこの曲は詞先(詞を先に作成すること。通常では曲先であることの方が多い)
であったということをインタビューで語ってらっしゃいました。
Coccoが初めから詞の字数を合わせた状態で作ってきたのか、それともメロと合わせたあと最終的に言葉を削っていったのか、
どう製作されたのかは分かりませんが、私としてはどちらにしてもCoccoらしくないなあと思ったのでなかなか意外な証言でした)

音については、他にも丁寧な仕事の跡が見え隠れしており聴いていてとても楽しいです。
単調なリズムが刻まれている大人しいAメロやBメロの間に、
ハープや、控えめだけど言葉を強調してくれるようなキーボードの音色、
Coccoの楽曲にしては目立つコーラス(とくに『ゆっくり休みなさい』の部分なんて、誘うように囁いていて素敵だ)
サビの何かがすり抜けていくかのような効果音、と様々で、ヘッドホンなどで聴くとより面白い。
私はこの曲、ヘッドホンで聴くとベースの重低音がくせになります。悠々とした波を表しているようなギターも好き。

Coccoの歌唱は、里帰りしていた沖縄から東京に戻って最初のレコーディングだったからか
緊張しているような、それとも「歌い方を忘れた(本人談)」ためのまっさらな状態なのか
「ブーゲンビリア」のときの歌唱とは少し違った感覚がします。
もしかしたら一度全て吐き出したことによって、Coccoの張りつめたものが一瞬だけとけた、
その短いリラックス期間に録音された貴重な歌声だったのかもしれません。

歌詞は、初期のCoccoらしい物語風。
太田裕美さんのヒット曲「木綿のハンカチーフ」の逆バージョンっぽい、と実は密かに思っていたり。
インタビューなどによるとすでに「カウントダウン」以前にあったそうです。

特徴的なのは語り部役ではく、Coccoが登場人物の一人として歌詞の中に存在すること。
愛する人との未来のために海へ出た、疲れた男を癒す女として
男に直接関わってくるので、その言葉からか「実は男を好きになったから誘惑しているのでは?」という解釈もあるのだそうで。
自分は、女にそのような気はなく「人間は、たとえ愛し合い固い誓いを交わした者がいたとしても
離れて寂しさを我慢できなければ、それを大義名分にし、近くにいる人間に満たしてもらうことを望む。
結果、そうして愛する者を裏切ったとしても、時が経てばそのことを忘れて平気で生きていく」という
"愛する人を裏切っても(また裏切ったことによって)自分が傷つかないための強さ"を、男にわからせようと必死になっているように感じます。
「私もあなたと同じようなことがあったからよ」といった、自らの体験と重ね合わせているような。
(なので、『甘いお菓子をあげましょう 抱いてあげましょう』も男に対して、慰めてあげるから早く気付きなさいと言っているように感じる)

誘惑説を助長させているのは、男が辿りついた場所の表現のせいでもあるように思えます。
朝陽が美しい港、住みつく人もいる・・・などのキーワードから、まるでここが沖縄であるかのように捉えて
そこへ労いながら現れる女は地元の者だろうから、恋人のもとへ帰らせたくないため、男に残酷な言葉を吐いているのでは、という。

けれど私は、この場所は沖縄ではないと考えています。
男はすでに宝島(単純に考えると東京でしょうか?)に着き、長い旅路に疲れているところに
同じように愛する者との約束を胸に辿り着いた、または夢を追って辿り着いた先人たちと出会う、
そこは自分の苦労や、気持ちを理解してくれる者たちが沢山いたためか、まるで故郷のような安息の地と化していた、
そして一人の女がやさしく声をかけてきて・・・といったことで、「ここ」がまるで懐かしい楽園みたく感じられるのだと思う。
でもそこは本当は楽園などではなくて、なにかを失い、悟り、諦めてしまった悲しい者たちの巣窟に思える。

最近になってふと思ったことなのですが
私はずっと、この歌でうたわれている『強さ』は
人間らしい、汚くて真当な図太さの意味でしかないと考えていたのですが
(少なくとも二番のラストはその意味で間違いないと思います。
話がそれますが『腰を振ってるわ』の英訳が『would be shaking her hips with someone』なので直接的すぎて笑えてしまう。
そういえばこの部分、恋人のことなんか忘れて楽しくダンスをしていると思っている方がかなりいて驚いたことがあります。
一発で意味をそっちに持っていった、当時中1の自分はすでに汚れていたのだろうかとちょっと複雑・・・)

もしかしたらタイトルや最後の『人は強いものよ』という言葉には、本当は美しい意味での『強さ』も込められていたのではないのだろうかと。
男は、女に現実はこんなものよと言われても、それでも恋人は待っていてくれていると信じていたのかもしれない。
この二つの、どちらも人間らしい、愚かで哀しい強さが、実は秘められていたとしたら
野蛮で残酷な現実をうたった歌というだけではない、また違った魅力をもった歌だったのではと感じます。

ただ、どちらの意味が込められていようとも
美しかろうが汚れていようが関係なく
所詮人間はあっという間に死んでしまう儚い生物だという、曲げようのない真実には到底勝てないのだけれど。





2. 晴れすぎた空  作詞:こっこ 作曲・編曲:成田忍


Coccoの曲のなかで最も打ち込みが目立つ歌かも。
この作品はメジャー楽曲で唯一、根岸さんがサウンドプロデュースをしていないため、かなり他の楽曲とは違った雰囲気があります。
Coccoチームが動き出して、かなり初期段階の、イメージを模索している頃のものなのではという感じ。
(癒し系と不思議系、ウイスパーボイスの一癖ある言葉をうたう歌手みたいな位置付けを狙っていそうな)
成田さんは人気曲の「遺書。」を作曲している人ですね、
どこか浮遊感があり、掴み所のない心細くなるような(その一方で可愛らしいポップさもある)曲を作る人のように思います。

歌詞はbounceのコラムに掲載された「腕」を連想させます。
殺める、という鋭い言葉を使ってはいますが
やわらかなメロディか、それとも成長段階の詞のためか、迸るような愛憎はあまり感じられません。
少し上手くまとまりすぎていて、良い子ちゃんになっているような気さえします。
けれどやはり、風景描写する上の言葉の使い方はお見事。

しかしよく考えてみると、落ちついてしまっているように見えるのは
「晴れすぎた空」を目の当たりにしているせいなのかも知れない。

Coccoにとって、後悔することは痛みを引き受けてでも避けたいことなのではと思うので
(「あの時こうすればよかったのに」などという言い訳じみた惨めな感情は
なにが起こっても全部自分が選んだことなのだからという、Coccoの覚悟の精神を裏切るものになると思う)
この詞の「どうして」という想いは、後悔と言うほどの強いものではなく、今起こり得てほしいという願いなのでもなく、
祈りのようなか細い、思い出の中の愛へのありえない期待、夢見る気持ちなのではないでしょうか。
その思い出をよみがえらせてしまったのが、
素知らぬ顔で永遠などないという現実を気付かせた残酷さと、
圧倒的な存在感で自身の無力さを思い知らせる、いつか見た「悲しみなど受け入れる甘さなどないほど、完璧に晴れ渡る空」であったという。

Coccoはいつも、こんなふうに自然に
厳しさも正しさも優しさも教えられて、学んで、きっと生きてきたんだろうな。

蛇足ですが、何故かこの歌詞は途中から「私」が「わたし」とひらがな表記に変わっています。
意図的だとすれば思い出の中でさまよっている様を表現しているのだろうか?
しかし、ただ書いているときに自然にひらがなになってしまってそのまま、というオチの方が大いにありそうだ。



















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