サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

144.昭和レトロ

 最近、昭和30年代から40年代が「昭和レトロ」と言って注目されているらしい。
 早速、インターネットで調べてみるとなるほど「昭和レトロ」をテーマにしたサイトがたくさんあり、内容は昭和30年代・40年代の家庭用品から玩具の類まで、ついこの間までしょうもないガラクタであったものが、貴重がれているらしい。
 聞くところによると、「昭和レトロ」をテーマにした町まで出現していると言うから、単なる物好きの集まりだけと言うことではないのかも知れない。

 なぜ今時、「昭和レトロ」かと言うと、当時は国も個人も便利さや豊かさを求めて、先進国に追いつけ、追い越せと進むべき目標がはっきりしており、この国全体にバイタリティーがみなぎっていた。そのことが先行き不透明の今の時代に受けているらしい。

 ただ、翻って見ると、時代遅れや、新製品の流れの中で忘れ去られたものの中に、日本人が持っていた固有の文化までも捨て去ったところもあり、単なるノスタルジアだけではなく、急ぎすぎた時代への反省があるようだ。

 思えばちょうどこの頃に青春とひとり立ちの時期を生きた人間にとって多少面映いところがあるが、甘い思い出や苦い思い出のある複雑な時代でもあった。

 私が子供の頃は今の様な牛革のランドセルなどなかった。馬糞紙のようなものにエナメルを塗ったランドセルの中で、アルミ製の筆入れをカチャつかせて学校に通ったものである。筆入れには何本かの鉛筆と「肥後守」のナイフが入っていた。折り曲げると刃は鞘の中にしまい込まれ、手元にある小さなレバーを引くと刃の部分が出てくるのである。

 高学年が上がると「肥後守」は、鉄板を斜めにカットして刃をつけた切り出しナイフに変わった。切り出しナイフは、かなり鋭利な刃物だったが、ナイフを使った傷害事故などは聞いたことがない。ただ、これらのナイフで怪我もしたが、学校でも家庭でも様々な用途に使われ、やがて鉛筆削りが出現し、手回しから電動になって、日本人は器用さを失った。

 中学生も上級になると今までの鉛筆から筆記具に万年筆が加わった。詰襟の学生服の胸ポケットに万年筆を挿しているのが当時の中高生のあるべきスタイルであったのかもしれない。

 当時の万年筆はインクを入れるタンクとそれを押し出す水鉄砲のようなポンプがついていた。万年筆の後ろのねじを回して慎重にポンプになるシャフトを押し出すのであるが、いつもわずかにもれて、指を青や赤に染めていた。

 その後、インクタンクはゴム製に変わり、ポンプは胴体部分にレバーがつき、これをテコの原理でタンクを押す方法に変わり、その後カートリッジに変わった。
 ただ、インクは種類が変わると色が悪くなるため、そのつど分解してきれいに洗浄した。当時は交換用のペン先なども売られており、暇さえあれば万年筆の手入れをしていたような気がする。
会社生活の第一歩はワイシャツの袖を汚さないための腕に手甲をしてGペンを使っていたが、やがて筆記具はボールペンに変わって、すべての若者の字が下手になった。

 高校時代、同級生の中で腕時計を持っていたのは何人いたろうか。学生服の袖を粋にめくり、腕時計を覗き込む、すかした姿は憧れの的でもあった。
 高校三年になってやっと兄からお下がりをもらったが、当時は時計の進み具合は裏蓋を開いて調整するなど、命の次に大事なもののような気がした。
 尤も、社員旅行などで、腕時計を貴重品として金庫の中に入れていたのはそれほど古い話ではない。機構もゼンマイ巻きから自動巻きに変わり、更にクォーツに変わって、時計は雑貨に変わった。それとともに時間にルーズになったような気がする。

 子供の頃は稽古事の必須は読み書き算盤で、算盤の一本や二本はどこの家庭にもあった。とりわけ親父のごつい五つ玉は学校に上がる前は、格好の遊び道具で、この上に乗ってよく怒られた。
 その後、高校では技量を競い合い、友人の名人芸に目を見張り、ため息をついた。電卓が普及した後も、子供が義務教育を終わるまで頑強に拒んだが、商店の景品に付いてくるようになってからは諦めたが、それとともに計算に強いはずの日本人が、数学弱者の国に転落した。

 喫煙具のライターなども男のこだわりの一品ではなかったろうか。駐留軍からの払い下げのジポーなどはいかにも男臭い一品で、あのキャップを開くときの音と顔にかかるガソリンの匂いがたまらない魅力があった。タバコを吸う習慣はこれらの喫煙具を使ってみたいということも一つの動機であったかもしれない。やがて百円ライターが出現し、ささやかな男のダンディズムが消え、タバコ産業が終焉を迎える。

 カメラというのも一種のステータスシンボルであったかもしれない。戦後初めて出てきた国産カメラは箱型の二眼レフカメラではなかったろうか。観光地では、大きなカメラを襷掛けに肩からぶら下げ、得意然としている親父達の姿がどこにもあった。
 私が始めてカメラを手にしたのは入社して四年ほどもたった頃だったろうか、それでも一月の給料では足りなかった。

 当時は勿論モノクロ写真で、セピア色に変色した当時の写真を見ると「昭和レトロ」そのものである。その後カラー写真の時代に変わり、日本人のイマジネーションは貧弱になった。また、馬鹿チョンカメラが出てきてから日本人は写真をとるとき気取った顔をすることをしなくなった。

 これは物ではないが、かつては互いに切磋琢磨しあい、日本経済発展の推進力となりながら、その後はスローガンだけで、ただ飯を食うだけの団体になり下がってしまった労働組合なども「昭和レトロ」といえるのかもしれない。

 かつて、「明治は遠くなりにけり」と言う言葉があったが、今では昭和も懐かしむ時代になり、斯く言う私も近頃、昭和レトロから昭和レトルトに変質してきたのかもしれない。(04.01仏法僧)