サイバー老人ホーム

2.飯田線で行く

 今年(平成21年)になって飯田線に乗る事になった。それと云うのも、もうかれこれ二十以上年前から、私の兄弟集まって毎年兄弟会というのをしている。

 尤も初めのころは毎年ではなかったが、段々生き残った兄弟も少なくなり、人生の残りも少なくなったので、何年か前から毎年行うことになった。

 私の実家は信州、兄弟すべて戦時中の生まれであり、両親は貧農ながら国策に沿って奮励努力した結果、男女合わせて九人もの子沢山を設けた。

 したがって、兄弟会とはいえ、それぞれの連れ添いを含めると十八人にもなり、今時では田舎の小学校の一学年の生徒より多い事になる。

 しかし、戦後の食糧難が祟ったのか、またたく間に親の年齢を超える事もなく、八人が早々とあの世に旅立ってしまった。その上、最近は残った中でもお決まりの足が痛い、腰が痛いで、更にはボケも加わり結局十人が生き残った。

 前置きが長くなったが、そこで毎年問題となるのがどこでやるかと云うことだが、どこか一か所に住んでおればさして問題ではないが、信州、関東、中京、関西とばらばらである。今までは、人数的にも多少まとまっている信州を中心としてやってきたが、ここまで来ると簡単にはまとまらない。

 それで、最終的に、奥三河茶臼山休暇村に決まり、次がそこへ行くまでの足をどうするかと云うことになり、関東の兄夫婦と私のところが飯田線で行く事になったと云う次第である。

 飯田線にはまだ若造だった頃、仙丈ケ岳の登った時にほんの少し乗った事があるが、伊那北だったか、駒ヶ根だったかほとんど記憶にない。ただ、駅間隔が短く、おまけにトンネルが無暗と多いということは聞いていて、今までの趣旨からいうと退屈な線路と云うことになる。

 それでも敢えて飯田線で行こうと云うのは、一度この退屈な飯田線の各駅停車に乗ってみたいと思ったからでる。どうしてそういう心境になったかと云うと、今までのように車で行く体力が無くなってきただけの事である。

 それなら、もう少し早く、便利な特急とは言わないまでも急行があるではないかと思われるが、然に非ず、飯田線には一日に一往復の特急しかなく、それも飯田までである。

 そこで詳しく調べてみると、区間は豊橋から信州辰野までの百九十六キロで、途中に九十四の駅かある。従って、単純に一駅間の距離は二キロと言う事になる。おまけにトンネルが凡そ百五十もあり、ローカル線の典型みたいな線である。

 この飯田線は明治三十年頃から開発が始まって、私が生まれた昭和十二年ごろに全線開通になっている。そもそも、天竜川の佐久間ダムなどの開発を目的にした鉄道だが、信州ではいち早く電化されており、子供の頃の印象では我が故郷の小海線より遥かに近代化された鉄道と思っていた。

 斯くして豊橋で関東から来る兄夫婦と待ち合わせ、豊橋発一時四十三分に乗り込んだのである。一時間余りで目的の東栄駅に付く。思ったより瀟洒な無人駅である。

 ここで、休暇村からの迎えのバスに乗って宿に向かう。同行は、私ら兄弟の外に、ひと組の老夫婦だけ、一時間をたっぷり走って茶臼山休暇村に着いた。

 ところで、この休暇村と云うのは一体何かと云えば、財団法人休暇村協会が運営しているということで、「国と密接な関係のある特例民法法人」には該当しないと云うことだが、あまり細かいことは分からない。

 こんな面倒くさいことは別にして、とにかく設備は充実していて、しかも安いということである。そして、立地条件が国立公園や、国定公園の中にあり、自然に触れ合える環境にあると云うことである。この点は、かつて旅の恥はかき捨てた若かりし頃の宿とは根本から違うことになる。

 最近は、休暇村の若い従業員が何でもこなし、行き帰りのバスの運転手も、ホテルのフロントの従業員だった。もうきれいごとを言っている場合ではないということだろう。

 茶臼山休暇村の売り物は、冬場は奥三河では珍しいスキー場と云うことになるが、最近は温暖化の影響の例外であるまい。それよりも、ちょうど行った時が春の終わりと云うことで、茶臼山の桜草が満開だった。ただ、これはそれなりにきれいだが、北海道富良野のそれを見た人は、その規模においてちょっと太刀打ちできないだろう。

 それよりも、茶臼山で誇れるのは一望の中に納められる南アルプスの雄大な山並みである。十重二十重の重なり合った山並み、これはどこにも誇れるもので山育ちの私が云うことなので間違いない。

 ここにふた晩泊り、帰りは宿のバスで駅まで送ってもらい、東栄駅を十二時十六分の天竜峡行きに乗る。東栄駅も無人駅で、発車までにかなりの間があったので、同じ待ち合わせをしていた老婆と暫く話しこむ。老婆と云ったが、こっちも同様のジジイで偉く気があってすっかり話しこんでしまった。

 この駅も、かつては大勢の人が乗り降りしていたのだろうが、一体この国の人々はどこへ行ってしまったのだろう。間もなく列車が来たが、例にもれずガラガラである。

 ここからいよいよ飯田線の「阿房列車」の旅が始まる。話には聞いていたが、むやみやたらに駅間隔が短く、それとトンネルが多い。だからと云って退屈するかと云うとそんなことはない。最初に乗った列車は天竜峡どまり、着いたのが十四時五分、いささか腹が減ったので駅の近くの食堂に行ってみたがどこも閉まっていて休み、仕方ないので駅前のコンビニで昼飯のおにぎりと、ワンカップを買う。

 このワンカップと云うのはどこかの酒造会社のブランド名だと思ったが、今ではコップ入りの酒の普通名詞になっているのでどちらでもよいことだ。

 序にするめも買って、兄貴と一杯飲み始めたら電車は動き始めた。もっとも、この電車、さっき乗ってきた電車で、どうせそのまま動くなら、敢えて停まることもなかったと思うのやけど、何かの都合があったんやろか。
ところで、今回、飯田線の旅を思い付いたのにはもう一つ理由があった。それと云うのは、十年ほど前に他界した私の一つ上の教師だった兄が、大学を卒業して最初に赴任したのがこの飯田線の沿線だった。

 ところがそこの場所を忘れてしまってどうしても思い出せない。ただ、学校の名前は松尾小学校だと云うのは覚えていて、先ほどの天竜峡の駅員に聞いたところ、「それは伊那八幡ではないか」と即座に答えてくれた。とたんに、私も思い出し、そうや伊那八幡に間違いない。

 伊那八幡はだいぶ飯田に近いところで、周りの景色なども何の変哲もない、ごく当たり前の無人駅だった。変哲もないのだから当たり前は当然であるが、今から六十年も前にこの変哲もない駅の降り立った兄はどんな思いで降り立ったのか。感慨もひとしおである。

 無人駅と云っても、其の昔は勿論駅員もいて、その地域では、村(ないしは町)でも代表的な施設であり、幾多の人々が、様々な出会いや、別れがあり、数知れない思い出とともにその地域にとってなくてはならないものであった。無人駅に残された数々の思い出に思いを走らせると、是又感慨もひとしをである。以後の各駅停車の旅でこうした無人駅を見るのが楽しみの一つになった。

 もっとも、兄がいた頃は伊那八幡駅は当時は急行の停車駅だったらしいが、降り立った時の青雲の志をその後の人生の変遷に付いてお互いに話し合ってみたかった。

 天竜峡を十四時三十五分に発車した列車は、そのまま上諏訪に十七時五十分に着いた。ちょうどこの時期、新型インフルエンザが流行しており、途中乗ってきた高校生に其の発信源から来た伝えたところ、「やべえ!」と云って、席を立ってしまった。

 上諏訪では、そのまま帰るわけにもゆかず、「かんぽの宿諏訪」に泊ることにした。この「かんぽの宿」も「休暇村」と双璧をなす施設であるが、場所的にはもう少し一般的なところにある。一般的とはどう云う所かと言えば、要は一般的であり、あまり建てる場合も、使う場合も制限などないというようなことである。「かんぽの宿諏訪」も諏訪の高台にあり、街が一望にできる場所にあり申し分ない。


 この「かんぽの宿」も良く使ったが、ここで、特筆すべき事は、バリアフリーが比較的行き届いていることで、特に私のような場合は大いに助かる。ただ、今までは、食事が少し物足りないと思っていたら、今度行ったら申し分なかった。もっとも、山菜てんぷら食べ放題というのが、大いに貢献したのかもしれない。笊みたいな入れものに、文字通り馬が食う程持ってきた。

 ところで、先に政権交代する前に、「かんぽの宿」を総額百億円で売却することで国会で大いにもめて白紙撤回になってから、、休暇村の従業員同様に、「かんぽの宿」の従業員も俄然やる気を出して来たからだろう。

 何でも七十施設を百億円と云うことだが、一施設でも、その位の金がかかったのではなかろうか、ただ、億円はおろか、万円にも事欠く年金生活者にとって、どちらでもよい事だが、かつて、汗水流して働いてきたという者としてははてなと考えたくもなる。が、余計なことは別にして、帰りは何時もの通り、急行を使って帰ってきた。