サイバー老人ホーム

9.山陽道ウサギの島の旅

 今までは何故か東海道・紀州道・山陰道・北陸道と、何となく裏街道ばかり廻っていた様な気がする。尤も、東海道を裏街道と行ったら、たちまちのうちに罵声を浴びせられそうだが、いわゆる昔風に言えば江戸は下ると云う訳で、まあ、関西に住む者にとっては裏街道だと云う話し・・・、ほんまかいな。

 まあ、細かい事は別にして、とにかく今年は山陽道を行く事にした。とは言っても、山陽道と云ってもいろいろある。そこで地図帳を調べてみて目に付いたのが大久野島である。

 大久野島と云っても、知っている人はあまり多くはないのかもしれない。地理上では、広島県竹原市に属し、JRの最寄り駅は呉線の忠海(ただのうみ)という相撲取り彦名みたいな名前の駅である。

 この大久野島の何が有名かと言えば何もない。なんてったって周囲四キロにも満たない小島であり、瀬戸内海国立公園の中に入っているが、有名な寺社があるわけではなし、歴史上の文物があるわけでもない。唯一人が住む建物と言えば休暇村大久野島である。

 ところが、ところが、である。行ってみたら予想外のバラエティに富んでいて、いっぺんに気にいった。それでは早速、大久野島探検に出発する。

 例に依って、生瀬駅発八時十分発の老人時間には少々早めの電車に乗り込む。総勢は例の通り十人、ところが、出発一カ月前になって、当然参加されるだろうと期待していたM爺さんが、体の都合で行かれなくなった。

 何でも、若い頃からの御乱行?が祟って、男にとって大切な部位に放射線を照射するため欠席する事になった。慌てて、心当たりを何名か当ってみたが、男、即ち爺さんは誰も見つからなかった。仕方ないので、頼りのE婆さんの妹さんに急遽お願いして辛うじて員数合わせをする事が出来たのである。

 斯くして、尼崎駅八時五十分の休日運転新快速に一同乗り込む。幸い、全員座席を確保し、一路姫路に向かう。姫路で相生行きに乗り換え、相生からは三原まで、三時間の各駅停車が始まる。途中岡山で十分以上の時間調整があることか、岡山で昼食の仕込みをする。

 こうなれば当然のことながら、飲み物もの手配をする事になり、待っていたとばかり黒二点(Mさんとわたし)が缶ビールを買い込み、互いに病み上がりの身を考慮しつつ、ちびり、ちびりと呑み始める。

 三原に着いて、乗換に四十八分の余裕があり、そのままホームにいても仕方ないので、駅舎の外に出てみる。意外と瀟洒な駅である。ここから呉線に乗り換えとなるが、未踏の路線と云う事になる。

 この三原と云う駅、私の現役の頃ちょっぴり関係があったが、前にも後にも足を踏み入れた事はなかった。終着の忠海までは三つ目と云うことで、座らずに立ち続けて車窓の景色に浸る。この呉線からは、文字通り瀬戸内の景色がすぐ目の前に手に通るように見え、もう少し乗っていたいと思う間に終着駅に着いた。

 忠海港からの連絡船は、思ったより小さいもので、それでも百人ほどの乗客が収容できた。大久野島までは、凡そ十分、またたく間に着いた。

 そこから、出迎え用のバスに揺られてこちらも十分、歩いても同じだと云うので何故かと思ったら、その訳が分かった。

 大久野島はウサギの島だったのである。何故これほど沢山のウサギがいるかというと、大久野島に纏わる忌まわしい歴史があった。

 それは、戦時中、大久野島は陸軍支配下にあって、ここで毒ガスが作られたのである。書き物によると、昭和4年ごろから生産に着手し、総生産高は6千6百トンを超えたと云うからすごい。これ等の多くが中国戦線などで使われたのだろう。

 この穏やかで、美しい島からは想像も出来ない凄惨な出来事が引き起こされた事になり、喜び飛び跳ねてばかりにはいられない。

 戦後GHQや政府の手に寄って解体・海上投棄・島内地中処分・現在でも地中4〜5メートルの土壌でヒ素が検出されるなど負の遺産を引き継いでいる。

 当時、全島にわたって厚さ三センチにもカルキを散布されたと云うことで、植物はおろか、海岸に貝類も生息していないありさまだったと云うことである。

 そして、昭和四十六年、島外の小学校で飼われていたウサギ八羽が放たれ、野生化して現在三百羽に増えたと云うことで、毒ガス製造段階からの生物実験の生き残りではないと云うことで、ほっとした次第である。

 その後、休暇村大久野島が出来て、年間十万人を超す観光客が来るに及んで、一躍ウサギ聖地と化した次第である。

 とは申せ、これを鵜呑みにする人も少なかろう、斯く云う私なども信じられなかった。それまでにもウサギが毒ガス実験に使われた事も事実であったが、戦後これらはすべて処分され、現在生存中のウサギは、全て休暇村建設後に移入されたウサギだけであるからどうぞご安心くださいと云う事で安堵した次第である。

 それはそうと、宿に着いてから付近を散歩する事になり、一同打ち揃って出掛けたが、島の最高峰展望台まで登ったのは、傘寿を越えたA婆さん、N婆さんを含めた婆さん連中だけ、私を含めた二人の爺さんはあえなく断念、なあ、これやで、今の日本の実力は・・・・。その代り、夜には病み上がりを気遣いながら、しこたま食べて、たらふく飲んでやった。

 翌日は、朝から宿の廻りをほんの少し散歩、十時四十五分に宿を後にし、十一時二十三分に忠海を後にする。今回の旅と特色として、行き帰りとも、私にとっては未踏の路線を多く使った事である。

 往きは、呉線、帰りは赤穂線である。ただ、これは私の好みであるが、この二線を含めて、無人駅が見当たらなかったのは、喜んでいいのか、嘆いていいのか、複雑な心境である。