サイバー老人ホーム
紀伊半島一周の旅
そもそも、この「青春18キップの旅」を思い付いたきっかけの一つに紀伊半島一周を各駅停車でやってみたいと云う願望が有ったからである。
それと云うのも、紀伊半島が鉄道でつながっているというのを知ったのもだいぶ歳を取ってからで、誰かにつながっている事を聞いてから俄然行きたくなったのである。いわば、私にとっては未開の地だったのである。
ただ、新宮辺りまでは車では二回ほど行った事が有るが、驚くほど時間がかかり、二度と行ってみたいとは考えなかった。これを果たして、「青春18キップ」の各駅停車でいけるかというのはかなり不安も有った。勿論、一日でこんな事を出来る筈がない。そこで、途中南紀勝浦の「国民休暇村」一泊することにして予定を立ててみた。
例によって、八時時過ぎの時間帯に生瀬駅を出発してという原則である。しかも、今回からは、昨年の熱海旅行に懲りて日曜日出発と云う事にした。
これで行くと、八時二十分発に乗ると、午後三時三十五分に、「休暇村南紀勝浦」に到着することが分かった。そこで、常連や、この話に乗ってきそうな人に声をかけて回ったところ、乗ってくるのは女性ばかり、男、即ち爺さんやな、これがさっぱりである。総勢十名の所、辛うじて参加した男は三名だけ、なあ、これやで、ジジイの平均寿命が短い理由は。結局、著しくアンバランスの構成となった。
この理由をつらつら考えるに、面倒なことは嫌いと云う男のエゴやな。しかし、そうやって女、即ち婆さんより十年も寿命を短くしているということを世のジジイ連中は知らないらしい。
さて、時期は春たけなわの四月の始めと決めた。ただ、この事が良かったのか、悪かったのかは後になってみなければわからない。未来と云うのは、まだ至らざる時の事で、それを今からとやかく思案しても始まらない。
ただ、現実の問題として、列車の乗り換えがうまくつながるかどうかという事は、未来のこととはいえ無視できないことである。この各駅停車の旅というのは、凡てがつながってようやく成り立つものであり、しかも、「青春18キップ」の場合、途中で遅れたから急行に乗り換えて追いつくと言う事が出来ない。
この乗り換えの中で、一番問題なのは乗り換え時間である。八時二十分に出発した場合、問題となるのは大阪駅できのくに線直通に乗り換え時間六分というのと、御坊で紀伊田辺行き乗換三分と云うのが有る。ここで、一番の問題はわし自身であり、他はいずれ劣らに健脚?がそろっているので問題ないはずだ、多分。
こうなったら、直に当ってみるしきゃ方法がない。そこで、十二月の温かそうな日曜日を選んで、計画通りの八時二十分の乗ることにした。但し、この場合、JR西日本の「IKOCA」を使ってである。
大阪駅、ほぼ間違いなし、和歌山駅、これもOK、問題の御坊駅については車内で車掌に聞いた所、「同じホームから出るから大丈夫です」とのこと、「はてな、こう云う事は最寄りの駅で聞いても分かる事かな」と思ったが後の祭り。結局、御坊のホームからは一歩も出ずに、駅の売店で美味くもないうどんを食べて帰ってきた。
ところが、生瀬駅の隣の宝塚駅に戻って「IKOCA」を改札機にかけるとピンポ〜ンだって。やばいと思いながら、改札掛の所へ行くと、「お客さんどこまで行かれましたか」だって。仕方がないので、「暇だから環状線を一回りしてきた」とほんの少し嘘?を混ぜて言うと無事通してくれた。
実行を四月三日出発ときめて参加者全員に計画表を配布する。ところが、いよいよ実施の段階に入って三月十日、例の我が国にとって未曾有の大災害に襲われた。もともとは東海沖大地震と云う事で、東海地方、及び紀伊半島が最も被害の多い地域として繰り返し警告されていた。したがって、一瞬やばいと思ったのである。しかし、東日本の皆様には申し訳ないが、紀伊半島は大きな被害に遭う事も無く、予定通り実施とした。
ところが、三月十二日に列車ダイヤの一部変更が有ったところで最寄駅で切符の手配をして、この後の変更の有無を聞いたところ、「もうこれ以上の変更は有りません」と云う事、予定表を確定して再度配布する。
ところがである。三月二十九日に念のために再度確認すると、「お客さん、この予定では行けませんや」だって。オホ抜かせ、びっくりして聞いてみると、「四月二日より、東北地震により電車の部品が入手できなくなったので、一部で間引き運転することになり、この予定の「和歌山―御坊」間の列車は無くなった」と云うのである。
さあ、大変、急いで予定表を作り換えると、出発予定時間の原則を大幅に替えて、午前七時七分発以外では行けないことが判明、大急ぎで計画表を変更して全員に配布したが、不参加の申し出のない事を祈ったのである。
一応、全員が了承してくれて、事なきを得たと思っていたら思わぬところからほころびが出た。
出発前日の四月二日の午後九時ころになって、最高齢のA婆さんから我がカミさんに電話が入り、深刻そうに話し合っていたが、やがて「Aさんが急に腰が痛くなって、行けそうもない」と言ってきたということである。
何でも、明日の準備で棚の物を上げたり下ろしたりしているうちに腰が痛くなって、みんなに迷惑がかかるから行けそうもないということである。これやでえ、元気や、元気やと言っていても年が年やからなあ、いまさらどうしようもないと思案していたらふと思いついた。
というのは、今回の参加者の中に、わしよりもう少し離れていて、わしと同じ障害のある爺さんがいて、朝は家族の方が駅まで車で送ってくれることになっていた。あす朝の様子を見て、その車に便乗してもらったらと考えたのである。早速、双方に連絡を取り、明朝六時半に連絡を取ることにしたのである。
斯くして四月三日、カミさん等は五時起きして準備の取りかかり、六時過ぎに連絡が入りどうやら参加できそうだという事になり漸くほっとしたのである。
一同、定刻までには生瀬駅に集合し、勇躍出発と云う事になったのである。出発に先立って、大阪駅を過ぎる迄は、まとまってなどと云う事は考えずに銘々あいている席に座るようにし、宝塚、尼崎で乗り換えて余裕を以って大阪駅発和歌山行き七時五十六分に乗り込み、紀伊半島一周の旅は始まった。
ただ、大阪駅ではかなり混雑していて、全員辛うじて座席を確保した。堺を過ぎると、社内にも余裕が出てきて、夫々、間近なところに座席を占めた。和歌山に九時二十二分着、ここで御坊行きに乗り換え、出発が早くなった分、乗り換え時間はかなり余裕が有った。
御坊でも、順調に乗り換え、いよいよ紀州路をまっしぐらである。和歌山は、徳川御三家紀伊大納言家の御膝元、さすがに、今に残る町々も綺麗で、かつての繁栄ぶりがしのばれる。
紀伊田辺に十一時四十九分について、ここで、当初予定していた、間引き運転の電車の分を一気に取り返す事になり、一時間十八分の待ち合わせになる。
仕方がないので、街に出て昼食を取る事にした。街は、可なり賑やかのうな町だが、ここも例外ではなく、人の姿が少ない。紀伊田辺あたりだから、この先になるとどうなるか、凡その想像は出来ると云うものである。
紀伊田辺十三時七分発新宮行きに乗る。ここからは、ロングシートの座席になる。これもなかなか良いもので、銘々好みの座席を占める。この中で、超高齢者
のH婆さんを含めた面々が座った座席の前に、外国人の若い女性が座った。この場合、婆さんたちがどのような反応を示すか、興味深々に見ていると、やがて、H婆さんがのこのこと出て行って、その外国人の女性に何か手渡した。
女性もにっこりと笑って、喜んで口に運んでいた。なあ、これやで、わしら爺と、婆さんたちの違いは、その時、その時の時間の楽しみ方が違う。これでも、楽しみの価値に換算したらえらい違いという事になる。
美しい、車窓の景色に見とれていたら、三時半ごろ到着駅宇久井に着いた。ここも例によって無人駅、駅前には迎えのバスがすでに待っていた。
「休暇村南紀勝浦」は、小さな岬の先端に有り、見渡す限りの太平洋が各部屋から見渡せる。心配していた海までは、海抜で、五十メートル以上もなるのだろうか、極めて快適な眺望で有る。我々が行った時には、ちょうど宿の前の桜が満開で、最も良い時期に行った事になる。
ただ、楽しみな夕飯が、極めて、質素と云えば奥ゆかしいが、お粗末であった。まあ、これは、宿の調理人の腕が悪かったわけではないが、値段だけで決めた私の選択が間違っていたと云うことだろうか。
翌日、宇久井を十時二十六分に乗る。この宇久井駅も、私の好きな無人駅である。尤も、私の好きななどと云ったら、地元の人に叱られかもしれないが、かつては、大勢の乗降客が行き来していたのだろう。丁度、地元の御年寄が駅舎の掃除をしていたが、聞いてみると、かつては駅員だけでも六人もいたと云うことである。空しさの感傷と云うことだろうか。

この日は、近くで、サッカーの試合が有るとかで、高校生がわんさか乗ってきた。どこの高校生かと聞いてみると、近大付属だと云う事であった。はて、和歌山県に近大付属が有ったかと思ったが、和歌山は、マグロの人工飼育を初め、近代の縄張りであったようだ。
新宮で多気行きに乗り換え、いよいよ、JR東海の領域である。これは、乗ってから気が付いたことであるが、車中の昼飯を前日に宿に頼んで置いたのは、賢明な選択であった。
新宮で手配する暇もなく、次の乗換え駅、多気に着いたのは十四時十六
分、それまで、車窓の美しい景色には見とれていたが、これで昼飯がなかったら可なり悲劇的であったろう。
それと云うのも、多気と云う駅、何故ここを乗り換え駅にしたのかよくわからない。駅舎は、ほぼ田圃の真中で、廻りには、コンビニと云うより、小さな雑貨屋が有るだけで、喫茶店らしきものも見当たらなかった。
ここで、一時間待ち合せて、十五時十八分で亀山に向かう。亀山からは関西本線、そこから更に、加茂・木津と乗り継ぐが、それぞれ三十分程の乗り換え時間が有ったが、その寒いこと、寒いこと、さすがに南紀とは一シーズンのずれが有るような感じである。木津で十八時発の我が家の最寄り駅のある東西線(福知山線)に乗り込む。
斯くして、二十時三十一分と老人時間を大幅に超えて最終目的駅宝塚に到着する。やれやれ、念願の紀伊半島一周だったが、楽しくもあったが、可なりの大旅行でもあった。
