サイバー老人ホーム

10.うどん県の旅

 今年もほぼ恒例になった「青春18きっぷ」の旅に行ってきた。今年は少し足を延ばして、四国うどん県まで行ってきた。したがって、出発時間はいつもの老人時間には少し早目の生瀬駅発七時三十七分の電車に乗って、といえばいささか大げさだが、これには他にも理由がある。

 尼崎発、八時七分発相生行きに乗ると全員旅の人、と聊かのんびりとしたことを言うようだが、今年は今までの参加者に加えて、三名増えて総勢十三人となった。

 そもそも、この旅を行うにあたって、出発時刻は八時以降、帰宅時刻は五時ごろまでと決めたはずだが、その理由は、老人がラッシュアワーに食い込んで現役者の通勤を邪魔してはならないという老人としての矜持があるからである。ただし、本日は三月三十一日日曜日、普段より早い出発でも許してもらえるだろうと思ったのである。

 それも、せめて姫路まではメンバー全員が揃って座席を確保することは無理としてしても、取り敢えず離れ離れであれば確保できると思ったのである。

 ところが、相生で岡山行きに乗り換えてもこの日の混雑は一向に減る様子を見せず、ますます、混雑の度合いを増し、まさにラッシュアワー並みの混雑が続いている。各駅停車に何故これほどの人が乗っているか、側に立っているご婦人の一人に「キンギラギンにさりげなく」お尋ねしたところ、紛れもなく我等と同じシルバーエイジの「青春」族である。

 岡山では今度の旅の目的の一つでもある待望の瀬戸大橋線に乗り換えて一路高松に向かう。何故待望かといえば、この瀬戸大橋線というのは、かつて、ここに宇高連絡船が走っていた頃、一度だけ通ったことがありそれ以来だから四十年ぶりとなる。

 ここから二時間余り、やや早めの桜や外の景色を満喫しながら、やがて、当面の目的地高松の到着したのが、何と十一時四十九分、午前中である。

 実は、この予定表を作っていながら何もそれほどあわてて到着しなくてもよいと考える方もおろうが、さに非ずである。各駅停車の旅の場合、気を付けなくてはならないのは弁当の手配である。うっかりすると食べる暇もなく列車の乗継を繰り返すことになる。

 そこへ行くと、四国高松は、格好の食事場であって、何といっても、県名が「うどん県」であるから申し分がない。JR高松駅推奨の駅ビルのうどん屋に入り、たらふく名物うどんに舌鼓を打つ。腹ができとところで、高松には、もう一つ忘れてはならない名物がある。言わずと知れた「栗林公園」である。

 この「栗林公園」というのは,名前はよく聞かされれているが、実際にはあまりお目にかかったことはない。しかし、外国のガイドブックにも「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価の3つ星に選定されたということで、これを知りながら見たこともないでは、日本人の名が廃る。

 着手したのは寛永二年(1625)に初代高松藩主生駒高俊であったが、生駒騒動により失脚すると、変わって入った松平頼重によって引き継がれ、以来五代百年の歳月を要して今の姿に完成したということである。

 ちなみに、松平頼重は、徳川幕府御三家の中の水戸大納言家の実兄ということで申し分なき家柄ということになる。

 とはいえ、総面積七十五万平米の大公園、爺さん、婆さんの足でどこまで回れるか、とりあえず、宿の迎えのバスが来るまでの半分の時間まで散策して残り半分の時間で入場門に戻ることにした。もっとも、こうなれば、婆さんのほうがめっぽう強いことはわかりきっているが・・・・。

 かくして、迎えのバスが到着するまでの午後三時半まで、心行くまで、世界の名園を味わう予定であったが、スケールの大きさに気後れしたか、三時前には全員が早々切り上げて引き上げた。

 その日は、「休暇村五色台」からの瀬戸内の夜景を堪能しながら、心行くまで、よく食べ、よく飲み、よくだべり、今たけなわの春爛漫の四国路を味わった次第である。何といっても、料理は一番安いバイキングだが、食べる端から器を持っていかれることもない。
 食堂の大方の客は姿を消したが、我が方は、しぶとく残っていた。もっとも、この夜、 婆さん連中だけどトランプに興じ、境の仕切りを蹴破るほどに熱中したことは後日談として聞かされたことである。その頃は、男どもは高嶺の大いびきである。

 翌日は、九時半の送迎バスで再び高松に戻り、高松城址を散策した。ところがこの高松城址、ガイドブックで見たよりもはるかに立派で、立派な天守の石垣が残っている。

 ところが帰ってから調べると、この高松城天守は、明治十七年に老朽化のため解体され、その後は「玉藻公園」の施設として残っていたものを高松市民の情熱で、平地状態から「平成の石垣」として平成八年に見事に完成している。

 この高松城、悲劇の城といわれる備中高松城と比較されるが、城郭の殆んどを失った今でも、高松市民の並々ならない熱意がしのばれる見事な石垣である。ちなみに、この城の掘割は海水であり、鯉ならない大ぶりの黒鯛が悠々と泳ぎまわっているのを指をくわえて眺めた。。

 その後、再び名物うどんの御厄介にななった。今度は、昨日よりも一段と庶民的な店で、カウンターに沿って素うどんを注文し、道々惣菜をどんぶりに加える、うどん県本来のうどんである。

 十分に腹ごしらえのできたところで駅ビルで土産物などを購入し、十二時四十分発岡山行きに乗り帰路に付く予定であったが、ここから思わぬ混乱が生じた。

 列車の発車時効まではかなりの余裕があったので、美人の駅員に列車の到着時刻と乗り込んでよい時刻を聞いたところ、十二時十分には乗り込んでもよいといわれた。

 ここで、初めてメンバー全員が顔を合わせて旅ができると考え、メンバーの一人にその旨伝えたところ、何を思ったが、全員が、発車間際の十二時七分の列車に大急ぎで乗りこんでしまい、その列車の美人の車掌さんが足の遅い私をわざわざ呼びに来る始末で、もう少しで置いてけぼりを食わされるとこころだった。

 以下、予定表より二電車早く岡山に到着、往路の時のような混雑の中を相生まで来て、一電車乗り過ごし十四時四十七分に乗り、ここでようやくメンバー全員が顔をそろえることができた。

 結局、宝塚に帰着したのは、十六時五十分で予定より三十分ほど早いことになるが、この三十分にいかほどの価値があることやら。一つにはメンバーがこの旅に旅慣れてきたこともあるが、多少船頭が多くなったような気もしないでもなく、次回からの反省材料となった。(12.03.31)