パソコンの歴史1947〜79年
1947年 12月  (米)AT&Tベル研究所 トランジスタを発明

 点接触型トランジスタ の実験を社内重役に公開するとき「ワトソン君ワトソン君とちょっと来てくれたまえ」グラハム・ベルが使った言葉と同じ言葉を使ったそうです。開発者はジョン・バーディーン氏、ウォルター・ブラッテン氏です。グループリーダーのウィリアム・ショックレー氏はこの世界的発明に立ち会えませんでした。失意の彼はその後1ヶ月で接合型トランジスタ の理論を発表します。
 

1948年 6月  (米)AT&Tベル研究所 トランジスタの一般公開

 「トランジスタ」と命名 されました。「トランス・レジスター」の略だそうです。
 

1952年 -  (米)AT&Tベル研究所 ガス拡散法開発
1954年 5月  (米)テキサス・インスツルメンツトランジスタの生産開始
-  (米)AT&Tベル研究所 酸化マスキング(酸化膜)開発
1955年 -  (米)ウィリアム・ショックレー氏、ショックレー・セミコンダクタ設立

 AT&Tベル研究所を独立した ウィリアム・ショックレー氏がカリフォルニアでトランジスタ製造会社を立ち上げます。なぜカリフォルニア州パロアルトにつくったのか?彼の母親がカリフォルニア州に住んでいたからだそうです。シリコンバレーがこの場所に出来たのはこんな偶然があったのです。当時すでにスタンフォード大学を中心にHP(ヒューレット・パッカード)などもありそれだけの理由ではないと思いますが・・・・ショックレー ・セミコンダクタには 、後にアメリカ半導体の父と呼ばれインテルの創業者でもあるのロバート・ノイス氏も参加 していました。
 

1956年 12月  (米)トランジスタ発明者3人がノーベル賞を受賞

 トランジスタ発明の功績により ウィリアム・ショックレー氏、ジョン・バーディーン氏、ウォルター・ブラッテン氏ら3人はノーベル物理学賞を受賞します。後にジョン・バーディーン氏は1972年にも超伝導の研究で2度目の ノーベル物理学賞を受賞しています。
 ショックレー氏の経営方針に不満を抱いていたロバート・ノイス氏らは、ショックレー氏を最高責任者から外すことを画策していましたが、ショックレー氏がノーベル賞の受賞 したことにより計画が不可能になりました。
 

1957年 10月  (米)ショックレー・セミコンダクタの8人が退社、フェアチャイルド・セミコンンダクタの設立

 ショックレー氏のやり方に不満を抱いていた8人はショックレー・セミコンダクタを退社し、航空カメラメーカーのフェアチャイルド社が出資したフェアチャイルド・セミコンダクタ をカリフォルニア州パロアルトに設立します。後にショックレー氏は彼らを「裏切りの若者たち」と呼びます。優秀な科学者は 必ずしも優秀な経営者ではないのですね。
 設立メンバーはロバート・ノイス氏 (後にインテル社設立)、ゴードン・ムーア氏(後にインテル社設立)、ジーン・ハーニー氏、シェルドン・ロバーツ氏、ユージン・クライナー氏、ジュリアス・ブランク氏、ビクター・グリニッジ氏、ジェイ・ラスト氏です。
 

1958年 9月  (米)テキサス・インスツルメンツ ジャック・キルビー氏集積回路を発明

 ジャック・キルビー氏はメサ型トランジスタにコンデンサなどをセットした集積回路を発明し、特許を出願します。今でも集積回路を製造する場合はテキサス・インスツルメンツに特許料を支払う必要があります。この功績により2000年ジャック・キルビー氏はノーベル物理学賞を受賞します。
 

1959年 7月  (米)フェアチャイルド社 プレーナー技術開発

 メサ型(台地型)トランジスタの不良品多発に悩むフェアチャイルド社が開発した新技術です。形がメサ型に対して平らだったからプレーナー(平原=平ら)型と呼ばれています。 開発者はジーン・ハーニー氏です。
 

-  (米)フェアチャイルド ロバート・ノイス氏IC(集積回路)を開発
1960年 -  (米)AT&Tベル研究所 高級コンピュータ言語「C」開発
1961年 -  (米)フェアチャイルド IC(集積回路)を販売開始
1964年 -  シャープ 電子式卓上計算機「CS10Aコンペット」発売

 シャープが開発したオールトランジスタの電子式卓上計算機です。定価は53万円でしたが、市場では1割引で実質50万円を切 って販売されたそうです。この頃は50万円を切ると会社での決裁が下りやすかったそうです。この電卓は爆発的に売れ、今のシャープの電子事業の基礎を築きました。もしこの時にシャープが電卓に進出しなかったら、ただの家電メーカーに終わり、会社の柱である液晶事業も育たなかったでしょう。

★この時の開発の苦闘は1991年放送のNHKスペシャル「電子立国日本の自叙伝」第4回・電卓戦争で詳しく見ることが出来ます。ビデオで発売されていますがかなり価格が高いので、NHK出版から発売されいている書籍をお勧めします。
 
1964年 4月  (米)IBM IBM360発表(最上位モデルは11月に発表)

 IBM(インターナショナル・ビジネス・マシーンズ)の市場支配を決定づけた大型汎用機です。開発されたばかりのICを積極的に採用し、非常に高性能でした。またどのニーズにも答えられるように最上位機種から下位機種までのラインナップも他社につけ入る隙を与えませんでした。360という数字は360度全方向に対応できる意味です。衝撃は余りにも大きく世界市場をを席巻してゆきます。余りの衝撃に松下電器は早急に撤退し、その後も数々のメーカーが撤退しました。踏みとどまっていたGEも1970年には撤退します。
 

1965年 8月  (米)DEC 世界初のミニコンPDP-8発表

 DEC(デジタル・エクイップメント・コーポレーション)は1957年ケネス・オルセン氏によって設立されます。1965年に発売したミニコンピュータ「PDP-8 」は当時他のマシンよりもはるかに小型で高性能であったため大ヒットします。その後スーパーミニコン「VAX」シリーズでDEC は1970年代末〜1980年代にかけて大躍進を遂げますが、1990年代になるとパソコンの高性能化やサン・マイクロシステムズのワークステーションのなどの急成長で徐々に強みが発揮できなくなり、19 98年10月コンパックに買収されます。
 

1968年 7月  (米)インテル設立

 フェアチャイルド社からすピンアウトした、ロバート・ノイ ス氏(初代会長)、ムーアの法則で有名なゴードン・ムーア氏(後の会長)、などが設立しました。社名の由来は「インテグレイテッド・エレクトロニクス」を略したものです。1968年暮れにフェアチャイルド時代ゴードン・ムーア氏の部下だったアンディー・グローブ氏(後の会長)も参加します。
 

1969年 5月  (米)AMD(アドバンスド・マイクロ・デバイス)設立

 フェアチャイルド社からスピンアウトした ジェリー・サンダース氏により設立 されます。インテルのセカンドソースメーカーとして発展しますが、のちにインテルの強力なライバルとなります。
 

-  (米)インテル 世界初の1MBDRAMを発表

 DRAMの登場は世の中を変えることになります。DRAMの高集積化ごとにコンピュータはどんどん小型化していきました。1970年末頃から日本メーカーが急速に力を付けてきて、アメリカのメーカーを圧倒していきます。1980年代中ごろ開発メーカーのインテルはDRAMから撤退します。 その日本メーカーも韓国勢に押され、今は見る影もありません。
 

-  シャープ 世界初のLSI電卓「マイクロコンペット「QT-8D」発売

 MOS・LSI搭載の電卓開発を計画したシャープは日本のメーカーに開発を依頼します。しかし非常に高度な技術が必要なMOS・LSI開発に日本の半導体メーカーは尻込みし てしまい、しかたなくアメリカメーカーに開発を依頼しますが、結果は同じでした。失意のうちに日本に帰国しようとした所で空港に呼び出しがかかります。ロックウェル・インターナショナル社からでした。開発を承諾したロックウェル・インターナショナルと日本の技術の格差にはシャープ の技術陣は驚いたそうです。生産されたMOS・LSIは空輸され電卓に装着され、QT-8Dは日本の電卓市場を席巻します。余談ですがロックウェル・インターナショナル社はB1爆撃機の開発・製造メーカーでもあります。
 

1971年 2月 (米)インテル 初のマイコン4004(4ビット)を日本のビジコン社向け出荷

 日本のビジコン社に電卓用LSIの開発を依頼されたインテルは創業したばかりで会社の規模も小さく、ビジコンが要望した多種類のチップを同時開発するのは不可能でした。設計担当のテッド・ホフ氏は1個のチップでプログラムによりすべての電卓機能に対応させる方法はないのかと考えたのがマイクロプロセッサーも始まりでした。その業務はフェデリコ・ファジーン氏に引き継がれ、ビジコンから派遣されていた嶋正利氏が論理回路の設計、フェデリコ・ファジン氏が論理回路を半導体チップにすることにより完成しました。4004チップにはフェデリコ・ファジン氏のイニシャルFFマークが刻印されています。
 
11月  (米)インテル 初のマイコン4004を出荷開始

 4004将来性に注目したインテル はなんとかビジコンから販売権を買い戻そうと考えていました。ビジコンとしては競争力を失うので手放したくなかったのですが、電卓戦争での激烈な価格競争で窮地に立たされ いたビジコンは4004の販売権を手放しました。
 ご存知のようにその後マイクロプロセッサーは、8008⇒8080⇒8086⇒80286⇒386⇒486⇒Pentium⇒PentiumU⇒PentiumV⇒Pentium4へと驚異的な発展を遂げて同時にパソコンも超高性能になっていくのですが、もしビジコンの電卓事業が順風満帆だったらマイクロプロセッサーはビジコンのものであり、今と全く違う勢力図であったと思います。ビジコンがインテルのような巨大企業になていたのでしょうか?それとも・・・・想像してみると楽しいですね!
 

1972年 4月  (米)インテル 8008(8ビット)発表

 初めての8ビットCPUです。「4004」では数字しか扱えませんですたが、ビット数が増えたことによりアルファベットも扱えるようになりました。ただあまり性能が良くなかったため、本格的な8ビットCPUは「8080」からになります。
8月  カシオ 驚異の低価格電卓 答え一発「カシオミニ」発売

 ♪答え一発!カシオミニーー!♪というコマーシャルでした。 リアルタイムで覚えている方は多分35歳以上だと思いますが、機能を絞り12800円で発売されました。今までの電卓と価格が根本的に違い超価格破壊だったために、対抗できない メーカーが続出して数え切れないほどあった電卓メーカーのほとんどが消えてしまい、電卓市場はカシオとシャープの2強時代になりました。
 

1974年 4月  (米)インテル 8080(8ビット)発表

 開発の中心人物はなんと日本人でした。「4004」の開発に携わった嶋正利氏(この時はすでにビジコンを退社し、当時リコーに在籍)です。「8080」は大変高性能で「8008」と比べると6倍以上の高速化が図られていました。

 個人的な意見ですが、嶋氏には是非ノーベル賞を受賞してもらいたいものです。もしマイクロプロセッサーでのノーベル賞があったなら、テッド ・ホフ氏とフェデリコ・ファジン氏は確定だと思いますが、同一内容3人まで認められるので、嶋氏に是非で受賞してほしいです。それだけの貢献をしたと思います。
 
-  (米)モトローラ 6800(8ビット)発表

 モトローラ初の本格的8ビットCPUです。appleUはモステック社製の「6800」互換CPU「6502」を採用しています。任天堂のファミリーコンピューターには更に「6502」互換CPUが採用されていて、6800から見れば孫にあたり、同じ「6800」系です。
 

1975年 2月  (米)クレイリサーチ Cray-1を発表

 クレイリサーチはCDC(コントロール・データ・コーポレーション)から1972年スピンアウトした、天才技術者セイモア・クレイ氏がが創設 したスーパーコンピュータ開発・製造メーカーです。1976年より出荷が開始されたクレイ1は性能も超高性能でしたが、何よりも外形が特徴で配線を短くするために270度の円筒形をしていました。
 

4月  (米)マイクロソフト社設立

 ウィリアム・H・ゲイツ氏(通称ビル・ゲイツ) とポール・アレン氏によって設立されました。開発言語のBASICが各メーカーに採用され成長の基礎を築きます。更に1981年IBM PCにMS-DOSが採用されたことによってその後の成長が約束されました。当初はニューメキシコ州アルバカーキで設立しましたが、現在はワシントン州シアトル郊外に本部があります。
 

-  (米)モトローラ 6809(8ビット)発表

 「6809」と「6800」と名称が似ており、上位互換がありそうですが、互換性がありません。その代わり性能が大幅にアップしました。日本では富士通の「FM-7/77」シリーズなどに採用されました。
 

1976年 4月  (米)アップルコンピュータ社設立

 4月1日エイプリルフールにステーブン・ジョブス氏とステーブン・ウォズニアク氏によって設立されました。
 

7月  (米)ザイログ Z-80(8ビット)発表

 ザイログは国際石油資本エクソン(現エクソン・モービル)の子会社 として1975年2月に設立されました。インテルで「4004」や「8080」の開発に携わったフェデリコ・ファジン氏や嶋正利氏らが中心となって「8080」上位互換の「Z-80」を開発します。1980年代前半、日本の8ビットパソコン市場は一部を除き「Z-80A」および「Z-80A」互換CPUが席巻していました。
 

10月  QC出版 月刊誌「I/O」創刊 11月号よりスタート

 パソコン月刊誌の草分け的存在です。「I/O」、「アスキー」、「マイコン」は月刊誌の御三家と呼ばれていました。プログラム中心で他の月刊誌とは随分雰囲気が違いました。 現在は中身が随分変わりましたがまだ続いています。
 

1977年 4月  (米)アップル アップルU発表

 価格は1300ドルを切り、重さが5キログラムを切っていました。このモデルは アメリカの雑誌でパソコン界のキャデラック(アメリカの高級車)と絶賛されました。大ベストセラーになりその後アップルは急成長していきます。
 創業者のステーブン・ジョブス氏とステーブン・ウォズニアク氏はアップル1を遊び気分で作りました。それがマニア層に評判になり多くの要望取り入れて大幅に改良したのがアップルUです。モニター、キーボード、記憶装置など今となっては当たり前の機能ですが当時は驚異的でした。

 その後多くの商品が発売された1980年代前半でもアップルUは改良されてベストセラーを続けていました。しかしこれがアップルの16ビット機に乗り遅れた原因かもしれません。1981年8月にIBM PCが発売され世の中の趨勢は16ビット機に移っていました。アップル社の16ビット機への対応がもう少し早く機敏であったら今のパソコン業界は全く別のものになっていたかも知れません。

1977年 5月  アスキー設立

 月刊I/O創刊メンバーの西和彦氏、郡司明朗氏、塚本慶一郎氏が独立して設立されました。後の日本のパソコン文化発展に大きく貢献しました。マイクロソフトと提携し経営は順調だったのですが、1986年にマイクロソフトが日本法人設立し、マイクロソフトの商品が扱えなくなります。また拡大路線をとる西氏との経営方針の対立で郡司氏、塚本氏は1991年にアスキーを去ります。その後西氏自身も経営不振の責任を取って退社します。
 

6月  アスキー 月刊誌「アスキー」創刊 7月号よりスタート

 1980年頃はパソコン雑誌といえば「アスキー」でした。 正統派月刊誌のイメージがありますが、年月と共に広告が増え厚くなってきました。また総合誌ゆえにピントが絞れず何の雑誌か分からなくなってしまった時期もありましが、正統派総合誌トップの地位は創刊以来ずっと守っていました。御三家の「マイコン」や他の雑誌が休刊される中、生き残っているのはさすが「アスキー」だと思います。
 

9月  電波新聞社 月刊誌「マイコン」創刊 10月号よりスタート

 パソコン月刊誌御三家のひとつでした。 御三家の中で本の厚さは随一で、パソコン広告誌かと思うくらい記事は広告の中に埋まっていました。しかし広告も重要な情報源であったので重宝しました。販売店の広告が多かったのも特徴です。1995年4月号で休刊になりますが、兄弟誌の 「マイコンBASICMagazine」は2003年5月号まで長生きしましたがついに休刊しました。
 

1978年 5月  (米)インテル 8086(16ビット)発表

 8ビットCPUと16ビットCPUでは、数の上では2倍ですが、処理能力では2の8乗と2の16乗では256と65536と大幅な差が出ます。また「Z-80A」などの8ビットCPUの扱えるメモリの量が64KB(ほとんどの8ビットパソコンは64KB)ですが、「8086」は1MBまで扱えるようになりました。
9月  東芝 日本語ワードプロセッサー「JW-01」発表

 東芝の「JW-01」は日本語変換に革命をもたらした学習機能を搭載しています。この後日本語ワープロはパソコンとは別に市場を開き、1980年代に猛烈な進歩を 遂げます。ワープロ専用機は日本独自の商品形態で 、アメリカなど海外には存在しませんでした。1980年代日本のパソコン普及率が欧米に比べて低かったのはワープロ専用機の普及の為でもあったのです。
 1980年代はパソコンでワープロ機能を使うよりもワープロ専用機を使用する方が、遥かに安く文字が綺麗で効率的でした。しかし1990年代になるとパソコンの高性能化、ワープロソフトの高機能化、プリンタのカラー化高品質化によりワープロ専用機の優位性は急速に薄れ、1990年代後半に各メーカーはワープロ専用機の生産から続々と撤退していきます。
 

1978年 12月  シャープ、 マイコンキット「MZ-80K」発売

CPU  Z-80/2MHz
RAM  20KB(最大48KB)
VRAM  -
FDD  オプション
グラフィック  -
サウンド  内臓
備考  キット 198,000円
  この時代はパソコンはまだマニア層の商品であり、一般人には敷居が高かったです。MZ-80Kも半製品状態でしたがキットで発売されたため組み立てる必要がありました。それでもMZ-80Kは支持されベストセラー機になりました。
 
1979年 4月  タイトー アーケードゲーム「スペースインベーダー」発売

 それまでテレビゲームと比べ非常に高度に見えました。異常なブームで 、ゲームセンターはもちろん、ショッピングセンター、喫茶店などあらゆる所に置いてありました。コピーメーカーも乱立し、 タイトー以外の偽「インベーダーゲーム」も多数存在しました。
 ゲーム代金欲しさに学生がカツ上げしたりして、社会問題になったりもしていました。パチンコ店がガラガラになったの有名な話で、これに危機感を抱いたパチンコ製造メーカーSANKYOが開発したのが「フィーバー」だったそうです。
1979年 6月  インテル8088(内部16ビット/外部8ビット)発表

 「8086」の下位機種で 、内部処理を16ビットで行いますが、外部データバスは8ビットです。「8086」に比べて性能は劣りますが、「8080」や「Z-80」など8ビット用に開発された周辺機器が使用できます。開発を急いだIBMはIBM PCに「8086」ではなく「8088」を採用しました。インテルを世界のメジャーにしたCPUと言っても過言ではないでしょう。
 

9月  NEC PC-8001を発売

CPU  Z-80/4MHz(同等品)
RAM  16KB
VRAM  -
FDD  オプション
グラフィック  160*100ドット*8色
サウンド  BEEP音
備考  本体 168,000円
 NECが 1980年代〜1990年代にかけてパソコン帝国を築くことになる最初の記念すべきパソコン1号です。今まではキットでしか存在しませんでしたが、PC-8001は本体とモニターとデータレコーダーがあればパソコンとして使用できました。またオプションでフロッピーディスクも使用することが出来ました。1983年1月にPC-8001mkUが発売されるまでの3年半ベストセラーとして君臨しました。このマシンでパソコンの世界に入った方もかなりいるのではないでしょうか?
 
9月  モトローラ 68000(16ビット)発表

 市場では「8086」系に敗れましたが、性能は抜群に良かったためグラフィックの強いパソコンに採用されました。アップルの「Macintosh」やシャープの「X68000」などです。
 

HOME⇒