SÜSSMILCH, J. P., Die göttlich Ordnung in denen Veränderungen des menschlichen Geschlechts, Das ist, Gründlicher Beweiss der göttlichen Vorsehung und Vorsorge für das menschliche Geschlecht aus der Vergleichung der gebohrnen und sterbenden, der verheiratheten und gebohrnen, wie auch insonderheit aus der beständigen Verhältniss der gebohrnen Knaben und Mädgens, Wobey Accu rate und vieljährige Listen der gebohrnen und gestorbenen in allen Königl. Preussichen Ländern, in London, Amsterdam, Paris, Wien, Berlin, Bresslau &c. daraus der Wachsthum und die Anzahl der Einwohner in selbingen Ländern und Städten bestim met wird, Nebst Einem Versuch, die Verhältniss der sterbenden nach dem Alter und nach denen Kranckheiten zu bestimmen und einer Anweisung zur nützlichen Einrichtung der Kirchen-Bücher, u.s.w. Herausgegeben von Johann Peter Süssmilch, Prediger bey dem hochlöblichen Kalcksteinischen Regiment. Nebst einer Vorrede Herrn Christian Wolffens., Berlin, Im Verlag Daniel August Gohls, 1742, pp.356 + tab.I-XVIII, 8vo.
SÜSSMILCH, J. P.,
Die göttlich Ordnung in den Veränderungen des menschlichen Geschlechts, aus der Geburt, dem Tode, und Fortpflanzung desselben erwiesen. Dritte verbesserte Ausgabe. , Berlin, Buchhandlung der Realschules , 1765, 2Teile. pp.(Vlll)XVl+576+130+(1):(ll)+625+77 & folding table numbered 78., 8vo.

 ジュースミルヒ『神の秩序』、1742年版、及び1765年刊第3版(初版は1741年刊)。版については後記。
 著者略歴:ジュースミルヒ、ヨハン・ペーター Süßmilch, Johan Peter (1707-1767)。7人の子供の長子としてベルリンに生まれる。父は元馬具職人で、居酒屋の他、醸造業、穀物商をも営む。父系は、ポーランドやチェコの国境に近いラウジッツ地域に発するスラヴ系のプロシア人である。現在チェコ領のトルレンシュタインで、ヨハンの曾祖父の代に至るまで四代にわたり世襲裁判官を務めた。祖父はその父親(曾祖父)が再婚時にカソリックへ改宗したのに反発して、故郷を捨てた熱心なプロテスタントであった。祖父はベルリン近郊のツェーレンドルフで居酒屋を営業した。当地はベルリンと王宮のあるポツダム結ぶ街道の要衝であり、ホーエンツォレルン家王侯の格別の愛顧を得たという。母方は、曾祖父の代にスペイン領オランダからブランデンブルグに移住し、祖父は染色業を営む町の名望家であった。
 ジュースミルヒは、生れて間もなく、母方の実家に引き取られて育てられた。家庭教師を付けられて教育された後、1716年にベルリンのギムナージウムに入り約9年間学んだ。語学中心のギムナージウムのかたわら、解剖学校(Theatrum Anatomicum)にも通い自然科学にも親しんだ。医学者になりたかったのだ。しかし、両親は彼を法学者にさせるべく、ハレのラテン語学校に送り込んだ。3年間そこで学んで、神学に興味を向けるようになった。両親の同意もとりつけて、神学を研究するため1727年ハレ大学に進む。1728年イェーナ大学に転ずる。ここでは、神学のほかに自由に哲学が研究されていた。数学と物理学の勉強に熱中し、数学者になろうと志したほどである。諸科学の基礎としての数学を研究して、数学的方法を他の学問に適用することを学んだ。同大学で開かれていた「統計学」(国状学)の講義も聴講したと考えられている。
 1732年カルクシュタインなる将軍の息子の家庭教師となりベルリンに住む。結局4年間この仕事を続ける。この間父が死去したこともあろう、1736年にジュースミルヒは将軍揮下の歩兵連隊の従軍牧師となるのである。フリードリッヒ大王がマリア・テレジアの即位を契機にシュレージエン地方の割譲を策して、同地に侵攻した第一次シュレージエン戦争(1740年)が勃発した。同将軍の部隊が先鋒として出動する際、従軍中に倉皇の間に書き上げたのがこの『神の秩序』である。序文の最後にはこう書かれている、「1741年3月27日/シュワイトニッツへの進軍の途上」。
 ジュースミルヒは、従軍牧師の他にベルリン近郊の町の教会(複数)の牧師職も兼務していた。従軍牧師の職務は半年で辞し、田園教会牧師の穏やかな生活に戻れるやに思われたが、それも長続きしなかった。フリードリッヒ大王の直接の命令により、教会行政職や聖職の顕職に任命される。彼の有能さが買われたのであろう。1745年に科学アカデミーの正会員(歴史・哲学部門)に挙げられる。そこでは、病に襲われるまでの20年間ほぼ毎年研究を発表している。また、数学部長を務めたオイラーの知己となった。1750年には、新設された教会行政の最高機関である上級宗務局の7人の評議員のうちの一人に選ばれる。1755年、後の鉄道敷設の基礎となった、ベルリンーポツダム間に毎日往復便を持つ駅逓馬車制度を開設して、事実上の駅逓局長に地位に就いた。実業の才もあったのである。彼の世俗での栄達は、彼がそれを願ったプロシア王国の興隆と併行している。
 20年の研究を継続した結果、1761-1762年に『神の秩序』第二版を刊行した(各版については後述)。ジュースミルヒには、アカデミー論文や『言語起源論』(1766)の著作もあるが、やはり、「マルサスのようにズュースミルヒは単に一書の著者(a writer of one book)であった。学問上における、彼の生涯の仕事は『神の秩序』の著述・訂正・増補及び弁護であった」(とクラムとウィルコックスが書き、高野岩三郎が「考証」で引いている、ただしここに『経済学原理』、『地代論』等も著したマルサスをあげるのは異論があろう)。
 1763年最初の脳卒中の発作に襲われ、1767年二回目の発作で亡くなる。3男7女を設けた。
 ヨーン(1956、p.250)は、「この画期的な著作の著者の伝記にかんしては、極めてわずかのことしか知られていない」としているが、松川七郎(1973)は、文献を渉猟して、詳細な伝記を書いた。略伝はこれに頼ってまとめたものである。

 「彼の著作は実に彼の時代迄の凡ゆる統計文献の殆ど完全な集成である」(ウェスターゴード、1943、p.86)といわれる。グラント、ペティ、ハレー、メイトランドの著書中に掲載された死亡表から、プロイセン王国の公文書に至るまで、当時収集可能と思われるすべての統計資料を渉猟した。そして、「ジュースミルヒが、材料の豊富な点においてそのすべての先行者よりすぐれているということについては、ケトレーの時代にいたるまでの後継者が、彼の材料を使用したということが、これを証明している」(ヨーン、1956、p.280)。
 著者は、人口現象における合法則性、規則性という経験的事実に神の摂理が顕現していると見る。啓蒙思想なら「自然法」とでもすべきものを、神職者らしく神の恩寵によるものと解する。それも、「初版においては、経験的事実をとおして神にいたるという道をとる。ところで第二版においては、逆に、聖書とくに旧約のそれの第一章創世記の神の言葉から、人口についてそれを演繹し、経験的事実によってそれを証明する、という初版とは逆の道をゆく」(足利、1968、p.94)。第二版以降は、神の摂理から演繹的に人口諸法則が説明される。

 まずは、本書の概要を書く。以下原則として初版によるものとし、必要に応じ重版も参照する。本当は内容も拡大し、最も流布している第四版が望ましいのだが、初版によるのは邦訳が利用できるからにすぎない(各版の相違については後述)。特に注記がない限り、引用、参照は初版の翻訳書の箇所を示す。
 最初に著者のフリードリッヒ大王への献辞があり、哲学者クリスティアン・ヴォルフの序文、著者序文と続き、本文は9章(121節)からなる。付表として18表が巻末におかれている。
 「第1章 人間種族の増殖を論ず」では、疫病流行の年を、または一部大都市を、例外として、出生者数は死亡者数を超過する。死亡表の最高数から推して、人間は100年間にその内部的かつ自然的増大によって倍加する(第3節:以下節は§で表示)。プロシアでは、死亡者の出生者に対する平均比率は、10対13ないし14である(§6)。出生者の死亡者に対する超過は二重の秩序を指示する。不断の超過の事実とそれが「一定の限度を持っている」事実である。そこに、著者は、選択・整備・維持する神の英知を考察する。「世界には賢明な全能者の意図なくしては、なにごとも起こらぬという真理が現実にわれわれの眼前で明らかにされる」(§7)。
 「第2章 人間種族の増殖の諸障害を論ず」。人間増殖の諸障害には(注1)、特に戦争と黒死病は、人間生活の快適さを維持するための必要悪とする見方がある。著者は、この問題には、ノーと答える。しかし、そのためには、地上における生存可能人口と現実の生存人口を知らずには答えることができない(§9)。
 「第3章 戦争と黒死病とは必要であるか、そして地表上にはどんなに多くの人間が生存しているか、また生存しうるか」。この害悪は、単に悪徳に対する正当な罰とするだけでなく、人間種族の均衡を維持するための、神の摂理と考える人もいる。しかし、著者は計算によって、地球上には40億人が生存できるのに対し(§22)、現実にはわずか10億人しか生存していない、こと(§25)を証明する。人間が100年に倍加するほど(§4)、急速増加しても、200年は健康と平和裏に経過しうるであろう。人間の増殖率はより緩慢であるから、それに労働により穀物供給が促進されるならば、人間の過剰は充分に予防される。にもかかわらず、戦争と黒死病が絶えず発生したことは、それが均衡維持のための必要悪でないことを証明している(§30)。
 「第4章 出産率とその差異及び原因について」では、プロシアでは、1婚姻につき4の出生があるとする。諸州では出生率に差はあるが、特にこの場合注意すべきは、一つの州の出産率は概ね一定であり、時おり変動するように見えても、間もなく再び旧に復する(§35)。出生率の差の主要原因は、女性の婚姻時期にある(§40)。
 「第5章 繁殖と男・女性の比率について」。出生時には、男児が女児を超過し、その男女比率は1050対1000、すなわち21対20であることを明らかにする。しかし、成人に至るまでに死亡、その他の原因により男女数は均衡する。この点に、一夫一婦制に神の意志があるとみた。この章については、もう少し詳しく後述する。
 「第6章 種々の年齢による死亡者の比率について」は、統計の不備に由来すると思われる誤った推測が記されており、意味のない章であると思う。例えば、「30歳から80歳に至るまでの間では、いつでも、10位の年においてはその前年及び次年よりも、多くのものが死亡する、という規則が作られないであろうか、[中略]少しもその原因を挙げることはできぬけれども、この事柄は間違いないように思われる」(§68:強調原文)とする。30歳は29歳、31歳より死亡数が多い等を意味する「厄年」の考えである。
 「第7章 疾病及びその比率について」も、紙幅の割には内容がなく、前章同様無視してよい章である。死亡率の法則があるなら、疾病にも秩序があると考えた。牧師の正義感のみが表れており、グラントが死因から幼児死亡率を推算したような独創性(本HPのグラントの項参照)も見られない。 
 「第8章 生存者[数]を決定するための死亡表の活用」は、年々の死亡者数は、生存者数に比例するので、各地の人口を算定するのに死亡者数が利用できると説く。
 最後に、「第9章 教会簿の適正な整備について」では、人口統計を正確にするには、教会帳簿の整備が不可欠で、その具体的な改善策を提案している。

 (大数の法則)
 ジュースミルヒの業績で第一に取り上げるべきなのは、やはり、いわゆる「大数の法則」に関してであろう。萌芽的なものは既にケルスボームに見られるとしても(注2)、ジュースミルヒはそれを意識的に利用した。
 そもそも、「大数の法則」とは、一体何なのだろうか。どうも、文脈によって、異なった二つの意味で使われているよう思われる。第一は、数学的なもので、試行回数を増やしていくと、ある事象の起こる経験的確率は一定の極限値(理論的確率)に近づくというものである。第二は、経験的なもので、大量観察によって集団現象の数量的規則性が発見されるというものである。一般に辞典等に書かれているのは、第一の意味の方である。これは、ヤコブ・ベルヌーイが最初に『推測の方法』(1713)で証明したもので、確率論の基礎となったものである。ジュースミルヒに関していわれるのは、第二の意味の方である。これは、大量観察によって規則性が明らかにされるというだけで、その根拠は説明されていず、無条件にその規則性の存在が仮定されているにすぎない。竹内啓(1971、p.110-111)によれば、形式的には「もし集団規則性が存在するならば、集団的に観測することによって、その規則性が明らかになるであろう」という一種の同義反復(トートロジー)であるとされる。
 ケトレーは、古典的確率論と社会現象を接合して、平均を規則性を現す真値として、そこからの変動は偶然的なものとみなした。しかし、その根拠の詳しい説明はない。そもそも、確率論の研究は賭けの研究から始ったものであり、カードやサイコロのような理論値の明確なものと、社会現象を同等に扱えるかという問題はあろう。その後も、ミーゼスのコレクティフの理論のように、どのような条件の下で、確率論的に大数の法則が成立するかの研究は進んでも、なぜ成立するかについては示されていない(ように思う)。にもかかわらず、大量観察によって集団現象の規則性が浮かび上がるケースが多く、このいわば巨視的方法の経験的有効性は否定できないのである。

 ジュースミルヒは大数の法則について、まとまっては論じてはいない。そこここで、折に触れて大数の法則に言及しているのである。以下にその個所を引く。

 男女の出生比について、空間的・時間的に、
 「一見したところ、この点で無秩序が支持しているように見えるかもしれぬ場合、この程度がひどければひどいだけ、この秩序はわれわれにとっていやが上にも目立つのである。いかに多くの家族が、他の家族では息子しかいないのに、娘ばかりをまたは大部分娘を持たないであろうか。[中略]かような不確実と外見上の無秩序とにもかかわらず、われわれはここにその反対ときわめて立派な秩序とを見出すのである」(p.152)。
 「しかし1カ村または数カ村からは何らの断定も下さるべきではない、というのは別して大数においては決して間違うことがないからである。たとえ、ある小地区において両三年、より多くの女児が生れたとしても、50年以上をいっしょに集めれば、男児の数はより大きいであろう」(p.117-118)。

 具体的な統計で、より大量の集団から作成されるのが好ましいとして、
 「彼は(グラント:引用者)、彼の計算をたった一つの教区、すなわちハントシャ(Hantschire)の表だけに基づいてなした。しかしわれわれの計算は全体のそして多くの州に基づいているから、このことによってそれは、より多くの確実さと優越を確保する」(p.10)。
 「この点に関連して、ロンドン及びマグデブルグ侯爵領における出生者の間の比率が、ほぼ同一であるということもまた注意に値する。総数がすべてのうちで一番大きいという理由から、これら両地区は殊に注目されねばならぬ。下に付加された諸都市はわずかながらより多くの偏差を示しているが、しかしそれらは年数も短く総数も少ない。恐らくそれらについても同じほどの年数があったとしたら、それらはロンドンにより近接したことであろう」(p.118)。

 より抽象的に、大数の法則を論じて、
 「もしそれらの数が充分であり、かつそれが大数から、しかも多くの年次から、採られたものであれば、種々の地域における増殖の大きさと速度が決定しえられる」(p.18)。
 「より多くの年次とより多くの総数とを基礎とする比率の方を採るべきであるということ」(p.121)。
 「論駁しようと思われる方は、[中略](1)表は正確なものでなければならぬ。[中略](2)数があまりに小さいものであってはならぬ。それが大きければ大きいだけ、そして、より多くの年次を含んでいればいるだけ、よりよいのである。幾千の数から導きだされた規則は、幾百の数のものによってはくつがえされえない。換言すれば私が私にとって有利な百の事例を持っている場合には、ひとは一つの事例からはまだ何ら私の観察に反対の推論を引き出すことはできない」(序文、p.15)。

 確率論については、以下に見るようにジュースミルヒは、数学者を目指しただけあってよく承知していた。だけでなく、著者序文の前に付けられた哲学者クリスティアン・ヴォルフが書いた序文の中には、「人間の営為における確実な認識を有効に代位する確率論的認識(eine wahrscheinliche Erkenntnis)(注3)も存在している」(序言p.5)ことを強調している。しかしながら、ジュースミルヒが確率論と大数の法則の関係についてどう考えていたかは、明らかでない。男女出生比率の差が偶然の産物でないことを計算によって明らかにする試みがなされたと書き、そこにはベルーヌイとド・モアブルの名もあげられている。しかし、結局は「私はここではこの代数の計算を省略する。なぜかといえば、それはたいへんな紙面を取るからであり、また、特にこれら偉大な人々のうち、誰が正しくて、誰がまちがっているか、を決定することはいくぶんむずかしいので、そんなことはごく少数の読者にしか役に立たぬからである」(p.153)として、議論を打ち切っているからである。

 (人口の男女比率)
 ジュースミルヒが、人間の人口現象の中でも、最も神の秩序・神の叡智を感じ取ったのは、その男女比率に見られる現象であろう。そこで、第5章(標題:繁殖と男・女性の比率について)に関して、もう少し説明を加える。
 ジュースミルヒが、男女比率に「神の秩序」を感知したのは2点ある。第一は、成人男女数の均等である。さらには、それが一夫一婦制を支持していると考えた。第二は、出生時には男児が女児を超過し、その後の男児の高死亡率によって成人男女数が均等する事実である。むしろ、男児(あるいは男子)の高死亡率を見越して、神が男児を多く出生させると見たとした方がよいだろう。男児出生超過率の安定性にも感銘を受けた。

 人類は、多夫一妻制であれば、「人間の増殖はうまく行われないであろうし、また大地は非常に人跡まれな状態にとどまるであろう」(p115)。逆に、一夫多妻制であれば、「増殖は大地の状態がこれを許すよりも急速に行われるであろう」(p115)。一夫一婦制は、男女数の均等がなければ実現出来ない。「だが、神の、そして聡明なご摂理は、これらすべての事柄を見越しておられる。というのは、それは人間の増殖が正常的に進行するように、両性の繁殖を整備し給うたからである」(p.116)。しかしながら、「この点における経験がこんなに恒常的であり、このことから男女の均等を断定することもこんなに当然であるのに、昔はこのことに注意を払った、とは思われない。私は少しもそれに出会ったことはない、そして次に記すところのもろもろの観察は、出生者における性別を注意し始めて以来、やっと開始されたのである」(p.116)として、以下の論点をあげる(p.117)。

 1.常に男児が女児より多く生まれる。
 2.死亡とならんで他の災禍(結局死亡に帰結するはずである:記者)が,男児のこの超過を取去り、両性が均等する。
 3.このことから、神の統治の証明ともなり、一夫多妻制の反対の論拠となる。

 ジュースミルヒは、常に人口統計比率の安定性を取り上げるが、特にこの男児の超過出生率の安定性を強調する。「けれども出生者中において、いつも女児よりも男児が多いだけではなく、さらに―このことは賞嘆に値することなのだが―男児は女児に対して常に一定の比率をもっているのである」(p.118:強調原文)。そして、「恒常的でかつほとんどいつも同じなのである。この比率はさきに掲げた死亡者と出生者との間の比率よりも精密であり、かつより恒常的である」(p.118)。それは、私には、他の比率に比べてより人間の生物学的側面の統計であるからだ思える。生物学的であればなぜ、安定的かという難しい問いにはよう答えられませんが。

 比率が安定であるとするに止まらず、それは法則であると評価する。この出生時に、男児が女児を超過し、その男女比率は1050対1000、すなわち21対20であるという事実は、多くの事例で示されている。「それらはどれもこれも、単に男児の超過が常に存在するということだけでなく、さらにはこの超過が特定の限度内に制限されており、こうして男児は常に女児に対して特定の比率を持っている(§45)、ということにおいて一致している。この一致[の程度]は非常に大きいから、ひとはまたいくぶん大きい数にたいしては、それに則って両性の繁栄の行われる一つの規則または法則(eine Regel oder Gesetz)をも指摘しえたのである」(p.152)。ここで、「規則または法則」を説明して、「この秩序は多様な事物の間に、そしていろいろな事例において存在する類似性(Aehnlichkeit)から生じるものである」(p.152)と説明する。

 神は創世の時に、アダムとイブという一組の夫婦を創造した。「最初に最善であったものはその後においても常に最善のものとしてとどまるということ、[中略]あたかも一夫一婦制だけが常に残るように、分配し給うということ、を主張する」(p.157)。神が両性を均等に存続させる根拠は現存している。神は、「産めよ殖やせよ地に満てよ」(創世記9章7節)と語られたのである。それは、一夫一婦制により、よく維持される。世界を植民するには、長寿も必要であるが、それにも多妻制よりも一夫一妻制が勝っている。それゆえキリスト教は、多妻制を認めているイスラム教より優れている。

 なお、男女数が何才頃に均等するのかについての著者の考察は、いささか仔細にわたると思われるので、付論として最後に廻した。

 (人口論)
 ジュースミルヒの著作は主として人口統計を論じたものであるが、人口そのものについても論じている。
 神の意図は、人口の適度な増加にあるのであって、過大な増加は望むところではない。「地表が居住者をもって適当に満たされということである。[中略]理性ある被造物に対しては単に空間だけでなく快適な滞留もまた必要であるから[中略]食料と快適とは、時間と思考を必要とする。増殖があまりに急速に行われると、神の慈愛がわれわれから遠ざけようと労し給う、いろいろな害悪がそれから生ずるであろう」(p.17)。この「害悪」とは、黒死病であり、戦争であり、飢饉であるだろう。後の版では(私蔵第3版による、第4版もページは同じ)、もう少し詳しく次のように説明している。「神の祝福せる命令は、地上が人間によって満たされるべきことを願っているであって、決して過剰に横溢することを願ってはいない、すなわち、地球の食料手段が扶養できるだけの住民を持つべきで、それ以上多数を持つべきではない。なぜなら、多くの恐ろしい悲惨と継続的な飢饉の帰結は創造主の善意を疑わせるものだからである」(p.20-21)。食料供給に見合う人口が適度であり、それ以上の増殖は災厄を招くのである。人口と食料の関係が認識されている。
 のみならず、婚姻の現象による人口抑制にも触れられている。先の文に続いていう。「この人口過剰は、人間生命の継続的延長によって確実に生起するであろう。しかし、生存期間の短縮によって、過剰人口のこの痛ましい帰結は、未然に防げるであろう。現在の生存期間と繁殖力でも、なお常にゆるやかな増大が起っている。害悪は、堕落している人間の罰として、神の正義により下され是認された混乱によって償われる。そしてもし、地上の一地域やその他の地域の人口が、居住者の不都合を招くほど増加するなら:その時は、増殖の状況は少しの増大もなく、制限されたものになる。もし、現在のような35人から40人に一人に代わって50人から55人に一人が結婚するように、毎年の結婚が少し減少し、人々が遅く婚姻状態に入るなら、生存期間が同じでも、制限は自ずから生ずる」(第3版、p.20-21)。
 以上、マルサスの人口思想のエッセンスともいうべきものが既に、ジュースミルヒによって語られているのである。さらには、マルサスは本書にジュースミルヒが掲載した「人口倍加表」(初版には載せられていない)をそのまま『人口論』に転載しているのである(注4)。これらの表は、「高貴な精神をもつ友人でアカデミーの同僚である教授オイラー氏に感謝を表する」(第3版, p.280)として、オイラーから提供された出生率と死亡率を様々に設定した場合の人口倍加年数の表(§152,156)である(注5)。これを考えるにマルサスの人口は等比級数的に増加するという表現は、ジュースミルヒ、オイラーに由来するのかもしれない。
 まことに、「マルサスの人口論の根本思想は、そのあらゆる鋭さをも含めて、すでにジュースミルヒによって明確に述べられている」(ヨーン、p.279)のである。

 (各版について、特に第1942年版の考察)
 この本の各版の状況は下記の通り。
1. 初版
 1741年出版。版元はJ.C.Spenerである。世界的な稀覯書で、確認されているのは10指に満たない。日本には法政大学(大原社会問題研究)、と京大に所蔵されている。京大のものは、2000年に所蔵が「発見」された。CiiNiiで調べると東京外大にもあるが、これは復刻版でないかという気がする。
2.1942年版(初版第2刷ともされる)
 版元は、Daniel Augast Gohls。標題が非常に長くなった点を除けば、初版に同じ。但し、「ベルリンの古本書肆ブラーガーPragerの判定としてイェッケルの記す所によれば、1742年版は、1741年版の書名を変え、単に最初の16ページだけを新たに印刷したものに過ぎない」(高野、p.379)とされている。長屋政勝氏もこのことを確認されているようである。 
 思うに、標題紙だけを刷るのは紙の無駄である。この本の版型はOct(8vo.、八折版)とされているから、1枚の印刷紙で8葉、裏表16ページ分印刷できる。そこで初版の売れ残り(?)のストックを入手した新版元が、標題紙1枚を差し替えるのでなく、16ページ分を印刷、差し替えて刊行したのではないか。京大の初版本はネット上で全文公開されている。それを見ると、ノンブル(ページ付け)は、標題紙を1ページとして勘定されているので、辻褄が合う。1942年版は「海賊版」かとも書かれている(長屋他)が、初版の一部差し換え版ではないかと私は考える。
 面白いことに、高野が引く同じブラーガーPrager社(古本屋であるが出版もしていた同一書店だと想像する)が、ゴッセンの『人間交易論』の初版について、同じ手口で「新版」を出しているのである(本HPゴッセンの項を参照のこと)。
3. 第2版
 Buchladens der Realschuleによって1761年(第1巻)と1762年(第2巻)に刊行。初版が、9章と18の表(360ページ)からなるのに対し、第2版は、1・2巻併せて15章と68表(計1,109ページ)からなる。上述のごとく、叙述の章別構成順序も逆になっている。全くの新著と見做してもよいとされている。
4. 第3版
 1765年刊。出版元はBuchhandlung der Realschule(注6)。内容的にも第2版と同じ。著者生前最終版である。
5. 第4版
 著者没後、甥のバウマンによって3巻本として、1775年(1・2巻)と1776年(3巻)に刊行。出版元は第3版に同じ。バウマン版として大いに流通し、利用された。第1・2巻は第3版に最小の訂正を加え、第3巻にバウマンによる修正増補をまとめた。
 以上が主な版であって、1787年にバウマン版第2版が、1790-1792年にバウマン版第3版が、原著第5版として刊行された。この原著第5版は現物が確認できず、刊行されなかったともいう。1798年には「新版」が最終版として刊行される。


 ((附論:男女数均等の時期について))
 先に、出生児の男児超過は、成人までに男女均等になると簡単に書いたが、いつの時点で男女の均等が実現するかは、明確には書かれていない。ジュースミルヒは互いに矛盾するような観察を書いているように思える。余分なことかもしれないが、少し敷衍しておく。
 第5章第58節の標題は、「人生の種々の年齢期における両性の比率。少年期においては男性は女性よりも多く死亡し、多く生存している」である。出生時に男児が多い(1000:1050~1060)のであるから少年期に男児数が多いのは当然である。問題はいつ男女数が均等するかである。男・女児の死亡率が同一でも、男児が多いから男児の死亡数が多いのだが、著者は、男児は死亡率においても女児より高いと見る(この事実は現在に至るまで確認されている)。
 「まず第一に、少年期(Kinderheit)に関していえば、死亡が出生男児の超過を再び帳消しするかのように、また生命力が男児にあっては女児におけるほど大きくないかのように、どうも思えてならない」(p.140)として、ストライクの次の観察(ブレスラウ、ドレスデン、ライプツィヒ、3都市の死亡表にもとづく)をあげる。すなわち、100人の少年に対して僅かに86人の少女しか死なない。ジュースミルヒ自身もベルリン、ウィーン等の死亡表でそれを上回る男児死亡率を確認する。このため、男児の出生超過が帳消しされて、「10歳の頃には生存男児の生存女児に対する比率は1000対1060以上でなければならぬ」(p.142)とする。―ちなみに、この数字は、著者が1738年の「全国すべての都市において」(p.142:下線引用者)求めた男女児の居住者数1000:1064によると書かれているのだが、実際は田舎も含めた全プロイセン王国の居住者の表(第16表)によるものと、私には思われる。田舎においては、少年期に男児は都会ほど死なず、12歳未満の男児が女児より多く生存していると観察されるが、資料が不足するため、決定的なことは言えないとする。そうして、結局、「次のことを仮定したいと思う。すなわち、出生男子の超過は、10歳まではそして[若干]その以後にもいくぶん存続するので、その結果、男子が結婚してそして彼が重い労働と苦難を引受けなければならぬ年齢までは、女性よりも多数の男性が存在しているのである」(p.144:下線引用者)と。
 ところが、「第59節 青年期においては、少なくとも田舎では、女性よりも多くの男性が存在している」において、田舎での男子数の優位を述べたのち、第60節(標題:「壮年期以後においては男子の超過は除かれる」)において、「壮年期(das männliche Alter)―それは30歳前後であるが―において、またそれに続く年齢においては、男子の超過は除かれ、その結果、両性は単に同数となるーしかしその時期はどうも決定しにくい(p.146:下線引用者)と書かれているのである。男女の人口が均衡するのは、少年期の終わりすなわち10歳前後なのか、壮年期すなわち30歳前後なのか、はなはだ判然としない。後記の第62節に記された所から考えると、一応、少年期で均衡することを仮定して議論してきたが、実際は壮年期に均衡すると著者は考えているようでもある。
 ともあれ、少年期の男・女児死亡率の差は、生命力の差で片付けられ、原因については何ら触れられていないが、壮年期の男子の高死亡率の原因については、一節が割かれている(「第61節 壮年期における男子多死の諸原因」)。「男子において寿命のより短い原因は、[生命]力の不足よりもむしろ労働、苦難、飲酒における不節制による[生命]力の減損である。[中略]重くかつ危険な労働はより強い器として、男によってなされねばならぬ。この労働は、それが[生命]力を減滅し、こうして夫が妻よりも早期に死亡するという必然の結果を伴う」(p.148-149)。さらには、「戦争に行くことのできる年ごろにおいてすでにより少数の男子がいたとすれば、彼らは戦争によっていっそうひどく減滅されるであろう」(p.149)。労役と兵役、及び酒色――著者の言葉では「ヴィーナスとバッカス」(p.189)――が、男子(壮年期)短命の原因なのである。
 「第62節 成熟した両性の間には均等が存在している」では、「上来の記述においては、結婚期において男女両性が相互に同数である、という命題が数度仮定されており、かつそれから数個の推論も導き出されている。それにもかかわらず他方では、すでに結婚した壮年期においてやっとこの均等が成立する、ということが証明された」(p.150)と記す。このことは、1.男性の超過数がそれほど多くない、2.寡婦のことを考えると多少の男子超過が望ましい、3.結婚できぬ兵士や戦死を考えると余分の男子が必要である、ことを考慮すると問題ではない。「してみれば男女両性の成人した人々の間に均等が存在するということを仮定してみても、少しも間違いではない、そしてさきにそれに基づいてなされたもろもろの証明は少しもその強みを失うことはないのである」(p.151)という。
 男子超過出生数が、1/100単位で、いわば「ファイン・チューニング」されていることに、神の叡智を見たのに対し、結婚時の男女数が均等しないことに対しては曖昧な項目で説明をつけており、最後は腰砕けのように思える。あるいは、神の秩序を示すために結婚時の男女同数を明言したいのだが、実際はそうでないことに気付いて、あいまいな表現となったのであろうか。
 結局のところ、婚姻時に男女数が一致しないのは、人間の幼少期の男子死亡率の高さに対応した男子出生率の高さが、その後の男児死亡率の改善に対応できていない人間の生物学的進化の遅れなのであろうか。このあたりは難しすぎて、私にはよく判らない。


 本書は、それ以前の統計学書のすべてがそこに流れ込み、また以後の統計学書がそこから流れ出る統計学上の結節点にあたる重要な書物であろう。しかし、「大数の法則」を意識的に標榜したとはいえ、読んでみての感想は、グラントほどの才気、独創性は感じられなかったというのが正直なところである。

 以上は第3版のみを私蔵していた2017年9月に書き上げた。その時1742年版が英国書店に売りに出されているのを見つけた。しかし高価なので直ぐに買う気が起こらず、ポンドが下がるのを待つことにした。このページも、それを買ってからHPに上げることにした。ところが、その後ポンドは上がる一方で買えないまま、1年経過してやっと下落したので購入した(よくも売れずに、残っていてくれた)。なんのことはない、昨年の水準である。これなら、直ぐに買っておけばよかった。昨年書いた内容を1742年版の所だけを追加したものである。
 1742年版は、英国の有数の古書店からの購入(当然値付けは高い)。初版は世界に10本ほどしか確認されていないというが、1742年版はそれよりも少ないかもしれない。CiNiiによると、日本の大学での所蔵はない。第三版は、オランダの古書店よりの購入。著者生前最終版である。1・2巻揃いの本は余り出ない。値段も比較的安く購入できた。この第3版も、2セットほどしか日本の大学には所蔵されていない。
  
(注1) その他の障害には、修道院における修道僧、修道女等の独身者の存在、大都会における高死亡率をあげている。
(注2) ヨーン、1956、p.242による。ケルスボームは、オランダの統計学者(1691-1771)。
(注3)森戸訳では「確からしい認識」とされている。
(注4)『人口論』第2版以降、第2編第11章末尾に、、第1、第2表として転載。「私はユウラア(オイラーのこと:引用者)の計算になる二表をジュウスミルヒから転載することとするが、この表は私は極めて正確なものと信じている」(マルサス、1929、第2巻p.261)。ヨーン(1956、p.272)によれば、第3表(第6版のみ)も『神の秩序』からの転載のように書いているが、これはマルサスが断っているとおりブリッジによるもので、勘違いであろう。
(注5)ちなみに、これらは、いずれも複利計算の類なので、大数学者を煩わすほどの面倒な計算とも思えない。伝記的資料には学生時代に数学者を目指したと書かれているが、ジュースミルヒの数学的能力は高くなさそうである。ウェスターゴード(1943、p.86)によれば、「彼は非常に独創的な学者というのではない。彼は数学的な訓練を受けなかったので、自然に、例えばドバルシューの如き他の学者の計算した結果数をあまりに批判も加えずに採用することになった」。
(注6)長屋論文には、第3版の出版社を、Buchladen der Realschule と書かれているが、Buchhandlung der Realschule の誤植と思われる。同論文では、第4版以降の出版社を、Buchhandlung der Realschuleとされている。
 第2版は直接見ていないが、売りだされている第2版の説明文では、出版社をBuchladen der Realschuleと記載しているので、第2版は長屋論文の表記で間違いなかろう。


(参考文献)
  1. 足利末男 『統計学と社会』 ミネルヴァ書房、1968年
  2. ウェスターゴード 森谷喜一郎訳 『統計学史』 栗田書店、1943年
  3. 小杉肇 『統計学史通論』 恒星社厚生閣、1969年
  4. ズュースミルヒ 高野岩三郎・森戸辰男訳 『神の秩序』 栗田出版会、1969年
  5. 高野岩三郎 「ズュースミルヒの『神の秩序』の初版に関する若干の考証と紹介」(邦訳巻末に所収)
  6. 竹内啓 『社会科学における数と量』 東京大学出版会、1971年
  7. 竹内啓 『統計学の視点』 東洋経済新報社、1973年
  8. 長屋政勝 「ジュースミルヒ『神の秩序』各版について」、『統計学』(80)、84-92、2001-03
  9. 松川七郎 「ヨハン・ジュースミルヒ ―その生涯の素描」、『商学論纂』、14(4)、141-182、1973-07
  10. T・R・マルサス 吉田秀夫訳 『各版対照 人口論Ⅱ』 春秋社、1929年
  11. V.ヨーン 足利末男訳 『統計学史』 有斐閣、1956年


1742年版

同 標題紙(拡大可能)




第三版

同 第一巻標題紙(拡大可能)

(2018/8/18記)
(2022/5/10 著者名、書名の誤記部分を訂正)



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