SMITH, A. , An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations , In three volumes, The fifth edition, London, Printed for A. Strahan; and T. Cadell, in Strand, 1789, ppvi+499; vi+518+appendix;v+465+index, 8vo アダム・スミス『国富論』(フル・タイトルは、『諸国民の富の本質と原因に関する研究』)、第五版。 著者(1723-1790)52歳の書であるこの『国富論』初版約千部(500部、部数不明とも)は、半年で売り切れた。9年前におなじキャデル書肆から出版されたサー・ジェームズ・スチュアートの『経済学原理』がほとんど売れ残っていたのに比べ、同時代人からも好評をもって迎えられたのがわかる。 まず、本書の構成を簡単に書いておこう。全五編三十二章からなる。第一編は、労働生産力増進と諸階級への分配について、第二編は再生産と資本蓄積についてであり、以上二編が経済理論の部分である。第三編は経済史であり、第四編は経済学説史或いは経済政策が扱われる。特に第四編は重商主義批判の部分として知られ、分量は全体の四分の一を超える。そして最後の第五編が財政学であり、この分量も本書全体の約三分の一を占める。 アダム・スミスがこの本を書いたのは題名が示すとおり、国富についての研究、わけてもその経済成長(あるいは経済発展というべきか)について著述するためであろう。スミス自身も、「あらゆる国の政治経済学の偉大な目標は、その国の富と力を増大させることにある。」(スミス, 1978, Ⅰp.581)あるいは、政治経済学の目的として、「第一は、国民に豊かな収入もしくは生活資料を供給することである。」(スミス, 1978, Ⅱp.75)といっている。ただし、スミスにとっては富とは金銀ではなく、必需品と便益品よりなる年々の労働の生産物である。そして、ストックではなくフローの概念である。 さて『国富論』は、分業の記述をもって始まり、ほぼ冒頭から有名なピン製造の例が持ち出される。「国富論草稿」には、このピンの例の前に数節の文章が置かれている。『国富論』本体では、「序文および本書の構想」部分で簡略化されて書かれているものだが、「草稿」の方が、スミスの問題意識がよく表れていて、判りやすいと思われるので簡記する(後述の内容にも関係するので、少し長目であるが我慢いただきたい)。 文明社会において富者や権力者が未開社会のいかなる人よりも富んでいるのを説明するのはたやすいが、文明社会の貧乏人が、未開社会の人に比べよりよい供給を受けていることを説明するのは簡単でない。未開社会の野蛮人は自らの勤労による全生産物を享受する。けれども、文明社会では、貧乏人は地主・高利貸・収税吏等の奢侈階級に生産物の多くを貢いでいる。多人数の労働の生産物を平等・公平に分配する時、各人の調達できるものは、一人で労働する時の個人の調達分とほとんど変わらないはずである。しかるに文明社会は公平な分配はなく、自ら労働せずに生産物の大きな部分を収奪している家族がいる。分配の不平等にもかかわらず、それでも文明社会は全般的に富裕であるといえる。文明社会の最下層成員の生活は、最も有力な未開人の暮らしにまさっている。分業による生産力だけが、それを説明しうるのであると。 スミスは、作業的分業(工場内分業)と社会的分業(職業分化)とを区別していないことは、まま指摘されるところであるが、市場の規模が分業を規定することを示し(第三章)、分業により貨幣が導入され、それが金属から鋳貨になることが続く(第四章)。第五章で交換価値が論ぜられ、価値尺度の問題が出てくる。多様な解釈がなされた所である。第六・七章では、商品価格が賃金・利潤・地代から構成され、それらの自然率が自然価格をなし、需要供給で決まる市場価格の中心価格であるとされる。第八章は、種々の賃金理論が併存するが、スミスの賃金理論は普通生存費説だとされている。またこの章には、富が増加している国(北アメリカ植民地)は、賃金が上昇し、人口も増える。賃金基金が増えない停滞的な国(シナ)は、賃金は最低水準に貼り付き、人口も停滞する。基金が減退する国(インド植民地)では、人口は減少する。という、度々引用される記述がある。第九章は、利潤論。利潤率は資本の大きさに依存するので、富の進歩とともに低落する傾向があるとする。第十章第一節は、賃銀構造論。徒弟制度・ギルドや救貧法等国家の政策による、労働と資本に対する自由競争阻害が第二節で論ぜられる。地代については、リカード的な差額地代らしきものが書かれているが明確ではない(第十一章)。以上八章から十一章は、分配論にも関説している。最後に附された長い「余論」は銀の価値を通じて過去4世紀の物価トレンドを分析したもの。賃金財価格についての優れた分析が含まれている。以上が第一編である。 第二編は短いながら『国富論』のなかでも最も優れた部分であると評価されることが多い。この資本の循環(再生産)と蓄積を扱った部分は「草稿」にはなく、スミスが大陸旅行で重農学派の人々に接したことにより生まれたとされる。『国富論』は、もしケネーが生存していたら、彼に捧げられるはずであったといわれる。 (第二編)第一章の固定資本・流動資本の区分はケネーの農業資本についての「原前払」と「年前払い」の区別に学んだものだし、生産的労働と非生産的労働の区分もペティというよりケネーの影響を受けたとされる。ついでながら、「フランス旅行がなければ、『国富論』のあれほど新鮮な、そして自信にみちた叙述は不可能であったかもしれない。イングランド、スコットランド、フランス、この三者の比較は『国富論』全体に厚みと深みとを与えている。」(大河内, 1979, p.119)ことも付け加えよう。 経済を発展させるためには、第一編で取り扱った分業の他に、生産的労働者数を増加させるという方法がある(第三章)。生産的労働者は資本で雇用されるため、国富を増やすには資本蓄積が必要である。これら資本および資本蓄積の分析がこの第二編でなされているのである。第二編の最後で資本の用途についての優先順位が扱われ、農業・工業・卸売業・小売業の順で生産的であり、この順で資本投下されるのが社会の生産力発展に好ましい(注1)。そして、これを「富裕になる自然の進路」とする。 引き続く第三編では。ローマ帝国没落後のヨーロッパの歴史を論じ、現実には、大土地所有制が農業への資本投下を妨げ、遠隔地貿易に助けられた商業がまず発達し、製造業、農業がこれに続いた。上記の「自然の進路」とは顛倒した順序で経済が発展したのである。ここでは、旧地主の封建的特権階級が批判の対象となっている。 第四編は標題が「経済学の体系について」となっており、全九章のうち重農主義を扱った最後の一章を除く、八章を使って「重商主義」の理論(第一章)と政策(第二~第八章)が論じられている。『国富論』は、この重商主義批判のために書かれたといわれる所以である。商人と大製造業者の利益のために推進された重商主義は、「公益という観念のために、つまり一種の国家理性ともいうべきもののために、正義の定法を犠牲にするものである。」(スミス, 1978, Ⅱp.258)と批判されている。 最終の第五編において、国防、司法および公共事業・公共施設に国家の義務を限定し、それを財政の面から論じている。財源については有名な課税四原則で第二章を始め、転嫁を考慮しながら各種租税を検討している。最後に公債の歴史をたどり、それは不生産的労働者を養い、資本を食いつぶすものであるとする。 この本が後世の人口に膾炙したのは、著者の真意は別として、主にその自由放任の思想と「見えざる手」というフレーズによってであろう。スミスの自由主義政策が攻撃目標としたのは、国際的には自由貿易に対する制限であり、国内にあっては競争と労働移動に対する制約である。特権的商人と大製造業者の支配が、これらの制限を通して、外に国際的対立と間断なき戦争を生み、内に国内的な矛盾をもたらした。しかし、スミスの思想は漸進的である。雇用等の混乱をさけるため「自由貿易は徐々に、段階を追って、控えめに、かつ慎重に」(スミス, 1978, Ⅱp.143)実施すべきである。大製造業についても、同様に資本の損失を考慮して「新独占を設けないよう、そして、既存の独占をこれ以上拡大しないよう」(スミス, 1978, Ⅱp.148)留意するよう求めている。 市場に参加する個人の自己愛は意図せずに社会の利益を増進する。しかし、何故私的な営利活動が社会全体の公共福祉を実現出来るかについて、理論的な説明はなされてはいない。スミスは「見えない手」を持ち出し、それによって実現できるとした。理神論的な予定調和の世界であろう。ただ、「見えない手」が使用されるのは『国富論』全編を通じてただ一箇所(第四編第二章)のみである。索引がなければ、経済学者でも何処に書かれていたか探しあぐねる程である。ちなみに、この言葉は『道徳情操論』(第四部第一編)でも一回使われており、マクフィーによると古くは「天文学史」(1758年以前執筆?)にある(異教徒の神であるが)「ユピテルの見えない手」(スミス, 1993, p.31)にまで遡ると。 古典の常として、学者の問題意識と理論的立場によってその解釈は区々である。スミス経済学の研究は日本では戦前から盛んであった。中山伊知郎は『国富論』の理論的性格を均衡理論にあるとした。第一編七章の市場価格決定のメカニズムや第二編の資本的蓄積論を評価し、そこに均衡理論を見た(中山, 1922)。しかしこれは唯一の例外ともいうべきで、ほとんどがマルクスの価値論(剰余価値論)の立場からの研究であった。これは、資本論の研究が禁圧された戦前の風土のなかでの「マルクスからの後退」(大河内一男の言葉)のゆえであっただろう。戦後になっても大方は変わらなかったようである。名著として定評のある内田義彦『経済学の生誕』でも、「価値論=剰余価値論の具体化としての歴史把握の批判的解明がなければ、学説史の研究は批判の基準を失って歴史的相対主義におちいるばかりか、…学説史の流れそのものがとらえられず、…理論の姿を内からえがききることをも不可能」(内田, 1962, p.190-191)と記されている。 上記のような剰余価値論の立場からは、「労働価値説」を扱った第一編第五・六章は重視される部分である。いわゆる投下労働価値説と支配労働価値説の不一致をめぐる議論であり、スミスにはあいまいなまま残され、マルクスの剰余価値説によって最終解決がなされるという説明である。 ひるがえって、欧米の研究書(スキナー、ブローグ、ラファエル等)では、投下・支配労働価値の説明に矛盾はない。投下労働は未開社会のみに適用でき、普遍的に適用できるのは支配労働の方であるとするのがスミスの説明であるとする。諸個人が他人と交換によって受け取る量は労働単位で測定できる。支配労働は、財の支配(=個人の所得)あるいは経済的厚生の実物タームでの測定法であるとする。労働の不効用(労苦と骨折)は、時間をこえて不変で安定的あるから、これを測定単位に選んだ。同一時所であれば労働量は賃金により貨幣で測定できる。しかし、時を隔てた時点での労働量の測定は穀物で代用するしかない。ざっと、こんなところではないか。ブローグはいう、第五章は「価値論にかかわるのではなくて、厚生経済学および特に指数の問題にかかわるものである。」(ブローグ, 1966, p.66)と。 ただ、日本のスミス研究においても市民社会論の熱気や大塚史学の影響も徐々に消え去りつつあるように思われ、最近の解説書である堂目卓生『アダム・スミス』には、価値論の部分が全く欠落して、時代の流れを感じさせる。 私が『国富論』を読んだのは10年以上前のことである。未だに頭に残っているのは、一つには金銀よりも労働の生産物が富だとする繰り返し現れるスミスの考えと、いま一つは分業の記述についての不審である。後者は、スミスがあまりにも「分業」の効果を過大視しているのではないかということである。これは、誰しも感じる所らしく、シュンペーターは、「スミスの後にも先にも、彼ほど分業に多くの重荷を負わすことを考えていたものはなかったという点である。スミスにとっては、それは経済進歩のほとんど唯一の要因である。」(シュムペーター, 1955, p.390)といい、『国富論』編者キャナンは、第一編は、生産力改善の諸原因を主題としているとスミスはいいながら、「実際は、諸原因のただ一つ、分業だけが論じられているにすぎない」(Smith, 1965, p. lviii)という。 このことは、スミスは、技術革新に関心がなかったからであろうか。また、それはスミスが産業革命を捕らえそこなったという説にも関係しているのだろうか。 スミスはジェームス・ワットのパトロン(の一人)であった。また、当時のスコットランドの大学は生産大学であり、たえず職人が出入りして彼らの経験だけでは、手に負えなくなった問題を、教授と相談し、直接生産に生かしていた(内田, 1962, p.64)という環境下にいた。身近に技術革新を感じていたはずと思えるのだが、ほとんどそれに触れる所がないのは、どうも釈然としない。 また、スミスには、分業の例として、家財がいかに多くの勤労に依存しているかを説明した個所がある。そこでは、鉄の生産に携わる労働として、「熔鉱炉の建設工、材木の伐採者、熔鉱炉で雇用される木炭の炭焼き人」(スミス, 2002, p.36)と、製鉄は木炭熔鉱炉としている(注2)。しかし、当時はコークスを用いる熔鉱炉が次第に大規模になり、数も増え、「多くの新しい工場が設立された。キャロンの製鉄所は、その規模においても…新しい企業のタイプの先駆であった。特に1760年の1月1日の第一熔鉱炉の火入れは、歴史的画期の設定に厳密にあろうとする人々にとっては、スコットランドにおける産業革命の開始を画するに役立つであろう。」(アシュトン、p.78)という時代である。ここでも、スミスは技術革新についての世間の動きに無関心であったように思われる。私には、疑念が残る所である。 この私蔵版である第五版は、著者最終版とされている。翻訳書の底本とされる場合が多い。アメリカの古書店よりの購入。テキスト部分は未読であろうか、きれいである。革のヒンジ部分が経年のため弱っている。 (注1)「しかし、『国富論』のあげたこういう理論的根拠は、資本投下における自然的順序なるものの存在をほとんどまったく証明できていない。」(小林, 1976, P.276) (注2)この個所はやはり気にかかるのか、水田監訳『国富論』の第二刷で、「当時は製鉄燃料として木炭が使われ」と訳注を追加している(水田, 2002, p.450)。一方ブローグは(この個所とは明示されていないが)、「鉄鉱は当時すでにコークスによって溶かされていたけれども、かれは木炭で溶かされる鉄鉱についてかたっている。」(ブローグ, 1966, p.53)としている。私も気にかかり、ざっと調べてみた。結果は、次のとおり。 (参考文献)
(H21.12.26記) |