SMITH, ADAM.
,The Theory of Moral Sentiments. To which is added a Dissertation on the Origin of Langeges. the third edition., London, Printed for A. Miller, A. Kincaid and J. Bell in Edingburgh; And fold by T. Cadell in Strand., 1767, pp(vi)+478, 8vo
SMITH, ADAM.
,The Theory of Moral Sentiments ; or, an Essay towards an Analysis of the Principles by which Men naturally judge concerning the Conduct and Character, first of their Neighbours, and afterwards of themselves. To which is added a Dissertation on the Origin of Langeges. The eighth edition. In two volumes, London, Printed for A. Strand; and T.Cadell jun. and W.Davies (Successors to Mr. Cadell) in the Strand; and W. Creech, and J.Bell & Co. at Edingburgh., 1797, ppxv+488,xiii+462, 8vo, association copy of T. W. Hutchison

 スミス『道徳感情論』第3版および第8版、後者は経済史家T・W・ハチスンの旧蔵書。
 著者(1723-1790)はスコットランドの港町カコォデイ生まれ。グラスゴウ大学を経てオックフォード大学に学び、エディンバラの公開講義の講師を勤める。この講義の評判でグラスゴウ大学の教授に就任。同大学の副総長となるが、職を辞し貴族の家庭教師となる(1764,後述)。その後は、ロンドン・エディンバラで『国富論』の完成に力を尽くす。晩年は税関監督官にも就いた。生涯独身で、普段は母と従姉と暮らした。生活はカント同様、判で押したように波乱のない単調なもの。読書と交友のみが楽しみであった。亡くなった時は多くの収入がありながら、遺産といえるほどのものはなかった。ひそかに慈善に寄付していたらしい。

 スミスが生前出版したのは、『国富論』とこの処女作たる『道徳感情論』の2冊だけである。そしてスミス自身は、『道徳感情論』のほうが『国富論』よりはるかに優れた著作だと考えていた(レー, 1972, p.542)。1789年に『国富論』生前最終版(第五版)を刊行した後は、初版以来ほとんど手を入れなかった本書の改訂増補に、晩年の精力を注ぎ込んだ。
 本書刊行時、スミスはグラスゴウ大学の「道徳哲学」の教授であった。「道徳哲学」は、当時ヨーロッパの大学における重要な講座である。ちなみに、かれの「道徳哲学」は、神学・倫理学・法学・経済学の四部門からなっていた。スミスの「道徳哲学」講義は、師であり大きな影響を受けたF・ハチスンの同講義の構成をなぞりながら、ハチスンを含むスコットランド啓蒙思想に通有な利他的「モーラルセンス」を巧妙に利己心に置き換えたものだとも云われる。
 この本の刊行により、スミスはスコットランドやイングランドのみならず、ヨーロッパ全土にその名を轟かせた。ロシアやスイスからもグラスゴウ大学の彼の講座に留学生が来るようになった。一方、英国での評判は、バックルー公爵の家庭教師として招かれる機会を作った。その結果、公爵とのグランド・ツアー(大陸研修旅行)は、フランスでのケネー・チュルゴーとの交流を通じて、後の『国富論』の形成に大きく役立っことになる。そして、この本の刊行は、スミスの「道徳哲学」の講義が、狭義の道徳哲学(倫理学)をこの本に譲り、法学や経済学の部門に集中することになる契機ともなった。
 スミスによると人間は、利己心と利他心の二つの本能を持つ。利己・利他の人間本性の発揮を自分自身が抑制することにより、社会の秩序は形成される。この社会秩序を固める中心的役割に「同感」が据えられている。同感の概念により、二種の道徳的判断=是認を導き出す。第一には「適宜性」の判断であり、その行為が適宜(プロパー、平たく言えば何をなし、何をなさないのが妥当)かの判断であり、いま一つは行為の値打ちと欠陥についての判断(賞賛か非難か、報償か処罰か)である。
 最初(第一部)は「適宜性」について論じている。スミスは、一番重要と考えたものを巻頭に持ってくる傾向があるという。この本の第一篇は、「同感について」で始まる。「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても」と書き出される。人間は他人の運命に対して無関心ではありえず、他人の喜びをわが喜びとし、他人の悲しみをわが悲しみとする心性を持っている。われわれは単なる観察者であっても、他人の立場に身を置くという想像の力を持っている。自分で想像してみた他人の感情や行為を、現実のものと比較することにより、納得できると是認したり、大げさだとか否認するのである。
 「当事者の諸情念が観察者の同感的諸情念と協和している時、その情念は観察者にとって適宜とされるのである。」(スミス、2003, p.43)その際、観察者側の他に、当時者側にも要求されることがある。当事者の行動または感情が、観察者に受け入れられるためには、その表現に一定の「中庸さ」が要求される。つまり、自制が求められるのである。こうして、当事者と観察者の「ふたつの感情は明らかに、社会の調和に十分なだけの相互の対応を、もつことができるのである。それらはけっして同音ではないだろうが、協和音ではありうる」(同書, p.57)。興味深いことに、当事者は彼が観察者であれば、観察者はどう感じるかをも、彼(当事者)は想像して、自戒するとしている。同感の同感にでもなるのだろうか。
 こうして、「主要当事者の諸感情にはいりこもうとする観察者の努力…(と)自己の情動を観察者がついていけるものにまで引き下げようとする主要当事者の努力」(同書, p.61)が必要とされる。この「相互的同感」を前提として観察者の同感は成立する。観察者側の弱い想像力を強める努力は人間愛の徳の上に、当事者側の激情を弱める努力は自己統御の徳の上に基礎づけられる。
 次に(第二部)、行為の結果に対しての「値打ちと欠陥について」の判断に移る。行為の良いか悪いか、報賞に値するか、処罰に値するかの基準は、一見、その行為をされる相手側が感謝するか、憤慨するかにあるようにみえる。しかし、スミスはここにもう一つの条件を付加する。行為者の動機についての感情の適宜性が、行為の結果の感謝・憤慨の適正さと組み合わされてはじめて、観察者の同感を呼ぶ。観察者の同感は、行為者の感情への直接的同感と行為を受ける人の感謝(憤慨)への間接的同感との「複合感覚」であるとする。「正当な諸動機からでて、慈恵的な傾向をもつ諸行為だけが、報償を必要とするように思われる。…不当な諸動機からでて、有害な傾向をもつ諸行為だけが、処罰にあたいするように思われる。」(同書,p. 205)
 他人の感情と行動を判断するやり方を説明した後、第三部に至って、スミスはその方法をわれわれ自身のそれらの判断に応用した。自分自身の感情と行動についての道徳的判断は、二つの型がある。実際の観察者の判断と彼自身の良心によるものである。スミスが「外なる人」と「内なる人」と呼んだものである。
 「内なる人」とは、何か。「われわれは、自分たちがわれわれ自身の性格と行動の、行為者でなく観察者であると想像し…他の人びとの感情に、はいりこまなければならない」(同書、p.296)、あるいは「自分を、ふたりの人物に分割する…検査官であり裁判官である私…自分の行動が検査され裁判される人物である他方の私」(同書, p.302)とした時、前者の裁判官にあたる胸中の公平な観察者のことである。「それは、理性、原理、良心、胸中の住人,内部の人、われの行為の偉大な裁判官にして裁決者である。」(同書, p.314)とも云っている。では、実際の観察者と胸中の観察者の関係はどうか。スミスは、これも裁判の比喩で、現実の観察者=世間を下級審に、胸中の観察者を上級審に例えている。下級審(世間)の評価が適切でないと考える時に、上級審(胸中の観察者)の判断を仰ぐのである。
 個人の道徳的判断を社会と結びつけた「公平な観察者」(impartial spectator)理論は、スミスの理論のうちで、最も独創的で精緻な部分とされる。それは、今日なら哲学というより心理学に分類されるものかもしれない。現にラファエルはフロイドの超自我の理論に似ているという。そして、この「内なる人」の是認がこれから起こそうとする行動や既に起こしてしまった行動の道徳的判断の基準となる。
 しかしながら、以上のように胸中の公平な観察者がいかに強力であるとしても、自愛心を持つ利己的な人間は、「自己欺瞞」という致命的な弱点を持っている。これをカバーするために、自然は人間の心の中に道徳の一般原則を形成するようになった。これは、日常的な社会生活を営む中で、便宜的・妥協的に経験から作り上げていったもので、「公平な観察者」が一般化されルール化されたものといえる。一旦この一般原則が確立されると、行動や感情の適宜性判断については、これが基準されることになる。

 さて、19世紀後半に主にドイツでの議論から始まった「アダム・スミス問題」(オンケンの命名と思われる)にも触れておく。『道徳感情論』が「同感」を社会結合のために重視したのに、『国富論』では同感(仁愛)は問題でなく、利己心が社会活動の中心であるとした点に矛盾があるとの議論である。K・クニースは、スミスのフランス旅行で見解を変えたといい、H・T・バックルは、『イングランド文明史』で扱う主題の違いだと言った。20世紀に入ってからは、J・ヴァイナー(国際経済学者であるが、経済学史家でもある)は、やはり両著作は矛盾している(後にトーンが変わる)とし、ラファエルやマクフィーは矛盾するものではないとしている。この辺は私にはよく内容を判断しかねるが、「『道徳感情論』は、そのおおくが聖職につく準備をしている学生への講義課程…にもとずいており、…『国富論』は、学生へ講義することが追憶になったあとで、かかれた。そしてそれは、非宗教的な問題にかんして、非宗教的な雰囲気のなかで、かかれた」(マクフィー, 1972, p.146)という事実が反映しているのであろう。
 経済学者が『国富論』の研究のため、『道徳感情論』に立ち向かうのは当然であるが、「かれらは『道徳感情論』中の経済学に関するスミスの見解に直接関係のある部分に注意を集中してきたこともまた当然である。大抵、かれらは、スミスが著作を書く場合のかれの主要目的を理解することに特別な関心を示すことなしに、またこれを理解する特別な能力も持ち合わさないで、その本の残りの部分をやっとすくい読みしてきた。」(ラファエル, 1986, p.98)とする哲学者であるラファエルの指摘に頷きながらこの本の解説文(?)を終わることにします。

 第3版は、皮装であるが古いので、フィルムで表紙を覆ってある。本文はきれいなほうである。第8版(2巻本)は、Apley城及び経済学史家T・W・ハチスン旧蔵本。それぞれのサインあり。表紙の状態は悪い。2冊とも、英国から購入したが、書店は異なる。

(参考文献)
  1. 大河内一男 『人類の知的遺産42 アダム・スミス』 講談社、1979年
  2. 岡田純一 『アダム・スミス 経済学者と現代1』 日本経済新聞社、1977年
  3. アンドルー・スキナー 川島信義・小柳公洋・関源太郎訳 『アダム・スミス社会科学体系序説』 未来社、1977年
  4. アダム・スミス 『道徳感情論』(上)(下) 岩波書店、2003年
  5. A・L・マクフィー 『社会における個人』 ミネルヴァ書店、1972年
  6. D・D・ラファエル 久保芳和訳 『アダム・スミスの哲学思考』 有松堂出版、1986年
  7. ジョン・レー 大内兵衛・大内節子訳 『アダム・スミス伝』 岩波書店 1972年




第三版標題紙(拡大可能)


第八版第一巻標題紙(拡大可能)

(H21.11.29記)



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